2014年4月23日水曜日

読書『乱読のセレンディピティ』外山滋比古著


帰りの電車用の手持ちの本を切らしてしまったため、急遽書店に立ち寄り『思考の整理学』で著名な外山滋比古さん(御年90歳)の『乱読のセレンディピティ』を購入。
つい手にとってしまいたくなるような可愛らしい装幀で、中身もそれと同等に平易で温もりのある柔らかな文体。
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外山 滋比古

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『思考の整理学』を読んだのは、たしか高校三年生のときだから、細かい内容まで記憶していないけれど、文体・筆致に懐かしさを覚えた。
これっていうのはすごいことだと思う。
数年間置いてなお、その方独自の雰囲気を文章を通して紙背から感じさせることのできる書き手というのはそう多くないと思う。
外山さんは90歳を越えるご高齢ですが、とても健康にのびのびとした人生を送られてきたのが紙幅の隅々から伝わってくる。
文章が呼吸しているというか、瑞々しい体験から紡ぎだされた思索は氏のオリジナリティで満ち溢れている。
借り物ではない、自分自身の思考、そして言葉。大いに見習いたいと思う。

この本で提唱される読み方はズバリ「乱読」である。
これは僕自身が読書のテーマに標榜している「雑読」とほぼ同義であると思った。
それは読むジャンルに制限を持たせないことはもちろん、その読み方にも特徴がある。
一般に乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃がすものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。
これは通説とは真逆の考え方である。 
ふつう、舐めるように読む「精読」の方が、精確に文の要旨をつかみ、より深い理解を得られると考えられている。
ところが氏は、「それは違うのではないか」という考え方を呈示する。
まずこのテーゼを背骨にした上で、次に話は「忘却」に及ぶ。
ここでも、氏は常識と思われる「知識」へのアンチテーゼを掲げる。
すなわち、知識の過剰摂取は何も体脂肪にだけ当てはまるものではなく、「知的メタボリック・シンドローム」とでも呼ぶべき悪弊を引き起こすのではないかというのだ。
そこで必然的に必要となるのが、人間の「忘却」という機能だ。
忘却は記憶以上のことをすることができる。知識によって人間は賢くなることができるが、忘れることによって、知識のできない思考を活発にする。その点で、知識以上の力を持っている。これまできらわれてきた忘却に対して、こういう創造的忘却は新忘却と呼ぶことができる。
 記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。ときに消滅するかもしれないが、つよい記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による創造的変化をともなう。
一般に忘却にはネガティブなイメージが付きまとい、「後退」を想起させるが、氏はまったく逆の考え方を開陳する。
忘却こそが創造を喚起するというのだ。

それから、最終部では実体験に基づいて「朝型」であることから得られるメリットについて力説されていた。
当時、作家といえば夜型が一般的だったなかで菊池寛は典型的な朝型人間であったらしい。それはそうと村上春樹も数多くのエッセイで朝型生活の効用を説いている。

参考までにこんな記事もありましたね。
⇒「スターバックスCEOが毎朝4:30に起きる理由「21世紀の歴史は朝に作られる。」

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2014年4月18日金曜日

読書『女のいない男たち』村上春樹著


今朝、出社前に小走りで向かうは書店。
大好きなアーティストの新譜、好きな作家の新著はどうしてだが店頭で、手に取りたい。
遅配や誤送をおそれず、直接、自分の手でとりたい。
ワクワクして店に向かう。
開店前に平積みされたであろうお目当ての作品を見つける。
まずは手に取り、全体的な装幀、帯の広告文にゆっくり目を通す。
レジへ向かう。一連の動作にワクワク感が詰まっていて、こういう瞬間があるから、淀みなく流れる日々に楽しみが加わる。

就業前にザックリ1/3ほど読み、残りは電車、そして自宅で読み終える。
文庫本で上・中・下に分かれるようなボリュームではないかぎり、一気呵成にその日に読み終えてしまうことが慣例となっている。
べつに取り決めているわけではないのだけれども、たんじゅんに中断できない。

さて、今日発売された村上春樹9年ぶりとなる短編小説『女のいない男たち』。
僕自身ショートそのものを読むのが久しぶりだった。

村上春樹の短編といえば、それぞれの作品の独立性が高いという印象があった。
ところが今回のコンセプトはそれとは異なり、表題になっている「女のいない男たち」という通底するテーマがそれぞれの作品を貫き、最終的に最後の物語に収斂する。

