文藝春秋がほんの数行から成る、村上春樹新刊のお知らせをポストしたその日に予約してあった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。
この歳にもなると(まだ20代といえばそれまでなのですが)、日常でワクワクすることって徐々に減っていって、中学生の頃などはサッカー部の試合の前日や友達と新しいゲームをプレイするときとか、いくらでもあったような気がするのですが、今でも変わらずにワクワクすることって好きなアーティストの新譜を手にした時や好きな作家の新刊を手にした時くらいな気がします。
パッとタイトルをみたとき、「多崎つくる」が男性の名前を意味するとは瞬間的に理解出来なかった。
という予想は概ね正しかった。
これまですべての作品を読んでいると、やはり今回も大枠は同じであったのかと。
もちろん、作品ごとに骨子となるメッセージは違うのですが、作品の形、いいかえるとフレームワークはずっと同じな気が。(パターンとは言いたくないですが)
自分の内部が損なわれる(喪失)、基本的に主人公は几帳面かつ内省的、セックスが物語で重要な意味を持つ、だいたい精神的な欠けがあるときは、どれほど相手を求めていても勃起しない。中盤では抽象的かつ高次なメタファーが物語にヴェールを覆う。
ぜんぜん関係ないんですが、新刊が発刊される度に
っていうような「村上春樹」というワードを使って微細なバズを起こそうとしている人散見される気がします。
あ、あと「もし村上春樹が桃太郎を書いたら~ノルウェイの桃~」はさすがに笑いました。ものの見事に文体、筆致のクセを掴んでる。これはかなり読み込まないと難しいのでは。
上みたいなツイートとか、この桃太郎のイミテーションとか、Amazonのレビューとか、こうゆうブログ書評的なものとか、物知り顔で批評や模倣することは出来ても、実際に自分で無から(from the scratch)緻密かつ濃密な物語を拵えることができるのか。まず、出来ないですよね。
読み始めてから、自宅にいるときはなるべく、というかなんとなく、小説でも重要な意味合いをもつフランツ・リストの『ル・マル・デュ・ペイ』を垂れ流しながら読んでいました。
とはいえほとんどはバイトや用事へ向かう移動中に大部分を読みました。
iPhoneをランダム再生で垂れ流しながら本を読むのですが、ものすごく懐かしい曲が流れて、懐かしくなり、聴いていたら歌詞がなんとなくリンクしていたような。
あらすじをダラダラ書くよりも、その歌詞の一部を載せようかと。
ぼくたちは過ちを犯す。ぼくたちはすぐに立ち止まる。ささいな小石にさえも躓いて。誰かの言葉を信じ、誰かの手の中にいる。最後は一人なのに。自分が気付いてる弱さ。自分に耐えられない脆さ。見えないふりをしたまま生きていく。アカがこう言う
「・・・なあ、こういうのって大いなるパラドックスだと思わないか?おれたちは人生の過程で真の自分を少しづつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく」
ダリの「完璧に恐れを抱くな。決して辿り着くことはないのだから」("Have no fear of perfection- you'll never reach it")という言葉を思い出さずにはいられない。
書評っぽいことをまったく書いていないので、というかハナから書くつもりないので
他のエントリーを少し掲載。
・村上春樹氏新刊「超速」レビュー 人生取り戻す男の物語 / 朝日新聞DIGITAL
・最速レビュー。村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に驚いた / excite ニュース
・[書評]色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)/ 極東ブログ
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