2012年12月6日木曜日

読書『国際正義とは何か―グローバル化とネーションとしての責任』デイヴィッド・ミラー著


デイヴィッド・ミラーの『国際正義とは何か』を読みました。
前著『ナショナリティについて』で、「ナショナリティの原則」が明細に語られ、本著ではそれをグローバル・ジャスティスの文脈でみたときに、ナショナルな責務はグローバルな責務とどういう関係にあるのかを多角的視点から検討したのが本著。



【三つの一般的な指針】
①人間はつねに行為の受け手であり主体である。つまり、他人の助けなしに生存しえない貧しく傷つきやすい存在としての人間と、自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる人間である。②正義の要請を個人としての観点(個人倫理的アプローチ)、また国家を含めて大規模な人間的組織への参加者としての観点(制度的アプローチ)の双方から理解すること。③国内的文脈と国際的文脈との大きな違いを考慮に入れ、それゆえたんに社会正義のよく知られた原理を拡大するのではない形で、グローバルな正義を理解すること。

【コスモポリタニズムの強い形態と弱い形態】
弱いコスモポリタニズムはどこにいる人間に対しても平等な道徳的関心を示すことを求めるのに対して、強いコスモポリタニズムはこれを越えて実質的な意味でどこにいる人間に対しても平等な処遇の提供を求めるものである。

