Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年3月29日木曜日

言葉を交わすことについて


「気持ち」を伝えることは本当に難しい。
とっても。
手段はいろいろあるけど、とりあえず僕達は「言葉」を交わすことで思いを運び届けようとする。

心なのか、頭の中なのか、まずそこに伝えたい「何か」が漠然と、時には明確にある。
それを対面する相手にどう伝えるか逡巡する。
言葉の海に飛び込み、目を凝らしながら瞬間的に言葉を選び出し、その「何か」に言葉を与え、コミュニケーションを図る。

でも言葉は極めて不完全な代物と言わざるを得ない。
ひとつの言葉に対して各々の人間が持つイメージは決して均質ではないから。
そこに大なり小なりのイメージへの溝が生じてしまうことは必然だし、誰にもその振れ幅は推し量れない。

そもそも、伝えたい「何か」を最適に表現するために十分な言葉を有していないかもしれない。


言語学の分野でソシュールが提示した概念で「シニフィアン」と「シニフィエ」という概念があります。
たとえばリンゴを例にとると。
リンゴそのものは「シニフィアン」で、リンゴに与えられた名前が「シニフィエ」です。
シニフィエによって「実」「皮」「ヘタ」「芯」「種」などひとつの概念を細分化できるようになります。
これは人間が世界を切り取り、頭の中で操作する手法を手に入れたことで、世界を操作する力を得たことを意味します。(参考:「『思考のボトルネックを解除しよう!』」

「どこまでいっても分かり合えないかもしれない」そう思うと一瞬、絶望的な気持ちに駆られます。
でも街に出かけ、あちこちで言葉を交わす人々の営みを眺めていると人類の叡智の集積を感じるし、一言に感動し、胸が揺れ動く瞬間って絶対ある。
言葉で傷つけられて、言葉で救われる。
棺桶に入るまで、僕は不完全な言葉と向き合っていかなくてはならないし、言葉の海で泳ぎ続けていかなくてはならない。



大学生ブログ選手権

『僕等がいた』最終巻を読んで


3日くらい前に発売された『僕等がいた』最終巻読みました。
ここに至るまで、長かったですね...。
かれこれ10年以上ですか。
だから途中までをですが、かれこれ3度くらい読み返しました。
共学の学校に通っていた人と男子校/ 女子校に通っていた人とでは感じ方が違うんじゃないかな。共感できるポイントというか。

僕的には願っていたようなエンディングだったので満足です。

とにかく読んでいる間ずっとCharcoal Filterの『一人じゃとても歩けない世界の上で』が頭の中で流れていました。





大学生ブログ選手権

2012年3月23日金曜日

たとえばそれが最後の一回であったとしても


"Every little thing has its last time"
はじまりがあれば、終わりもある。
宇宙の真理のひとつとして、常に忘れてはいけないことのひとつです。
すべての事物は端緒があり、その瞬間から終焉に向けての時間を刻んでいきます。 
それはどんな些細なことにも共通する摂理です。

自分にとって当たり前のもの、身近なものほどその「終わり」が霞んで普段は見えません。
それを失くしてはじめて気づく、尊さや存在の大きさ。

毎日顔を会わせる家族、いつも共に笑い合える友人たち、近くにいてくれる恋人。
見えないどこか、砂時計の一粒一粒はゆっくりとでも確実に底に溜まっていきます。
無限なんてないように、カウントダウンはひとつまたひとつ着実に数を減らしていくのです。

それは些細なメールのやり取りかもしれないし、飲みに行く回数かもしれません。
だれにもその正確な数字を目にすることはできない。
でも厳然とそこには「あと265回」あと「13回」、はたまたあと「1回」。
だれにも予測することもできないし、だれにも抗うことのできない作用が働くことはいつどんなときも、たとえばぼくがこの文章を書いているまさにこの瞬間にも訪れるのです。



