Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月29日月曜日

読書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

思えば、ピュリッツァー賞を受賞した『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』を読んだのがたしか大学1年生のときで、そのとき以来いわゆる「ビッグ・ヒストリー」の魅力に取り憑かれていて、折に触れて思考が狭隘化しないために、意識的にこのジャンルの本は読むようにしているのです。

『銃・病原菌・鉄』ではなぜ世界の一部の地域は著しき発展して、他の部分は文明から取り残されたのかを「銃」「病原菌」「鉄」といった新しいフレームワークから辿ったものでした。

今著『昨日までの世界』では、その"取り残された世界=昨日までの世界"の内部構造に迫り、現代文明のど真ん中にある私たちの社会と比較対象してみて、何が異なるのか、何が同じなのか、昨日までの世界=伝統的部族社会から私たちが学びうる知見はあるのかに迫っていく。
ダイヤモンド博士が長年にわたってニューギニアでフィールドワークを行なっていたということもあり、事例の中心はニューギニアになるが、その他の地域における部族などについても浩瀚な著作群・フィールドワークを参照しながら分析する。

伝統的社会の分布図

上下巻で貫かれている視点としては「昨日までの世界」から何を学ぶことができるのかという点。
行動的には現代人と変わらないホモ・サピエンスは、6万年前から10万年前に誕生した。「昨日までの世界」は、その歴史の大半の時代であり、そのホモ・サピエンスの遺伝的性質、文化、行動を形づくった時代である。考古学的発見から推測できるように、生活様式や技術的な変化の歩みは、およそ1万1000年前に肥沃三日月地帯で誕生した農耕の発生を受けて加速するまで、非常にゆっくりとしていた。最初に国家政府が誕生したのも、およそ5400年前の肥沃三日月地帯であった。つまり、今日のわれわれすべての祖先は1万1000年前まで「昨日までの世界」で生活し、多くの祖先もごく最近までそうした生活を送っていたということである。
「昨日までの世界」と現代社会に生きる我々の世界を対比する上で、非常に興味深い分析対象となりうるのが、ダイヤモンド博士自身が多くのフィールドワークを費やしたニューギニアです。

Jared Diamond博士(UCLA地理学教授)

1938年6月23日のニューギニア高地人の発見はいわゆる「ファースト・コンタクト」の直近の事例とされています。(詳細はBob Connolly、Robin Anderson共著の『Firtst Contact』)
これはNYアメリカ自然史博物館とオランダ植民地政府との共同探検隊で、バリエム渓谷に住む一群の人間集団を探検隊が発見した事例であり、それ以前までニューギニアは伝統的社会を営んでいたということになります。
現在のニューギニア人の多くは西欧化の波を受け、過去の生活様式を棄て去りながら、文明化をかなりの部分で享受している。ただし、多くの問題も浮上してきた。
たとえば肥満化に付随して起こる「糖尿病」。
以前までは「肥満」など皆無であったニューギニアでは男性女性問わず健康的で筋肉質な体をしていたが、ここ最近では肥満化が深刻化している。
しかし、なぜ同じような食べ物を食べ、同じような生活様式を送るヨーロッパ人では糖尿病の罹患率がニューギニアの人々と較べてそれほど高くないのか。
これは世界の大半の人々が数千年の長いスパンの中で辿った変化の過程を、1931年のファースト・コンタクトから2000年代まで急激なスピードでニューギニアの人が駆け抜けたからだと思われる。
長い年月をかけてヨーロッパ人は「倹約遺伝子」を淘汰してきたと推測される。
それに反し、伝統的社会では慢性的な飢餓状況にあったため、食べ物を食べられるときに(それこそ熊のように)貪り食うことが当たり前だった。
遺伝子レベルでも、「倹約遺伝子」が温存されて然りな環境が常態だったということ。
現在、世界で最も肥満病患者が多い人間集団とされているのが、ピマ族とナウル島に暮らす人々であり、ナウルでは20歳以上の3分の1が糖尿病とされている。

ニューギニア高地人、ファースト・コンタクトで初めて目にするヨーロッパ人の姿に恐れおののき、涙する姿

どこの未開部族であっても、ファースト・コンタクト(西洋文明との邂逅)移行、伝統文化を墨守するのは少数派で、ほとんどがその恩恵に預かることを優先し、伝統文化を捨て去るのが大勢のようにみえます。
「一度知ったら、戻ることのできない」魔力を備えているような。
(関連するかわかりませんが、ウルルン滞在記の逆バージョンで、諸部族を日本に招待するという企画があったのですが、それをみて思ったことを「無限なようでいて、無限でない「想像力」について」というエントリーの中で書きました)

そもそも、現代社会と伝統的社会とシンプルに区別できなのは当たり前で、ダイヤモンド博士はカテゴライゼーションについてはエルマン・サービスの4つのカテゴリーに依拠しています。人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類すると、
①小規模血縁集団(バンド)
②部族社会(トライブ)
③首長制社会(チーフダム)
④国家(ステート)

国家の誕生については
紀元前9000年頃ようやく始まった食料生産以前には国家は存在し得ず、その後、食料生産が数千年にわたって続けられて国家政府を必要とするほど稠密で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それに続いて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、続く1000年の間にそのほかの地域にも広がり、ついに今日では地球全体で描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地は全て国家に分割されるという状況にまでなった。
国家=つまり今の私たちが生活の基盤をおいている社会様式はきわめて新しいものだということ。


そういえばlifehackerに面白い記事がありました。「人類はこのまま進化したらどうなるか?10パターンの大胆予想
最近では社会的意義が過小評価され、「邪魔者扱い」されることも多い、"高齢者"も伝統的社会の中では尊敬される存在として、君臨し続けてきたそうで。
というのも、今は分からないことがあれば、なんでも「ググれ」ば分かってしまう世の中ですが、伝統的社会には当然Googleなどもないため、唯一の情報源が高齢者の脳ミソに詰まっていると考えられたわけで、部族の中では生き字引として敬われていたわけです。

人間集団のカテゴリーに拘わらず、"戦争"という事象は常に人類が相対してきた問題で、本著では以下の様な定義に基いて議論が行われています。
戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループの間で繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である。
たとえば、政治思想を勉強する中で、ホッブズがいう「自然状態」というのはイメージとして太古の野蛮な人たちの営みと捉えがちなのですが、先述の例でいえば、ニューギニアの人々はついこの間までその「自然状態」に身を置いていたということになります。 

La guerra del fútbol

本著では個人間の自然発生的な争いが組織的な戦争へとエスカレートした事例として、1969年の6月から7月にかけてエルサルバドルとホンジュラスの間で行われた「サッカー戦争」を挙げていました。

戦争や人類史的な災害のまとめとしてウィキペディアに面白い項目がありました。
英語になってしまうのですが、「List of wars and anthropogenic disasters by death toll

