2013年1月23日水曜日

存在証明としての『卒論』


昨日、無事に卒業論文を執筆完了し、提出することができました。
論題は『「想像の共同体」リベラル・ナショナリズムの視角からの再検討―差異の世界における正義の探求』です。
(なぜこういったテーマを選択したかについては、後述します)
自分のための備忘録のためにも連々思うところを書き殴っておこうと思います。

i. 卒論独特のハードさとその対価


正直、執筆途中でいくども挫けそうになりました。なんてゆう大風呂敷を広げてしまったのだろうと。(これでもまだ絞った方で、当初はこんなモノにしようかと思っていました)
でも書き終えた今、沸々とした充足を感じています。

はっきり言って、卒業論文はこれまでの課題とは比べ物にならないほどの苦行でした。
大学で課される課題にはあくまでも「カクカクシカジカ」の課題内容が明示されています。アメリカ留学中に書いたターム・ペーパーも分量という意味では日本とは比肩できない過酷なものでしたが、教授が求めているものを言われた通りに提供すれば、それなりの評価を受けることができるのです。
卒論をハードたらしめるのは、課題設定から自分で行わなければならないということです。

力を抜こうと思えば、いくらでも抜けるとは思います。
本やウェブからササッと要点やアイディアを拝借し、パッチワークのように配列するだけですから。
そして「卒論代行業者」なるものまでありますからね。。「意思あるところに道あり」ならぬ「ニーズあるところにビジネスあり」のような。倫理的にグレーゾーンだと思いますが。。

しかし、①トピック選び②課題設定にこそ、個人が身に付けるべき能力の源泉があるのだと思うんです。③文献読込④執筆は副次的なものだと思います。(もちろん一筋縄ではいかないのですが)

明確に定まった期限の中で、もがきあがき、自分の限界突破をしていかなくてはならない。背中にのしかかる重圧。
なんだか、受験期と同じような感覚でした。
強制装置の中に身を置くことは、やっている最中では拷問のようでも、終えてしまうと解放感以上に達成感を得られる気がします。
「もう二度と受験はしたくないけど、人生一度の中で経験しておいて良かった」というような。
受験勉強はある意味で易いのかもしれません。レールに沿って(たんたんと参考書や過去問を消化していく)
論文を書くということは(ある程度の定型があるにしても)自らでレール自体を敷設しなくてはならないのです。

そもそも日常生活で自ら、自分自身に、このような緊迫したシチュエーションを課してストイックに打ち込めるほど精神的に強靭な人もなかなか居ないのではないかと思います。
だったらいい機会だと思って遮二無二に取り組んでみるほうがよっぽど得策なんじゃないでしょうか。

ちなみに「思考することは、相当カロリーを消費するらしいです」。(ソース

ii.敵は知の巨人ではなく自分自身


学部生の論文にそれほど教授だって期待はしていないでしょう。四年間で身に付けられる知識には限りがあるからです。そう言う意味で、あくまでの卒論は自分との闘いなのだと思います。少なくとも僕はそう自分に言い聞かせていました。

脳ミソからポタポタ充溢する断片を穴だらけの網ですくい取っていく孤独な作業。(収集力のしぼりを最大出力に)
自分自身との繰り返されるディスコース、ダイアローグ。
そもそも僕らが既存の理論、知のフロンティアに付け加えられることなんて、雀の涙にも満たないほどのものだと思うんです。

知の巨人たち(たとえばカントやルソー、スピノザからフッサール。ウィトゲンシュタイン、フロイト。ヘーゲル、ウェーバー、マルクス)が積み上げていった思考、峻厳にそびえ立つ山々を前におののき、閉口するしかないんです。
彼らの著作に真っ向面から対峙しながら、己の無知を痛感しては謙虚さを学んでいく。
一歩一歩、這いつくばりながら、ほふく前進で荒野を進んでいく。
時代を越えて彼らと対話できる、そこに読書の神聖さが蔵されている。

