2013年1月27日日曜日

映画『愛のむきだし』


バチコンきましたね。。
ここのところ映画を劇場やDVDで観る機会がやたら多くて、その度だいたい途中で少し寝落ちしちゃうのがパターンだったのですが(先日友達にゴリ押しされた観た『リリーシュシュのすべて』も爆睡してしまいました)、今作は目が釘付けでした。

時間は4時間と長丁場なのですが、体感はそれよりぜんぜん短くてほんとあっという間でした。DISC1はアッパーで、DISC2はダウナー。
このアップ&ダウンはすごい。その狭間にいるのが、満島ひかり演じるヨーコ。

主演はAAAの西島隆弘。この時点で観る気を失くす人もいそうなのですが(僕もそうです)、鑑賞してみると、ところがどっこい、バイアスふっ飛ばされます。
園子温監督は演技指導が厳しいことで有名なので、きっと徹底していたのだと思います。

満島あかりも圧巻の演技だったんですが、個人的には渡部篤郎が一番目立ってました。

登場人物のそれぞれがトラウマティックな体験を抱えていて、そうした人々が一点へと収束していく。
と、ありがちなストーリーラインかと思いきや、DISC2に入った途端、間髪を入れずにカタストロフィが始まる。


テーマは「愛」それも、むきだしの「愛」。

コリント書第一の手紙の第13章からの引用をヨーコがすらすら叫ぶ(3-4分くらいの圧巻のシーン)
たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしの言葉は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物をもち。あらゆる知識と奥義に通じ。必要とあれば山を揺るがすほどの信心を持ち合わせようとも。愛がなければ、無に等しい。
持てる全てを他者に与えようとも。己の身を燃やし尽くそうとも。そこに愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強く、情け深く。妬まず、誇らず、己惚れず。礼を失せず、利を貪らず、怒りを抱かず。不当に扱われたことをいつまでも恨まない。そして不義を喜ばない。愛は、真実を喜ぶ。
愛は、諦めないこと、信じること、希望を持つこと、耐え忍ぶこと、すべてにおいて過たず成し遂げる。 
愛は永遠である。しかし預言は人に霊感を与えるも、廃れてしまう。異言による賜物も、いつか已んでしまう。知識は、いつかは過去のものとなってしまう。私たちの知識はしょせん断片にすぎない。預言もまたしかり。もし完全なるものが到来したならば、それら断片的なものは廃れてしまうだろう。 
私が幼子だったとき、わたしは幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えていた。だが今や私は大人となり、幼子であった頃のやり方を棄てた。 
私たちは今、鏡に映った朧な像を覗いている。だが来るべき時が来れば、私たちは真の像と正面から対峙することになろう。それゆえに、「信仰」「希望」「愛」。この3つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは、「


きっと人は、心の底から信じられるもの、むきだしの愛を預けられるものを求めて彷徨っているだけのか弱い存在で。
それがキリスト教でも仏教でも、新興宗教であろうとも。
盲信できるもの。むきだしの愛をぶつけられるもの。
生きていく意味を与えてくれるもの。
だから真理なんてものを探り当てようとすることがナンセンスなんだと思う。

洋楽フリークが心の何処かでビジュアル系バンド大好きな人を見下していたとしても、彼らもまったく同様のことを思っていたとしたら、そこに優劣なんてあるはずなくて。

唐突ですが、ヘーゲルの思考の枠組みを援用すれば、それが分かりやすいんじゃないかと。
彼は「矛盾」、「対立」、「差異」を峻別しました。

資本家と労働者の間に矛盾があっても、協同組合をつくることで、資本家と労働者の転換が可能になる。だから矛盾は解消できる。
対立は、一方がもう一方を完全に絶滅することで解消できる。
ところが差異は解消不能である。たとえば議論する相手から、「これは趣味だよ」と言われたら、もうその先には介入できない。趣味は差異だから。差異は解消できない以上、どうしても自分の立場を決めなければならない。だから、どっちの立場に立つかによって、世界は違ってみえる。



信仰だって、まったく同じ事だと思ったわけです。

けっきょくそーいったすべてを貫くものは「愛」以外にありえないわけで。




完全主観採点:★★★★★

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