Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年9月28日日曜日

負荷があって、アイディアがある


アイデアの創発性/生産性は、一定程度の負荷下に置かれているときに一段と高まるのではないでしょうか。

なんらかのクリエイティブ課題に追われているとき、頭を悩ませ、何も浮かんでこないから本を一冊手に取る。
明らかに休日になにも考えずに読んでいるときとは、違ったフレームで字面を追っていることに気づきます。
頭の何処かで課題が頭をもたげ、ヒントを探し続けている。
インプットにスイッチが入ってるんですね、意識的な。
「この切り口は、接続面を変えてやれば、こういうやり方もあるんじゃないか」
立体的に読書をするようになる。
つまり、読書の質そのものが上がるんですね。
目的意識や仮説を持って読書をしろ、というのは本当にその通りなんです。

ようは「カラーバス」と一緒です。
赤を意識して街に出ると、自分が思っていた以上に赤は街に溢れてて、赤い服を着た人や看板がやたらと目に入る。
そもそも人間が認知できる限界量は相当限られている。
ましてや情報が氾濫する中で、真に自分の中にストックされるインプットなんて極わずか。
その中で、上記のような負荷状態にある場合、集中力や視座の深みが違うので、印象/記憶に残りやすい。
加えて、何でもすぐにグーグル(検索)する癖がついた現代人は己自身で思考/発想する能力が退化しつつあるのではないか。
そうなってくると、インプットとアウトプットのバランスが重要で、インプットばかりに時間はかけていられない。
最小時間インプットで最大効果のアウトプットへつなげたいとすれば、まずは前者の質を上げることが大切になるということで、今日青山ブックセンターで購入した『情報を捨てるセンス 選ぶ技術』を明日にでも読んでみようかと。
情報を捨てるセンス 選ぶ技術情報を捨てるセンス 選ぶ技術
ノリーナ・ハーツ,中西 真雄美

講談社
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2014年8月6日水曜日

「自己暗示」に紐づく習慣について


日々を歩んでいくうえで、もっとも怖いのは「自己暗示」に紐づく"習慣"なのではないかと、夜道にコンビニで買った缶ビールを飲みながらふと思い当たりました。

最近、毎日ビールを飲んでることに気づき、なぜかといえば学校が夏休みに入ったからで。
タバコをやめられないのも、毎日お酒を飲んでることも、
「依存」「アル中」...社会に流布した既存の悪習慣に自分を紐付け、無意識のうちに(しばしば有意識に)正当化しているうちに...いよいよやめられなくなっていく。
裏返せば、自己暗示なので、ふとした瞬間にやめられるほど些細なことでもあるとは思うのですが。

ぽかんといつも頭に浮かぶのは、アリストテレスの箴言。
繰り返し行うことが、人間の本質であり、美徳は、行為に表われず、習慣に現われる。

2014年7月30日水曜日

「ウォーキング・デッド」に伏流する"適者生存"のアポカリプス


「ウォーキング・デッド シーズン4」を観終わり思ったところを、少し。
今シーズンから加わった少女二人、リジーとミカ。
ウォーカーズ(ゾンビへと転化した人々)を殺すことに反対し、「彼らは私たちとは違うだけなのだ」と執拗に信じて疑わないリジー。
タイリースとキャロルが目を離した隙に妹のミカをナイフで殺害してしまう。
完全に頭が混乱したリジーに手を焼いたキャロルは苦渋の選択の末、リジーを銃殺する。

社会にシステムを築き、自然を超克したかに見えた人間は世界の王だった。
突如、発生したウォーカーズの群れは次から次へと人間を襲い、その勢力を拡大していく。

ウォーカーズが支配する世界になった後、優しさや慈悲は生存の足かせになる。
いかに無慈悲に冷酷になれるかが生死を分ける。
それが新しいルールとなった。
そこにうまく適応できない者は、一瞬のうちにあちら側の世界に引きずり込まれていく。

