2012年9月6日木曜日

読書『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』マーサ・ヌスバウム著


ひさびさに読んだ本でも振り返ってみたいと思います。
マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』。

ロールズの『正義論』、『政治的リベラリズム』、『万民の法』を中心テクストにそれらで呈示された諸概念(「無知のヴェール」や「格差原理」など)を批判的に捉え直し、むしろそれを脱構築することで、これまでの伝統的な契約主義者の前提条件から排除されていた主体(障碍者・外国人・動物)をも包摂するような正義論を構築することが本著の主題。

これまでの社会契約主義者たちは、正義の中心主体は「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定してきた。
ただ、それで本当の正義は達成されうるのか、と疑問を呈したのが筆者の問い。

社会契約の伝統は「社会の基本的諸原理は誰によって設計されるのか」と「社会の基本的諸原理は誰のために設計されるのか」という、原理的に異なる二つの問題を融合している。
社会契約およびその目的に関する構想を全体的に変えない限り、別個独立の想定は、平等の想定と同様に、容易には変更しえない。それというのも、この構想が描いている当事者はそれぞれ、相互協働の利益を得るために自らの特権の一部を犠牲にすることに意欲的な、各々が生産的な個人だからである。
そして批判対象のロールズの正義論の尺度として用いられているのは「富」と「所得」である。これでは上記のような主体は排除されていしまうので、筆者が新しいアプローチとして提唱するのが「可能力アプローチ」と呼ばれるもので、具体的なリストとして以下の10点が挙げられている。


①生命
②身体の健康
③身体の不可侵性
④感覚・想像力・思考力
⑤感情
⑥実践理性
⑦連帯
⑧ほかの種との共生
⑨遊び
⑩自分の環境の管理
可能力アプローチが契約主義よりも正義の問題に対して柔軟に接しうるのは、それが結果指向の理論であって手続き的な理論ではないことを理由のひとつとしている。
障碍者が契約理論の前提から排除されてしまっていることを「契約理論の不快な特徴」と筆者は切り捨てている。
人々はが他者と集って基本的な政治原理のために契約するのは、ある特定の諸状況、つまり相互便益が期待でき、かつ全員が協働から利益を得る側にある状況においてのみである。通常ではない費用がかかる人々や、集団の福利への貢献度がたいていの人々よりもはるかに低いと見込まれる人々を初期状況に含めることは、この理論全体のロジックに反することになるだろう。もし人々が相互有利性のために協働的な制度を編成しているならば、協働を通じた利得があると期待しうる相手と集いたいだろうし、社会的生産にほとんど何も寄与しないにもかかわらず、例外的で高額な費用がかかる配慮を要求し社会の福利レヴェルを引き下げる相手とは、集いたくないだろう。
また、リストは多元主義と寛容とも分かちがたく結びついており、以下の点も筆者は肉付けしている。
①リストは可変的で継続的な修正と再考を免れないものだと理解されている
②リストの項目は、まさに各国における市民たちおよび議会と裁判所による明確化や熟議といった活動の余地を残すために、やや抽象的で一般的な仕方で定められている
③リストは独立の「不完全な道徳的構想」を表すものであり、政治目的のためだけに導入されている
④適切な政治目標は可能力であって機能ではないことを強く主張するならば、国際領域においても多元主義は保護される
⑤言論の自由、結社の自由、良心の自由という、多元主義を保護する重要な自由が、リストの重要な項目になっている
⑥可能力アプローチは、正当化の問題と導入の問題を厳格に区別する
とりわけ注目しておきたいのが、可能力アプローチと「教育」の関係性であり、筆者もその重要性を特筆している。
あらゆる人間の可能力の鍵は教育である。また教育は世界でもっとも不平等に分配されている資源のひとつである。民主主義にとって、人生の享受にとって、自国内部の平等および社会的流動性にとって、そして国境を越える実効的な政治活動にとって、教育よりも重要なものはない。教育は役立つ専門技能を与えてくれるものとしてのみならず、同時にもっと重要なこととして、人間を適切な情報、批判的思考、そして想像力を通じた全般的にエンパワーメントするものとしても、理解されるべきである。
またミルやベンサムなどが支持する「功利主義」もこのアプローチとは相容れないものとして批判対象に含まれる。
功利主義は共同体をひとつの超人格として扱うことを通じて、またこの単一構造内におけるあらゆる満足は代替可能なものであると見なすことを通じて、諸個人と彼らの生が根本的に別個であることを無視しており、それらを「権利と義務がそれに従って割り当てられることになる数多くの系列」として扱っている。
ベイツやポッゲのグローバル・ジャスティス論にも言及しており、「グローバルな構造のための10の原理」 として以下のものを列挙している。
①責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。
②国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。
③豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。
④多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。
⑤グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国および発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。
⑥薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。
⑦すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人びとの諸問題に集中しなければならない。
⑧病人、老人、子ども、障碍者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。
⑨家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。
⑩すべての制度と個人は、不遇な人びとをエンパワーメントするさいの鍵として、教育を支持する責任を負う。
結論は以下のよう。
相互有利性のみを接合剤とするリベラルな社会の像には特異な歴史的起源があり、またそのような像のみが有効であったわけではないということを、私は示してきた。
想像力に富んだ勇気がなければ、こうした三つの領域が突きつけるとてつもなく大きな困難を前に、公衆の皮肉と絶望とが残るだろう。だが、可能であるかもしれないことに関するいくつかの新しい像があれば、これらのフロンティアに少なくとも接近することができるのであり、また哲学の理論がこれまで頻繁に承認してきた世界よりもはるかに複雑で相互依存的な世界における正義は何でありうるのかについて、創造的に思考することができる。

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