2011年7月25日月曜日

どうして政治と向き合っていくか

2010年から2011年に移ろうとしていたとき、僕はオハイオ州の小さな村にいました。
来たる新年に足を踏み入れる前に自分自身の想い・気持ちを整理したかったのです。
そこで猛烈な勢いで文字を書きなぐりました。
その時のブログがコレです。当時はまだアメブロでブログを書いていました。
6月にあったゼミのプレゼン合宿では、これを発表しました。
加筆・推敲した内容をコチラに掲載します。

【アウトライン】
Ⅰ. 序論
政治を見つめる《知の巨人たちからヒントを得ながら》

Ⅱ大学生としての自分
A. 学問の選択
1. 「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」
B. マスターサイエンスとしての政治
2. 「政治の本質は他者との活動にある」
3. 歴史の終焉

Ⅲ. 人生を歩んでいく自分
B. 政治的動物、『人間』
1. 「万人の万人に対する闘争」
2. アイデンティティ
C. 横たわる不均衡
1. 国際政治におけるゼロサムゲーム
2. コスモポリタニズム

Ⅳ. 結論
政治≒酸素

クッソ長いので、飛ばし飛ばしにでも読んでみてください。
途中、途中で言及した文献を挿入しておきます。
また、知の巨人は登場するたび、Wikipediaへのリンクを貼ってあります。活用してみてください。


【以下本文】
   2010年が終わろうとしていた夜、12月31日。僕はオハイオ州にある小さな町 にいました。明確な理由はないのですが、突然思い立って、20歳の自分が何を「射程」に捉えているのか、また、自らの内に以前からバラバラに介在していた曖昧な気持ちや考えを掴んで、クリアな形にして書き残しておこうと思い立ちました。義務感というか、この作業を経ないことには2011年に足を踏み入れることさえできないのでないかと感じるくらいの強い思いに駆られ、日記というかブログに筆を走らせたのでした。 つい先日、それをみて自分の方向性がその夜からブレてないことを再認識できた嬉しさと同時に、これをプレゼンテーションとしてシェアすることでまた新たな知見を得られ ることができたら面白くなるのではないかと思い、この発表に至っています。このプレゼンテーションでは、そのブログに基づいた内容で進めていきたいと思います。


   大枠に分けると、「大学生としての自分」と「人生を歩んでいく自分」という二種類の観点から「政治」を見つめた内容になっています。その節々で知の巨人たちからのヒントを借りています。その都度このiPadで人物画など示しながら進めていきたいと思います。(※実際のプレゼンではiPadを使用)


   大学4年間という決して短くない時間は後の人生に大きな大きな影響を与えます。ヴァラエティー豊かな学問分野から何を学ぶのか、その選択は決して蔑ろにされるべきではないと思います。自分が時間をかけて学んでいることの意義、それが将来の自分にとってどんな意味をもたらすのか。それと向き合っていく第一歩をここから踏み出したいと思います。単位を落とさない程度に勉強しておけばとりあえずは安泰、就職もどうにかなるだろう。マジョリティの学生がそう考えているだろうし、自分もそんな気はします。ただ、自分は別に就職、世間的に一流企業と呼ばれるような会社に入るために時間を削りながら勉強しているわけではありません。人間としての知的欲求を満たすにとどまらず、もっと新しいことを知りたい、それを元にもっともっと考えたい。「考えること」を考えたい。いつか死にゆくのに絶えず考え続けていくことの意味を考えたい。だから思考を止めないのです。これは、自分にとっては旅にでる時の気持ちと類似 しているような気がします。目にしたことのない景色を見てみたい、新しい人々に出会いたい。自分に内在するパースペクティブを掘り起こしたい。


   勉強をするときはいつもソフトバンク社長、孫さんの言葉をイメージしています。
「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」 
「脳がちぎれることも、ケツから火がでることもないのだから」