9.11

いつものような朝。
いつものように家族で囲む朝食。
「いってらっしゃい」「いってきます」
これが最後に交わす言葉となるかもしれないのです。
それは別にワールドトレードセンターのテロや地下鉄サリン事件のような歴史的惨劇のような派手な様態にとらわれず、誰しもの日常に姿を変えて潜む病理なのです。
いや「病理」というより、それ自体が日常の一部と考えたほうがいいのかもしれません。



3.11

地震が波を引き連れ、日本を襲いました。
北野武さんは以前、こう言っていました。
テロでは、5000人が死んだわけだけど、それを数だけで語ることは怖いこと。その一人一人に家族があるわけで、5000回のドラマがあるということを考えなきゃいけないんだ。
日常にもっと喜びを見出そうだとか、「当たり前は当たり前じゃないんだよ」頭でわかっててもどうしようもできずにいる。
それでも3.11の震災はぼくの死生観を根本から覆しました。
村上春樹さんがノルウェイの森で言っていたこと。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
あらためて真正面からこのコトバと対峙することになりました。

誰にも次の瞬間に何がどうなってるかなんて、見えないし、分からない。
「当たり前のこと」なんてひとつとしてなくて、いま目の前にあることのひとつひとつが奇跡と奇跡のつながりなのだと気づきます。


「一期一会」の言葉の重みを感じたし、それと同時にフェイスブックやツイッターのアカウントを消した時に残るものや人。
身近すぎて気づかないほど大切で、言葉に出来ないほどの愛おしさを感じたし、それをいつも伝えながら生きていかなくては。と強く思いました。


アメリカでは電話の最後で必ず"I love you"と言います。
僕はそうやって素直に生きていこうと思いました。
何にもテキトーにしちゃいけないんだって思いました。
恥ずかしいだなんて気持ち、死ぬとき一瞬で溶け消えちゃうのだから。





大学生ブログ選手権

2012年3月20日火曜日

読書『「当事者」の時代』佐々木俊尚著


発売日に青山ブックセンター本店で購入した佐々木俊尚さんの新著『「当事者」の時代』を読みました。
これまでも「キュレーションの時代」をはじめ、佐々木さんの著作は数多く読んできました。
佐々木さん自身、入魂といっていたように500P弱あり、新書にしてはかなり重厚感あるものとなっています。

佐々木さんの言葉遣いは内田樹さんの本を読んでいるように感じる時があります。
言葉の真芯はドッシリと強固に貫かれていて、博覧強記ぶりが伝わってくるのですが、それでいて言葉の端々がソリッドでカッコイイ。筆致がどことなくクールなんですよね。
素養の深さとともに、その広範な知見が経験に裏打ちされているところは僕みたいな若造には絶対にない点だと思います。

さて、この本の核となる箇所を紹介。
マスメディアは、<異邦人の庶民>という社会の外側の幻想の存在を仮構し、この存在から社会を逆照射することによって、絶対的な立場を確保し、その高みから社会を見下ろすというアプローチを採っている。
メディアの空間は<マイノリティ憑依>というアウトサイドからの視点と、<夜回り共同体>という徹底的なインサイドからの視点の両極端に断絶してしまっている。
この文章をみただけでは理解はできないと思います。
500Pにも及ぶかという力作のなかで数々の実例を引き合いに出しながら、この結論を導くにいたった経路が明示的に描かれています。

プロのジャーナリストとして培ってきた自身の濃密な実際的な体験や全方位にわたる情報網から執筆していると思われる佐々木さんの著作の多くが未来予言的な性格を帯びていることは広く知られているとおりだと思います。
未来を洞観する力。これは一筋縄では身につけられないし、それを提示したところで「身も蓋もない」と身も蓋もない批判を浴びせられることが往々にしてあると忖度しています。
それにも動じず、(時に苛烈なバトルを繰り広げていらっしゃいますが...笑)次の時代を見据え続ける人は理屈抜きにカッコイイと思います。