それでいて、難解な本も読み進めることそれ自体は至極簡単なんです。
読んだ気になればいいんですから。
なにより、それを自分のペーパーに落とし込むのが晦渋で痛みを伴う作業なんです。
それでも「ただ本を引用しただけ」だとか「ほとんど自分の言葉で語れてない」だとかばかりを憂慮する必要もないと思います。
まず言葉なんて誰のものでもないからです。カントだって、ルソーだって、彼らの前の時代から語られていた先輩の言葉を借りていただけなのだから。
なによりも滔々と先代から受け継がれてきた「知」の源流から水を汲み取ろう、吸い取ろうとするその姿勢が大事なのではないでしょうか。(これについてはまた別の機会で違うブログエントリーで考えてみたいです)

iii.意味がありそうで意味がないティップをいくつか


机に向かって、幾度あたまを抱えたことでしょう。
それでもまだまだ僕らは恵まれていて、パソコンで書くからデリート、リライトおちゃのこさいさいです。手書きで書いていた時代の人に心から敬服します。(今でも手書きで書くところももちろんあると思いますが)
とはいえ、卒論を書き始めてから折り返し地点でデータを消失し、バックアップをとり忘れるという悲劇に見舞われたのでした。愚の骨頂ですね、はい。
それ以降はDropboxに常時バックアップをとるようにしました。(ちなみに「卒論 消えた」でツイート検索をかけると戦々恐々とします)

執筆でもっともクリエイティビティが問われるのは個人的に「構成」ではないかと思っています。構成は読者のみならず、筆者をも導いてくれるロードマップなのではないかとの思いに、執筆中おもい当たりました。
逆に言えば、構成こそ固まれば、後は書くのみなのです。


僕はWordではなく、Pagesで書いていました。操作性も体裁も断然好きです。
図を用いるときは、Pages内で作成するよりもKeynoteで作成したものを画像保存してPagesにまた持ってきたほうが便利だし、楽です。(※後から図の中の文字を編集することはできません)これについては「Keynote: 画像作成もできてしまう最強プレゼンアプリ」にあるインストラクション動画が参考になります。(@HIRO_YUKI_いろいろアドバイスありがとうございました)
あとはPagesで作成したものをPDF化して印刷すると上手く印刷されないことがあります。その際はページ自体を「画像化」するといった解決方法があります。詳しくはコチラを参照。

英語文献参照される方はGoogle Scholarかなりオススメです。
にしても今じゃKindleがあるから洋書へのアクセシビリティは昔とは比べ物にならないですよね。英語の書籍の場合、かなり電子化すすんでますから。iPadでもiPhoneでも読めます。

という訳で、この一ヶ月くらいはバイトもせずに卒論に打ち込んでいました。
最後の三日間くらいは椅子に座り込み、机に張り付いていたので腰が砕けかけました。笑
同じ姿勢でずっといるのも不健康だと思い、「体が硬い人のためのヨガ」という本を買い、一人で実践していたら、だいぶ柔らかくなりましたよ。笑



iv. ぼくの論文について
これは読み飛ばしてもらっても、斜め読みでも構いません。
目次はコチラ。構成としては、「想像の発明」→「想像の更新」→「想像の先にあるもの」と一応、それぞれがそれぞれへの橋頭堡となるような経路をたどるようにしました。

特に一章で『想像の共同体』二章で『ナショナリティについて』三章で『国際正義とは何か』がとりわけ中心的なテクストとなりました。
参考文献のリストはコチラ

論文は70頁を越え、文字数も8万弱と膨大なので、ここにすべてを掲載することはできないんですが、序章、終章だけをかいつまんだものだけ。(とは言ってもかなりの量なので、興味のある方だけ文字を大きくしてみてみてください。Macであれば⌘と+です)
序章―パラドキシカルな世界のなかで