絡み合い、響きあう6編の物語」という裏帯の一文はしごく正しい。
もちろん今回の短篇集もこれまでの作品と同様、セックスが重要な役割を担い、"喪失"が常に影を潜める。

誰の目にも明らかな浅いスパッと切れ味鋭いものから深遠で瞬時には文意を取れない難儀なものまで、村上春樹といえばメタファー使いとして知られるが、今回もそれぞれの作品に、もはや意図的とも思えるくらい彼らしい比喩が散見された。
あまりにも明朗としているので、ここにいくつか引っ張っておきたい。
「マニュアル・シフトは好きです」と彼女は冷ややかな声で言った。まるで筋金入りの菜食主義者がレタスは食べれるかと質問されたときのように。(「ドライブ・マイ・カー」より)
何を言っても良い効果は生みそうになかったので、僕は沈黙を守っていた。コーヒー・スプーンを手にとって、その柄の模様を興味深そうに眺めていた。エジプトの古墳の出土品を精査する博物館の学芸員みたいに。 (「イエスタデイ」より)
おれは一人で孤島にいるわけではない、と羽原は思った。そうではなく、おれ自身が孤島なのだ。 (「シェエラザード」より) 
「独立器官」という個人的には今回の短篇集で最もお気に入りの作品で、恋煩いから拒食症になり、最後は心不全で死ぬ整形外科医の渡会が言うセリフ。
これは小説のみならず、今までもエッセイでもよく村上春樹が好んで使う言い回しなのだけれど、
紳士とは、払った税金と、寝た女性について多くを語らない人のことです。
女のいない男たち女のいない男たち
村上 春樹

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2014年4月16日水曜日

読書『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』坪田信貴著


教え子にプレゼントしようと思い購入し、まずは自分が目を通してみました。
ざっくり1時間強で読めます。2日の昼休憩で読みました。

生徒には宿題とはべつに電車の中で課題図書を読んでもらっています。
本を読むことは現代文や小論文のみならず、英語にも良い影響があります。
長文では既知のジャンルはスラスラ読めるようになるし、英作文の表現も豊かになる。
なによりも高校のときに読書習慣をつけれれば、周りよりも色んな意味でスタートダッシュをはやく切れるのです。
なによりも狭隘な価値観が脱構築され、世界の広さを知れます。
毎日、学校に通っていれる"教室の中"という狭い世界観が固定化して、想像力が育まれません。
本を読めば、自分の世界とは離れた所で、同時的にさまざまな事柄が生起していたり、「あー、こんな凄い人もいるのかあ」と多種多様な人々の考えに触れることで、自分自身が感化されていきます。

僕だっておんなじです。
親戚など周りに大学まで進んでいる人はほとんど皆無で(職人一家なので)、自分も勉強なんてできるわけないと信じきっていました。
そのため高校に行かないで就職、もしくは最底辺の商業高校に進学しようかと考えていたのに、ある一人の先生と出会い、そして本をたくさん読むようになったことで、気づけば大学院にまで進んでいたのです。

この本の主人公サヤカちゃんが、一人のギャルJKだったのにも関わらず、たゆまぬ努力の末、慶應に現役合格したことはもちろん賞賛すべきことですが、世界、歴史を見渡してみたとき、それほど凄いことでもないのです。
そういう意味で中高生は伝記や自伝を読むのがいいのかもしれなません。人生の針路が不明確なとき、先人たちの辿ってきた途、そこで考えた思索に触れることで、おのずと自分の行末のヒントになります。それはリレーのバトンのようなもので、そういった偉人たちも、その先にいた偉人たちの苦悩や経験を参照しながら、歩を進めてきたのだと思います。

この本は主に指導者や保護者向けに心理学の視点を交えながら、サヤカちゃんの合格体験に沿って書かれた教育書です。
ですが、あえてこれを僕は生徒に読ませるつもりです。
この前まで読んでもらっていたのは『ドラゴン桜』。

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『ドラゴン桜』では実際にどうやって勉強していくのがいいのか、生徒目線も交えながらだいたいの感覚を掴んでもらいつつ、モチベーションを上げる。
この『学年ビリの〜』に関しては、自分を見守る・応援する側の人たちがどのような想いで、はたまた戦略で自分を引っ張ろうとしているのかを知る。
なかなかこういう機会はありません。
両方の視野に立ってみることで、受験というものも遠目から、広量的に捉えられるようになるのではないかと思ったのです。