この人間vsウォーカーズの攻防に、次の文章を想起せずにはいられなかった。
つい前に話題になっていた人間や生物種の生存競争に関する名文。
これほど理路整然と自己の思考を最奥まで突き詰めた文章にはなかなか巡り合えるものではなく、言外にどこまでも広がっていくような広漠とした知識がかいま見えます。刮目です。以下、勝手に転載させていただきます。(引用元
【問い】弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。
【答え】 え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています***自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありませんある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです種レベルでは「適者生存」ですこの言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんですそして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります人間の生存戦略は、、、、「社会性」高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略ですどれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました生物の生存戦略としては大成功でしょう(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよあるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれませんだから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんねということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということですその「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんですだから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです
心底腹落ちするというか、開眼させられるというか、見事な論理・思考展開です。

物語の中では未だに、なぜいきなり転化現象が始まったのかには具体的には触れられていません。
もし、ゾンビ化することが人類の種全体としての新しい生存戦略であったとしたら、今主人公のリックをはじめ残された少数の人間たちが日々繰り広げている抗争はほんの些細なあがきでしかない。
ウォーカーが頭をつぶさないかぎり生き続けるからです。
ただ、後世を考えたとき、繁殖機能がない(と思われる)ウォーカーと寿命はあるけど生殖機能がある人間はどちらが生存競争にふさわしいのか。
先進国で加速化する特殊出生率の低下、終わることのない戦争、この物語に伏流するのは、ある意味で人間が人間になりすぎてしまった社会に対する壮大なアポカリプスなのかもしれません。

2014年6月4日水曜日

なぜわたしたちは夢を見続けるのか?―「技術決定論」の解体作業


今なら、ビッグデータやクラウド、少し前ならWeb2.0、「技術が社会を変える!」という言説は繰り返し再生産し続けてきた。
「システム社会」「ネットワーク社会」などその容器を入れ替えながらも、本筋ではほとんど変わらない。

技術決定論(technical determinisim)とは学術的にいえば「技術が社会構造や社会的相互行為、個人を規定する唯一の要因であると主張する学説」である。(参考:「技術決定論と文化決定論(technological determinism and cultural determinism)」)

いずれにしてもこういった技術決定論的な視座に立った「情報化社会論」は佐藤俊樹教授によれば、60年代から滔々と語られ続けてきたという。
社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望
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なぜ半世紀もの長きにわたり、このディスコースは生きながらえてきたのか。
それははじめから死んでいたからだと佐藤教授はいう。
その比喩として、ホラー映画の「生きている死体(living dead)」を挙げている。
つまり実質・中身をもたないこと。
なんでもないことは、なんでもあるということでもある。
これを佐藤教授はゼロ記号=空虚な記号signifiant zero)と呼ぶ。

そしてそれを可能たらしめている背後にある要因としては近代産業社会(主な制度として産業資本主義、民主主義にもとづく社会制御という政治制度がある)がある。
佐藤教授は技術決定論を批判的に捉え返す。
術の進歩と社会の変化を考えるとき、どのような技術がどう使われ・どう発展していくか―そこには社会の側の多くの諸力が重層的かつ複合的に作用している実例を数多く上げながら、「情報技術が社会の仕組みを変える」のではなく、むしろ、社会の仕組みの方が技術のあり方を決めているのではないかというものだ。

ソシオメディア論を研究している水越伸教授の見方も社会構成主義に近い。
「エレクトリック・メディアは情報技術の発達によって変化するだけではなく、国家や資本の編制力から、市民、あるいは大衆の想像力にいたる、複合的で重層的な社会の諸力の錯綜した結果として、今日のような姿に固定化させられてきた」
21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)21世紀メディア論
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たいして、技術決定論寄りの本としては東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が挙げられるだろう。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
東 浩紀

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議論のまとめなどは2年前に読んだ時のもののリンク先を参照してもらうとして、自分なりの一般意志2.0の解釈だけ付記しておきたい。
すなわち、それはゾーエーのとらえ方に顕著に見られるのではないかということ。
罵詈雑言でわめき散らす人、極右過激派のような人、社会には色んな人であふれている。
こうした個人をミクロに眺めるのならば、たしかに彼らは剥き出しのゾーエーに見える。
ただし「一般意志2.0」が射程にするのは、よりマクロで総体的なもの。
これをテクノロジー、制度・システムの設計によって最適化できるのではないかというふうに理解している。