そんな大人のひとりにいつかなりたい、です。



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2012年3月18日日曜日

Mr.Childrenから「広告」を考えてみる



櫻井さんがいつだったかのインタビュー記事で作詞技法について、こう言っていました。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことは 
できるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できる 
スペースを空けておくんです。メッセージを言い切 
らないように、でも言い切った以上に、実感として 
感じてもらえるようにしたいと思っていて」
生き方とか考え方とか、つまり価値観において影響を受けた人物は誰かと問われれば間違いなく、真っ先に桜井さんが浮かびます。
物心ついた頃から、ミスチルの音楽が身近にあって、月日が経つのにつれてその音楽、詞(ことば)に心を奪われていきました。
僕が掻き集める端金のほとんどはミスチルのCDやDVDの購入代金へと費やされました。

そのごく一部

高校生、大学生へと進んでいく中で、自分の興味や音楽の趣味の幅も広がり、変容していく中でミスチルを聴く頻度は減っていきましたが、路頭に迷った時、一縷の光明を僕に差し出してくれるのはその音楽であり、桜井さんの詞でした。

櫻井さんは言わずもがな、才能溢れる人です。
作詞・作曲、ギターやピアノ。サッカーをはじめとしたスポーツまで。
そんな中で僕が一番、敬服するのは空間に茫漠と散らばった言葉の海から「詩」を取り出す才能です。
誰もが経験、感じたことのある心情の揺らぎ、得も言われぬ情動や人との関わりの中で芽生える慈愛。
そんな曖昧模糊としたもやもやをピタっと「言語化」する力、正確無比に矢を射るような視点。
誰かがそれを口にする時、歌うとき、「自分だけではないのだと」気付かされ、人の心をは揺り動かされ、感動を胸に感じるのだと思います。

「あるがままの心で生きられぬ弱さを、誰かのせいにして過ごしてる。知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら、僕だってそうなんだ」(『名もなき詩』より)
「裸になって君と向き合っていたい。栄冠も成功も地位も名誉もたいしてさ、意味ないじゃん」(『es~Theme of es~』より)
「富を得た者はそうでない者より満たされてるって思ってるの?障害を持つ者はそうでない者より不自由だって誰が決めるの?目じゃないとこ、耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ見落としてしまう。何かに擬態したものばかり」(『擬態』より)

人々の間に「共感」を巻き起こすのは容易ではありません。
その具体性や輪郭が明瞭であればあるほど感動の振り幅は増大し、人の奥深くに突き刺さるものだと思います。
さて、そういった「具体性」であるとか、「輪郭」とは一体なんなのでしょうか。
それは見方によれば、各々が持つストーリーであり、オリジナリティであるといえるかもしれません。
それを誰かに伝える時。
ストーリーを色濃く投影すること、オリジナリティを全面に盛り込むこと。
はたして、そこにどれほどの効果や正当性があるでしょうか。

ストーリーが独創的かつ唯一無二の場合、一部の人々には熱烈に受け入れられ、かなり深度の強い「共感」が生み出される可能性はありますが、一般性・普遍性の欠落から、「共感」が及ぶ範囲は限定されてしまう可能性があります。
このジレンマに真正面から向かっていくのが、アーティストであり広告なのではないかと行き着いたわけです。
まあ、社会における営利志向のものごとはなんであれ、そういったパラドックスがまとわりついているわけですが。

「たとえそれが身銭にならなくとも、オリジナリティを追求したいんだ」商業音楽なんてクソ食らえだと声高に叫ぶ人がいるかもしれません。
見据える先、歌うことの当為が「お金」ではないと仮定したとき、なぜその人は楽器を奏で、歌をうたうのでしょうか。
自分の内なるものを人々に伝え、共に感じ合いたい、つまるところ「共感」が視座にあるのではないでしょうか。



「共感」を基底にする場合、話は再びオリジナリティのジレンマへと再帰します。
誰もが頷けるような、心の中に小さな火を灯すような「共感」は巻き込む範囲が広くなります。ですが、言葉は当り障りのない陳腐で安い言葉に収まってしまうことが定型です。
一過性が強く、ある時期爆発的にポピュラリティを得たとしても、永続性をほとんど持ちあわせておらず、シーズンの移ろいと共に忘却の彼方です。
この大衆迎合ループの中に日本のJ-POPはあるのかもしれません。

