2012年11月26日月曜日

読書『ナショナリズムの歴史と現在』エリック・ホブズボーム著


卒論を書き進めるなかで、今一度ナショナリズムの歴史的経過の系譜をちょっと整理したいと思い手にとった一冊。
ただ、予想していたよりも、思想・イデオロギー視点から語られること多かったです。
筆者のホブズボームがマルクス主義史家ということもあるんですが。

勝利したブルジョワ自由主義の時代、すなわち1830~1880年にかけて、当時のイデオローグたちに考えられていたネイションやネイションーステートについての概念は二つの点で自由主義イデオロギーの一部を成した。 
①ネイションの発展は、疑いなく人類の進化あるいは進歩の一段階、つまり家族から種族へ、地域へ、ネイションへ、そして最終的には未来の統一された世界へと、小集団から大集団へ至る過程の一段階だった。 
Cf. G・ロウズ・ディッキンソン「人類の幼少期に属するナショナリティの障壁は、科学と芸術という光の中で溶解し、分解してしまうだろう」 
⇒かくして自由主義的イデオロギーの見方によれば、ネイションとは、19世紀半ばに進化の過程が到達した段階だったのである。 
⇒より小さな集団や人民がそれ以上の規模のものに同化されるということ 
Cf. フランス革命は「規模の原則」を認めなかった

ナショナリズムの1789年(フランス革命)起源説として
ヨーロッパの発展が一定の水準に達するやいなや、それまで何世紀にもわたって静かに成熟をとげてきた様々な人民の言語的・文化的共同体は、人民が受動的存在として生きていた世界の中から次第にその明確な姿を現すようになる。彼らは、自分たちのことを歴史的運命を背負った一つの力として意識するようになる。彼らは、手に入れることのできる最高の権力行使の道具として、国家を自分たちの思い通りに動かそうとするとともに、政治的自決を獲得しようとする。政治的観念としてのネイションの誕生日にしてこのような新しい意識が生まれた日、それは1789年、つまりフランス革命の年である。 
反帝国主義運動の三つの類型
①教育を受けた現地のエリートがヨーロッパの「民族自決」をまねるケース(たとえばインド) 
②反西欧としての排外主義が大衆に広まっているケース(大衆的排外主義はどんな目的にも役立つもので、広く利用された。たとえば中国の場合に顕著であった) 
③勇敢な部族が当然の怒りに燃えているケース(たとえばモロッコやアラビアの砂漠地帯) 
最後の締めくくりがカッコ良かった
ヘーゲルは、叡智を運ぶミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ、と言った。今やネイションとナショナリズムの周りをミネルヴァのフクロウが旋回しつつあるが、これは願ってもない前触れである。 

Youtubeが切り拓いた世界とONE OK ROCK


ウェブの世界に国境がないように(中国など未だに規制線が張られている国はありますが)、Youtubeにもボーダーはありません。

ときに暇つぶしのお供として、時に作業のバックミュージックとして、普段Youtubeをひらかない日はほとんどないくらいに、日常に根を下ろしる気がします。

なによりも、世界が前より、もっとフラットになるのにYoutubeが貢献したんじゃないかと思うんです。

以前まではテレビやボーリング場やら、街中の巨大スクリーンに映し出されるアーティストのPVに釘付けになっていました。
なかなかその他の場所でアクセスがなかったので。
HMVへ行ったり、スペースシャワーTVにかじりついたり、能動的な努力なくしてPVに辿りつけなかったんです。

でも、今ではYoutubeを開けば、国内外のアーティストの活躍が一目瞭然。

コピーライトの問題を筆頭に問題も噴出しているわけですが、ぼくは世界をよりボーダーレスにしたという点が一番大きいのではないかと思っています。

一言でいうなら文化のるつぼ。
日本はその恩恵をかなり受けていると思います。
ポップ・ミュージック、アニメ、映画など、文化への扉を開き、実際に日本へと足を運んでくれるきっかけ。
江南スタイルがここまでのブームになるのは、言わずもがなYoutubeがあってこそです。

Youtubeにおいて基本的な公用語は英語です。
ぼくは最近、友達の影響でOne Ok Rockにハマっていて、PVやらLIVE映像やらを見漁っていたんですが、コメント欄が、それはもうインターナショナルで驚いたんです。

世界各地のいろんな言語が渾然一体となっていて、それぞれが共感を訴えていて。
「言葉はわからないけど、歌を聴いていて自然と涙が溢れてきた」
「世界ツアーするときは、必ず(自分の)国へ来てほしい」