現代人と較べて未開人(伝統的社会に住む人を意味し、卑下した意味は含まないことを明記する)はリスクへの感応性が極めて高いことをダイヤモンド博士は強調し、それを肯定的に捉えた上で「建設的なパラノイア」と名づけます。
フィールドワークの体験を適宜、折込ながら考察を深めていくんですが、なんとなくジャングルの描写とかで、僕はコナン・ドイルの『失われた世界』の世界観を想起してしまったんですね。あの、なんともいえないワクワク感。

野生のカバ

あと、驚きだったのが、アフリカ人はライオンとか豹とか、ハイエナとかゾウ、はたまた野牛やワニなどが外敵で実際に強襲されて落命することもあるんですが、最も人を殺すことが多いのが野生のカバであるということ。(個人的にはカバにとても強く関心を抱いていて、フロリダにいた頃に動物園にいったときの日記を残していたのでした。「カバは馬でも鹿でもない」)


まあこれもあくまで一般論で、たとえばクン族にとっては、最も脅威となるのはブラックマンバなどの毒蛇。

途上国では日々の食にありつくのに精一杯なのに先進国ではいかに食べないか、カロリーを抑えるのかに邁進するという倒錯が起きているというのは、よく聞かれる話で、ようは文明の形式が異なれば、何が重要なのかの優先順位に差が出てくる。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
ということをそういえばツイートしていましたが、生活様式が異なってくると当然、こういった死因の差異も明確になってくる。 

さらに宗教、多言語主義など、現代社会に生きる我々にとっても重要課題と思われる事柄に切り込んでいくわけですが、いかせん膨大となりキリがなくなっていくので、この辺で打ち止めにしておきます。

2013年7月23日火曜日

読書『ニートの歩き方―お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』pha著

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニート界のカリスマ?phaさん(@pha)[ブログ:「phaの日記」]の『ニートの歩き方』をざっくり読みました。
たまには専門書ではなく、こういったゆるーい本も紹介。
じっさいこのブログで紹介しているのは、ごくわずかで、ぼく個人としてかなり幅広いジャンルの本を乱読しています。
「雑読」というからには、そんな色んなジャンルを適宜紹介できればと思います。

phaさんは京大の総合人間科学部卒。ヒャダインさん(@HyadainMaeyamadと一緒ですね。
僕もphaさんが作ったとは知らなかったのですが、一時話題になった「村上春樹風に語るスレジェネレーター」はphaさんの作品だそうです。


phaさんは「ギークハウス」という最近ではわりと有名になってきたシェアハウスの発起人で、ソーシャルで有名な方々の界隈をフォローしている人は、一度くらいphaさんのことは耳にしたことがあると思うのですが、(以前書いた「メディア化する個人」で何人か取り上げてます)
ない人のためにちきりんさんと対談なさっている「このボクが、“日本一のニート”を目指すことができたワケ」という記事などがニートになるまでの経緯が分かるかと思います。

phaさんはネットを基軸に生活を送っているわけで、そんなネットには大きく3つの利点があると。
一つ目は「人とのつながり」。
これは特にツイッターとかフェイスブックとかソーシャルメディアが日常化、というか人口に膾炙していく中で、人と人とがつながるための手段が出てきた。場所を越えた。


つまり、ニートであろうが、引きこもりであろうが、人とは常につながっている実感があるから、孤絶感は特に感じない。
ソーシャルのつながりはリアルのつながりへと簡単に転化する。

二つ目はネットは遊びの宝庫で、暇することがほとんどない。

三つ目に生存するための最低限のお金を稼ぐことができる。アフィがその筆頭ですね。
このブログでもささやかながら、アフィリエイトでお金を生み出しています。(本当に雀の涙程度ですが)

とにもかくにも、なぜ定職に就かずに、ニートとして「自由に」生きていくことを選んだのか。その思想背景を説明するために、ネットで前に拡散されていたあるメキシコの漁師の話を冒頭で引用されていました。

アメリカ人の投資家がメキシコの小さな漁村の埠頭についたとき、小さなボートに一人の漁師が乗っていた。ボートの中には数匹のキハダマグロが釣られていた。そのアメリカ人はメキシコ人に魚の品質を褒めて、釣り上げるのにどれくらい時間がかかったのか尋ねた。メキシコ人は答えた。「ほんの少しの間さ」「何故、もう少し続けてもっと魚を釣らないのかい?」「これだけあれば、家族が食べるのには十分だ。」「でも、君は残った時間に何をするんだい?」メキシコの漁師は答えた。「朝はゆっくり目を覚まし、少し釣りをして、子供たちと遊び、妻のマリアと昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴ(仲間)とギターを弾くのさ。それで人生は一杯さ。」アメリカ人は小馬鹿にし、「私はハーバード大のMBAを取得しててね、きっと君を助けることが出来ると思うよ。」「君は、もっと釣りに時間を割いて、その収益で大きなボートを買うんだ。大きなボートでまた釣りをして、その収益で今度はボートを何台も買うんだ。次第に、君は漁船の一団を率いるようになるだろう。そして釣った魚を仲介者に売る代わりに、製造業者に直接売るんだ。次第に、君は自分の缶詰工場を始めるようになるだろう。君は生産・配給量をコントロールするようになる。この沿岸の小さな漁村を離れてメキシコシティに移る必要が出てくる。それからロスアンゼルスへ引っ越し、次第にニューヨークへ移り、君はこれまで拡大してきた君の企業を運営するんだ。」メキシコの漁師は尋ねた。「でも、一体どれくらい時間がかかるんだ?」それに対して、アメリカ人は答えた。「15年から20年だろうな。」「で、それからどうなるんだ?」メキシコ人は尋ねた。アメリカ人は笑って「時に合えば、君は株式公開をし、君の会社の株を売って、大金持ちになるのさ、億万長者にね。」「億万長者?…で、それからどうなる?」アメリカ人は言った。「それから君は引退して、小さな沿岸の漁村に引っ越し、朝はゆっくり目覚め、少しだけ釣りをして、子供たちと遊び、妻と昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴとギターを弾くのさ………」(引用元
 