さて、その逆をもう一度考えてみます。
今度は型にはまらないような、オリジナリティに満ちた作品。
伝播力は相対的に低下しますが、ハマると一部のコアなレイヤーに浸透します。
これがいわゆるインディーズなどでしょうか。

これは音楽に限った話だけでなく、「広告」においてまた然りです。
分かりやすい例でいうと、僕が最近書いて、このブログにも掲載した文章「ティルとその主人
何人かの人が感想をくれました。
もうホントそれは二極化してて、「すごい、いい文章だね」「すこし泣きそうになった」など一辺倒に褒め讃えてくれる人、一方「なんだかチンプンカンプン」「あんまり響かなかった」と正直に共感を得れなかったと教えてくれた人。
題材が黒人奴隷であったこと、舞台がアメリカであったことなどが具体性を帯びすぎ、誰の胸もを打つような普遍性から逸脱する要因になったのだと思います。


僕は専攻が国際政治ということもあり、アメリカの南北戦争であったり、暗澹たる黒人の抑圧された奴隷としての民族史を基礎から学んでいます。
なので仮にこれが自分の文章でなく初見であったとしても一読して大意は理解できたと思います。
ですが、仮に僕が歴史に微塵も興味がない理系学生であったり、歴史嫌いな高校生であったとしたら、たしかにこの文章を一度通読しただけでは、コンテクストを理解できないかもしれません。
つまり、広告としては駄目駄目な文章なわけです。
かりに文字制限なく、背景設定やコンテクストの描写に字面を割くことができていればそれを多少なりとも克服できたのかもしれませんが、これまで滔々と話してきた「オリジナリティのジレンマ」を超克することにはならないわけです。

いま一度、冒頭の櫻井さんの言葉を。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことはできるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できるスペースを空けておくんです。メッセージを言い切らないように、でも言い切った以上に、実感として感じてもらえるようにしたいと思っていて」

櫻井さんの絶妙なバランス感覚の淵源が垣間見える言葉ですよね。
あえて具体性をもたせずに「余白」をつくる。
つまり「共感」はあくまでも、感じることはあっても完全無欠に同じ体験などあり得ないという、至極当たり前でいて、見落としがちな真理を櫻井さんは言っているのではないかと思ったわけです。
ある人にとっての原体験は、どこまでいってもその人に固有の体験でしかなく、同じ場所で同じ演出で同じ行動をとったとしても完全一致できるはずない。
誰もがそれぞれのストーリーを抱えながら生きている。
ひとりひとりの間にあいた隙間に光(共感)を注ぎこむように、櫻井さんがあけた余白に、だれもがそれぞれのストーリーを乗せながら共感できるように。

この絶妙なバランス感覚をもってして、櫻井さんが意図的にあけた空白に人々が寄り添い、集うようにMr Childrenはここまで音楽を大成させてきたのかもしれません。

「わざと余白をつくること」
僕とあなたが共鳴できる隙間(スペース)を十分に確保しておくこと。
もっと意識しながら生きていきたいです。



大学生ブログ選手権

2012年3月17日土曜日

[爆笑必至] FF4のボス戦BGMで少年律動体操



Facebookで@Yukinao_がシェアしていたものですが、秀逸すぎたのでここでも。
ひっさびさに声をあげて、笑けてしまいました。



大学生ブログ選手権

Souls feat. Jamie Blake/ the HIATUS <和訳>



頭に大きな声でこだましてる、ぼくらが言ったこと
この胸の中で
君に手を伸ばす
ベッドはまだあたたかいくて
寂れた部屋と空っぽのタンスがぼくの時間を奪い去っていく

きみはぼくの心を置き去りにした
きみの鼓動、きみの呼吸
きみの声、ぼくの汗
君の嘘
ぼくの口、きみの感触
ぼくの夢、きみの瞳
ぼくらが失ったもの、ぼくらの愛、ぼくらの命

