Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年5月10日土曜日

中島らもと「ウォーキング・デッド」


今週1週間は不運だった。
風邪が一向に治らず、学校にも仕事にも行けなかった。
一日だけ出勤してみたものの、鼻水と咳で周りに迷惑がかかってしまう。

そこは家でおとなしく過ごし、一刻も早く体を治すことに。
さて、どう過ごそうか。

競馬、サッカー関連のものは前に寝込んだときに、だいぶ見たので、今回は野球関連のYoutube動画をむさぼる。
それもだいぶ落ち着き、アメリカで現在放送されているところまでの『24』の新シーズン「Live Another Day」を観る。
これまでのシーズンとはガラリと変わったジャックやクローイの置かれた状況に少し戸惑いつつも、新しい展開をおおいに楽しむ。
それも観終えると、次は新しいドラマに取り掛かろうと思う。
ただし、いつも新しい作品に手を出そうとするときは、少したじろぐ。
多くの人が観ないという理由に挙げるように、とにかくアメリカ・ドラマは長いのだ。

たしかに自分自身、これまで海外ドラマに費やしてきた時間を思うと陰鬱になるが、それだけ得た対価も多いと思う。
緻密かつ壮大なプロット、日本のドラマとは比べ物にならない制作費を投じて作られているだけあってスケールの桁が違う。
思考の枠が一つ、また一つと取り払われていくかのように、ものの考え方・捉え方が大きくなる。
たしかにシリーズものは時間をとられる。
『ジョジョ』などその典型だけど、そのぶん得られた興奮や、何かしらの「楽しみ」が増えるというのは基本的に嬉しいものだ。『ジョジョリオン』の新刊は今でも楽しみに待っている。

キーファー・サザーランド主演『TOUCH』を観るか、『HOMELAND』のセカンドシーズンを観るか、悩んだ挙句、どちらでもない『ウォーキング・デッド』を観ることに。
海外ドラマを見漁っている後輩が勧めてくて、単なるゾンビものというよりは、"生の意味"などヒューマン・ドラマの要素もあるということで観てみることに。
つい今しがたシーズン1を観終えた。

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パニック要素、チームを形成していくこと、サバイバルなど『LOST』との共通項も多いものの、考えてみれば『LOST』よりもリアリティがある。(言うまでもなくキャラクターの配置にはかなりの共通点がある。たとえば主人公は圧倒的なリーダーシップでみんなを引っ張る。LOSTはジャック、WDはリック)
というのもご覧にられている方はお分かりのことと思うが、『LOST』は超常現象、神秘的宗教的な要素をストーリーに多分に含んでいる。
一方、『ウォーキング・デッド』ではそもそもの設定で死人がゾンビ化するという非現実性があるもの、それ以外は(それも100%ないとは誰も言い切れないと思いますが)徹底的にリアリズムが貫徹されている(少なくともシーズン1までは)と思いました。
最後のエピソードで、これまでキャンプを張っていた登場人物たちは、ある感染防止のための衛生施設にたどり着く。
そこで久々にありつくワインなどの嗜好品やあたたかいシャワー、恍惚を浮かべた顔、幸福感に包まれる面々。
日常で「当たり前」と化したものへのありがたみを思い出す象徴的なシーンですが、インドで2週間修行し、施設を出たあと駆け足で露天に行き、キンキンに冷えたコーラを飲み干したときのこと、2週間ぶりに浴びたシャワー、レストランで食べたバナナパンケーキなど自分自身の体験を思い出さずにはいられませんでした。
こうやって自分自身の体験や記憶を喚び起こさせてくれる点で、作品鑑賞というのは、(こうやって病床にふけてみるというのも)折にふれて意識的に行う価値のある行為なのではないかと多少思ったりしたのでした。
そもそも舞台は日本とアメリカで違えど、内容はほぼ『アイアムアヒーロー』と似てますよね。

映像ばかりを見ていると、今度は活字が恋しくなってきます。
さて、何を読むか。
ざっと自分の本棚を左から右へ、眼を移動させると、中島らもが目につきました。
そういえばずいぶん長いこと、読んでいなかった。
ちょうど課題図書など読まなければならない本もたまってはいたのですが、熱気味で読む気にならない。
だったら軽く、頭を空っぽにした状態で読めるものがいい。
らもの小説だとそれこそ本当にトリップ気味になるのが怖かったので笑、エッセイを読むことに。
高校1年生のときにとくに印象的だった一冊が『牢屋でやせるダイエット』。