【グローバルな平等主義の問題点】
おそらくグローバルな正義は私たちの世界をまったく根本的な形で転換することを強く求めているのであろう。私がこれらの理論を拒絶するのは、私たちが本来同胞に負っている特別な責任を無視し、自己決定という価値を適切に説明できず、文化的な差異に十分に敏感でないからであって、言い換えれば政治的のみならず哲学的に欠陥を抱えているからである。
【集団的責任の二つのモデル】
同志集団モデル:さまざまな目的や見解を共有し、自分たちを同志として自覚している集団であり、それゆえ個々の構成員が活動する場合には、その集団の他の構成員から得られる援助をあてにして活動することができる。共同事業モデル:当該集団は共通のアイデンティティをもつことも目的を共有することも求められない。責任が発生するためには、事業に参加し、利益を共有するだけで十分である。→集団の他の構成員を消極的に援助しているか(同志集団の場合)、利益の分け前にあずかっている(共同事業の場合) 
【ネーションとしての責任とその限界】
ネーションとはなにか? 
第一に、それは共通のアイデンティティを備えた集団であり、ネーションへの所属は各構成員のアイデンティティの一部をなす。 
第二に、彼らが共有しているもののひとつとして公共文化がある。 
第三に、ネーションはその構成員が相互に特別な義務を負っていることを認識している集団である。 
第四に、ネーションの存続はその構成員にとって価値あるものとして捉えられている。
(第五に)、政治的に自己決定することへの熱望である。政治的共同体がより開かれて民主的であるほど、その構成員が行なっている決定や従っている政策について、彼らに責任を負わせるのは正当になる。 
<限界>
ネーションが外部の支配もしくは専制的支配に服している場合、個々の構成員なり国家なりの行為を真にナショナルな行為と見なすことは困難であることが多い。したがって、そのような行為の責任をその人民全体にまで拡大することは不適切ということになる。さらに、文化的分裂が深刻である場合には、ひとつのネーションについて語ること自体が場違いであると判断されるかもしれない。このような場合を除いて、ネーションの行為が自分自身や他のネーションに何らかの負担を課す場合、その負担についての責任は、それに関わる決定や政策に反対した人々も含めて、すべての構成員が負うことになる。ネーションとしての責任という観念を受け入れただけでは、グローバルな正義は私たちに何を要求しているのかという問題を解決したことにはならない。 
【人権の正当化に用いられてきた三つの基本的戦略】
①実践にもとづく戦略②重なり合う合意の探求③人間の共通の特質ー人間の基本的ニーズ(人道主義的戦略) 
人権は一種の根源的道徳であるーすなわち他の道徳的要求は弱い義務を課すか、あるいはいかなる義務を課さないかであるが、人権の保障は道徳的命令であるーと想定されるので、人権は人生の本質的特徴を参照することによって正当化されるべきである。 
【人権の実践可能性】 
人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じてもっともよく理解され正当化される。人権は、人間の生活における道徳的緊急性の局面を表現しなければならないだけでなく、ある種の実現可能性の条件にも合致しなければならないのである。
【移住の権利は基本的人権か】 
移住希望者の人権(移動の自由であれ、結合の自由であれ、離脱の自由であれ)を基礎として移住の無条件の権利を正当化することはできない。国家は、管轄する領土への立ち入りをだれに認め、だれに認めないのかを決定できる領土権をどのように打ち立てることができるだろうか。
【難民と経済的移民の処遇】
緊急の状況に置かれているわけではない移住希望者の入国を拒否する場合、移住希望者には入国拒否の公正な理由が伝えられなければならない。自分が暮らしたいと思う国に入国するという移民の利益と、自国の構成や特徴を形づくる力を維持するというナショナルな共同体の利益との間の均衡が保たれるべきである。 
【規範的問題としてのグローバルな貧困】
グローバルな正義というものが何を意味するにせよ、それは(資源、機会、福祉などの)グローバルな平等を意味しないのであり、したがってさまざまな社会の間に存在する不平等が完全に平均化されるようにグローバルな秩序を改変する必要はない。グローバルな貧困についていえば、私たちが取り組むべき大きな問題とは、世界の貧困者に対する救済責任はどの程度まで彼らの現在の窮状に対する結果責任に付随するのかというものである。このレバーを引けば災害を避けられると教えることと、そのレバーを引くのは他ならぬあなたの仕事なのだと教えることは、まったく別の事柄に属する。 
【富裕国の市民が世界の貧困者に対して救済責任を負うかもしれない三つのケース】 
①過去の不正行為によってその犠牲者を慢性的な貧困状態に放置した結果として生じるかもしれない。②公正な国際協力関係を築けなかったことから生じたのかもしれない。③富裕国と貧困国の過去の交流がどうであれ、貧困というまぎれもない事実から生じるのかもしれない。
トマス・ネーゲル「私たちが援助できる人々の窮状が相対的な水準ではなく絶対的な水準に達している場合、人道主義的な義務が生じる。これと対照的に、正義は、さまざまな階級の人々が置かれている境遇の関係や、彼らの間の不平等の原因に関わるものである」 
【結論】 
本書の目的は、強い意味でコスモポリタン的ではないようなグローバルな正義の考え方を見出すことにあった。 
人々は、内部の人と外部の人の間に境界線を引き、境界線の内側にいる人々には特別な忠誠心を抱き、同胞と共有していると思われる特別な文化的特徴に高い価値を与える。そして自らの運命を自分たちで支配することを望み、たとえ善意であれ外部の者が干渉しようとするれば、これに激しく反発する。 
政治参加は主にナショナルな次元で生じ、人々にとってもっとも重要なのは、ナショナルな次元の選挙や投票、ナショナルな指導者たちの栄枯盛衰、ナショナルな報道機関における議論などであって、他国や国際機関で起こっている出来事についてはぼんやりとしか認識していないだろう。人々は、他のネーションとは異なった存在であることを望んでおり、言語、文化的伝統、制度、歴史的に重要な場所など、他のネーションとの相違を体現する自分たちの特徴に特別な愛着を感じるのである。
ネーションとしての責任という観念は、グローバルな正義への障害というよりも、むしろ触媒なのである。 
トマス・ネーゲル「世界政府なきグローバルな正義という観念はキメラである」⇒正義の義務は、人民の名の下に行動し、人民に規則の遵守を強いる同一の主権権力に服する人民の間でのみ通用するものだから。したがって、グローバルな正義という観念が適用されるのは、グローバルな主権が生じる場合だけであろう。そうなるまでは、世界の貧しい人々に対する私たちの義務は、本質的に人道的なものとして理解するのが望ましい。 

所与を疑っていく姿勢、当たり前を脱構築していく視点、デイヴィッド・ミラーの本を読むと自分の思考・分析の浅はかさにいつも気付かされます。
数ある学問の中でも、政治哲学はとりわけ孤独な闘いじゃないかと、最近思うようになってきました。

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