2012年9月30日日曜日

言葉を手に入れていく感覚


感嘆符は取り去りなさい。あれはまるで自分のジョークに笑い転げているかのようです」(スコット・フィッツジェラルド)
小説を書く、物語を書く、というのは煎じ詰めて言えば、「経験していないことの記憶をたどる」という作業なんです」(ハルキ・ムラカミ) 
書くということに特別なことは何もない。ただタイプライターの前に座って血を流すだけだ」(アーネスト・ヘミングウェイ)
『月が輝いている』、なんて言わないで欲しい。ガラスの破片にきらめく光を見せて欲しいのだ」(チェーホフ) 
自分ではない何かを想像すること、謎を平易にし、平易なものを謎にすること、それが作家の力を表す能力なの」(トニ・モリスン)
執筆は夜中に運転するようなものだ。ヘッドライトの届くところしか見えないが、それでも目的地にたどり着くことができる。」(E・H・ドクトロウ)
向かいに座った人に話していると思いながら書きます。私がお話を語る間、彼らには終わるまで立ち去ってほしくないのです」(ジェイムズ・パタースン)
真夜中に起きだして書いたものは修正する必要がない」(サウル・ベロー)


言葉を手にしていく感覚。世界を知り、接し、表現し、生きること。 
言葉を両手に携えながら、手探りで進んでいく道。
言葉は世界を照らしだし、わたしたちをガイドする。
天下無双とは…ただの言葉じゃ」(柳生石舟斎『バガボンド』より)
新しい言葉は自己拡張をもたらす。
何を読んでも同じことが書いてある、と思うようになったら、そこから先を考えるのは自分にしかできないことなんだ、と考えてみる」(F太
あなたの祖母に説明できない限り、本当に理解したとは言えない (アインシュタイン)
とらえどころなくアメーバのように、空間のあちこちに偏在した分裂した、角に詰まったコトバを鷲掴みに、言葉を付与したい。
Nothing lasts forever. Forever is a lie. All that we have, is what's between hello and goodbye.
もっとコトバの奥にいきたい。
The idea of intersectionality to conceptualize the complexities of multiple and conflicting identities.
できる子はできない子の4.6倍のボキャブラリーがあるー日本語の語彙を測る/ 増やす方法

2012年9月29日土曜日

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』


観終わってすぐにリビングへ行き、世界の亀山モデルの液晶テレビをみて濁流のように下っていく時代の激流を感じました。

やっぱりいい映画はキャスト、演出が素晴らしい。

淳之介とおっちゃんの関係性は突き詰めると「バクマン」の真城最高と高木秋人みたいになりそう。出逢うべくして出会ったみたいな。縦の糸と横の糸。



堀北真希がかわいすぎて、青森弁もドンピシャでした。
ほっこり。

ラストシーンで鈴木家勢揃いで夕焼けがかった東京を見つめながら、お母さんが「綺麗ねえ」と零すのに対して、まだ小学生の長男が言うセリフ。
「夕日は明日も明後日も50年後もずっと綺麗なままだよ」
街並みや技術は日進月歩に変わっていくけど、変わらないものもたしかにある。
沈んでいく夕日の輝きや、ひととひととの温かなかかわり。
映画に通底したテーマを含蓄した最後のセリフ。グッと来ました。

マルメラ




マルメンライトを吸うことになってから久しい。
この前、フィリップ・モリスに勤める先輩と食事したとき、マルメンライトが一番の売れ筋だと話してた。次点としてはゴールドとからしい。


なぜかぼくの周りではアメリカン・スピリット吸ってる人多いですけどね。
アメスピはいかせん減りが異常に遅い。なっかなか減らないし、煙も強く吸い込まないとなかなか供給されない。


セッターは海外の友達の受けがいいです。お土産にすると喜ばれます。


あ、そういえば先日マイセンの名称がメビウスに変わりましたね。
かなりディスられてましたが...。



今までいろんな種類のタバコを吸ったけど、やっぱりダントツで一番好きなのはアメリカで売ってるキャメル・メンソール。
日本では震災をきっかけに販売中止になったキャメルですが、もともと日本とアメリカでは味が違ったので別に悲しくはないです。
今現状としては、友達がアメリカに行く事があれば、ついでに買ってきてもらうって感じです。


キャメルが手元にないときは、代替としてマルメンを吸ってたのですが、今はライトまで落としてます。ウルトラライトだと軽すぎるんですが、マルメンライトはかなり絶妙な加減だと思います。




アイスブラストってたまーに吸いたくなるんですよね。


タバコと相性の良い飲み物って数々あるんですが(お酒とかは言うに及ばず)、ぼくはエナジードリンクの類が最も好きです。
レッドブル、モンスターは鉄板ですね。それを朝一にやった日には頑張れます。