前に思ったことを思い返してみると
きみが好きだった笑顔、それはここにもっと多くある 

いつだってきみが過去を振り返り、思い出を感じる時
それはきみの中で膨らんで、ぼくを飲み込んでいく
ぼくらの魂に突きつける
過去を振り返り、昔を感じようとするたびに
それはきみの中で膨らんで、ぼくを飲み込んでいく
きみの魂をぼくに連れてくるように

たぶん、これを投げ出すことは間違ってない
お願い、心を决めて
一日中、歌をうたって
一晩中、泣いて
ぼくは一日中、車を走らせる
眠れないんだ
きみはここにいない
一日中、歌って
夜通し、泣いて
どこへも行かないで
今夜はここにいて
でもきみの鍵がささることはない、今夜は
鍵にささることは、今晩は

いつだってきみが過去を振り返り、思い出を感じる時
それはきみの中で膨らんで、ぼくを飲み込んでいく
ぼくらの魂に突きつける
過去を振り返り、昔を感じようとするたびに
それはきみの中で膨らんで、ぼくを飲み込んでいく
きみの魂をぼくに連れてくるように

きみの魂をぼくに連れてくるように
きみの魂をぼくに突きつけるように



大学生ブログ選手権
元詩
【参考エントリー】「A World of Pandemonium

2012年3月16日金曜日

大阪で食い倒れてみる

通天閣

深夜車を走らせ、大阪へ。
ETC搭載車だと高速料金が半額になるのですね。往復2万円が1万円なんだからぜんぜん違う。



たこ焼き。中がトロットロでタコがとっても大きかった。これでこそたこ焼き。


3人でかんたんに串かつ50本たいらげました。
ビールとの相性が神がかってた。



串かつを食べてスマートボールに興じてみる。
100円でここまで楽しめるエンターテイメントもそうそうないですね。

大阪で感じたことはけっこうあって。
まずは人がぜんぜん違う。威勢があって、関西弁だからなのかとても気が強い印象なんだけど、それでいて人情味にあつい。
看板が派手、黄色が特に多い気がした。
どことなく一昔前の東京みたいな。
何を食べても美味しい、本当にグルメの街。


大阪の学生なら誰もが行くという鳥貴族にも行きました。
食べ物・飲み物全品280円。美味しかったなー。
渋谷にも進出していますが、やっぱり当地で食べるから美味しいっていうのは絶対ありますよね。