インターネットのアクセスさえあれば、文化のアリーナ(Youtube)へ行ける。
多様な価値観が渦を巻く中で、世界の音に触れられる。

権利の問題はもちろんですが、それよりも認知リーチを拡げる機能が勝るのではないかと本気で思っています。
それでiTunesで結局、購買につながるし。

それにしてもONE OK ROCKの評価は海外でうなぎ登り。

2012年11月25日日曜日

ジャパンカップ2012:ジェンティルドンナ、オラオラ競馬


3歳牝馬でこの強さ。圧巻。

ぼくが昨日ツイッターにあげた予想。

◎オルフェーヴル
◯ルーラーシップ
▲ソレミア
△ジャッカルベリー
☓フェノーメノ
☆ジャガーメイル

ジェンティル切りの、三連単フォーメーション勝負。
これが裏目に出て、オルフェ2着、ルーラー3着という残念な結果。
ルーラーは出遅れてもなお、馬券に絡んできます。もったいないレースが続いています。

岡部さんも言ってましたが、やはり近年の外国馬の苦戦ぶりをみてると、日本の高速馬場に対応できないというのが要因として大きいんでしょうね。

@shin_channelさんがツイッターで引き合いに出していた、エアグルーヴとバブルガムフェローの叩き合いはコチラ。


来年の凱旋門賞、オルフェ、ジェンティルで雪辱に挑んでほしいです。

読書『電通とリクルート』山本直人著


山本先生の本を。
タイトル的に電通とリクルートの設立から現在までの発展史を予想していたのですが、それだけに留まらず、大衆から分衆への移行など、社会における情報の動態変化までかなり射程が広かったように思いました。
(それに関しては『「自分ごと」だと人は動く』が詳しいです)
広告を少しかじったことのある人にとってはかなり刺激的な内容なんじゃないでしょうか。
当然、メディアの変遷をたどると、どうしても「電通」や「リクルート」が浮かび上がってきます。
この二社を基軸にこの分野をたどると、どういった経路でメディアが変遷をたどってきたかも必然的にわかるということです。

発散志向型の電通と収束志向型のリクルート二者の対比を当意即妙に言い当てた比喩がとっても面白く感じました。

電通をはじめとする大手広告代理店の収益は、マス・メディアとの長い歴史の中で育まれた関係を維持することでもたらされてきた。広告ビジネスには、外部からの印象以上に、きわめて「農耕的」な風土がある。それに比して、リクルートは次々とメディア自体を開発して、クライアントを開拓してきた。対比的にいえば、明らかに「狩猟的」である。 
リクルートが毛細管の拡張と維持を最大の経営資産としていったのに対して、電通は元栓を押さえることで収益の基盤を確立した。

おそらく山本先生自体が代理店出身ということもあって、実際に業界で積んだ経験を持っているからこそ、言説に客観性を感じました。

電通の正体』を読んだ時のような、気怠さなどなく、知的欲求に導引されて一気に読み進められました。
博報堂スタイル』を読んだ時とは、また違った爽快な読了感。
電通、リクルートに関係なく、広告に興味があり、業界を知りたいという方にもお薦めな一冊。

2012年11月23日金曜日

ドラえもん 最終回「タイムパラドックス」


友達からこの前、LINEで回ってきたもの。
ちょっと時間があってみてみたら、なかなか良質だったので。

Curse of Mine/ the HIATUS <和訳>


1、2、3、4
ズキ、ズキ、頭痛のように痛む
ヒリ、ヒリ、ヒリ、ヒリ、甘ったるい酸みたいに焼ける
マインド、コトバ、アクション、コントロールしろ
アクションはリアクションを引き起こす
反応を引き出す
引っ張りだす

今となっては、大混乱の中にいる
信じるのをやめた
俺らがどうだなんて、誰も気にしない
一つへ落ちていく
運命に唾を吐きかけてやるんだ
ゲームをするだけじゃ足りなかったんだ

6、7、8、9
ズキ、ズキ、切り傷みたく痛む
ボウ、ボウ、ボウ、ボウ、紙の王冠みたく燃え盛る
恐怖、激情、強欲、コントロールしろ
強欲は膨張していく
肥大化するんだ