ここからは「政治」に話を移したいと思います。僕を含め、ここにいる多くの人 が「政治」を学んでいます。正直、高校生の時なんて自分が何を勉強したいのかなんて、皆目見当がついていませんでした。なんとなく漠然と興味のある分野を絞ってみて (例えば、英語が得意なら無作為に「国際」と名のつく学部を抽出してみたり)、受験する人が周りにも大勢いました。当時は「政治」そのものに対する知識は(未だにですが)浅薄で明確なヴィジョンなど持っていませんでした。ただ、学びを進めるうちにな んとなくその概要がみえてきたような気がするのです。それと同時にこの分野を選んでよかったという確信も膨らんできています。

宇宙は、世界は、国は、コミュニティは「政治」がなければカオスに陥ってしまいます。秩序をもたらすのが「政治」です。ルールがないと殺人や窃盗をはじめとした不正を治める手段がない、フィジカル的に強靭な者が理不尽に権威をひけらかし、「正義」が達成されることは困難となります。そうゆう意味で法を施行するためにもまずは 「政治」が必要なのです。「政治」が整備されてはじめて世界が成り立つとすれば、他のすべての学問も「政治」がまずは成り立たない事には開始されることさえないのです。アリストテレス先生が政治を「マスターサイエンス」と呼称したのも、それを意味してでしょう。政治哲学者のハンナ・アーレント先生に言わせると、「政治の本質は他者との活動」であるそうです。この言葉には大いに賛同します。





人間はひとりで生きて行くことができません。生まれてから、死ぬまでずっと他者との関わりの中で自己を規定していきます。世界で生きて行くからには、他者との関わっていかなくてはならないし、相互扶助していくことで人生を実りあるものに拵えていくのです。ところが人間は程度の差こそあれ、本能的に自己の利益を最優先にする性向があり、個人の本質はエゴイズムといっても過言ではないかもしれません。そこに 「政治」がなければアナーキーを創出してしまうのです。自分のテリトリーを守るため、生きるために略奪を繰り返すのです。例えば、家族や恋人が24時間危険に晒されていたら眠ることさえままらないでしょう。

古来から人類は真の「政治」を構築することに努めてきました。「生活の安寧」は縄文時代よりももっと前からの人類の中心命題であり続けました。試行錯誤を繰り返しながら。ちょっとづつ付け足し、付け足し、時の賢人たちが知恵を絞りながら理想の政治を形作ることに心血を注いできました。時には思想の違いや政治制度の違いが大戦を巻き起こすとこさえありました。それは現代に至った今でさえも。冷戦がその良い例です。冷戦の終結が直接、資本主義の勝利を意味するのかを判断するのはにわかに時期尚早な思いが残りますが。そして今、私たちは「民主主義」という政治制度の元、日々の暮らしを営んでいます。フランシス・フクヤマ先生は民主主義に至った現代を「歴史の終わり」と宣言しました。これ以上の社会制度の発展はないと断言しながら。これが全世界に普及すれば平和は達成されると主張しながら。自分自身はフクヤマ先生には半分賛成半分反対の心境です。民主主義自体に半信半疑で絶対の信用をおけるような完璧な代物ではないと感じるからです。一見、とても魅力的ですが、内に抱える脆弱性も反面目立つからです。ヘーゲル先生が言うように弁証法的な視点が民主主義国家の国民に共有されていないことには、マイノリティの権利が抑圧され続け、容易に衆愚政治に変換されうるきらいがあります。ポピュリズムにも弱いです。





デモクラシーを標榜する国の代表、アメリカに目を向けてみます。人々が思う以 上に社会に蔓延する経済格差が深刻化しています。それはジョン・ロールズ先生が列挙する原則が守られていないからではないでしょうか。特に彼が第二原理で述べている 「格差原理」。不平等が最も不遇な立場にいる人の利益を最大化するという原則。



ここからはもうすこし根源的な問題、人生を歩んでいくうえで向き合い続けていかなければならない様々なことがらを考察していきたいと思います。私たちは犬や猿や象と同じように動物です。だけど特別な動物です。アリストテレス先生は人間を政治的動物として、他の動物と峻別しました。「自足して共同の必要のないものは神であり、 共同できないものは野獣である」と。人間の知能の高さは他の生物と比になりません。 その高度に発達した脳をもって数々の概念や制度を生み出してきました。「政治」こそが人間を「特別」とたらしめる要因と考えてやまないです。政治を持たない他の動物達は野生、自然状態の中でサバイバルのための闘争を日々繰り広げる。そこに「安寧」は 存在しません。それを「万人の万人に対する闘争」として指摘したのがトマス・ホッブズ先生です。社会契約を通して、権力をリヴァイアサンに委譲する代わりに「安心」を得ること可能にしたのです。
(※「社会契約」や「リヴァイアサン」といった基本用語の説明・確認はここでは割愛します。Wikipedia見れば、一発なので確認してみてください。)