当たり前は当たり前じゃない。常識は社会が徐々に構築していく。
「規律権力」に憤然と立ち向かっていくフーコーはそのシステムの虚構性を系譜学的にアカデミズムにおいて暴き出すことに生涯を捧げたわけですが、phaさんはもっとゆるくでも自分の生得的な直観に従って、実践しているような。
なんだか坂口恭平さんと考えは近いような。アプローチはぜんぜん違いますが。
坂口さんの『独立国家のつくりかた』を読んだ時にこんなツイートをしていました。
去年の8月でしたか。衝撃的ではあったんですが、やはりどことなく中島らもの香りのようなものをその文体に感じずにはいられなかったというか。 
ハイな状態で書かれた文章ってやっぱり分かるんですね。なんだかクリエイティビティがほとばしっているというか。(アメリカに居た時、こんな文章残してました「クリエイティビティとマリファナ」)

phaさんも、中島らもを愛読しているようで、ギークハウスと比較したうえでらもの「ヘルハウス(地獄の家)」について触れていました。(参照:『バンド・オブ・ザ・ナイト』)
少なからず、みんな体制とか「当たり前とされていること」に対する疑問や違和は抱いていると思うんです。ようは程度の差であって。


マーク・ボイル

phaさんのさらに極限刑がウェブをも捨てた『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のマーク・ボイルですよね。
彼のように自然に帰る人。ネットに居場所を見つける人。
選択肢は一つじゃない。この事は僕自身もずっと考え続けてきたことで、前に「就職、進学、そして生きていく事」で考えをまとめて書きました。

気になるのは、どうやってその分岐が生まれるのか。
大部分の人は疑念は抱きながらも、それが唯一のベストプラクティスであると自分自身に思い込ませる形で、大勢順応していく。
だけど、phaさんやボイルのように道を切り拓こうとする人もいる。
月並みな言い方をするならば、やはり出会いや環境によるのかなと。(Cf. 「ぼくらの興味は絶えずつくりだされていく」)
phaさん自身が紹介していた中では「セブ島で大喜利をするニートの話」など、少なからず、体制から飛び出して、自分で生きていこうとユニークな試みをしている人はいるそうです。



ニートを自称するだけあって、組織に縛られていないからなのか、かなりの読書量が文体から伝わってきました。そして実際、本書では数多くの本や漫画が紹介されています。
その中で、かなり説得力があったのは長谷川英祐さんの『働かないアリには意義がある』の議論。
真社会性生物として知られる蟻ですが、個体間には労働に対する反応閾値の違いがあるらしく、まあ簡単にいえば8割は働きものなんだけど、残りの2割は怠惰である。
これを敷衍して「個と全体の生物学」としてもう少し巨視的に観察すると、全体で一つの超個体(=社会)が成り立っている。これは単純な類似というよりも、かなり精確なアナロジーとして人間にも当てはまるのではないか、というのがphaさんの考え。
で、ぼくも(これもアメリカにいたときに書いたものなのですが)以前「Society and Diversity」と何故か英題のブログで書きました。
「天才もクズも社会の一部」だと、その通りだと思います。



ぼくも大好きだったアリケンというテレ東の番組で「しゃべり場」というパロディチックなコーナーがあって、上の回の題は「テレビには駄目人間を出すな」という有吉の提起が議論されるんですが、その中で
くりーむしちゅーの有田が昨今の(最近はヘキサゴンの時ほどは酷くないと思いますが)おバカタレントブームには視聴者はそれをみて、「自分より劣っている人がいる」という優越感を感じさせるための構造があるから、それが数字に繋がっているんだということを言っています。

これは再び敷衍するなら、なぜ日本の自殺者は約3万人で推移し続けているのかのヒントになるかもしれない。いきなり10万人になったりしない、ということをphaさんは言っていました。

ホリエモン

そして、環境で人は常に変わり得るということは、たとえば自分が今、総合職の商社マンでエリート街道を突っ走っているという確信のもと、ニートの人たちを社会の害悪として卑下したとしても、常に自分が彼で、彼が自分だったかもしれない蓋然性は免れない。
社会や自分という存在は大いなる"偶有性"の所産でしかないのだから。
ホリエモンがたしか『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』でだったのだと思うのですが、刑務所での経験で驚いたことの一つとして、収監されている人が凶悪な人だという大方の予想に反して、案外みんな塀の外にいる人と変わりのない"普通の"人であったということを言ってました。
なにより人は最初、ニートであった、とphaさんは後半で言います。
ベンジャミン・バトン』ではそれを逆方向から描いているように、赤ん坊は一人で生きていけないのと同様に、高齢になると独りで生きていくのが困難になっていく。

もしみんなニートだったら、そんな社会は成り立たないですが、
なんの脈絡もなく安藤昌益は『自然真営道』で語った思想が頭をよぎったんですね。
貪りとる者もなければ,貪られる者もなく,自然も社会も一体となり,自然の営みの中で社会全体で耕し,それ以外に何一つ人為的な行いはない。これが自然の世の有様である。
みんな農業すれば、ハッピー。妬みも恨みもないただ、その日を家族や友人と過ごす。 
アイスランドにいたときに感じたこと。(Cf. 「アイスランドの少年と幸せ」)
そもそもこういった考え方自体がマルクス主義の労働=疎外論と共振性があるのですが。
たとえば有名な一節がありますね。
朝には狩をし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。(『ドイツ・イデオロギー』)


家入さんとイケダさん

家入さんのリバ邸(Cf. 『お金が教えてくれること』)とか、イケダハヤトさんがプロブロガーと自称することや(僕自身は未読ですが『年収150万円で僕らは自由に生きていく』という本でその背景が書いてあるのだと思います)、安藤美冬さんが『冒険に出よう』で提唱するようなノマドワーキングなど、中島義道さんの『働くことがイヤな人のための本』などを思わず手にとってしまう人にとっては、実践的なヒントになるであろう、アクチュアルな生き方が多様化してきているのは間違いないかと。

マネーゲームとしてのサッカー


マンチェスター・ユナイテッドVS横浜F・マリノスの試合を観戦しながら、ブログでも書こうかと。
いつ頃からだったか、欧州のビッグクラブがワールドツアーで世界各国、最近ではアジア中心に各国のクラブと試合をするようになって。
僕もサッカーは大好きなので、まあ楽しみではあるのですが、正直試合自体はガッカリさせられることが多い。
それほどまでにテキトーにやっているということではないのですが、やはり試合としての引き締まりには欠けるというのは避けられないのかと。
なによりもまざまざとグローバル資本主義の影を見せつけられているというかなんというか。
なによりも広告の段階で「香川凱旋試合」と冠されると、スポーツがグローバル規模で資本=金の論理で動いていると、思わざるをえないし実際そうなんでしょう。
ちなみに今日の観客動員は5万人越えだそうで、マンUのユニを着ている人もかなり多く見受けられます。

試合の合間に怒涛のように流れるカゴメのCM。


「パク・チソンである程度、韓国からは絞ったからじゃあ次は日本か」
という見方はやや穿った見方に過ぎるとしても、もちろん市場価値を引き上げるからアジアの選手が重宝されるというのは疑いようのない事実ではあると思います。
つい最近のニュースでいえば、本田の移籍関連で「本田今夏移籍に暗雲?ミラン「スポンサーあれば…」」というようなスポンサー次第で動向が動く等。