もとの英詞はコチラ
ウェブ上で聴けるのは、コレだけっぽいすね。今は。
ツイッターの和訳BOTはコチラ

【今まで全訳したハイエイタスのもの】
Deerhounds
Souls

2012年11月21日水曜日

読書『やめないよ』三浦知良著


プレイヤーとしてのカズももちろん、監督やフロントサイド、そして何よりもサッカー少年として熱くサッカーを語った本。
カズのたゆまぬ徹底したトレーニングへの姿勢は広く知られている通りで、この本でもそれを裏付ける事柄が多く書いてありました。
上に書いたように、一選手を越えてサッカーと向き合っているんだなあと思う箇所も多数。

サッカー選手の年齢を考えるとき、ちょうど2倍にすれば会社員の人たちと同じくらいのイメージになる気がする。つまり、10代半ばの選手は、企業でいえば20代から30代で、いろいろな経験を積んで成長する時期。選手がピークを迎える20代は、サラリーマンなら40歳を過ぎて脂が乗る働き盛りという具合だ。

この既述を読んで、ぼくはダルビッシュ選手がけっこう前にツイッターでファンと言い合いをしていたことを思い出しました。
野球界を代弁してということだったのでしょう。
選手が契約の判を押すのを渋ってるに対し、ファンが「何千万、何億もらってて、お前は守銭奴か」といった主旨のことを言っていたのだと記憶してます。
野球選手に限らず、アスリートにとってセカンドキャリアは死活問題で、いかに現役時代にこだわるかは僕たちのような一般人には理解できない領域なんだということだと思います。
カズさんも本を通じて、システムであったり、お金の流通の仕方であったりを憂慮して、変革を模索すべきだと書いてありました。

そのほかには、もう単純にワクワクする話が散りばめられてます。
ブラジル時代、遠征はバスで20時間かかるのはザラだった。
行きはハリウッド映画を、帰りはポルノを。でも当時の僕には刺激が強すぎた。
などなど

あとはイチロー選手がカズさんを「キング」と呼ぶこと。謙遜してましたが。

今でもワールドカップ前の日本代表の発表のときに、ドキドキすると聞いて、なんだか胸が熱くなりました。
先日のフットサルで日の丸を背負った時も、おそらく誰よりも万感の気持ちを持っていたんじゃないでしょうか。



ぼくはこのゴール、テレビで生で見ていたんですが、人生で鳥肌立った瞬間ランキング10位には入りますね。笑
WBCのいちロー選手の逆転ヒット並みのスポーツの名シーン。

長谷部選手、長友選手、川島選手と著書を読んできましたが、もう比較とかそうゆうレベルじゃないですね。
経験の濃密さが違いすぎる。こんな経験できたら生まれてきた価値あると声を大にして言える。ゴリ押しの一冊です。


【以前、横浜FCの試合観戦したときのもの】
現代サッカーにおけるキングカズのシザース

2012年11月19日月曜日

読書『想像の共同体ーナショナリズムの起源と流行』ベネディクト・アンダーソン著


増補版の前のものと合わせると、大学に入ってから三度読んでます。
今回改めて読み直したのは、卒論の骨子となる本だからです。
この本の内容をきっちり咀嚼できてないと、卒論自体の骨組みが脆くなってしまうきらいがあったので。

メモだけはコチラにとってますので。もし気になれば。

Living Dolls/ One Ok Rock <和訳>


最近、ONE OK ROCKにハマってます。
特にこの曲はさいきんのヘビーチューン。この曲、英語部分少ないですが、とりあえず。

ぼくたちは同じ世界に生きてるの?
ぼくときみ 答えはないけど
運命の出逢いさえ 誰かの決め事で

きみの心に触れることができたなら
きみがどう感じるのか教えてあげるのに
すべて作られてる気がして
名もなき人 ぼく以外は
みんな同じ人形みたく見える

愛を知ることで現実がみえてきた気がする
生きる意味を側で手を握りかえす君が

錆びついてる世界に疑いを持つ自分がいたけど
きみがくれた答え
はじめてのこの気持ち
心の曇りはなぜ?

太陽が昇っても君は瞳を閉じたまま
この世で最後の涙をそっと流していたよ
君は操り人形じゃなくてぼくだけのものだったんだ
この温もりは目ではみえないよ

読書『挑戦する脳』茂木健一郎著


去年、バカンスでバハマへと向かう機内で自炊データで読んだ『ひらめきの導火線』以来、茂木さんの本を読みました。



とは言っても、毎朝「連続ツイート」をお目にかかっているので、取り立てて"ひさびさ"という感覚はないのですが。

本をひとつの文章でまとめるとすると、脳はオープンエンドであり、その無限の可能性を持ってして偶有性の海を泳ぎ続けること。
踊ることが、生きることの偶有性に対する、最も「強靭」な答えであり得る。
本の前半の方でサヴァンに関する記述がありました。 
「レインマン」のモデルとなったキム・ピークについて書かれていました。
ぼくがサヴァンと聞いて、真っ先に思い浮かべるのは『ぼくには数字が風景に見える』の著者ダニエル・タメットです。彼は12ヶ国語を操るマルチリンガルです。