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いつ読んだかも覚えてない、『砂をつかんで立ち上がれ』と『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』を読み終えた後、今は『僕にはわからない』を読んでいます。


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たまに読むといいですね。
いろんな生き方があっていい、小銭数十円しか持ってなくても大丈夫、とにかく「人生どうにかなるんだ」というシンプルで当たり前のことが再確認できるから。

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【前回のアメリカ・ドラマの話題】⇒『24』表象文化論的考察

2013年7月23日火曜日

読書『ニートの歩き方―お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』pha著

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニート界のカリスマ?phaさん(@pha)[ブログ:「phaの日記」]の『ニートの歩き方』をざっくり読みました。
たまには専門書ではなく、こういったゆるーい本も紹介。
じっさいこのブログで紹介しているのは、ごくわずかで、ぼく個人としてかなり幅広いジャンルの本を乱読しています。
「雑読」というからには、そんな色んなジャンルを適宜紹介できればと思います。

phaさんは京大の総合人間科学部卒。ヒャダインさん(@HyadainMaeyamadと一緒ですね。
僕もphaさんが作ったとは知らなかったのですが、一時話題になった「村上春樹風に語るスレジェネレーター」はphaさんの作品だそうです。


phaさんは「ギークハウス」という最近ではわりと有名になってきたシェアハウスの発起人で、ソーシャルで有名な方々の界隈をフォローしている人は、一度くらいphaさんのことは耳にしたことがあると思うのですが、(以前書いた「メディア化する個人」で何人か取り上げてます)
ない人のためにちきりんさんと対談なさっている「このボクが、“日本一のニート”を目指すことができたワケ」という記事などがニートになるまでの経緯が分かるかと思います。

phaさんはネットを基軸に生活を送っているわけで、そんなネットには大きく3つの利点があると。
一つ目は「人とのつながり」。
これは特にツイッターとかフェイスブックとかソーシャルメディアが日常化、というか人口に膾炙していく中で、人と人とがつながるための手段が出てきた。場所を越えた。


つまり、ニートであろうが、引きこもりであろうが、人とは常につながっている実感があるから、孤絶感は特に感じない。
ソーシャルのつながりはリアルのつながりへと簡単に転化する。

二つ目はネットは遊びの宝庫で、暇することがほとんどない。

三つ目に生存するための最低限のお金を稼ぐことができる。アフィがその筆頭ですね。
このブログでもささやかながら、アフィリエイトでお金を生み出しています。(本当に雀の涙程度ですが)

とにもかくにも、なぜ定職に就かずに、ニートとして「自由に」生きていくことを選んだのか。その思想背景を説明するために、ネットで前に拡散されていたあるメキシコの漁師の話を冒頭で引用されていました。

アメリカ人の投資家がメキシコの小さな漁村の埠頭についたとき、小さなボートに一人の漁師が乗っていた。ボートの中には数匹のキハダマグロが釣られていた。そのアメリカ人はメキシコ人に魚の品質を褒めて、釣り上げるのにどれくらい時間がかかったのか尋ねた。メキシコ人は答えた。「ほんの少しの間さ」「何故、もう少し続けてもっと魚を釣らないのかい?」「これだけあれば、家族が食べるのには十分だ。」「でも、君は残った時間に何をするんだい?」メキシコの漁師は答えた。「朝はゆっくり目を覚まし、少し釣りをして、子供たちと遊び、妻のマリアと昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴ(仲間)とギターを弾くのさ。それで人生は一杯さ。」アメリカ人は小馬鹿にし、「私はハーバード大のMBAを取得しててね、きっと君を助けることが出来ると思うよ。」「君は、もっと釣りに時間を割いて、その収益で大きなボートを買うんだ。大きなボートでまた釣りをして、その収益で今度はボートを何台も買うんだ。次第に、君は漁船の一団を率いるようになるだろう。そして釣った魚を仲介者に売る代わりに、製造業者に直接売るんだ。次第に、君は自分の缶詰工場を始めるようになるだろう。君は生産・配給量をコントロールするようになる。この沿岸の小さな漁村を離れてメキシコシティに移る必要が出てくる。それからロスアンゼルスへ引っ越し、次第にニューヨークへ移り、君はこれまで拡大してきた君の企業を運営するんだ。」メキシコの漁師は尋ねた。「でも、一体どれくらい時間がかかるんだ?」それに対して、アメリカ人は答えた。「15年から20年だろうな。」「で、それからどうなるんだ?」メキシコ人は尋ねた。アメリカ人は笑って「時に合えば、君は株式公開をし、君の会社の株を売って、大金持ちになるのさ、億万長者にね。」「億万長者?…で、それからどうなる?」アメリカ人は言った。「それから君は引退して、小さな沿岸の漁村に引っ越し、朝はゆっくり目覚め、少しだけ釣りをして、子供たちと遊び、妻と昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴとギターを弾くのさ………」(引用元
 