本のなかで、多くの人は「やる気になる→やる→できるようになる」と思っているに対して、本当は違くて、「やってみる→できる→やる気になる」が正しい経路なのだという記述がありました。
これはぼくの家庭教師経験、そして自分自身が生徒だったときの経験から照らしてもとても正しい指摘だと思います。
僕もある時、生徒の成績が伸び悩み途方に暮れていました。
それでも粘り強くお互い勉強していく中で、ある期末テストで97点という今までじゃ考えられない点数を叩き出したのです。
それ以来、グングン伸びています。
この「私でも出来るんだ!=成功体験」が一度あると、それがバネになって一気に成長曲線が上昇します。
このように生徒を教える中で、どうやってモチベーションというものが維持されたり、喚起されたりするのかを観察していると、ある"動線"のようなものがあることに気付かされ、自分自身の学びにもなります。

サヤカさん本人のメッセージはコチラ。


あ、全然関係ないですが、友人の会社も開発に携わってる「資格サプリ」というものを宣伝しときますね。笑
TOEICとか簿記も勉強できるそうです。

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2014年4月15日火曜日

「グースハウス」と「テラスハウス」―"場"の多様化について


ぼくも毎週みてます、『テラスハウス』(やらせがどーとかは、とりあえずおいておきましょうよ)
一気にメンバーが入れ替わって、昨日の放送新鮮でしたね。

ユースト配信はなかなか時間が合わなくて、生では見られてませんが、たくさんのカバー動画で癒やしをもらってます『Goose house
残念なニュースでいえば、設立当初から中心に居たリーダーのd-izeさんが脱退してしまうとのこと

こういったメンバーの入れ替えはじめ、
考えてみたら、この二つのシェアハウスって共通点が多いと思ったんです。
まあ"シェアハウス"という「」を基点に、どちらも活動しているので当たり前と言えばあたりまえなんですが。

シェアハウスにスポットライト当てると、テレビをはじめとしたエンタメだけじゃなくて、色んな可能性が生まれてくると個人的には思います。(ただ、そこにいち早く着目したフジのプロデューサーさんは凄いですよね。演出さんかな)

逆に『Goose house』をテラスハウス化させるのもおもしろくなるかも。
ふつうの生活がどうなってるのか気になっているリスナーも多数いると思うので。

世の中の潮流としては、シェアハウスのコンセプトが徐々に変わりつつあって、単なる共同生活というよりは、「同じ趣味趣向を持った人で集まろう」みたいなのが今流行ってますよね。
一番代表的なのは「ソーシャルアパートメント」ですが、ほかにもphaさんで有名な『ギークハウス』(ぼくはいつも新宿のギークハウスにお世話になってます)
スポーツ好きが集うという「ヒガコスポーツ」も面白そうです。
あとちょっと変わったものとしては、「企業寮をShare」しようという「月島荘」。
シェアハウスは都心が主ですが、家入さんが進めている「リバ邸」なんかは津々浦々にありますよね。(あ、でもそれで言ったらギークハウスなんてアフリカはじめ、世界展開しようとしてるんだった。笑)

"場"というものが多様化していくことで、新しい出会いがあり、そこから新たなムーブメントが生まれる。
そういった熱気がまた社会に還流していき、全体が盛り上がっていく。

「脱法ハウス」などの規制問題が立ち上がりましたが、それも一山越えた感があるなか、今後どんな動向になるのか関心があります。

映画『アナと雪の女王』クリス・バック、ジェニファー・リー監督作 13'


まさかの電車を反対方向に乗り、必修講義に行きそびれるという大失態。
自暴自棄すぎて『アナ』を鑑賞。

以前は、ディズニー映画は敬遠していました。
ところがアメリカに留学していたときに、いやいや友達に手を引っ張られて観た『塔の上のラプンツェル』(原題:'Tangled')を観てから、苦手意識がなくなり、むしろ好きになりました。
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GUMI国光さんも今日、こんなポストをしていて共感。

なにが良いって、その潔さじゃないですかね。
単なるハッピー・エンディング、たとえば水戸黄門の紋切り型、勧善懲悪「はい、成敗」ではなくて、ハッピーさが突き抜けてると思うんですね。

あとはディズニーで名作とされる作品は(映像美とかは抜きにして)必ずといっていいほど、音楽が素晴らしい。
アラジンの『A Whole New World』や美女と野獣の『Beauty and the Beast』など。
とうぜんアナではイディナ・メンゼルが歌う『Let It Go』。
劇中でこの歌が流れ、女王エルサが自らを解放しながら、雪氷の城を築く場面は圧巻というか、鳥肌が立ちました。