「偶有性忌避症候群」や「アンチからオルタナティブへ」など普段から茂木さんがツイッターなどを通して主張されていることを改めて、まとまった論考として受け取ってみて、理系・文系にカテゴライズできないような遍歴を持ってる茂木さんだからからこそ、呈示できるに至ったマインドセットなのだと思いました。

一箇所だけ、とくに最近ぼくが考えていたこととリンクしている、且つとてもおもしろいと思ったので。

英語の論文を読むこと、書くこと、英語で議論することはできる。しかし、英語で、人々が面白いと思い、市場である程度の読者を獲得し、良い批評を得るような本を書くことのハードルは極めて高い。なぜ日本から、その独自の思想を英語で問うような動きがもっと出ないのか。やらないのではない。単純に、できないのだ。
 このフランクすぎるほどの露骨な諦念。
英語専用のツイッターアカウント、英語のブログなど英語で発信し続けてきた茂木さんならではの説得力があります。

村上春樹さんは数多くの翻訳で知られる他、若い頃からずっと英語で小説を読んできたと言っています。そして長年に渡って、海外に居住しています。
そんな彼でも、英語で小説を書くことは不可能だと言っています。
母国語(mother tongue)でない第二言語で情報を受容すること、小ぶりな発信をすることはできる。
ただ後発的に獲得した言語でもって、母国語と同じクオリティでまとまった著作活動することはよっぽどの天才でない限り無理だと言い切っています。

書籍の電子化が間断なく進み、流通に物理的な制約がますます取り払われていく中で、いっそう英語がマーケットで覇権を握っていくことになるのは容易に想像できることであるし、英語で発刊すればそれだけリーチヴォリュームが増幅することになる。
わかってはいる、けれど単純にできないんだ。とてつもない寂寞感。

TEDでの茂木さんの講演。


読書『イン ザ・ミソスープ』村上龍著


風邪でダウンして、ベッドから一歩も移動できなかったので本棚から目についた村上龍さんの『イン ザ・ミソスープ』をひさびさに読んでみることに。

日本社会(特に東京を中心とした都会)の底流にある得も言われぬ倦怠や頽廃はライトモチーフとして「限りなく透明に近いブルー」から通底しているような気がします。



これはいつ読んでもそうなのでしょうが、この時機に読んでみて想起したのが、先月起きた沖縄米兵による集団強姦事件。

本著で登場するカルシウム不足のアメリカ人・殺人鬼フランクとイメージが重なります。
米軍基地に関しても、村上龍作品では結構なウェートを占めるファクターだということが作品を読む度に思います。

人間だけが絶大なる「想像力」を手にした。
ただ、それは諸刃の剣であると。
ポジで働く場合は人間の叡智を築き、ノーベル賞や最新テクノロジーの発達を促す。
ネガで作用すれば、猟奇殺人や数多の凄絶な犯罪を生み出す。