翌日は神戸まで足をのばしました。
神戸マネキンの夜景はこれまた綺麗でした。


神戸牛ステーキもいただきました。
高い肉は肉汁の甘みが違いますね。うん。笑


六甲山の頂上から望んだ神戸を包むオレンジネオン。
山のてっぺんは粉雪がぱらついていて、空気が薄くて。

関西は関西の空気が流れている。そう実感した短い旅でした。



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2012年3月11日日曜日

ティルと優しかったその主人

D通さんから「時計をテーマにちょっといい話を考えてください」とのことだったので、こんな物語を書いてみました。



チクタク、ちくたく、チク、たく...。 
僕は「時」の中を生きている。 
そんなことに思い巡らしながら、ティルはラッセル川のほとりの大きく角張った石に腰かけ、淀みない流れをただうつろうつろ眺めていた。 
当時のジョージア州は黒人奴隷への虐待が日常的に行われていたし、家畜同然の扱いが普通だった。 
けれど、ティルの主人は違った。主人は優しかった。ティルをどんなときでも気遣ったし、毎日あたたかい食事を与えてくれた。家族のように見守ってくれたんだ。 
ティルはすすんで重労働を買って出たし、人一倍よく働いた。喜ぶ主人をみるのが大好きだったし、主人もティルを大切にしてくれた。 状況はゆっくりとでも確かに変わっていった。 
病が主人を覆いはじめ、身体が衰弱をはじめていった。 
「マスター、右腕に付けているものにはどんな意味があるのですか。イエス様へのお祈りのためのモノなのですか」 
読み書きもままならず、計算も知らないティルに主人はただ微笑むばかりで、「ティル、じき分かるさ」と力弱に答えるばかりだった。 
ティルは気づいていた。「死」が近いことも。主人が右腕のモノに目を向ける頻度が多くなっていることも。その度、哀しい顔をすることも。 
あたかもそれは淀みなく不可逆にラッセル川を下る川流のように主人を蝕んでいった。 
静かでおだやかな朝だった。ティルは主人のすぐ側で寄り添い、彼が発する言葉の一つ一つに耳を傾けていた。 主人は口をわずかに上下できるのがやっとだったが、弱った声でティルに語りかけた。 
「ティル、君は生きている。これがどうゆうことか分かるかい?「死」があるから 「生」があるんだ。これは分かるね?川は流れるよね。僕らは「時間」という川を泳いでいるんだ。時を生きるとは、命を生きること。時間は限られている、だから僕らは必死に泳ぐんだ。そこにも終わりがある。でもね、それは終わりじゃない。大きな海に出ていくことなんだ」 
主人は最後の力を振り絞り、右腕につけていた時計を外しながら言った。 
「さあ扉を開けて、これを持って。いままで本当にありがとう」 
時計を右腕につけたティルは二度目の生を授かった。 
ティルは思う。主人が与えてくれた命を抱えて生きていく。一秒を絞り尽くすように、 その一滴一滴をこぼさないように。一瞬の中に「命」をねじ込んでいくように。 
ティルは知っている。眼前のラッセル川が大西洋へと続いていることを。


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2012年3月10日土曜日

静岡のコテージへ、川根温泉


車を走らせ、静岡・川根温泉へ。
露天風呂きもちよかったなー。


泊まっていたコテージ

朝ふかふかのベッドで目覚めると、中央棟からクラシック音楽が辺りに流れていた。
心地良い目覚めの中、一歩外へ足をでると空気がどこまでも澄み切っていて、いつもよりも幾分たばこがおいしく感じた。



コテージに向かう途中、いちご狩りもしました。


清水港



夜はポトフとパスタをつくって酒盛り。


東名高速を走っていると、JRAの競走馬搬送車が。
しかも乗せていたのはディープインパクト。
運転していたのですが、絶叫してしまいました。
ディープとは北海道以来の再会です。

浜松餃子@福みつ

鴨南蛮@くろ麦

静岡グルメも美味しかったなー。


帰りには御殿場のアウトレットに寄りました。


シメは関内二郎。笑

また明日から大阪行ってきます。



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2012年3月9日金曜日

大阪弁でNew iPadをさらりと確認



うっくん(@HIRO_YUKI_)が発表されたばかりの新しいiPadの大阪弁翻訳を即座におろしてくれました。
いやはや分かりやすい。
テック押しなんですね、やっぱり根底は。
要所要所のうっくん節がかなりツボ。
3:44~の「橋下さんも頑張っとるけどな、ワシらやて頑張っとるんや」爆笑。
4:45~の「たこ焼きより簡単や」爆笑。

個人的に新しいフィーチャーは新しいガレージバンドで友達とジャムれちゃうやつ。
アレは楽しいな。

【参考記事】「iPad3...じゃなくて「新しいiPad」が正式発表。3月16日より発売!



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2012年3月8日木曜日

映画『ヒューゴの不思議な発明』


池袋ヒューマックスシネマズで3D鑑賞。
父と共に長い間着手していた人間ロボットの修理。
完成を待たずして父は火事でこの世を去る。
父が遺したメッセージを探るため、主人公の少年ヒューゴは独力でロボットの修理を続行する。

一カ所だけ気に入った箇所を。
「世界がもし、大きな機械なら。機械に無駄な部品がひとつとしてないように、僕も何かしら目的を持ってここにいるんだ」
映画の内容うんぬんよりも、主役ヒューゴ・カブレを演じていたエイサ・バターフィールド君の瞳が透き通るようにどこまでも蒼々と澄み切っていたことが印象的だった。



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