ただし、考えてみれば分かるように、純粋な技術決定論的とはほぼ想定不可能だと思われる。

たとえば、四川大地震を例に。
この大規模な地震が起きたとき、ソーシャルメディアを通じてこのニュースは中国国内にもすぐさま知れ渡った。
時間を置かずに、寄付や支援が次々と届いた。
アメリカと中国の間に海底ケーブルが繋がれていたことはたしかに、これを可能にする重要なファクターであったことは間違いない。
しかしながら、それを可能にしたのはアメリカに留学していた中国人(その逆も然り)や海外に駐在した中国人など、はじめに社会的な紐帯・絆が醸成されていたということも見逃せない。
技術のケーブルには、社会のケーブルが欠かせないのだ。

このように技術決定論と非技術決定論の中間にあるような議論をしている本として、クレイ・シャーキーの『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』がある。
みんな集まれ! ネットワークが世界を動かすみんな集まれ! ネットワークが世界を動かす
クレイ シャーキー,岩下 慶一

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その主張の核として以下を引用したい。
「革命は、社会が新しいテクノロジーを手にしただけでは起きない。社会がそれを新しい習慣とした時に起こるのである」
これは技術決定論的にとって核心的な批判だと思われる。
このような意味で本来、技術決定論的と対置されるべき対抗概念は存在しないのではないかと思う。
まっさきに浮かぶのが「社会決定論」という言葉であるが、技術と社会を同じレベルの変数として扱うのが極めて困難であるという点で(技術は独立へ、社会は従属変数)一応、これまでは社会構成主義や非技術決定論という語彙を用いた。
おそらく「強い技術決定論」や「弱い技術決定論」とするのが適当だと思われる。
たとえば政治哲学でもD・ミラーなどは「強いコスモポリタニズム」「弱いコスモポリタニズム」というような区別を行っている。
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デイヴィッド・ミラー,山岡 龍一,森 達也

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こうした社会学やメディア論、押しなべて言えば社会科学で積み上げられてきた理論や論争、フレームワークを道具として使い、いかに現実をみることができるか。
たとえばこの「技術決定論」に関するプレゼンを共同でやった先輩も「「起業したからこそ学問の大切さに気付いた」”現役東大院生”前島恵さんの起業ストーリー」というインターンシップ記事の中で、技術決定論や進歩史観といったアカデミズムでさかんに語られた問題をじっさいの社会に見出しています。

それでいうと、先日、電車内でツイッターの創業記を読んでいるときに同じことを思ったのでした。
ツイッターを創り上げた彼らの信念の裏には技術決定論的な視座が少なからずあったと思うのです。
ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切りツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り
ニック・ビルトン,伏見 威蕃

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【そういえばさっきこんなのありました】⇒2014年下半期にヒットしそうな5つのテクノロジー

孫さんが語るビジョン(「「300年後は平均寿命が200歳に」:【全文】ソフトバンク孫正義が予測する“テクノロジーの進化”」)。圧倒されます。技術決定論的な見方であることは間違いないにしても、とにかくワクワクしてくる。
だからわたしたちは夢を見続けるのかもしれません。

2014年3月31日月曜日

「金髪」であるということについて



「金髪」
なぜ髪や頭皮を痛めてまで、髪の毛の色を変える必要があるのでしょうか。

染髪することなんてわりかしポピュラーだし、何の気ないことのように思えるようで、実は背景や効用があるような気がするのです。

大学生のときにも、(ある意味並みの学生らしく)茶髪、金髪、パーマなど人並みのおめかしはしたのですが、大学を出てからなお「金髪」でいた事から、色々思うところがあったので、ここに少し記しておこうかと。

というのも、大学を出てからすぐに就職しなかったこともあり、昨年1年間はプラプラしてたぼくは各所で意図せずして「金髪東大野郎」という名誉か不名誉か、というニックネームで呼ばれるように。
名前は覚えられてないのに、「金髪」「東大」というラベルだけはしっかりと皆さんの記憶には残っているようで。