掌の表と裏。
「想像力」を手に入れるということは、ある意味で悪魔との契約を交わすということなのかもしれません。

いかにして煩悩(BONNOU)を距離感を保っていくのか。

2012年11月17日土曜日

読書『準備する力ー夢を実現する逆算のマネジメント』川島永嗣著


ドヤ顔で有名な日本代表・守護神の川島永嗣選手の本。
サッカー選手のこの類の本を読むのは長友選手の『日本男児』以来。


ふたりともストイックなことで知られていて、たとえば長友選手は常に体脂肪率を5~6%で保ったり、川島選手は語学を5~6操るマルチリンガルだったり。

この本でも語学上達の秘訣だったり、身の丈に合ったお金の使い方だったり、かなり広範なジャンルの話を書いています。


リールセからスタンダール・リエージュにステップアップした川島選手ですが、次はぜひともセリエAに行ってほしいです。

2012年11月16日金曜日

読書『北回帰線』ヘンリー・ミラー著


郷愁(ノスタルジー)と倦怠(アンニュイ)が同居した都市空間パリ。
文脈づけられた個人。
紙面に殴りつけられるように唾棄された性描写。
小説でも、ポエムでも、エッセイでもない。
カオティックな哲学、貪り尽くされる欲情。
「性を神秘だとかなんとか思っているが、それが無だということを発見するわけだーただのブランクさ。そのなかにハーモニカやカレンダーを発見したらおもしろいだろうな。ところが、あすこには何もない... 全然何もない。いやらしいものだよ。おれは頭が狂いだしそうのなった... いいかね、そのあとで、おれがどうしたかわかるかね。早いとこ一発すませると、くるりと背を向けた。本当だよ。おれは本を取り上げて読んだのさ。書物からは、くだらぬ書物からでも何かを得ることができる... しかるに陰部は、こいつは、ただの時間の浪費にしかすぎないよ...」
日常に沈潜する暴力、諍い、セックス。意味をみいだそうとしても虱ほどの価値しかない。 
世界が破裂しても一向意に介さずー依然としてぼくはここでコンマやセミコロンをつけているだろう。おまけに残業手当までもらうこともあるのだ。というのは、大きな事件があると、どうしても最終の特別版にあるからである。世界が爆発し、最終版が印刷にまわされてしまうと、校正係は静かにコンマ、セミコロン、ハイフン、星印、少カッコ、大カッコ、ピリオッド、感嘆符等などを全部集めて、それを編集長の席の上方にある小さな箱に入れる。かくのごとくすべて規定されているのである(コム・サ・トラーテ・レグレ)....
練り上げられた世界。惰性を乗り越えていく。 

パリという街
ここでは、すべての境界は消え、世界は狂える屠殺場としてあらわれてくる。事実、世界はそうなのだ。千編一律の仕事は無限の彼方まで伸び、昇降口はぴたりと閉され、論理は放縦に走り、血なまぐさい肉きり庖丁が閃く。空気はつめたくよどんでいる。言語は黙示的になる。出口を示すものは、どこにもない。死以外は何も起こらない。盲目小路、そのどんづまりは絞首台である。 
永遠の都、パリ!ローマよりも永遠であり、ニネヴェよりも華麗である。まさに世界の臍だ。そこに向かって、盲目のどもりの白痴のごとく、人は四つん這いになって這い戻ってくる。また最後には大洋の真っ只中へ漂いゆくキルク栓のように、人はこの都で落ちつきも希望もなく、かたわらを通りすぎるコロンブスにも気付かずに、海の泡と海藻の中を漂う。この文明の揺籠は世界の腐乱せる下水渠である。悪臭を放つ子宮が肉と骨の血みどろの包みをかくす納骨堂である。
自己と世界の距離感。
もし人が自己の中心にあるあらゆるものを翻訳し、真に自己の経験せるもの、嘘いつわりなき自己の真実を書きしるすだけの勇気があるなら、そのときこそ世界はみじんに砕けるだろうとぼくは考える。
人間は異様な動物(フォーチ)や植物(ウベーナ)をつくっている。遠くから見れば、人間はとるにたらぬ何でもないものに見える。近よるにつれ、醜悪に、悪意にみちたものに見える。何物にもまして、彼らは十分な空間をもってとりかこまれている必要があるー時間よりも空間が必要なのだ。 

2012年11月15日木曜日

チートキャラとしてのズラタン・イブラヒモビッチ


時間のない方は、まずこちらの動画だけを。
全ゴールは次の動画を。イングランド相手にこの暴れっぷり、もはや「暴力」。笑


四点目は付言の必要なしとしても、三点目のエグさ、もうなんかこの手のズッコンバッコン・フリーキックは毎試合デフォになりつつあるような。
その他の点はボディバランス、フィジカルの強さが全面に出てますね。

ウイイレ2012をやる中で、チートキャラが三人浮かび上がって来ました。
メッシ、C・ロナウド、そしてイブラ。
最初の二人はまだしも、「イブラ、能力値つよすぎじゃね?」というのが、友達間の総意でしたが、ここ最近のイブラの暴れっぷりをみてると納得です。
PSGでも絶好調ですしね。化け物や。

2012年11月13日火曜日

メッシでもC・ロナウドでもなく、アザールだと思う


バロンドール。
次はメッシが(おそらく)取るにしても、それ以降かなり有望なのはアザールだと思う。
チェルシーの試合をみていても、ひとりだけ明らかに玉石のなかで突出している印象。
プレーのスピード感、クリエイティビティ、パス精度・アイディアどれをとっても一級品。
リーグアンで二年連続MVPを獲得し、鳴り物入りでチェルシーに加入しただけあります。
まだ21歳、これからの国際大会(ワールドカップやEUROなど)、ベルギーの台頭あると思います。