とりあえずぼくには『禁煙セラピー』効果ありませんでしたね。笑

お酒の席であったり、クラブに行ったりなど、その時の状況が与える「吸えよ、吸っちゃえよ圧力」はすごいものがある。
あとどうして禁煙に励んでいる時ほど、映画で美味しくタバコを吸うシーンが出てくるんだろう(たとえば『ドラゴン・タトゥー』のダニエル・クレイグ)、街でも美味しそうにタバコを吸うおじさんたちが目につきます。
まあ一種のカラーバス効果みたいなもんで、心がそっちにすがりついてるからなんだとは思うんですが。

なんだかとりとめのないタバコにまつわる話になってしまいました。





2012年9月28日金曜日

読書『選択の科学』シーナ・アイエンガー著


「選択」に関する数々の著名な研究で知られるコロンビア大学・ビジネススクール教授シーナ・アイエンガーさんの『選択の科学』よみました。
日本でもNHKのコロンビア白熱教室などで広く知られていると思います。
もっとも知られた研究としては「ジャムの研究」があります。
スーパーにジャムの試食ブースをつくり、ある週末には6種類のジャムを、別の週末には24種類のジャムを並べて買い物客の反応を調べるという実験を行った。
24種類のジャムが並べられていたときは買い物客の60%が試食したが、6種類のときには40%しか試食しなかった。しかし、驚くべきことに、選択肢の数は購入には逆効果となった。品揃えの多いブースでは買い物客の3%しか購入しなかったが、少ない選択肢しか与えられなかった買い物客は、30%近くが買ったのである。(引用元
つまり多様性は正義という一般に信じられている通説に対して、セールスの観点から考察すると人はある程度絞られた選択肢に引き寄せられるという研究結果が出たのです。

アイエンガー教授は全盲です。 でもぼくは思うんです。
全盲や失聴だったり、五感の一部を失っている人は感性が極限まで研ぎ澄まされていると。物事の本質や人の行状を看破する洞察力が極めて卓越していると思います。
この本でも数々の研究から目から鱗の事実がいくつも浮かび上がってきます。
研究から意外な結果が得られるものを紹介した本としては『みんなの意見は案外正しい』なども驚き満載でした。

ただ驚嘆するようなデータを列挙するのみならず、生きていくことや、生きていく意味など哲学的観照と紐付けながら論を進めていくので、とても引き込まれる。
その意味でいうと『20歳のときに知っておきたかったこと』と似たような色彩があります。

あえて一説気に入った部分を引用するとしたら、本著で援用されているストア派小セネカの言葉ですね。
「隷属状態が、人間の存在全体におよぶと考えるのは誤りである。人間の大切な部分に、隷属はおよばないのだ。たしかに肉体は主人に隷属し、捕らえられているかもしれないが、精神は独立している。実際、精神はきわめて自由で奔放なため、肉体を閉じこめている監獄でさえ、それを抑え込むことはできないのだ」

GANTZでいうところの「新しい朝」

「てめぇ達の命はなくなりました」
この薄気味悪い音楽を突拍子もなく流したあと、吐き捨てられるセリフ。

僕の最近の生活というか、朝起きた時に照らしてみるとなかなか示唆深く、ヒントになるものだとフト思いました。


朝、起きから「シャンとする」までの時間をいかに短縮するか。
夢の世界から現実の世界への移行を円滑にし、臨戦態勢に入るか。
朝起きてからの決意(といえば大げさですが)をどれだけ強く意識的に持てるかが、その日の成果率を大なり小なり決定づけるものなんじゃないかと思います。

最近ではかなりサバイバル意識を持って過ごせているので、目覚ましをかけずとも体が勝手に8時前には起きるようになっています。
前日の夜何時に床に就いてもです。

「今、起きなかったら、お前は40歳になったときに独身の子どもなし野郎だ」と自分に発破をかけます。
すると、間髪いれずに起きれますw

あれに似ていますね。
「どんなにつらいことがあっても80歳になった自分への思い出のプレゼントだと思えば楽しくなってくる」
それとかジョブズの
「もし今日が人生最期の日だとしたら、あなたは今日やろうとしていることをやるだろうか」 
今まではとーっても怠惰な生活、朝方寝て、昼過ぎに起きる(約10時間は睡眠)というかなりオワコンな生活をしていたのですが、朝型生活にシフトしてからはかなり生産的な日々を過ごせている気がします。
なんといっても朝早起きするのは気持ちいですし、夜になるとナチュラルに体もヘトヘトになっているので、すんなり睡眠できます。ほとんど不眠症になることもないですしね。