当たり前は当たり前じゃない。常識は社会が徐々に構築していく。
「規律権力」に憤然と立ち向かっていくフーコーはそのシステムの虚構性を系譜学的にアカデミズムにおいて暴き出すことに生涯を捧げたわけですが、phaさんはもっとゆるくでも自分の生得的な直観に従って、実践しているような。
なんだか坂口恭平さんと考えは近いような。アプローチはぜんぜん違いますが。
坂口さんの『独立国家のつくりかた』を読んだ時にこんなツイートをしていました。
去年の8月でしたか。衝撃的ではあったんですが、やはりどことなく中島らもの香りのようなものをその文体に感じずにはいられなかったというか。 
ハイな状態で書かれた文章ってやっぱり分かるんですね。なんだかクリエイティビティがほとばしっているというか。(アメリカに居た時、こんな文章残してました「クリエイティビティとマリファナ」)

phaさんも、中島らもを愛読しているようで、ギークハウスと比較したうえでらもの「ヘルハウス(地獄の家)」について触れていました。(参照:『バンド・オブ・ザ・ナイト』)
少なからず、みんな体制とか「当たり前とされていること」に対する疑問や違和は抱いていると思うんです。ようは程度の差であって。


マーク・ボイル

phaさんのさらに極限刑がウェブをも捨てた『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のマーク・ボイルですよね。
彼のように自然に帰る人。ネットに居場所を見つける人。
選択肢は一つじゃない。この事は僕自身もずっと考え続けてきたことで、前に「就職、進学、そして生きていく事」で考えをまとめて書きました。

気になるのは、どうやってその分岐が生まれるのか。
大部分の人は疑念は抱きながらも、それが唯一のベストプラクティスであると自分自身に思い込ませる形で、大勢順応していく。
だけど、phaさんやボイルのように道を切り拓こうとする人もいる。
月並みな言い方をするならば、やはり出会いや環境によるのかなと。(Cf. 「ぼくらの興味は絶えずつくりだされていく」)
phaさん自身が紹介していた中では「セブ島で大喜利をするニートの話」など、少なからず、体制から飛び出して、自分で生きていこうとユニークな試みをしている人はいるそうです。



ニートを自称するだけあって、組織に縛られていないからなのか、かなりの読書量が文体から伝わってきました。そして実際、本書では数多くの本や漫画が紹介されています。
その中で、かなり説得力があったのは長谷川英祐さんの『働かないアリには意義がある』の議論。
真社会性生物として知られる蟻ですが、個体間には労働に対する反応閾値の違いがあるらしく、まあ簡単にいえば8割は働きものなんだけど、残りの2割は怠惰である。
これを敷衍して「個と全体の生物学」としてもう少し巨視的に観察すると、全体で一つの超個体(=社会)が成り立っている。これは単純な類似というよりも、かなり精確なアナロジーとして人間にも当てはまるのではないか、というのがphaさんの考え。
で、ぼくも(これもアメリカにいたときに書いたものなのですが)以前「Society and Diversity」と何故か英題のブログで書きました。
「天才もクズも社会の一部」だと、その通りだと思います。