2012年11月12日月曜日

"Luck and Pluck" ジョジョ6話のエンディングがカッコ良すぎる



先月から放送開始された「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメ。
毎週金曜日の深夜TOKYO MXでやってます。


前回放送の6話、マンガでいうと2部。
いまさら「波紋」と言われると、少し笑ってしまいますが。

ツェペリが最後に言い残す
「これが運命なら、あるがまま受け入れよう」
カッコよすぎです。 

テーマ曲の「その血の運命」も秀逸すぎです。



あと、全然はなし違うんですが、最近みかける桃井かおりさんのこのCM、どう考えてもジョジョ立ちしてるようにしかみえないんですよね笑


読書『グアルディオラのサッカー哲学』フアン・カルロス・クベイロ著


バイトの休憩時間に読みました。

グアルディオラ(愛称ペップ)は選手時代にはクライフに見出された後、持ち前のインテリジェンスとエレガントなプレースタイルでバルサ・スペイン代表で活躍しました。

引退後はバルセロナのBチームの監督を務め、持ち前のリーダーシップ、カンテラからの生え抜きというバルセロナリズムの継承者としてAチームの監督に抜擢されます。

そんな彼の規範、戦術、人格、サッカー哲学に迫ったのが今著。

ペップは13歳のときに、バルセロナのカンテラに入団します。
そのときの彼の胸は心踊っていて、その感激ぶりが伝わってくるのが、その時に彼が母親に言った言葉です。
「母さん、これから毎朝起きる度に窓を開けて目に入るのが、このカンプ・ノウだよ」
ペップは就任当時、まだ40歳を迎えていないサッカー界ではかなりの若監督でした。
周囲は経験不足などを懸念しますが、就任初年度からそのような不安を払拭します。
クラブワールドカップを含む6冠を成し遂げるのです。 
彼の特徴のひとつは彼が無意識にしろ、有意識にしろ「ピグマリオン効果」を利用している点です。それは「仲間や他人に対して期待をかけ、力を引き出す」効果のことです
経験と知識は、時間とともに獲得することができる。しかし、物事に取り組む姿勢を劇的に変えることは不可能ではないが、簡単なことではない。それを行うには環境と強い意志が必要になる。
と、本著にパーソナリティ鍛錬の難しさを既述した点がありますが、これには100%同意です。
ペップはカンテラからバルサ一筋でそのキャリアを歩んで行きました。(後に海外クラブへの移籍もしますが、それらも監督としての素養を育むのに有益でした) 

彼の言葉で印象的だったものを二つだけ紹介したいと思います。
「サッカーは、机上で戦術論を語るよりも感情的なスポーツであり、非常に複雑である」
「サッカーで最も大切なのは、才能とそこに情熱があるかどうかだ」 
彼の今後の去就が大いに注目されます。

【参考】ともに5日前の記事です。
・「グアルディオラ氏、チェルシー指揮官就任を検討?
・「グアルディオラ氏の代理人がACミランと接触、伊紙報じる

ソーシャルメディアで位相転換が起こっているのかもしれない


ツイッター、フェイスブックをはじめとしたソーシャルメディアがわたしたちの生活に埋め込まれ、「当たり前」のものとなってから久しくなりました。
当初は乱立するメディアの使い分けが明確でなかったものの、今ではかなりの程度目的に沿った棲み分けがなされるようになりました。

つい今日TLで流れていた「mixiはメッセージを監視している?」など、mixiは凋落する一途で、嘲笑・disりの関連でしか目にならないほどになり、去年までは「地元の友達はまだ使っている」と周りでは言っていましたが、その"地元の友達"の大部分もフェイスブックに移行した印象をうけます。
(アメリカではフェイスブック離れが進行しているようですが...)

日本に焦点を当てて、少し話してみたいと思います。
ほぼすべてのクラスタでフェイスブック移行が完了して、ソーシャルメディアの一番基本的なプラットフォームとしての位置を確立した格好。
ぼくたちの若い世代に限定されず、ユーザー層が幅広いのも特徴かと。


と、小田嶋さんが今日言っていたことにぼくは半分同意です。
純粋にパーソナルなメモリーログとしてフェイスブックを利用している人が大半なのだとは思います。
一方でリア充アピール、それに白目剥いて発狂する、非リア発火装置のような様相も一方ではあるわけで。