もちろんこれはサッカーに限った話ではなくて、野球で言えばヤンキース移籍時の松井が"金の成る木"として見られていたとしても不思議ではないわけで。
テレビの放映料、グッズ販売、チケットなどなど経済効果の側面を挙げれば枚挙に暇がないわけで。

水を指すようなことを言っている間に、ついに香川の出番がありそうです。

2013年7月22日月曜日

「明日死ぬとしても、私は今日選挙に行く」―参議院選立会人を終えて

YOMIURI ONLINEより)

参院選が終わり、自民党が6年前の惨敗からここまで復活するのか、、と言うほどの支持を集め、悲願のねじれが解消。
まあ選挙の細かい話や感想はここでは控えて、選挙の立会人として参加した感想なりを備忘録として。
ただし、ハフィントン・ポストに武田徹さんが寄稿していた「山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?」はかなり鋭いというか、ポピュリズムに陥りがちな有権者の陥穽を指摘しているので、シェアしておきます。

立会人は朝の6時半には集合して、当日の流れを確認します。
そして投票所が開場するのが7時、閉場は8時。
もちろん、この間ずっとぶっ通しなわけではなくて、途中何度か休憩が入ります。
やることはシンプルで、ただ選挙が公正に行われているのかを、投票箱を前にして監視(というより、ただ見ている)のが務めです。
あとは、1時間毎に投票者のデータ、投票率が報告されるので、それを記述していきます。


とにもかくにも、13時間にわたって、投票所でただひたすらに人々が投票するのを見続けていたわけですから、いろいろなことに気付かされたし、考えさせられる時間でもあったわけです。
「投票所」という一つの場所が見方によってはとても重層的な「場」であること、ここではいくつかの断想から気付いたことを書き残しておきたい。

1. 「プチ同窓会」としての投票所
まず気づくのは圧倒的に高齢者が多いということ。
これはデータ等を見れば歴然なわけで、当然知っていたことなのですが、朝7時の開場から夜8時までの閉場までずっと座って選挙を見続けてるとそれがよりリアルに実感として思い知らされる。
あとは、彼等の多くは知り合いで、もちろん同じ投票区に区分けされているわけですから、近所である場合も多いし、知り合いだらけというのはある意味で当然です。
高齢者でかつ、長くその場所に住んでいれば尚更のこと。
だから投票所は「投票」することに加えて、多くの人に会える「コミュニケーションの場」にもなっているわけです。プチ同窓会のような。

2. 「共同体」の縮図としての投票所
a. 「クソババア」を嘆いたとしても
投票所にはもちろん上述したような老人のみならず、20歳以上であれば、本当に多くの人が来るわけです。
基本的にみなさん、すんごくラフな服装できます。ほとんど寝間着のような恰好、タンクトップに半ズボン、クロックス。これはまあ朝に当たり前ですが、多い。
基本的には2〜3分で終わる作業ですから、淀みなく流れていくわけですが、ごくたまにマナー違反が起きる。
例えば場内での携帯電話の使用。公平に投票を行う意味でも、会話内容をなどで候補者名を口にするのはまずいわけです。
そこで立会人の一人が注意すると、逆に激高して、「どこに携帯の使用禁止が書いてあるんだ」と怒鳴り散らしていました。これはもう、常識の範囲内ですよね。
彼の言い分としては、親戚に名前が思い出せないから聞いていたのということで、でもそれは投票所に来る前に確認しておかなければならないことですよね。
あと、彼がしきりに言っていたのは東京都選出の候補者は顔つきのポスターがあるけど、比例はないじゃないか、ということ。
比例での候補者の数を考えれば、それが難しいこともすぐに分かるべきです。
投票所を出る時に、「クソババア!」と言って立ち去っていきました。
言われた選挙立会人の方は「ああゆう非常識な人が最近は増えてきた。物騒な世の中になってきた」と昔をノスタルジックに回顧しながら、世知辛くなってきた今の社会を憂いていました。
だけど、僕が常々思うのは「最近の若者は〜」とか「今の世の中は〜」とかって本来誰にも分からないことで、100年前の新聞にさえ「最近の若者は〜」と書いてあることからも分かるように、誰にもそんなこと分かるはずないってことです。人は比べるためのもう一つの人生を持っていないから。
それはあくまで個人の主観的な実感であって、昔と今を対比して嘆いてるだけでは何も変わって行かない。

あとは子どもを連れて投票所に来ることの是非。
事例として、選挙権を持たない子どもが大人の投票用紙に勝手に書いてしまったということが過去にあったそうなのです。
小さい子ども、大きい子どもは分かりづらいので、やはり明確化したほうがいいと思います。
ただし、子どもを連れてくる親としては子どもに選挙を知ってもらおうとしているわけで、厳正に管理した上で、子どもの入場も認めるのも、良いのかなとも個人的には思いました。若者の投票率の低さを鑑みると、選挙権を持たない段階から啓蒙するというのは。

b. 「公務員」という職について
昔、投票所は華が飾られ、軽やかな音楽な流れる、楽しい場であったと、懐かしそうにベテランの立会人の方が語っていました。
時代を経ると、「経費の無駄遣いだ」などという批判が相次ぎ、現在のような極めて質素な投票所になったとのことです。現在でも左胸に立会人の目印として、白い花を付けるのですが、これにも文句が来るそうです。
この立会人の方は、過去にこんな経験をしたそうです。
13時間も一箇所の場所に座っているわけですから、ある程度の時間ごとに姿勢を変えないとつらいわけで、そのときたまたま肘を机についていたらしいのですが、これを「横柄な態度」として「偉そうにするな!」と罵られたそうです。
この話と関連して、公務員の方が懸命に仕事をしている姿をみていて、思うところがありました。
社会は公務員の人、いわゆる役所の人がいないと成り立たないのは周知の通りなのですが、批判の槍玉に上げられるのもまた彼等なわけです。
何をしても批判される。何をしなくても批判される。間近でみていて、僕は一日のはじまりから終りまでを見ているわけで、彼/彼女らの必死で働く姿を長い時間の中で継続的にみているわけです。
だけど、批判されるときは往々にして、切り取られたある一部しかみられていない。
「税金の無駄遣い」とはよく聞くセリフですが、これもかなり微妙な問題なので、本来は慎重に使わなければならない言葉だと思いました。
公務員という人の「自己実現」はもちろん市民の役に立つこと、だけど会社にもまして拘束される組織の中の一人として独立した"自分"がかき消される、そのシーソーの中で常に揺れ動いているのではないか...。