 グローバリゼーションが加速度を断続的に逓増させながら進行している。ところが、世界は単純に収斂しているというよりは、同時に分裂するという背理の様相を呈している。このパラドキシカルな現状をいかに捉えるのか。近代以降、「世界」の中心的役割を担ってきた「国家」はいかなる存在に変容していくのか。本論の問題意識はこの点に発露を持つ。
 「地表に国境も国家もなかった」というのは宇宙飛行士の常套句である。国境も国家も所与の被造物などではなく、歴史的に段階を経て構築されていった政治的人工物であることを我々は知っている。「この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」とB・アンダーソンは凄惨な戦禍の原因としてネーションを名指しし、その底流にあるのが「想像力」であると喝破した。リー・クアンユーは「文化は宿命である」といい、アマルティア・センは「アイデンティティは選択可能であること」を強調する。私は両者の主張に部分的な正当性をみる。アンダーソンが論じるようにネーションが「想像力」を機軸に展開されるものであったと措定しても、それが人びとのアイデンティティを照射し、生における決断や行動に与えている影響には無視できないものがある。ネーションには「虚構性」「物語性」を超越した意義があるのか(①)。センの主張(アイデンティティは理性によって選択可能である)を吟味し、アイデンティティが多面的かつ重層的に成立するものであるとの前提の元、「ナショナリティ」は人びとの中でどのような位置・規模を占め、どれほどの実体性を持つのか(②)。
 ①~②の基本的クエスチョンに、アンダーソンの『想像の共同体』をリベラル・ナショナリズムの視点から批判的に再検討を加えた第一章(「想像」の発明―『想像の共同体』の批判的再検討)とD・ミラーの『ナショナリティについて』を中心テクストにリベラル・ナショナリズムの射程と可能性を検討した第二章(「想像」の更新―リベラル・ナショナリズムがもたらすブレークスルー)で回答を試みる。
 一、二章を踏まえた上で、コスモポリタニズムとナショナリティの共存性についても考察したい。間断なく広域的にグローバリゼーションが進行・滲透するなかで、ナショナリティは衰退または変容しているのか、していくのか。また、コスモポリタニズムとは本質的に相容れないものなのか(③)。「ナショナリティの原則」を基盤に、差異からなる世界の中で探求されるべき正義の形態とはいかなるものか(④)。
 ③~④の基本的クエスチョンにD・ミラーの「弱いコスモポリタニズム」やM・ウォルツァーの「広く薄い道徳」などに手掛かりを求めながら事例を交えつつ論じた。①~④の基本的クエスチョンの経路はそれぞれが次の疑問へと架橋するようなプロセスをとっている。
 高度にグローバル化を遂げた世界で台頭する多文化主義、揺らぐアイデンティティ、このような文脈におけるナショナリティ、ひいてはナショナリズムの位置を確認し、『想像の共同体』から約三十年が経過した現代に構想されるべきナショナリズム論を導出することが本論文の企図するところであり、客観的意義であると思われる。 
終章―よりよき世界をデザインすること

 世界は現在、パラドキシカルなシチュエーションにある。これが本論文の問題意識の発露であった。グローバル化が進展して久しい今日にこそ、人々の間に連体意識をもたらし、再分配的福祉や万人にアクセスのしやすい文化環境を提供するナショナリティの機能を再考する必要があるのではないかとの考えから、「ネーション」を始原から見つめ直し、「差異の世界における正義」を探求してみたいとの思いに至った。