まずは「ラベル」という役割があるのです。
とりわけ黒髪、黄色人種と同質性の高い日本においては、表層的な個性を出すのはファッションであったり、髪型なわけです。(てなことも日本が独特のファッションカルチャーを育んでこれた要員かとも推察しています。きゃりーぱみゅぱみゅとかはその極致)
とりわけ大勢順応に反旗を翻すティーンエージャーほど髪を染めたり、ピアス等のアクセサリーを身につけたり、タトゥーを入れたがったりします。
その向こう側でレールの向こう側にいる"大人"たちからは白い目で見られるのです。

日本では社会のシステムとして同質性を強める装置が各所に埋め込まれています。
体育の時の「前へならえ」などのフィジカルな習慣など見えにくいものもありますが、基本的には制服の着用があって、ピアスや染髪の禁止が規定にある。

LIFEVIDEOの代表を務められている土屋プロデューサーといえば金髪がトレードマークでしたが、去年くらいから黒髪に戻されています。
先日、お会いしたときに理由を尋ねると「信用を得られないから」とおっしゃっています。
LIFEVIDEOのメイン顧客は経営者を中心とした高齢者層。
金髪でいると、彼らの"グループ"にカウントしてくれないというのです。
そういう意味で言うと、黒髪、スーツにネクタイというのは一つの「表明」でもあるわけです。
「わたしはあなた達と同じ"グループ"ですよ」という。

その一方、ぼく個人の昨年一年間を金髪で過ごした体験はポジティブなものでした。
もちろん立場や状況が違うので、こういう経験をするに至ったということなのですが。

まず冒頭に書いたように、覚えてもらいやすい。
「あー、金髪の君か」と。

「金髪」であるということは、「金髪にする奴」というカテゴライズをされます。
歳が上の人ほど、懐疑的な眼でみてきます。(これは色んなことに敷衍できて、タトゥーなんかはもうちょっと度を強くしたものでしょう)

たとえば大学にて。
金髪の僕に対する教授の内心は「どうせ中身のないやつ。不真面目なやつ」という印象をはじめに持たれるかもしれません。

ですが!です。
そこで逆に好印象を持たれるような所作をすれば、倍の効果をもたらすのではないかとも思うのです。
「人間中身だよ」とは言うものの、見た目・外見がもたらす心理的認知的効果というものももちろん看過できません。
金髪なんて生やさしいですが、個性的な外見をしているほど、外見からは意外な所作をすることによって、普通の格好の人と同じ所作であっても評価されたり、注目されることがあるのではないかと思うのです。

取っ掛かりというのはいつも大事なものです。
どれほど内容の優れた本であっても、書店で誰の目にもつかず、手にとってもらえなければ意味がありません。

例を挙げようと思えばたくさん挙げられるのですが、たとえば東進ハイスクールで古文を教えられている吉野敬介さんなんかはその好例で、(というか東進はそういう先生が多い)見た目は強面なのに、語り口は優しく、中身も分かりやすい。
自分次第で"正の落差"を作り出せるというのが金髪、ひいては外見的個性の醍醐味かな〜と思ったのでした。

2014年2月7日金曜日

あの頃の自分に生かされてる


ここのところ、おかげさまで、毎日、何かに追われている忙しない日々を送らせていただいています。

記事原稿の入稿に追われていたり、一分でも早い翻訳文の返答、通訳の仕事のダブルブッキング、生徒のテスト期間、時間の渦のド真ん中で漂流している感覚。

考えてみれば、いま従事している多くの仕事のうち、英語の占めるウェイトが半分を超えていると思うのです。
たとえばこの前もブログで書いた「2014 国際宝飾展(IJT)での通訳のお仕事を終えて」など通訳のお仕事。
あるテレビ番組の製作スタッフとして翻訳、PR会社でも海外クライアントとのやりとりは英語ですし、たとえばGQ記事の執筆にしても英語で情報収集することが多い。
家庭教師として英語を教えているのはその最たる例です。