3. 民主主義の「心臓部」としての投票所
a. 「明日死ぬとしても、今日私は投票に行く」
投票所とはつまり、国会の代議士、国民の代表者を主権者たる国民が選び出すプロセスを担保するための最重要なプロセスが行われる場であって、ここで不正がまかり通ってしまったら民主主義自体が機能不全になるのは当たり前な話です。
公平な選挙が行われるというのは決して当たり前のことではなくて、革命で民主主義を勝ち取ったかにみえてもすぐに不透明な選挙のもとで不正が横行することに苦しんでいる中東各国の現況をみてもそれは分かります。まあこの辺の話はこの選挙前日に「明日は選挙。若者の投票率の低さ。人間の性。」に書いた通りです。
高齢者の中でも特に80歳以上とみられるお年寄りの何人かが(例外なく女性だった)深々と一礼した上で、ゆっくりと一票を入れていたのがすごく印象的だった。
所得に関係なく、男女関係なく、ただ20歳以上であれば投票にいけること、政治を変えられるかもしれない権利を持つというのは何度も繰り返すように、長い歴史の中では極めて画期的なことで、紀元前から幾度もの闘争を通った上で、人間の叡智がささやかながら紡ぎだした思想に基づく権利なわけです。本来、尊いものである「投票」という権利の具現の現場をみたような、「そんな高尚なことを」と言われるかもしれませんが、13時間投票所にいればいろいろな「投票の形」をみることになるわけです。
さーっと投票表紙に書き込み、さーっと投票箱に投げ入れ、さーっと会場を後にする人が大半ですが、杖をつきながらゆっくりゆっくり歩いてくる老人(おそらく投票所に来るのさえ、大変だったのではないかと思うような)、車椅子で来て、投票用紙に書くのに20分くらいかかってやっと投票する高齢の方。
「自分ひとりが投票したところで、何も変わるわけない」というのは良く聞くことで、僕自身政局に踊り続ける日本の腐敗した政治をみていると同調というか、首肯しかけてしまう言葉ですが、そういった足を引きずりながら、一礼をして投票箱に恭しく一票を入れる方の姿をみていると、自分は間違っていると、気付かされるというか。


マルティン・ルター

(それこそ90〜100歳くらい、なかには100歳を越えていた方もいたと思います)、が何十分もかけて投票している姿には、ルターの「明日世界が滅びようとも、私は今日リンゴの木を植える」に近い、鬼気としたものを感じずにはいられなかったのです。

b. 民主主義は最悪の政治形態である
ただし、もう少し現実的なことも考えておきたい。
冒頭で紹介した武田さんの記事にも通底すること。
有権者の多くがマスコミの政局に翻弄され、タレント候補なるポピュリズムに先導され、政治の本質を見失っていくこと。
これはある意味で「民主主義」に内在する問題なのではないかと。


アレクシス・ド・トクヴィル

早くにトクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で民主主義の可能性を認めながらも、民主主義が、すなわち国民が主権者になるということは、大衆が衆愚に転化する可能性を常に内包しているということを指摘していました。
トクヴィルから時代をより現代に近づけていくと、民主主義と資本主義との邂逅というか、「鶏か卵か」論争に似たような、議論も見られていくわけで。
ただし、僕個人としては民主主義と資本主義は本来相容れないものなのではないか、という思いが日に日に増しています。
それは経済的相互依存とデモクラティック・ピースのようなグローバルな話ではなくて、よりミクロな国内の話です。
すごくベーシックなことをいうと、古代ギリシャ・ポリスで理想とされた統治形態は直接民主性。本当の意味での直接民主性。
国民が直接、国民同士で討議し合い、熟慮の末に投票を行う。
これはもちろん理想なわけであって、人口が何百万人にもなっていくと、不可能なわけで。そこで考案されたのが、現在の議会制民主主義なわけです。(日本でいえば)
そもそも資本主義社会では日々の仕事、労働で忙しく、政治を熟慮する時間が個人ベースで取れない。だから、政治を専門とする、他の仕事に従事しない、政治家に国民の代表として任せましょうということなった。これが代議制で。
ただし、この時点で大いなる矛盾というか、限界を民主主義が露呈してしまっているのではないかと思うんです。
なぜかくもポピュリズムが横行するのか、すぐにマスコミに流されるのか。
資本主義に駆動される形で日々の仕事に追われ、時間がない
これに尽きるのではないかと。候補者一人ひとりのマニフェストを読み込むこと、衆議院・参議院それぞれの役割に知悉し、ひいては日本の政治制度・政治史を勉強すること。
大卒だろうが、関係なく(政治学科等を卒業していれば話は別ですが)大半の人々にとってはそれにおもいっきり時間をかけることが困難で、大いなる無力感を感じてしまうのも仕方ないのかと。


ウィンストン・チャーチル

そういう意味でチャーチルの有名な「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」という言葉にどうしても、強く同意せずにはいられない。

そんな諦観にも似た思いは政治を知れば知るほど、頭をもたげてくる。
だけれども、
選挙の立会人を通して、目撃した深々とお辞儀をし、目を閉じ、投じる人。
足を引きずりながら、または車椅子を押してもらいながら、命をすり減らすかのように一票を大事そうにそっと入れる人。
「明日死ぬとしても、私は今この票に願いを託す」と言わんばかりの人々の姿をみて、もっともっと政治について懊悩せざるを得なくなったのでした。

2013年7月20日土曜日

明日は選挙。若者の投票率の低さ。人間の性。

2009年モルドバ、民主化を求めて蜂起した若者たち

明日はいよいよ参院選ですね。
僕は運営に携わることになり、朝から夜まで一日中、投票所にいます。

Tehuさん(@tehutehuapple)くんの「投票に行かない若者の皆さんへ。」というブログを読んで、少し感じたこと、思ったこと。
17歳にして、政治に関心を持ち、二院制のこれまでの変遷、参議院の仕組み、民主主義の意味をここまで理解していることが偉いというか(とりわけ日本において)、敬服したわけですが、若年者の投票率の低さはかなり根が深いと個人的には思っています。
世界中の、「民主主義」「選挙権」を求めて血を流して戦っている人々のところへ言って、なぜ選挙権を行使しないか説明してください
これはまさしくこの通りで、世界の各地では、選挙権自体を認められていなかったり、民主制が適切に浸透していなくて、透明性の低い不正な選挙が行われていたりします。
最近でもモルドバ、イラン、チュニジア、エジプト、リビアなどで民主革命がありました、エジプトではオンゴーイングな問題です。

古くは日本も板垣退助らによる自由民権運動が活発に行われていました。日本史なり、学校の歴史で学んだ通りです。「板垣死すとも自由は死せず」と、まさしく生死をかけた、自由の闘争が行われていたわけです。

こんなこと言うと、完全にペシミスティックで嫌なんですが、根本から「じゃあ、どうすればいいのか」を考えるために本質的なことを少しだけ考えておきたいと思います。
人間っていうのは「取り上げられている時は、渇望する」そして「一度、手にすると見向きもしなくなる
どれほど一般性があるかは分からないのですが、僕個人としては経験的直観かつ、色々な事柄に当てはまる、当てはまってしまうことではないかと思うわけです。