そして、ジョン・ロック先生はそのために政府が必要だと考えました。従来までの王権神授説を否定して、国民に社会契約の概念を説いたのです。ただ、政府の暴利の可能性を認識していたし、政教分離を進めるなど現実主義的な側面も持ちあわせていました。これが後世のモンテスキュー先生の三権分立論に受け継がれることになるのです。人間だって未だに内戦を繰り返しているじゃないかと指摘する人もいるかもしれない。グルジア、スーダン、ソマリア、枚挙にいとまがなく世界各地で。それは他ならず、「政治」の未発達、未熟さに起因しているのではないでしょうか。





サミュエル・ハンティントン先生が言うように「宗教」や「文明」の衝突に起因すると主張する学者の方々も多くいます。極度に複雑度を増した世界のどの局面を切り取るかで見え方は随分と異なるし、一概に正解を断定することはあまりにも危険です。 政治学は誤謬に満ちているからです。ただあくまでも世界の根幹をなす「政治」の乱れがある限り、「宗教」「文明」をはじめとする諸々の副次的なファクターも安定しないのは明らかです。



政治は僕らがこのゼミで学んでいるアイデンティティとも密接に関係があります。以前、「人は国籍から逃れることができるのか」について熟考していたことがありました。生まれた時点で日本人。眼に見える選択権をあたえられるわけでもなく、どうやったらこれを放棄できるのでしょうか。たとえば無人島で生まれ育ったらどうなるでしょうか。ストレンジャーが島に入ってきて、殺害したらどの法で裁かれるのでしょうか。基本的に日本人であったらその国が提供する様々なサービスや福祉を享受します。 例えば、警察機能などです。日本社会で生活を送る以上は、私は日本人ですという「暗黙の合意」がなされます。例えばスーパーで払う消費税を払っている時点で。合意がなされた時点でその国が施行する法を遵守することが強制され、違反すれば処罰を受けます。ただ無人島ではどうでしょうか。いつ合意形成がなされるでしょうか。シンプルに先祖や親の国籍が適用されれば事足るのでしょうか。それではアイデンティティ以前に 人間の尊厳的な権利を侵しているよな気がします。最近ではこのような、倫理的でリアルな問題が「正義」を基軸にサンデル教授を筆頭に注目を浴びています。



僕はこのゼミで世界の不均衡について考えていきたいと思っています。オリンピックの200m走をイメージしてみてください。様々な国から競技に参加しているランナーが銃声を合図に一気に駆け出します。極めて公平です。そこにはハンディキャップ もなければ不正もありません。フライングすれば仕切り直しされるし、ステロイドを使 用すれば資格が剥奪されます。これは極めてフェアーです。ただ現状の国際政治はどうでしょうか。アンフェアなレースが歴史的に繰り返されてきたのではないでしょうか。 範例を挙げると枚挙に暇がありませんが貿易がその一例です。輸出入体制にしても一 度、先進国がそのフレームワークを自分たちに有利なカタチで築くと、途上国は恒常的に搾取の対象になり続けます。誰かの豊かさは誰かの苦しみであり続けるのです。そう考えてみると国際政治はゼロサムゲームなのかもしれません。各国がパイの取り合い 繰り広げているのです。パイとは利得の取り分のことです。

