2014年1月27日月曜日

読書『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉雅也著



本書の叩き台になっているのは東大院総合文化研究科での博士論文で、主査は表象文化論の泰斗・小林康夫さん。副査も名の通った方ばかり。(小泉義之、高橋哲哉、中島隆博、松浦寿輝の各氏)

帯の推薦文も当該分野ではもっとも名前の知られるこの二人。
超越論的でも経験的でもなく、父でもなく母でもない「中途半端」な哲学。本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に産まれた存在論的継承者だ。(―東浩紀)
ドゥルーズ哲学の正しい解説?そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ。(―浅田彰) 
現代思想自体は一昨年から去年にかけて好んで読んでいたものの、ドゥルーズ本人の著作は未だ未読。
だけど引用の随所、そして千葉さんの大胆な解釈の端々にドゥルーズ独自の魅力が感じられた。


この本が掲げるテーゼは接続過剰つながりすぎの世界から「切断の哲学」へ
あとがきにもこの本が意図的に異質に書かれていることが書かれている。
僕は、ドゥルーズ(&ガタリ)の細かい言葉づかいにこだわることでむしろ、彼(ら)の側方に自分を転出させようとした。本書では、ドゥルーズ論であってドゥルーズ論でない中途半端な書物であることを、博士論文よりもさらに強く、方法的に、追求している。始まりでも終わりでもなく中間こそ重要であるというドゥルーズの主張を、僕は、中途半端であることについて徹底的に思考するという矛盾した課題として引き受けたのだった。
この方法論的姿勢にも浅田彰さんの影響がハッキリと見て取れる。
構造と力』から有名な一節を引いてみる。
要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をされしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位エレメントであることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」 
くわえて、読み進めていくうちに佐々木中さんの影が僕の頭に浮かんできました。(もちろん、背骨になっている思想も違えば、筆致もまったく異なるのですが。参考⇒読書『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中著

ただし、あくまでもこの本(博士論文から継続して)が対峙しているのはドゥルーズ(&ガタリ)で、この点については以下の引用がわかり易い。
ドゥルーズの行った批判は、微妙な違い(マイナーな差異)のある事物や人々を粗雑に一緒くたにするルプレザンタシオン(代表、代理、表象)への批判であった。これを<代理―表象批判>と呼ぼう。ドゥルーズは、代理―表象されない差異それ自体の哲学を求めていた。 潜在的な差異が、ドゥルーズ(&ガタリ)にとっての「実在 réalité」である。その風景、世界の本当の姿は、どのように描かれるべきなのか。それは、渾然一体のめちゃくちゃではない。切断された、区別された、分離された、複数のめちゃくちゃによるコラージュである。世界には、いたるところに、非意味的切断が走っている。常識と良識による分かりから脱したとしても、渾然一体にはならず、別のしかたで(多様なめちゃくちゃさで)事物は、分かれなおすのである。
ドゥルーズ本人が『差異と反復』のなかで「強度=内包性の論理」を語った箇所にその基本的な思想的態度が表出している。
他人と共に自分を折り解き=説明しすぎないこと、他人を折り解き=説明しすぎないこと、暗黙の=折り込まれた諸々の価値を維持すること、その表現の外には存在しないあらゆる表現されるものを私たちの世界に住まわせることで、この私たちの世界を多様化すること

他にもベルクソン、ニーチェ、ハイデガーなどメジャーな思想家の理論なども参照しながら議論を進化させていくのですが、僕個人的に面白かったのはユクスキュルのダニを例にした"環世界"かんせかいの議論。(3年前にこのブログでもユクスキュルの『生物からみた世界』を紹介してますね)

思想的にもユクスキュルの生物論は看過できない視点で、これは動物の権利の問題、社会契約まで孕んでる一大問題なわけです。(参考⇒読書『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』マーサ・ヌスバウム著

0 件のコメント:

コメントを投稿