ほんとうに人生とは不思議なものです。
そのときの自分の何の気無しの気持ち・判断・心の移ろいが5年後、10年後の自分のやっていること、立っている場所を決めるのです。

英語が苦手すぎて、高校に行かずに就職するか、偏差値最低底の商業高校に行こうとぼんやり考えていたのに、
結局はある恩師との出会いをキッカケに英語科の高校に入り、すぐに留学、春からは大学院に行くという。そして今やっている仕事のほとんどは英語にまつわるもの。

あのとき、「doなのかdoesなのか」も分からず、「三人称単数」が中3の夏でも分かっていなかったのに、とりあえず腹をくくって全精力を注ぎ込んで一から取り組んでみたからこそ今の自分がいる。

「あー、あのとき、ひとつひとつ机で単語を覚えた自分がいるから、今の自分がここにいるんだなあ」とビッグサイトで通訳をしているときにふと思ったのでした。

イマの自分は、未来の自分から見た「アノ頃の自分」
イマの苦しみや努力は、アノ頃の自分から未来の自分への時間をこえた"プレゼント"

2014年1月9日木曜日

2014年の地図―揺るぎないプリンシプルを打ち立てること


なりたい"ジブン"を描くこと
旅にでるとき、ヒトは「地図」を手に取る。
いくつかのメルクマールをたどっていきながら、目指す先へと歩を進めていく。

部活をやっていたひとならば、よく分かると思う
具体的に何周かを告げられず、ただただグラウンドを走り続けさせられるのは辛い。

いみじくも『バガボンド』で宝蔵院胤栄が斯くの如く語るように。
目的のない稽古に
人は耐えられん 

まずは、「なりたい"ジブン"」を描くこと、それに向けた揺るぎない"プリンシプル"(行動原理)を確立して離さないこと。
きっとコレさえ打ち立てることができれば、これから下につらつらと書いていくであろう小目標のたぐいは泡沫に消えるでしょう。




マスタープラン=(思考+習慣)× 反復
目標をたてるときに参考になりそうなのが、友人のレイカちゃんがブログで紹介していた「SMART(Specific、Measurable、Achievable、Realistic、Time)」という目標設定の基準。
そもそも新年の抱負ブログを1年ぶりに書こうと思い立ったのも、彼女を含めた友人と新年会をして、インスパイアされたからなのでした。

lifehackerの数日前の記事「先延ばしグセを解消するために大切な2つのポイント」にもあったように、一見、複雑で膨大な目標も分解・整理して、具体性を持たせながらチャンクダウンするのが有効だと思います。
それは承知した上でなお、僕はもっと根本の部分、行動準則=規範=習慣が大事だという確信を持っています。(「マスタープラン」と言い換えてもいいかもしれません)

行動の反復によってのみ偏在的傾向の普遍化は可能なのだ」という村上春樹の箴言も、アリストテレスの「繰り返し行うことが、人間の本質であり、美徳は、行為に表われず、習慣に現われる」という有名な言葉も同じことを含意しています。
「思考は現実化する」―迷ったときに常に立ち返る行動規範のレファレンス・ポイントを習慣と結びつけること。
その意味で自己満足で完結しそうな新年の抱負(New Year's Resolution)は年に一度の良い機会なのかもしれません。



「一生続くペイン」はない
痛みは避けられない。でも苦しみは自分次第だ」(Pain is inevitable. Suffering is optional)村上春樹のエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』の冒頭から引用です。大好きな本で、これまでに日本語で3回、英語で1回読んだ本です。
受け売りばかりですが、中学生の頃からずっと愛読してきた氏の作品や著作からは計り知れない影響を受けていることは認めざるを得ないです。

とくにこの一文が意味するところを身を持って感じたのは、僕の場合、走ることを通してではなく自己との対話=瞑想を通してのことでした。
単身インドへ修行に行き、圧倒的な"孤絶"のなかで、時間の感覚から遠く離れた場所でひとり来る日も来る日もただ瞑想を続けたことでやっと分かったことです。(このへんの詳しい話は「インド修業から、東大に受かるまで」というエントリーに書きました)
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』でこれを一言で言い尽くしています。
継続こそ時間の全本質である

