2013年1月16日水曜日

読書『リベラル・コミュニタリアン論争』アダム・スウィフト、スティーヴン・ムルホール著


ゆっくり読んでいたらかなりの日数を要していました。
本の構成としてはリベラリズムの旗頭とされるロールズの一連の著作群(『正義論』を中心)に対するコミュニタリアンの批判とそれに対するリベラリズムの応答。
この行ったり来たりを詳細に検討したもの。政治思想に関わらず、哲学、倫理学、はたまた経済学まで、テーマ自体がかなり分野横断的なので学部生も院生も一読の価値があると思います。

コミュニタリアンとしてサンデル、マッキンタイア、テイラー、そしてウォルツァー
リベラリストとしてロールズ、ローティ、ドゥオーキン、そしてジョゼフ・ラズ。



【基本的なコミュニタリアンの論旨】
社会的紐帯は、他のたんに個人的な目的を達成するための手段としての価値を超えて、それ自体として価値がある。
サンデルが「原初状態の秘密」として描き出した部分が面白かった。 
原初状態の秘密ーそしてその正当化を生む効力の謎ーは、そこにいる当事者がなすことではなく、むしろ理解することのなかにある。問題なのは、かれらがなにを選択するかではなく、なにかを理解するかであり、なにを決定するかではなく、なにを発見するかである。原初状態において生じていることは、結局のところ契約ではない。それは、ある間主観的存在が、自己意識に到達することなのである。
【テイラーのコミュニタリアン的人間観】 
人間とは、自己解釈する動物であり、人格としての自分のアイデンティティが、自分の帰属する言語共同体を基盤としてそこから導き出せる善の構想への方向付けと愛着とに依存している生き物に他ならない。


【「対話の網の目」】
わたしが怒りとはなにか、愛とはなにか、不安とはなにかといったことを学ぶには、われわれにとってーつまり、われわれの共同体を作り上げている関係性の網の目のなかで特定の役割なり地位を有する人びとにとってーそうしたことがらをがどんな意義をもつのか、他者と経験を共有するほかないのである。
【コミュニタリアニズムのリベラリズムに対する攻撃】 
リベラリズムのように個人主義的な政治の伝統は、すなわち、一定の自由と平等に対する一人一人の人間の権利に重きをおく政治の伝統は、それら諸権利を保護することへの関心を表現するにしても、それら諸権利を下から支えている社会構造をも同時に保護する必要性を無視していたり、そのような必要性と矛盾したりする形でそうした関心を表現してはいけないことになる。
(五つのアジェンダ)⇒ 
①人格の構想
②非社会的個人主義
③普遍主義
④主観主義か客観主義か
⑤反完成主義と中立性




個人的に響いた箇所

<どんな挑戦に直面しているかを自分で決定する>ということが、ほかでもないその決定するという挑戦の媒介変数なのである。
あとコミュニタリアニズムを理解(grasp)するのに役立ちそうなドゥオーキン巧い比喩
オーケストラが集合的な生を有するのは、その構成員が、そのなかで自分たちが構成要素としてあらわれる、人格化された行為の単位(unit of agency)を承認するからである。
⇒ある共同体の共同的生は、さまざまな実践や態度によって、集合的なものとして取り扱われる諸活動を含む。それらの実践や態度が、一つの集合的行為者としての共同体を創造するのである。
ラズのリベラリストらしい主張としては 
自律的であるために、また自律的な生を営むために、なくてはならないのは複数の選択肢である。人間にはさまざまな能力を行使したいという生得的な衝動がある。複数の選択肢があると、ひとが生涯にわたって持続する諸々の活動が、全体としてみれば人間のありとあらゆる能力の行使になるし、またどれか一つの能力をあえて発達させないことも可能になるのである。
なかなかヴォリューミーなので、ゆっくり味わって読もうとすれば一日では厳しい分量です。「リベラルvsコミュニタリアン論争」の既知の知識がないと尚更。
学部生の教科書としてはかなり良書だと思います。 



その他のメモ

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