ぼくも大好きだったアリケンというテレ東の番組で「しゃべり場」というパロディチックなコーナーがあって、上の回の題は「テレビには駄目人間を出すな」という有吉の提起が議論されるんですが、その中で
くりーむしちゅーの有田が昨今の(最近はヘキサゴンの時ほどは酷くないと思いますが)おバカタレントブームには視聴者はそれをみて、「自分より劣っている人がいる」という優越感を感じさせるための構造があるから、それが数字に繋がっているんだということを言っています。

これは再び敷衍するなら、なぜ日本の自殺者は約3万人で推移し続けているのかのヒントになるかもしれない。いきなり10万人になったりしない、ということをphaさんは言っていました。

ホリエモン

そして、環境で人は常に変わり得るということは、たとえば自分が今、総合職の商社マンでエリート街道を突っ走っているという確信のもと、ニートの人たちを社会の害悪として卑下したとしても、常に自分が彼で、彼が自分だったかもしれない蓋然性は免れない。
社会や自分という存在は大いなる"偶有性"の所産でしかないのだから。
ホリエモンがたしか『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』でだったのだと思うのですが、刑務所での経験で驚いたことの一つとして、収監されている人が凶悪な人だという大方の予想に反して、案外みんな塀の外にいる人と変わりのない"普通の"人であったということを言ってました。
なにより人は最初、ニートであった、とphaさんは後半で言います。
ベンジャミン・バトン』ではそれを逆方向から描いているように、赤ん坊は一人で生きていけないのと同様に、高齢になると独りで生きていくのが困難になっていく。

もしみんなニートだったら、そんな社会は成り立たないですが、
なんの脈絡もなく安藤昌益は『自然真営道』で語った思想が頭をよぎったんですね。
貪りとる者もなければ,貪られる者もなく,自然も社会も一体となり,自然の営みの中で社会全体で耕し,それ以外に何一つ人為的な行いはない。これが自然の世の有様である。
みんな農業すれば、ハッピー。妬みも恨みもないただ、その日を家族や友人と過ごす。 
アイスランドにいたときに感じたこと。(Cf. 「アイスランドの少年と幸せ」)
そもそもこういった考え方自体がマルクス主義の労働=疎外論と共振性があるのですが。
たとえば有名な一節がありますね。
朝には狩をし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。(『ドイツ・イデオロギー』)


家入さんとイケダさん

家入さんのリバ邸(Cf. 『お金が教えてくれること』)とか、イケダハヤトさんがプロブロガーと自称することや(僕自身は未読ですが『年収150万円で僕らは自由に生きていく』という本でその背景が書いてあるのだと思います)、安藤美冬さんが『冒険に出よう』で提唱するようなノマドワーキングなど、中島義道さんの『働くことがイヤな人のための本』などを思わず手にとってしまう人にとっては、実践的なヒントになるであろう、アクチュアルな生き方が多様化してきているのは間違いないかと。

2012年7月14日土曜日

映画『トレイン・スポッティング』


好きな映画トップ3に入るといっても過言ではない『トレイン・スポッティング』を衝動的に観返しました。最後に観た時から、もう3年くらい経ってたのかな。

人生を選べ。仕事を選べ。キャリアを選べ。家族を選べ。大型テレビを選べ。洗濯機を選べ。車を選べ、CDプレーヤーを選べ....
映画がはじまると同時に、颯爽と市街を駆け抜けていくレントン。
無限に続く選択、その連続性から共起する「人生」。

なんてファッショナブルな映画。

つくられたイメージ。
時代を超越してトレンドを追いかける若者。
繰り返される家族や友人のオーバードラマティックなイベントの数々。

ドラッグ、喧嘩、退廃、鬱、裏切り。

舞台もイイ時代のイギリス。とてつもなくクールでカッコイイ。

裸のランチ」や一連の中島らも作品を想起せずにはいられない。 

ユアン・マクレガーたまらないです。
ユアン・マクレガーといえば、高校時代に英語の授業で約半年くらいかけてシーズンすべて観た『ロング・ウェイ・ダウン』というドキュメンタリーが印象に残ってます。



バイクでひたすら世界の大陸を突き進んでいくという企画。
泥だらけになりながらも、砂漠や荒野をひた走るだけのドキュメンタリー。

いずれにしてもダニー・ボイル監督ならではの作品なんだろうなあ。
同じ系列でいくと間違い無く『ファイトクラブ』も好きですね。



大学生ブログ選手権