「万物は流転している」―連続性を意識すること。たとえばこの類の目標計画を立てるときも、常に大局観を持つことが肝要だと思うのです。

インドでの旅を通して以前にも増して、仏教に興味を持つようになりました。
滞在中も列車移動のさいに『ブッダのことば―スッタニパータ』に目を通していました。
数ある金言の中でも「自分の心を支配しなさい、さもなければ心があなたを支配するでしょう」(Rule your mind or it will rule you)という言葉が肺腑を衝きました。




セレンディピティ/オープンマインド
先日、バイト先にて、ある年配の男性のお客さんとメディアの話で盛り上がりました。

「大学院でメディア研究をするんです」

「おお、そうかい。おじさんもメディアの仕事をしてるんだ。今度ゆっくりまた話そう」

と誘っていただきました。
それがある新聞社の会長さんだったのです。

「尊縁・結縁・随縁」僕はこういうものを大切に生きています。
棚からぼた餅=僥倖という風には思いません。
というよりは「計画された偶発」(Planned Happenstance)により近いスタンスをとっています。
まあそんな御託は脇に置きます。

出会いやコミュニケーションにおいて、大切なことは「まずコチラから心を開く」ことではないかと感じています。
オープンマインドな開陳性を常に持っていれば、セレンディピティの窓はいつでも広く開かれてると思うのです。




❏自分自身に誠実であること。
最後に具体的な目標を3つ掲げておきます。
来年の今頃、「バーカ、やっぱできてねーじゃねーか。」と自分を責め立てるためにも。

<1. 小説をひとつ書く>
でもこれに関してはべつに焦りはありません。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、こればっかりは人生の濃度が関係してくるのだと思うのです。たとえば村上春樹は30歳を過ぎてから、百田尚樹さんも50歳を過ぎてから執筆を始めていますし、ドストエフスキーのよく知られた著作のほとんどは晩年に書かれたものです。

ただ書くならば内容がペラペラの稀薄なものでなく、(欲を言えば)国を越えて広く普遍的に愛される息の長い作品、例を挙げればサン=テグジュペリの『星の王子さま』やパウロ・コエーリョの『アルケミスト』など。
夢は大きい方がいい。笑
とりあえずまずは1本書く。

<2. トライアスロンに挑戦する>
これ去年けっきょくできなかったので。ジムにはかれこれ5年位行ってるのですが(多忙になると散発的になることもありますが)、けっきょくジムのワークアウトはインプットで、アウトプットが必要だと思うのです。
ネックなのは道具集めですよね。お金がかかります。
それもどうにかしましょう。

<3. 研究の骨子を固める>
今でも週に1度ゼミだけ参加していますが、春からは正式に大学院に入り研究を始めるので、本分は学生ということを忘れずに勉学に励みたいです。
学部時代にも卒論は書きましたが、修論はそれ以上にはりきって取り組む所存です。
そういう意味で今まで以上に読書に精を出しつつも、研究計画に沿った、能動的なリサーチ・リーディングを進めていきます。(読書について「読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる」)


とまあ、抽象論に傾いてしまいましたが、今年も新しい環境で色んなことに挑戦していきますので、よろしくお願いします!

2013年12月22日日曜日

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ


ジブンはたしかにココにいるのに、「心ここに在らず」というふうな感覚を覚えることがある。
思考が遥か彼方へ飛翔していく。
そんな本に出会えたとき、言い表しがたい"幸福感"を覚える。

本を読み始め、気がついた時には、夜が明けている。
本の世界に忘我没入し、思考が縦横無尽に駆け巡る。
本のページを開き始めると同時に、ヴィークル(vehicle=輸送手段)に乗り込み、物理的境界とは別次元で、旅路を進めていく感覚。