考えてみれば、幼少期。ずっと欲しかったおもちゃ。ずっとおねだりした末に、買い与えられると、その瞬間は狂喜乱舞するけど、少し時間が経つとそれほど当初よりも魅力的ではなくなり、いつしか放置する。

(これは、みんながみんなと言うわけではないと思いますが)恋愛でもよく聞く話で、(特に男性)追いかけているうちは彼女しか目に入らないのに、一度両想いになると、気持ちが冷めてしまう。



モンテーニュが『エセー』で言っていたこと。
「習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これこそがその権威の神秘的基礎である」
「ところで掟が信奉されているのは、それらが正義にかなうからではなくて、それらが掟であるからだ。これが掟の権威の神秘的な基礎で、このほかに基礎はまったくない」 
あれほど渇望していた選挙権、自由、民主主義。
それが一度、自分のモノになり、「当たり前」の与件として日常に組み込まれると、「苦労して手に入れたことを忘れ」見向きもしなくなる。「喉元過ぎれば熱さを忘れる...」
政局闘争に奔走する政治への不信感や社会制度の不平は常々吐露するものの、選挙へは忙しくて行かない。
まあ、これにはまた別の問題もあって、以前
と、ツイートしたんですが。
分厚いシステムのうちに取り込まれて、政治に諸悪の根源あるのではないかという何となくの直観はあっても、本当に忙しすぎて、投票に行けない、各候補者の動向も追っている暇がない。
でも、本当に何か変えたいならば、行くしか、それしか選択肢はないわけです。
当日、選挙に行けなくても期日前投票がある。
ネット選挙が解放されたことで、以前よりも候補者各人の政策はより分かりやすく、多様になった。例えば、何人か、ツイッターでフォローするなり、過去のツイートを遡るだけでもだいぶみえてくる。
自分の考えがどういった候補、政党と近いのかを示してくれる「マッチングボード」もいくつもあります。
たとえば毎日新聞のボートマッチ「えらぼーと」。



そして、津田さんが前々からずっと言い続けてきた政治のメディア。
ついに「ポリタス」としてリリースされました。
ほぼ全ての著作に目を通している僕としても、なぜか感慨深いです。
詳しい話はハフィントン・ポストで記事になってました。「「党派ではなく、政策で政治家を選ぶ」 政治を可視化するメディア「ポリタス」を公開した津田大介さんに聞く 【読解:参院選2013】

ただ、すべての若者が選挙に行っていないなんていうことはもちろんなくて、若者の間でもずっと若者の投票率を上げようと奮闘している動きも以前からずっとある。
そういう活動をしている団体なりグループはいくつもあると思うのですが、僕の知り合いもやってて、ずっと知ってるはivote
学生団体ではありませんが、インターネット選挙解禁に向けて多大なる努力をしてくれたOne Voice Campaign
確実に変わり始めているのでは、間違いないですね。
環境はより、開かれてきた。詳しい話はこれも津田さんの『ウェブで政治を動かす!』に詳しいです。

そういえば今朝、ツイッターで平川克美さんが民主主義について大事なことを言っていました。
これはまさしくそうですよね。
あとは、投票だけじゃなくて、違うルートからも政治に働きかけていく。
これは河野太郎衆議院議員もブログの「声を上げますか、それとも泣き寝入りですか」という記事で言っていることです。
20世紀と現在では確実に政治が近いものになりうる土台が揃っている。
まずは、選挙から。

2013年7月19日金曜日

もんじゃ放談#4―大粒の雨、照りつける陽

#3の続き。

6/22 アワビは格別
女性のお客さんが面白いこと言ってた。
「わたし貝類まったく食べれない。アワビ以外は」



6/23 ヒロ・ヤマガタのレーザー
シルク・ドゥ・ソレイユでの日本での活動に携わっているというPR関連の仕事をなさっている方が現代美術家ヒロ・ヤマガタの凄さを滔々と彼女らしき人に語っていた。(どうやらその彼女には右耳から左耳にただ音が流れでていってるだけのようでもありましたが)
ヒロ・ヤマガタはアートでレーザーを使うらしく、その技術というかアート手法がクラブでもよく使われているそうで。


最近USENで流れまくってるC&Kの「愛を浴びて、僕がいる


7/1 ベジタリアンの先鋭化した味蕾
ドイツ・フランクフルト出身のお客さん。ベジタリアンだという。
ただ成人になってからベジタリアンに転向したらしく、ビーガンなどのような厳格性はないらしい。だからラードなどの動物性油もOKとのこと。(以前、イスラム教のお客さんが来た時はラードもNGだった)
ベジタリアンの人たちはどうも味覚が研ぎ澄まされているような。
というのも、彼はもんじゃを口にするのが初めてだったそうなんですが、「これってリンゴ入ってるのか?」と聞かれ、僕としては「いやいや、入ってないよ。ベースの味はソース」だと答える。
ん、でも待てよ。ソースって、果物とかあらゆるものからできてるんじゃないか....。



7/3 ソシャゲーとスキーリフト
パズドラをやり込んでいるというお客さんの話。
年間にすると、20~30万はつぎ込んでいるとのこと。オンラインゲームはじめ、ソーシャルゲームもやらない自分としては驚愕の額。(前に「LINE POP、パズドラ、それでも時間は流れていく」というエントリーを書きました)
パズドラといえば、この前Rocket Newsでこんなのありましたね。「友だちのスマホから『パズドラ』を勝手に消したらブチギレした動画「友達のパズドラを消してやった」




そのお客さん曰く、スキー好きや山登り好きが分からないという。
わざわざ寒いところへ、色んな装備(これも面倒くさいと、そして費用もかかると)、リフトで昇り降り、そして途方もない疲労感。
だったら、部屋でくつろぎながらゲームをしていたほうがよっぽど疲れないし、お金もかからない。
ふむ。

7/4 リクルートの上場を静観して
若いお客さんたち。リクルートの上場が云々とお話。
ん?と思う。リクルートといえば言わずと知れた大企業。上場していないことすら知らなかった。
家に帰っていろいろ調べてみると、実は未上場の大企業がゴロリと出てくる。
Naverにもまとめになってる。「リクルートだけじゃない!知って驚く超有名な非上場企業
これは個人的にも気になる動向なので、いくつか参考記事を。
・「大型上場相次ぐ?IPOブーム到来の予兆[前編]〜過去の戦績と政府系上場説のまとめ〜」その「後編
・「リクルート上場で、億万長者の社員が続出は吉と出るか?