ツイッターに関しては、(あくまでぼくの周りはということですが)アクティブユーザーは漸進的に減っている印象。でもみんなまだポツポツと使ってはいる。
ぼくも未だに使っていて、情報の即時性(フレッシュさ)や多様性は数多ある情報サービスの中では優秀で使い勝手もいいと思っています。


ツイッターは本義的に、何気ない日常における場面を「つぶやく」メディアとして登場しましたが、今ではかなり性格が変容して、情報メディアとして地位を確立しました。

前略プロフの項目を頻繁に変えたり、付属機能としてあった「リアル」を常時更新していたように、人間の「つぶやきたい」願望はウェブ登場以来、脈々と受け継がれていて、かなり人間の行動心理の核なんだと思っています。

ただ既述のように、もはやツイッターが「つぶやくためだけの場所」ではなくなった今、その場所が他のメディアに場所を鞍替えしたかのようです。
ツイッターの拡散性はおそらく人の承認欲と結びつきやすく、リツイートやお気に入り(ふぁぼ)機能はある意味で、その人・ツイートの認知度を可視化します。フォロワー数も同様に。
それが承認欲を下支えしているとまではいいませんが、最近の全体的なTLの傾向を考えてみると、ツイッター発足当時の「お腹すいた」「眠い」などの返答を必要としないようなツイートではなく、「いかにふぁぼられるか」を追求したような拡散の波にのることを企図したツイートが目立つ気がします。


ただ「お腹すいた」「眠い」のようなごくごくパーソナルで他人(Webでのみ関わりのあるような)には一見無意味なことでさえ、吐き出したくなる承認欲とは切り離された根源的な何かは消失したわけではなくて、Google+やPathにシフトしたようです。(永続的なものではないと確信していますが)

たとえば、Pathは顔見知りので構成されるクローズドメディアなので、上記のような瑣末なポストにも反応が起こります。

メディア、とくにソーシャルメディアの位相転換は刻々と起こっていて、安定化する見通しはなさそうですが、何の気ない気持ちや感情をただ吐き出したい深層心理に沈殿した、このナニカはメディアが変わっていっても残存し続けるものなのではないかという気がしています。


【昔書いた関連】
・「ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望
・「オープンとクローズドの緩衝地点
・「ツイッター日本語ハッシュタグにみる日本語の強さ

読書『複雑性と国際政治―相互連関と意図されざる結果』ロバート・ジャービス著


コロンビア大学のロバート・ジャービス教授の『複雑性と国際政治』を読みました。本著でアメリカ政治学会心理部門年間最優秀賞を受賞したのち、アメリカ政治学会の会長に就任なさっています。

アメリカ留学中に国際政治理論の授業でテキストとして何冊か読んでいたのですが、今回日本語で読んだのははじめてです。

ジャービス教授といえば、政治学に心理学的アプローチを取り入れ、開拓したことで有名で、本著ではさらにその傾向を強めより分野横断的なメソドロジーが採られています。

今著を書くためのインスピレーションを与えた書物として、大きく三冊あげています。
ぼくも二年くらい前にはじめて読んだケネス・ウォルツの『国際政治の理論』とモートン・カプランの『国際政治におけるシステムとプロセス』、そしてトマス・シェリングの『紛争の戦略』。


<日本語版に寄せて>でもこう書かれているように
特殊化にともなう必要な専門的知識が欠落している表面的あるいは大衆的な社会科学にしばしばむっとする。
あまりにも分化しすぎた現代研究の在り方に一石投じるというモチベーションで生物学・物理学・心理学など、分野を縦横無尽に駆け巡りながら本著はダイナミックに国際政治の動態を描写します。 

