2012年12月15日土曜日

読書『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中著


山本先生に薦められた、新進気鋭の思想家・佐々木中さんの本を。
先生が言っていたように、情報の受け取り方、読書への姿勢に関する知見(フロンティア)が拓けたような、開眼するような「本と革命」をめぐる歴史物語に息を呑みました。

いくつか心を突いたコトバを。

(ルターにとって読書とは...)
「祈りであり、瞑想であり、そして試練である」
革命と本の関係性について
革命は暴力に還元されるものではありません。暴力が先行するのではない。まず根拠を明示したテクストが先行する。テクストの書き換えが先行するのです。 
革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死ぬ。 
ニーチェの「未来の文献学」に関する記述も興味深かった。

いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その一夜の、その一冊の、その一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのかもしれないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロには絶対にならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文献学者の誇りであり、戦いであると。

RADWIMPSの「バグッバイ」という歌の歌詞にこうあります
僕のいた朝と、僕のいない朝はどっか違っててほしい。少しだけでもいいから。 
僕が生まれてくる前と、僕が消えたあととなんか違っててほしい。世界は違っててほしい。 
きっと、人がすることはどこまでいっても「古いネジの回転にすぎない」と言ったベケットも「人類は滅亡する。だが人類は滅亡しない」と言うブランショも同じことをいっている。
世界の絶対的な連続性のことをいっている。

その那由多のなかで、ぼくのようなひとりの人間は粒のような塵のような刹那にすぎないとしても、ニーチェが託した「未来の文献学」やヴァルター・ベンヤミンの「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」という言葉を思い起こすなら。

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