7/6 インド⇄アリゾナ
アリゾナ在住のインド人夫妻。日本へ観光に来てるそう。
最初に食べたカレー味のもんじゃを気に入ったらしく、その後も違う味のもんじゃを食べていた。(やはり例に漏れずベジタリアンで、豚肉はじめ、肉は一切食べないとのこと)
最近、自分がインドへ行ったこともあり、その時の話で盛り上がる。
インドで多発するレイプの話(たとえばWikiのこの項目を参照「2012年インド集団強姦事件」)を振ると、当人たちも深刻にインドの治安の現状を受け止めているよう。
やはりインド国外に住んでいるからか、インド内政を客観的にみて、その問題点は痛いほど分かっているそうで。
経済発展の恩恵に与っているのは少数で大部分は未だ低階層におり、治安の悪化も現在インドが抱える最大の問題の一つとのこと。

7/7 ジョイスティック・エコー診断・離島
理系男性のお話。大学院時代の研究について。
お腹の中にいる赤ちゃんのエコー診断ってありますよね。あれを遠隔地の大病院からジョイスティックのようなもので出来るような技術の開発をしていたらしいです。
これはかなり便利ですよね。「Dr.コトー診療所」のような離島の小さな診療所では施せないような治療や診断が可能になる。
この手の技術は相当進んでいるようで、ゴッドハンドを持つという福島医師のような名医に海外から遠隔で手術してもらえる、など俊才揃いの医学会は技術も日進月歩で進んでるようです。




7/8 「川崎病」、ブラックジャックにも
幼少期「川崎病」なる病気に罹患していたというお客さん。
この病気、初耳でした。4歳児以下の幼児が発症しやすいらしく、最悪の場合、心臓の血管にこぶのようなもの(冠動脈瘤)ができて、心臓に血液が流れずに突然死するケースもあるそう。
ちなみにこの病気、ブラックジャックにも出てくるそうで、治療困難なこの病気に罹った息子を救いたいがために両親がブラックジャックに3000万円払うとウソを言うというエピソードがあります。(第6巻

7/11 ガールズ屋形船バー
サラリーマンのお客さんによると、ガールズバーと一体になった屋形船があるそうな。
調べたら、ありました。「海上ガールズバー」というそうです。

7/12 強面(こわもて)に限って
体つきが良くて、雰囲気も任侠みたいなお客さんが「趣味っていう趣味はないけど、あえて言うなら"家事"かな」と言った瞬間、ぶっ倒れそうになりました。笑


7/18 ハバネロより辛い、対人兵器ブート・ジョロキア
女将さんに聞いた話。
スリランカ、インドなどで栽培されているらしい、ハバネロより辛いとされる唐辛子ブート・ジョロキア。
もはや対人兵器レベルだそう。ロケットニュースにもこんな記事ありました。「【完全に対人兵器】世界一辛い唐辛子「ブート・ジョロキア」を食べてみたら病院に搬送されそうになった
加工する(乾燥させる)際の工程も大変らしく、マスク、手袋など完全防備で作業しないと被害を被るとのこと。

#5は絶賛下書き中。

2013年7月15日月曜日

読書『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン〜新しい統治者たちの素顔』松井博著

企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔 (アスキー新書)

松井博さん(@Matsuhiro)の『企業が「帝国化」する』を読みました。
松井さんはアップルの元シニアマネージャーということで、アップルに長年勤続されて(今は退職なさってますが)黎明期から覇権期までの過程も内部で見ていたという稀有な経歴の持主。
おそらくその辺の詳しいお話は前著の『僕がアップルで学んだこと』に詳しいのだと思います。

この本で主題となるのは副題にあるような大企業―アップル、マクドナルド、エクソンモービル、グーグルなどの超巨大企業。
このほとんどの会社の企業規模をGDP換算すると、中途半端な国家規模の財政よりも遥かに大きな財力を有しているところばかり。
グローバリゼーションが成熟化してきて、国家の主権性が揺らぐ中で、巨大企業は多国籍というよりも無国籍という様相を呈してきた。
国連が国際社会の主権者を担えない以上、これらの新しい覇権者たちを統制する手立てがない。たとえば問題になってる租税回避もそうですね。


これは今月読んだ本の中でも衝撃的だった『(株)貧困大国アメリカ』で痛いほど気付かされたことで、だからこそ、それとの関連でもっと深く知りたいと思い、その「私設帝国」の中で仕事をしてきた松井さんのこの本が気になったわけです。

アップルを退職されてみえてきたということで、社会が以下3つの側面から成り立っていることをまず指摘しています(これは広く認識され始めていることですが)
世の中は「仕組み」を創る少数の人々、「仕組み」の中で使われる大半の低賃金労働者、そして「仕組み」の中で消費を強いられる消費者という3つの側面から成り立っている。

先述の堤未果さんの著書の冒頭で問題となっていた点を想起しておきたいと思います。
なぜ失業率に喘ぐ米国が雇用対策を差し置いて、フードスタンプ(日本でいえば生活保護)の宣伝に巨額の広告費を投じ、弱者保護を押し進めるのでしょうか。 
一面的な見方に囚われれば、(特にリベラルの低階層)からは歓迎されそうですが、その僅かばかりのフードスタンプで購入できるのは栄養価の低い加工食品のみで、生鮮食品は値段が高く手にすることができません。
栄養価の低さはその反面、トランスファットにみられる脂肪分の多さや異常な糖分を含み、米国社会内における少年少女のみならず全年齢層における肥満化を招くという悪循環を引き起こしています。
こうした社会における肥満化は日米共にエンゲル係数が下がり続けていることとも関連して考えられることです。
この問題の見落とされがちなファクターとして松井さんは「食料価格の低下」を指摘しています。その中でも特に肉類の価格は通時的に下がり続けている。
なぜならば過去50年間にわたって飼料となる穀類(特にトウモロコシ)の価格が下降しているからで、この背景には米国政府による助成があるわけです。
「ファームビル:農場の生産と価格を規制する法令」と呼ばれる、よく知られた法令がありますが、この恩恵を受けているのは既述の加工食品会社(Eg. ケロッグ、クラフトフーズなど)で異性化糖は米国内の穀類の需要の半数をも占めるのです。



こういった構造的な仕組みをみたうえで、松井さんは「餌付けされる社会的弱者」として深刻にその実態を描いていきます。
たとえばこれは僕の実体験とも符号するものなのですが、アメリカの学校給食におけるピザの頻度の多さ。(日本人にはにわかに信じがたいことですが、アメリカではピザは野菜を含むため、バランスの取れた食事として認識されるのです)
「スクールランチ法」というものがあります。これは給食における野菜の割合を規定した法律ですが、企業の激しいロビー活動に遭い、トマトソースが「野菜」としてカウントされることになってしまったというのです。
参考:The Washington Post: No, Congress did not declare pizza a vegetable
映画『フード・インク』では太りすぎて歩けない鶏が話題になっていましたが、人間にとっても問題は同じなのです。