前まではベッドに入ってからなかなか眠りにつけずに音楽を延々聴いてみたり試行錯誤が大変でした。
朝型シフトに移行するのは最初の数日は苦痛を伴いますが、上に書いたような一種のライフハックを用いるとなかなか効果的です。笑

2012年9月25日火曜日

映画『最強のふたり』


最強のふたり』公開終了間際に滑りこみで観れて本当に良かったです。

主人公はフランスの大富豪とバロテッリにも似た低所得者層出身の黒人青年。
簡単なあらすじを概説しておくと、この大富豪は障害者で首以下が麻痺しており、自分で生活することができず、ヘルパーの助けが必要なんですね。
失業者保険を貪り続けてきた黒人青年ドリスは豪邸でヘルパーとして働くことになります。

なぜ大富豪が経歴がしっかりした他のヘルパー候補者でなく、ドリスを選んだか。
ドリスが彼を特別視せず、障害者をアンタッチャブルとみなさないで、至極普通に接したからです。

これまで穏やかで静かな日々を送っていた富豪フィリップの日常は一変します。

数カ月前に『パリ20区、ぼくたちのクラス』というフランス映画をみてフランスの移民国家としての問題点や教育の状況などについて多少の背景知識があったので、この映画でもそういった国内状況の一端が伺えるシーンがありました。
階層ごとに分断された国。各シーンで目についたのは、例えばレストランやカフェ。ドリス以外の客に黒人が見当たらなかったことはその一例です。

サントラもすごくよかった。

たった一人のひととの出会いで、どれだけ人の人生は簡単に変わるのか。それも劇的なまでに。

映画を観終わって、友達が口々に漏らしていたのはタイトル。
しっくりこないという。ぼくも同意なんですが、ただ代替案が思い浮かばない。おそらく制作サイドも苦慮した上での翻訳だったんでしょう。

今年みた映画では二番目に面白かったです、個人的に。
暫定一位は『おおかみこども』かなあ。

2012年9月24日月曜日

FIND A WAY OR FADE AWAY



Lately I'm under pressure faced with future paths, really have no clues as to which way leads to a right truck.
Down to depthless dark I reach out my hands hoping to feel the bell ringer out of it.

Today I was working as usual and this couple came by (they come regularly).
When I first met them I was only 16 which means I've been working almost 7 years now.
It's always nice to have some repeat customers. We talk about random stuff, how daily lives are led, sometimes about life.

But especially that couple is kind of special for me.
This past 7 years, I had talked about what I am up to and what I want to do in my future to them. Every time, they just listen to my stories ardently and give me a little smile rather than giving me stale ideas or what they think about it.
Looking back, those little opportunities to talk have given me times to ponder on what I REALLY want to do or accomplish down the road.


Today was the day.

"Hey how are days, have you made up your mind? what you really wanna do"

Then I went,,,
"um, not quite, actually"

"You used to say you wanna be a diplomat. Wasn't that a reason that you started working here? to save up some money to study abroad"

and here I am, looking back on those days before entering the university.

Next month, I will be taking an exam which might change my life.
I don't know where I will be around this time next year, which is really both unsettling and exciting.