簡単に説明してみます。競馬のシステムを頭に思い浮かべてみてください。人々が馬券を買う。そのお金が一カ所にプールされ、レースの結果に応じて、的中者に分配されます。一カ所に集まった「分配」をしているだけで、プールに貯まったパイ自体が増えることはありません。配当はオッズで調整されます。マクロ、マクロに考えるとその害悪を被っているのは他でもない個人、人間なのです。海外に足を運ぶたびに実感をすることになります。カンボジア、タイ、メキシコなどでも幾度と無くその現状を目の当たりにし、閉口してしまう場面も多々ありました。大学や会議室でいくら国際政治を大きな枠組で議論しても、辿れば個人なのです。彼らの苦しみは理解しようと思ってもできるわけがありません、実際にその境遇を味わうまでは。タイで深刻化する児童買春も臓器売買も、あらゆる負の産物の流れの水源を辿ってもどこにも行き着きません。歪んだ世界構造そのものが不均衡に満ちているうちは。

なぜ見えない国境の向こう側で喘ぎ苦しむ人々を見過ごすことができるのでしょうか。それを許せてしまう理由は一体何なのでしょうか。ナショナリズムでしょうか、 アイデンティティでしょうか。真の答えを求め、心の内をえぐりだすのは大変に困難を伴います、精神をすり減らすことです。しかしながら、主体性を持ちながら苦悩し、痛みと向き合わないことには真の学びはないと思います。

「貧困」をどうにかしなくてはと声高に叫び、NGOなどを介して途上国にボランティアに行く学生が跡を絶ちません。それが悪いとは思わないし、何かの糸口になれば素晴らしいことだと思いますが、独りよがりに終わったり、根本的な解決につながることはなかなかないと思います。「政治」が変わらないことには、世界は変わらないのです。本当にそう思います。政治規範がグローバルかつドラマティックに変わり、パラダイムシフトを起こさない限りは。自分が標榜するのは限りなく理想論に近いのかもしれません。理想は世界がゼロサムゲームから抜け出すことです。エゴイズムを捨て、グ ローバルアイデンティティを共有することです。伝統的なリアリズムでは国ごとが自国の国益を最大化することが至上命題ですが、どうにかそこから抜けだしていけないものか。凝り固まった現実主義を崩せないものか。

カント先生が「永遠平和のために」でいうようなコスモポリタニズムのようなもの。世界市民としての自覚。隣人愛が世界の隅々まで伝わって人が人を愛して、世界が世界を愛せれば。功利主義つまり最大多数の最大幸福をベースに置きつつ、個人の権利の最大限の尊重。それは可能なのでしょうか。民主主義である以上は、多数決にならざるおえないのでしょうか。苦悩は続きますね。「海底二万マイル」の作者としても有名なフランスの小説家ジュール・ヴェルヌ先生の有名な名言があります。「人間が想像できることは、人間が実現できることだ」まずはこれを自分自身がとことん信じることから始まるのではないかと思っています。





最後にハーバード大学教授ジョセフ・ナイ先生が日米安保について述べた言葉を紹介したいと思います。「日米安保は酸素みたいなものだ。無くなって初めてその大切さに気づく。」これは政治そのものにあてはまるのではないでしょうか。酸素がなくては人は生きられない。そんな当たり前のこと、日々の生活でいちいち立ち止まって考えたりすることはほとんどないですが。政治がなくては生きていけないことに気づいてない人すらいるのが現状です。昨今の日本では政治不信が浸透して、政治に期待を寄せる人はごく少数となってしまいました。政治家の言葉がオオカミ少年に聞こえ、政治が諸悪の根源とまで見なされてしまっているのです。



そんな中で僕らが日々、政治やら哲学やら、なんだか難しい本とにらめっこして過ごすことにどれほどの意義があるでしょうか。正直「こーんなことやってて何になるんだろう」とか思うことは多々あるけど、スティーブ・ジョブズ先生は言われました。 「点と点の繋がりは予測できません。あとで振り返って、点の繋がりに気づくのです。 今やっていることがどこかに繋がると信じてください。その点がどこかに繋がると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても自信を持って歩き通せるからです。それが人生に違いをもたらします」自分は宇宙飛行士だろうが政治家だろうがプロ野球選手だろうがペット店員だろうがフリーターだろうが「正義」にコミットしていきたいと思っています。継続的な「正義」への粘り強いコミットが何かに繋がり、僕が生まれてきた意味を見出すことができると信じて。



長い文章を拝読、ありがとうございます。
他にもいくつかゼミで発表したモノがあるので、いつかのブログで紹介したいと思います。

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