実態を知れば知るほど馬鹿げているとしか思えない施策の裏には松井さんがいうところの「私設帝国」がロビー活動を通して暗躍しているのです。
実はロビー活動の仔細な内訳や繋がりはOpenSecrets.orgというサイトなどに分かりやすい形でまとめられているとのこと。
ただし、このような論理をまず知らない、というのが第一の関門なわけです。(話は微妙に逸れますが、参考までに先月書いた『情報生存学』参照)
例えば、米国では全州で遺伝子組み換え食品の表示義務がありません。
これはひとえに巨大な財源に裏打ちされた私設帝国が巨額の予算を投じて、啓蒙活動を押さえ込んだり、反キャンペーンを実行するからです。
法律や政治、正義の砦であるはずの領域までもが私設帝国の財布に牛耳られているのです。
最近の例では、カリフォルニア州で始めて立法が成立するかとの希望がありましたは、モンサント社の激しいロビー活動の前に、潰されていまいました。


立法過程を牛耳る私設帝国の動きはある意味でマクロなものですが、では実際に学校給食で出される食べ物の中身はどうなっているのかというミクロな問題にも数多くの由々しき問題があるのです。
松井さんが取り上げているのは「ピンクスライム事件」。
ピンクスライムとはアメリカで2012年3月頃まで大量に使われていた「LFTB(Lean Finely Textured Beef:赤身のきめ細かい牛肉」と呼ばれる加工肉で、これは牛肉を切り分ける行程で除去された「クズ肉」から遠心分離で脂肪を取り除き、雑菌の繁殖を抑えるためアンモニア水溶液で洗浄したもののことを言います。
この加工肉は俗称で「ピンクスライム」と呼ばれるのです。
長年、注目されることのなかったこの問題がなぜ今になって問題視されるようになったかというと、料理研究家であるジェイミー・オリバーが「食品革命」(Food Revolution)としてあるテレビ番組の中で、実際にピンクスライムを洗濯機やアンモニア水溶液を使ったデモンストレーションを聴衆の前で行ったことが話題を作りました。
この行程は非常に酷い。その映像は今もユーチューブでみることができます。



このように「食」をも司るようになった帝国については一章分を割いて4章で取り上げられています。
タイソン・フーズやカーギルなどはこの問題を追えば追うほど出会う企業の筆頭で、成長ホルモンを投与されて異常な早さで発育するブロイラーはもはや気味が悪いですが、家禽に限らず大規模農場化(フィールドロット)で大量生産される家畜牛も多くの問題が指摘されています。


こうした牛には濃厚飼料と呼ばれるトウモロコシ、大麦、小麦、米などの穀類の種部、また大豆や油かすなどを使用して作られた極めて高カロリーな飼料に+アルファで成長ホルモンが混ぜ込まれたものが餌として与えられ、こうして太らされた牛たちは消費者好みの脂肪分をたっぷりと含んだ、柔らかい肉へと最適化されていくというのです。

とまあ、ここまでは「食」の話を中心に進めてしまったわけですが、松井さんは「私設帝国」が社会のあらゆる領域を侵犯し始めていることを資料を適宜使用しながら説明しています。
これからは超巨大企業の中枢に勤務するごく一部の層が高い所得を維持し、大多数の凡庸な人々は、彼等が構築したシステムの中で低賃金で使われる時代になっていく。
勝者総取り(Winner Takes All)の様相を呈している現代の社会で、じゃあどうすればいいの?というのが10章の主題です。 
「創造力」の重要性をとりわけ主張していて、これは僕も同意なのですが、ここではより根本的というか即時的なものを指摘しておきます。
松井さん自身もこの本で体現なされているように、まずは外国語(英語、中国語はよく言われるようにもはや当たり前のツール、前提条件となっています)
ビジネスコミュニケーションのツールとしてはもちろん、情報へのアクセスが日本語と英語ではまったく違ってくると。


ウィキペディアで同じページをみても、英語と日本語では情報量の豊穣さが一目瞭然で違いますよね。
情報量が多いということは、相対的に質の良い情報が埋まっている可能性も高いということです。「玉石混交」で石ももちろん多くなるが、玉も同じだけ多くなるのではないかということ。
いくら翻訳があるといっても、未だ自動翻訳の精度はぬかりないものとは言い難いし、英書にしても翻訳までには必ずラグが発生してしまう。その間に置いて行かれる。
アカデミズムでも同じ事が言えます。どれだけ国内の学会で評価されていようが、ワールドワイドにみたらまったく見向きもされないわけです。
これってすごく勿体無いことだと思う。
よく言われるように「英語はツール以上でも以下でもない」でも、自分が唯一無二の"ナニカ"を持っている時、それを伝える、発信するための"ツール"がないということは、ただそれを自分の中に「死蔵」させ、それを「昇華」させるための手段を持たないということにほかならない。

あとは、超高齢化社会や社会保障制度の崩壊など、問題が山積している日本にもはや積極的に住まう理由がないというのは高所得者層や知識階級の人の中でちらほら聞く議論ですが、データを引くとこれはすでにその層の人たちの間では確固たるものとして、実行の移されているようです。


僕らの知らない間に社会はむごむごと動いているということ。
中間層が没落していく中で、低階層はより絞られていき身動きがとれなくなってくる、上階層はスムーズにしたたかに移動を続け、あらたなるターゲットに照準していく。

最後に松井さんが列挙する「私設帝国」の条件と特徴をそれぞれ見ておこうと思います。

【3つの条件】
ビジネスの在り方を変えてしまう
Eg. iTunes、IKEAの組み立て式家具、マックのセルフサービス
顧客を「餌付け」する強力な仕組みを持つ
Eg. Googleの検索サービス、スマートフォン
業界の食物連鎖の頂点に君臨し、巨大な影響力を持つ
Eg. IT業界:Google、Apple 石油:エクソンモービル

【機能的な特徴】
得意分野への集中
反面教師:ソニー、パナソニック 
アップル:消費者向けのエレクトロニクス、マクドナルド:ハンバーグ、エクソンモービル:石油と天然ガス、IKEA:組み立て家具、ウォルマート:小売り 
②小さな本社機能 ・徹底した外部委託 
Eg. アップル:フォックスコン、マクドナルド:タイソン・フーズ、 ストラテジー、マーケティング 
③世界中から「仕組みが創れる」人材を獲得 
④本社で「仕組み」を創り、それを世界中に展開 
⑤最適な土地で最適な業務を遂行 Cf. オフショアリング Eg. フィリピンのコールセンター、ルーマニア 社内の徹底した自動化:複雑なトラッキングシステム