2012年9月23日日曜日

今夏も広島へ


今夏も昨年に引き続き、広島へ。想定外だったんですが笑
昨年は夜間に訪れた原爆ドーム。今年は昼間に。そして修学旅行ぶりに資料館へも足を運びました。


広島滞在中、二度お好み焼きを食べました。
本当は去年行って美味しかった平野というお店に行きたかったのですがあいにく閉まっていたので、二度ともお好み焼き村へ。


ビアガーデンにも行きました。ここでフローズン生飲めるとは。



そして昨年行きそびれた宮島・厳島神社へ。天気にも恵まれて、とても気持ちよく観光できました。

三日目からはレンタカーを借りて、県内のいろいろなところを巡りました。

千光寺公園

灰ヶ峰展望台

海猿の舞台でもある呉に宿泊しました











2012年9月11日火曜日

読書『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』白川俊介著


先生に薦められた白川俊介さんの『ナショナリズムの力』読みました。
白川さんはまだ29歳なんですね、若い。

タミールの『リベラルなナショナリズムとは』を読んだばかりだったので、内容が滑らかに頭に入ってきました。

今著でもコスモポリタニズムとは一定の距離をおきつつ、リベラリズムの系譜学的変容、ナショナリズムと結びつくまでの道程がわかりやすく論じられています。

骨格としては
リベラル・ナショナリズム論は、リベラル・デモクラシーの理念や政治枠組みがナショナリティに支えられていることを強く自覚し、またそれを積極的に評価する。
「多文化共生」を構想するうえで、ナショナリティ・国民国家・国境線は単に障害でしかなく、乗り越えられるべきものなのだろうか。ナショナリズムと共生は一見すると相反するもののように思われる。だが、ナショナリズムには、リベラル・デモクラシーを下支えし、多文化共生を支える力もある。
リベラル・ナショナリストは、従来のリベラルの想定してきた無属性的な負荷なき自我観および文化中立的国家観を批判し、リベラル・デモクラシーの政治枠組みにはナショナルな文化が不可避的に反映され、そのことによって政治枠組みを安定的なものにし、また個人は、みずからになじみ深い政治枠組みのなかで善き生の構想を自由に探求できるという。 
【「雑居型多文化共生世界の構想」と「棲み分け型多文化共生世界の構想」】
単一のリベラル・デモクラシーの枠組みにおいて人びとが暮らす「雑居型」ではなく、それぞれのナショナルな文化に根ざした、個別的かつ多元的な政治枠組みが構想され、お互いを尊重しながら共存するという「棲み分け型多文化共生世界」の構想が立ち現れてくる。
【「社会構成文化」(societal culture)】 
「公的領域と私的領域の両方を含む人間の活動のすべての範囲ーそこには、社会生活・教育・宗教・余暇・経済生活が含まれるーに渡って、さまざまな有意義な生き方をその成員に提供する文化」であり、この文化は「それぞれが一定の地域にまとまって存在する傾向にあり、そして共有された言語に基づく傾向にある」
【LDのバッテリーとしてのナショナリティ】
社会正義や民主主義などが安定的に機能するためには、当該の政治社会に信頼関係や連帯意識が成立していなければならないということであり、それらは親族・社会階級・宗教・民族などの絆を越えるネイションへの帰属心によってもたらされる。この意味でナショナリティとは、リベラル・デモクラシーの政治枠組みを安定的かつ持続的に起動させるいわば「動力源」である。 
【「非自発的アソシエーション」by マイケル・ウォルツァー】
それは簡単には離脱できないような、一定程度閉じられたものである。「」は構成員をそこから離脱できないように道徳的に束縛する。閉ざされた空間のなかで他者とともに生き、相互に扶助しあうといった社会的協働の基礎を生みだす。ウォルツァーは「交互に支える用意のある相互支援の政治体制がなければ、自由な諸個人からなる政治体制は存在しえないだろう」という。
さいごにアイザイア・バーリンのコスモポリタニズムに対する警句
「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史的記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれることは、飲食、安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、みずからにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからにほかならない。コスモポリタニズムは、彼らをもっとも人間らしく、また彼らが彼らたるゆえんを捨て去ってしまうのである」
このタイミングでこの本と巡り会えたことはぼく個人的には大きい。
卒論の核というか、教科書になりそうな本です。 

読書『リベラルなナショナリズムとは』ヤエル・タミール著


イスラエルのテル・アヴィヴ大学の政治哲学教授であり、イスラエル労働党の著名な政治家、2006年にはイスラエルの教育大臣も務めたイスラエルの平和運動家ヤエル・タミールが著した『リベラルなナショナリズムとは』を読みました。
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」
ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

【公民教育とナショナルな教育】
市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。
【オプティミスティックなのだろうか?】
われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。
【胎動するナショナリズム】
例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。
【本著の主張】
すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。 
【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】
単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。
 【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】
ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。
【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】
という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける
【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】
アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。
結論として
未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。 
訳者あとがきより
リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。 
ズバッと。

2012年9月6日木曜日

読書『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』マーサ・ヌスバウム著


ひさびさに読んだ本でも振り返ってみたいと思います。
マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』。

ロールズの『正義論』、『政治的リベラリズム』、『万民の法』を中心テクストにそれらで呈示された諸概念(「無知のヴェール」や「格差原理」など)を批判的に捉え直し、むしろそれを脱構築することで、これまでの伝統的な契約主義者の前提条件から排除されていた主体(障碍者・外国人・動物)をも包摂するような正義論を構築することが本著の主題。

これまでの社会契約主義者たちは、正義の中心主体は「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定してきた。
ただ、それで本当の正義は達成されうるのか、と疑問を呈したのが筆者の問い。