 時折、ブラウン管を通して目の当たりにする、同年代と思しき少年・少女が栄養不足からか、痩せ細り荒野の上に横たわりながら弱々しくカメラのレンズを覗き込む虚ろな眼球が幼心に私の脳裏に刻み込まれた。彼らは望んで窮状の中に身を置いているのではないし、私は自分の意思でこの飽食の日本に産まれ落ちたわけでもない。彼も彼女も私も、この大いなる偶有性の大海に生を授かり、「国境」という作為的に敷かれた分断線を境に運命を規定されていることに疑義を抱いたのであった。
 このような曖昧模糊とした世界に対する不信感が、常に私の心の片隅にもたげていた。「国境」の内と外の世界を間近に生活したアメリカでの二年間の留学体験を通じて、私の関心は更に深まっていった。大学において国際政治の学びを深める過程で、「グローバルな不平等」や「構造的不均衡」が私の想像を遥かに越える根の深い問題であることを痛感した。
 そして、本論文を書くきっかけを与えてくれたのはアンダーソンであり、ミラーであった。彼らの怜悧な洞察は「正義」や「国家」に対する思考のフロンティアを拓いてくれた。アンダーソンは「想像」を媒介にネーションが成立し、国民間の紐帯を醸成していくプロセスを鮮やかに描き出し、ナショナリズム史にパラダイムシフトを巻き起こした。ただ、そこでは「ネーション」には実際にどの程度恣意性を越えた「実存性」があり、私たちの生活を規定しているのかということまで踏み込んだ議論がみられなかった。そこで次にヒントを求めたのがミラーをはじめとしたリベラル・ナショナリストの理論である。
 ミラーはナショナリティのみが利害、イデオロギー、社会的理想、教育制度、世代、文化的出自、社会階層などの点で異なる人々が、差異を越えて継続的に協同できる安定的紐帯を私たちにもたらすといい、「ナショナリティの原則」が国内社会のみならず国際社会をも規定していることを説得的に論じてみせた。
 コスモポリタンらは高度にグローバル化を遂げた今の世界にあって、「ナショナリティ」を越えた「グローバルな義務」に私たちは向き合っていかなければならないという。一見、このような正義感に満ち溢れたような力強い決意・要求に私たちは首肯しそうになる。ただ、グローバル化時代にだからこそ、ナショナリティの自覚化および再活性化が求められるべきなのではないだろうか。
 ミラーが構想する枠組みで目指すべき国際社会とは、各ネーションが自決権を持ち、各々の最も馴染みやすい社会正義の構想を実現しうる環境が整備された場である。国際社会における義務とは一義的に、基本的権利を侵害されたり搾取を受けたりしている人の状態を改善すること、また、逆境に陥いり恵まれないネーションに対し、自決し独自の社会正義構想を実現することを目指すことを可能にする機会を与えることなのである。無自覚なコスモポリタニズムや無作為な援助は、どんな挑戦に直面しているのかを自分で決定することこそ、挑戦の媒介変数であるという視点を見落としている。
 ウォルツアーが「分離・離脱、境界線の変更、連邦化、地域的な自治あるいは機能的な自治、文化多元主義。それぞれの場所のために沢山のデザインがあり、たくさんの政治的な可能性があるのであって、あれやこれやの場合にその一つの選択をしても、それが必然的に他の全ての場合と同じ選択になると考える理由はない」というように、「正義」も「道徳」もその多様性を見失ってはならないのだ。鳥瞰的かつ広量的視野に立脚して世界はデザインされなくてはならない。
 すなわち、焦眉の急で取り組むべきはナショナリティの解消を目指すのではなく、ナショナリティの在り方を文脈に合わせて批判的に検討し、より公正な形態を求め、ナショナリティおよびその政治の再構成を試みる作業なのではないかということだ。それは、跳梁跋扈するグローバル規模で蔓延する不平等を等閑視することではない。
 まず倫理的な構想・合意があってはじめて、国際的な制度や国際的な公共政策をはじめとした正義に適ったグローバルな枠組みが構築できる。「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることにもはや何の価値もない」というカントの言葉は勇気を与え、私たちを前進させてくれる。想像を媒介に「国家」私たちは国家を創り、維持し、安寧を享受してきた。アイデンティティの偶有性を相互に受容し合い、想像の範囲を拡張・更新することから「差異からなる正義」は創造へ向かっていくのではないだろうか。

v.その他、雑記
卒論の休憩中は数分の場合はタバコを吸うくらいでしたが、まとまった時間休憩するときや「卒論を今日は切り上げる」と決めたらベッドに横になりながら、iPadでひたすらYoutubeにかじりついていました。動画をみながら寝落ち、気持ちいですよね。

文献読込期間はひたすら「ガキ使」「ダウンタウン」関連を。執筆期間は「有吉」関連をシラミ潰しにみました。モチベーション維持のためにも息抜きも必要だと思います。
そして挫けそうにになったら魔裟斗のドキュメンタリーをみていました。笑

あとなぜかKyleeにハマッていました。ぼくJKみたいですね。笑
スタンフォードの学生だなんて知らなかった。

最後の追い込み期間はべつに禁酒を意識したわけではないのですが、お酒を飲みませんでした。だから今日、提出して、ゼミのみんなで小打ち上げみたいな会でビールを飲んだときは気絶しそうな程美味しく感じました。
「世界一のお酒を見つけました。それは必死で働いたあとのお酒です」というミスチルの
なにごとも一定の期間を空けるとその威力、ありがたみに思い知らされます。
禁煙失敗して久々に吸うタバコ、高校生のとき大好きだった音楽をひっさしぶりに聴いたとき、アメリカの長期留学を経て食べる日本食(特にラーメン)。なんだってそうです。
なにか自分で決めてそれをモチベーションに頑張るのも一つの方法ですよね。
ゼミの子はご褒美にマッサージに行くことを決めていたらしいです。

ぶあーっとここまで一気呵成で書いてしまいました。
卒論を書いたおかげなのか、この分量でも一気にほとんど立ち止まらず書けました。

卒論も終わったので思いっきり運動したいです。それに観たかった映画をみて(早速、今週"TED"と"LOOPER"みにいくつもりです!)、小説もたっくさん読みたい。お酒もグビグビ。

【参考エントリー】
そういえば去年、こんなのも話題になってましたね。

最後に同じゼミで共に卒論を提出した方が管理するこの人から一言いただきましょう。

(@Itagaki_dead)

0 件のコメント:

コメントを投稿