この曲関連でいくつかバズったコンテンツもありましたね。


松たか子さんが歌った日本語ヴァージョンも世界で話題だとか。
吹替も観てみたいですね。
DVDで機会があれば。

【完全主観採点】★★★★☆

2014年4月7日月曜日

Something Ever After / the HIATUS <和訳>


君の隣で目覚めると
君は僕を夕陽の光のようだと言った
君は僕にとってそれ以上の存在だった

夜光列車を待ちながら
僕の目に映る世界を描き出す
もしまた君に会えるなら
僕を忘れないでいて
そしてまた抱きしめて

海に叩きつける稲妻
山道を照らす朝陽
尾根にかかった夕暮れをみたかな
僕らの最高の日々を思い出してる
君のフードに降り注ぐ雨粒の音を聞いたかな
古い灯台から放たれる光をみたかな
幸運を祈るよ 夜が深まっていく
永久に続くものなんてあるのかな

君の隣で目覚めると
君は僕を夕陽の光のようだと言った
君は僕にとってそれ以上の存在だった

凍えて寝つけない真夜中
北極光を探してる
そして瓶は空っぽだ

どうして僕は一切の無邪気さを手放してしまったのか教えて
きっと僕はすべての内側まで知るのを怖れてたんだ
もしもう一度だけ君に伝えられたなら
そのときまで君が残してくれた思い出を心にしまっておくよ

海に叩きつける稲妻
山道を照らす朝陽
尾根にかかった夕暮れをみたかな
僕らの最高の日々を思い出してる
君のフードに降り注ぐ雨粒の音を聞いたかな
古い灯台から放たれる光をみたかな
幸運を祈るよ 夜が深まっていく
今まで永久に続くものなんてあったかな
元詩

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the HIATUS

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【前回和訳したハイエイタスの曲】⇒Tales Of Sorrow Street / the HIATUS <和訳>

2014年4月5日土曜日

読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?


友人から脈絡もなく、「普段どうやって読書をやってるか」また「どうやって内容を自分自身に内在化させているか」というLINEが届きました。
それに滔々と答えているうちに、かなりの分量になったので、コチラにも残しておきます。

とのブログを1年前にも書きました。
読書に対する姿勢はこの時からそれほど変わっていません。

Ⅰ. 残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

①「時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか」そして③「「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
この2点を突き詰めていくと、単純に読書量を増やせば事足りるということでもない気がしてきます。
高校生のときまで、いや大学1年生くらいまで、ひたすら乱読に耽っていました。
ある意味で向こう見ずに、闇雲に、濫読するという行為は"若いうちは"奨励されるべきことなのかもしれません。
自分自身の中で、れっきとした興味・関心の方向性を自覚していたとしても、それはこれまでに出会った絶対的に限定されたインプット量から導き出された"とりあえず"のインタレストでしかないわけです。
社会は進めばすすむほど広く、先人たちによって積み重ねられてきた知の塔はあまりにも高い。
こと読書に関するかぎり、死するまで"飽く"ことないであろう蓄積がある。
(おそらくではありますが)知の巨人たちも例に漏れず、こういったプロセスを辿ってきたのだと思われます。

ところがです。
図書館で目を覆うほどに四方八方に所狭しと積み上げられた蔵書に囲まれると、未だ知らぬ知への高揚感から来る興奮と同時に、残された自分の生のうちで一体どれだけココにある本を読めるだろうかという圧倒的な虚無感と寂寞に身を抓まれます。

SNSから常時、垂れ流れてくるニュースや言説の束。
はたまた、あちこちから発信されるコンテンツ。
そういった情報のシャワーはできるだけ、積極的に多く浴びれば浴びるほどいいモノかと思っていましたが、少しづつ考えが変わってきました。
どれほどテクノロジーに進化がもたらされ、メディア環境が変容しようと人間の根幹的な部分はそれほど変化していない。
(たしかに寿命は延びたのかもしれませんが)基本的に1日24時間であるということ、基本的な認知能力に進歩はそれほどないであろうということ。