いくつか気になった点を...
変数が非線形的に相互作用するときは、あいにく変化がゆるやかなものではない可能性がある。むしろ、長期間何も異常はないかのように見え、そのあと突然の崩壊や変形に見舞われることがある。
「自然淘汰」の本当の意味として...
普通、私たちは、個体や種がそのような環境の中で競い合い、自然淘汰によって進化すると考える。しかしながら、実際のところは、生物と環境は共に進化する。植物や動物は環境に適応するだけでなく、環境を変えていく。 
 ドイッチェ、シンガーがいうところの「安定」とは...
安定というものは...システム全体とそれを構成している個々の国家という視点から考慮されるべきものである。広範なまたはシステミックな観点からはじめて"安定"というものが定義できる。それはシステムが必要な条件を備えていることによって生じる確実性ということである。それらの条件とは、一極覇権体制でないこと、システムを構成する国家の大部分が生き残ること、大規模な戦争が起きないことである。そして、各々の国家という、より狭い観点からすると、"安定"というのは、"存亡を懸けた戦争"をするような重大な局面を迎えることなしに、政治的独立と領土的保全が確実化されるということである。 
負のフィードバックの一例として...
アメリカが自国への麻薬流入を禁止する努力が成功すればするほど、麻薬の値段は上がり、薬物使用者が他の不法物質に頼るようになって、新しい産地や企業家が市場に惹きつけられるだろう。 
三者関係...
三つの国がシステムを構成する場合、副次的影響が行動の即時的・直接的効果を支配しやすい。しばしばパワーは、軍事的・経済的強さではなく、潜在的な敵対国が互いに対立している状況にあること、もしくはそのような状況を作ることから生じる。国家が他国を懐柔する必要があるかどうかは、各々の国家が他国に対抗するための支援を必要とする程度によって決まることが多い。 
構造の影響...
国家が同盟国に対してもつ交渉力は、個々の支援のニーズ、可能な他の選択肢、脆弱性によって決まる。脆弱性は、支援額を上げ、支援がない場合の同盟離脱の脅しに信頼性を与える。多極世界では、同盟から恩恵を受け、同盟の解体で損害を受ける国家は、より多くの選択肢をもっている同盟国か、あまりに弱いため好ましい政策をとる同盟しか支持できない同盟国から利用され得る。二極世界では、ウォルツとスナイダーが説明したように、超大国が小さな同盟国をそれほど必要とせず、小国によって望まない紛争に巻き込まれることがない。しかし、ニーズ、脆弱性、他の選択肢という同じ要因が、同盟国のさまざまな影響力の多くを決定している。 
政策の自己破滅性...
多くの政策はそれ自体が自己破滅的である。というのも、政策とは(本来)効果的な行動に至る関連経路に(人びと)向かわせていくものだが、(ときとして)それは第三者に情報を提供し、それに乗じて彼らがうまい汁を吸うのを可能にしてしまうことがあるからだ。
むすびに...
 システミックなプロセスを考慮しないかぎり、社会的・政治的生活で意味をなすものはほとんどない。システミックなプロセスを探求することによって、物事の理解と効果的行為に結びつく、新たな可能性を発見できるのであろう。言い換えれば、システムというものを理解しなければ、われわれは大きな混乱と苦しみを味わう可能性があるのである。
アクターに対して、システム・パースペクティブは、しっかりしたガイダンスではなく、世界を見る見方、警告のセット、考えなければならないいくつかのことを提供する。 
ゲーム理論のレンズから国際政治を覗き込んでみたとき、外交・紛争が、それこそ本当に「ゲーム」なのではないかと一瞬思う。権力・国益をめぐり、相手を出し抜くだけのゼロサム・ゲーム。
しかし、沈思黙考してみると事態はそれほど単純ではなく、人間の理性を越えた不合理性、戦略の裏の裏を読む心理的相克、表面だけでは理解できない深層でうごめく国際政治の魑魅魍魎が跋扈するのに気付かされる。
本を読めば読むほど、勉強をすればするほど、その渦中にからめ捕られていくように。 

2012年11月11日日曜日

2012エリザベス女王杯:雨降る京都で三度散るヴィルシーナ


雨が降りしきった今日の京都、重馬場で行われた今年のエリザベス女王杯。
一番人気は惜敗続きのヴィルシーナ、二番手に太宰騎手騎乗のフミノイマージン。
ぼくは両馬とも馬券から切りました。
重馬場のときは昔から穴馬狙いで行くのと、ヴィルシーナやブエナビスタのような勝ち切れない馬は買わないようにしているので。ただ、勝てないとはいえ、実力馬であることに変わりはないので、ワイドで馬券を買うようにしています。ちょっとした馬券術ですが。

ワイド4頭ボックスで:マイネイサベル、スマートシルエット、ピクシープリンセス、そしてレインボーダリア。人気薄馬ばかりを。ワイドで回収しようかと。
(ここのところ馬連で取りこぼしが多かったので)



ピクシープリンセスはスタートダッシュがうまくつかなかったものの、最後は怒涛の追い込み。最後の直線をみると、デムーロ騎手の鞭が激しく打たれているのが目につきます。
やはり外国人騎手は要マーク。

ピクシープリンセスがまさか勝ちきるとは思ってませんでしたが、最後はよく伸びて完勝。柴田善臣騎手の渋い騎乗が光りました。
ヴィルシーナは今回も二着。

馬券的にはワイド6-15で27.8倍を回収。

結果はコチラ