社会契約の伝統は「社会の基本的諸原理は誰によって設計されるのか」と「社会の基本的諸原理は誰のために設計されるのか」という、原理的に異なる二つの問題を融合している。
社会契約およびその目的に関する構想を全体的に変えない限り、別個独立の想定は、平等の想定と同様に、容易には変更しえない。それというのも、この構想が描いている当事者はそれぞれ、相互協働の利益を得るために自らの特権の一部を犠牲にすることに意欲的な、各々が生産的な個人だからである。
そして批判対象のロールズの正義論の尺度として用いられているのは「富」と「所得」である。これでは上記のような主体は排除されていしまうので、筆者が新しいアプローチとして提唱するのが「可能力アプローチ」と呼ばれるもので、具体的なリストとして以下の10点が挙げられている。


①生命
②身体の健康
③身体の不可侵性
④感覚・想像力・思考力
⑤感情
⑥実践理性
⑦連帯
⑧ほかの種との共生
⑨遊び
⑩自分の環境の管理
可能力アプローチが契約主義よりも正義の問題に対して柔軟に接しうるのは、それが結果指向の理論であって手続き的な理論ではないことを理由のひとつとしている。
障碍者が契約理論の前提から排除されてしまっていることを「契約理論の不快な特徴」と筆者は切り捨てている。
人々はが他者と集って基本的な政治原理のために契約するのは、ある特定の諸状況、つまり相互便益が期待でき、かつ全員が協働から利益を得る側にある状況においてのみである。通常ではない費用がかかる人々や、集団の福利への貢献度がたいていの人々よりもはるかに低いと見込まれる人々を初期状況に含めることは、この理論全体のロジックに反することになるだろう。もし人々が相互有利性のために協働的な制度を編成しているならば、協働を通じた利得があると期待しうる相手と集いたいだろうし、社会的生産にほとんど何も寄与しないにもかかわらず、例外的で高額な費用がかかる配慮を要求し社会の福利レヴェルを引き下げる相手とは、集いたくないだろう。
また、リストは多元主義と寛容とも分かちがたく結びついており、以下の点も筆者は肉付けしている。
①リストは可変的で継続的な修正と再考を免れないものだと理解されている
②リストの項目は、まさに各国における市民たちおよび議会と裁判所による明確化や熟議といった活動の余地を残すために、やや抽象的で一般的な仕方で定められている
③リストは独立の「不完全な道徳的構想」を表すものであり、政治目的のためだけに導入されている
④適切な政治目標は可能力であって機能ではないことを強く主張するならば、国際領域においても多元主義は保護される
⑤言論の自由、結社の自由、良心の自由という、多元主義を保護する重要な自由が、リストの重要な項目になっている
⑥可能力アプローチは、正当化の問題と導入の問題を厳格に区別する
とりわけ注目しておきたいのが、可能力アプローチと「教育」の関係性であり、筆者もその重要性を特筆している。
あらゆる人間の可能力の鍵は教育である。また教育は世界でもっとも不平等に分配されている資源のひとつである。民主主義にとって、人生の享受にとって、自国内部の平等および社会的流動性にとって、そして国境を越える実効的な政治活動にとって、教育よりも重要なものはない。教育は役立つ専門技能を与えてくれるものとしてのみならず、同時にもっと重要なこととして、人間を適切な情報、批判的思考、そして想像力を通じた全般的にエンパワーメントするものとしても、理解されるべきである。
またミルやベンサムなどが支持する「功利主義」もこのアプローチとは相容れないものとして批判対象に含まれる。
功利主義は共同体をひとつの超人格として扱うことを通じて、またこの単一構造内におけるあらゆる満足は代替可能なものであると見なすことを通じて、諸個人と彼らの生が根本的に別個であることを無視しており、それらを「権利と義務がそれに従って割り当てられることになる数多くの系列」として扱っている。
ベイツやポッゲのグローバル・ジャスティス論にも言及しており、「グローバルな構造のための10の原理」 として以下のものを列挙している。
①責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。
②国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。
③豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。
④多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。
⑤グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国および発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。
⑥薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。
⑦すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人びとの諸問題に集中しなければならない。
⑧病人、老人、子ども、障碍者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。
⑨家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。
⑩すべての制度と個人は、不遇な人びとをエンパワーメントするさいの鍵として、教育を支持する責任を負う。
結論は以下のよう。
相互有利性のみを接合剤とするリベラルな社会の像には特異な歴史的起源があり、またそのような像のみが有効であったわけではないということを、私は示してきた。
想像力に富んだ勇気がなければ、こうした三つの領域が突きつけるとてつもなく大きな困難を前に、公衆の皮肉と絶望とが残るだろう。だが、可能であるかもしれないことに関するいくつかの新しい像があれば、これらのフロンティアに少なくとも接近することができるのであり、また哲学の理論がこれまで頻繁に承認してきた世界よりもはるかに複雑で相互依存的な世界における正義は何でありうるのかについて、創造的に思考することができる。