Ⅱ. どれだけ読むのかではなく、どれだけ読まないか

そうなると、インプットへも慎重になっていかざるをえません。
自分が欲している情報は何なのか、アウトプットを削ってまで得るべき情報なのか。
いかに多くの情報を取り込むのか、ではなくいかに多くの情報を得ないか」「いかに多くの本を読むか、ではなくいかに多くの本を読まないか」という視点が芽生えてきました。
もちろんそのためには必然的に「質 quality」を追求していく姿勢が不可欠になってきます。
量は質に転化していく」このフェーズを経たのちに、量そのものは減らし、質は向上させていというように、自分の読書遍歴を振り返ると思考をスライドさせてきたように思います。
上質な情報への直観的なな嗅覚センサーの精度を上げていく。(その意味で多くの知識人が唱道するように古典は概して"外れ"が少ない。歴史という苛烈な淘汰競争をくぐり抜けてきた書物だけに"古典"という冠が付与される)
ネットに氾濫する記事も、本に書かれた内容も、媒体はなんであれ、それを読み聞きしただけでは"インプット"にはならないと考えています。
それらはあくまで「生(raw)の情報 」でしかないのです。

そこで今回、一歩だけ踏み込んで考えてみたいのが上記のエントリーでいう②「咀嚼、消化、排泄、そして循環」です。



Ⅲ. アウトプットがあって、はじめてインプットがある

本を読むときは、いつも気になった箇所の写し書き、思考の補助線となるようなメモをとることを心がけています。
時間に余裕のあるときはこのブログにも読書メモ的ブログを残すことも長く続けています。

このような端的に言って"面倒くさい"作業にも、それなりの対価があります。
アフィリエイトといった雀の涙にしかならない収入はそもそも考えないとしても、わざわざ当該箇所をそっくりそのままタイプすることで知らず知らずのうちに自分の中にもそういった言葉や思考が受肉されていくのです。

パソコンなどなかった時代、多くの作家たちは修練の手段として、先人たちの作品の写経をしこしこやっていたといいますが、その感覚としては近いのかもしれません。
じっさいに手を動かすことで、脳にも刷り込ませていく。
「守・破・離」でいう、"守"にあたる部分です。

「いや、これはどうなんだろう」「こういう考えもあるのではないか」と批判的読書をする中で自身の考察も簡単に添えておくようにする。
読書とは筆者の一方的なモノローグではなく、対話であるべき行為です。
てんでバラバラに散逸した思考の破片を集めて、一つの論考としてまとめ上げる、いわゆる"アウトプット"。
質の高いインプットがあってはじめて、質の高いインプットができると考えられていますが、(少なくとも自分の場合)それは逆であると考えています。
アウトプットという行為を通じて、はじめてインプットへ至るということです。
両者は分かちがたく結びついた関係性にあり、"表裏"というより"円環"と言った方が精確かもしれません。
歴史学の大家であるイギリスのE・H・カーはかの有名な『歴史とは何か』の中で、このように述べています。
読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私は自分が求めているものを一層よく知るようになり、自分が見出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。
表題にした「残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるのだろうか?」という思いは常に、否定しがたく心のうちにあります。
そうであるなら、一冊読み終えたら、すぐさま次の一冊へ手を伸ばしたくなる。
でも、そこで一歩立ち止まってみる。

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ」という短いエントリーにも書いたように「はじめに」から「おわりに」の中では様々な筆者と読者の思索のやりとりがあったはずです。
それらに再び思いを巡らし、まとまりをつける。
自分の身内で思考をすり合わせ、言葉を与え、形にする。(ブログを書くというのは、思考を"箱"に入れるという感覚に近いかもしれません)
一度箱にしまえば、いつでも取り出すことができる。

ブログのタイトルにもしている「言葉を手にしていく感覚」とは、こうしたアウトプットから引き出されるインプットにほかならないのです。


2014年4月2日水曜日

Tales Of Sorrow Street / the HIATUS <和訳>


気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから
気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから

持ちこたえて カウントして 天井を見つめてる
そして君がまだ僕の救世主だって分かってる
持ちこたえて カウントして 天井を見つめてる
そして今日もまた君が救ってくれるって知ってる

気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから
気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから

"悲哀の街"を僕が歩くとき、その歌も流れ続ける
君のドアへ行くよ

持ちこたえて カウントして 天井を見つめてる
そして君がまだ僕の救世主だって分かってる
持ちこたえて カウントして 天井を見つめてる
そして今日もまた君が救ってくれるって知ってる

気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから
気にしなくていい 君は大丈夫だから
よそよそしくしないで いつだって僕はここにいるから
元詩


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【前回和訳したハイエイタスの曲】⇒Sunset Off The Coastline / the HIATUS <和訳>