どんな景色が待ち受けているか、
跳梁する期待感を押し殺しながら、また次のページを捲っていく。

2013年12月21日土曜日

「戯言」と「箴言」の歩幅


ツイッターを眺めていると、よく感じることがある。
一瞬のうちに肥溜へと廃却されていく、瞬時に忘却される「戯言」と、人びとの共感を集め、リツイートされるなり、ログに貯められるなり、「箴言」と見なされるものは、実は紙一重なのではないかということ。

100時間TVでドワンゴの会長・川上量生さんがいらっしゃったとき、川上さんがジブリの見習いプロデューサーもやっているということで、話はスタジオジブリに及んだ。
ジブリでメインプロデューサーを務めている鈴木敏夫さんの話になった。
そのときに川上さんがおっしゃられていたこと。
鈴木さんの言うことはけっこうデタラメで、もし仮に同じことを他の人が言っていたとしたら、絶対に信じられない。だけど、鈴木さんが言うから言葉に重みがあるし、信じられる。
すごく得心したし、「あー、そういうことだよな」と思ったわけです。
ようは何を言うかよりも、誰がそれを言うか。

訳知り顔で金言めいたことを呟いたとしても、その人の人となり、人格が軽薄なものであれば、言霊は実相を伴わない。
逆に名の通った人の発言のアレコレは、深遠なものとして受け取られる。
とくに普段は言及しないような社会的政治的問題について、アーティストがオピニオンを述べる時、ことさら注目を集めるのは、そういう心理的要因があるのではないかと思うわけです。

2013年10月17日木曜日

インド修業から、東大に受かるまで


気づいたら、"生"を授かり」産み落とされていた。

釈尊が悟りをひらいたとされるインド北東の辺鄙な町の、隅にある静謐な場所で、繰る日も座禅を組み、目を閉じて、瞑想を続ける。

飢渇は3日ほどで止む。

きっと、これまでの22年間でいちばん、自分自身と"対話"ができた、特別な時間。
秒針は東京にいたときよりも、いくぶんゆっくりと時を刻んだ。
たぶん、これまでは自分自身に耳を傾けることさえしていなかったのかもしれない。

修行を終えたとき、断食にちかい生活をしていたせいもあってか、げっそり体重も落ちていた。(おそらく10kgくらい?)

こうなることは日本を発つ前から予見していたから、インドへ来る二ヶ月前くらいからジムで有酸素、無酸素バランスよくワークアウトして、体を鍛えていた、つもりだった。
やっぱり理は実をとらえきれなくて、ぐったり体は弱りきってた。

修行の間は持ちモノをすべて没収されていたこともあって、日記を書くことも、本を読むこともできなかった。
修行が終わった翌朝、忘れたくないことだけ、とりあえずメモに残しておこうとペンを取る。
堰き止められていたダムのように、言葉が濁流に乗って横溢してくる。
滾々と湧出してくる断想を書き起こす。

"Lonely Planet"をパラパラ読みながら、これからのルートを策定する。

ふさふらした足取りで、無数のヒトやウシ、サルなどの生き物が行き交うバラナシの喧騒をかき分けて、チャイをすすりながら、朝焼けが水面を照らし、ファジーネーブルに染まるガンジーを目指した。

死体の饐えた臭いが鼻をつんざく。
手漕ぎボートの値段交渉をするのさえ煩わしくなって、すぐに首を縦にふった。


薄く霧がかった風景、目をこすりながら、ひとびとの様子を眺めた。
洗濯板に全力で衣服を叩きつけながら、ガンジス河を流れる水で洗濯する婦人たち。
身体を洗ったり、うがいしたりする少年たち。

〜〜〜〜〜〜続きは「note」で公開中。

院試について―東京大学大学院学際情報学府の場合


来春から東京大学大学院学際情報学府に進学することになります。

博報堂でインターンをしていたときにお世話になったメディア局の局長さんがココで「広告ビジネスコミュニケーション論」の講義を担当していたり、社会学、メディア論の一線級の先生方が顔を揃えられていること、海外の大学院に進学することも考えましたが、ココに決めました。
悩みになやんだ結果です。(思う所は去年書いた「就職、進学、生きていく事」というエントリーに書きました。その時からも紆余曲折はありましたが)

この大学院の特徴は文理横断の「学際性」に重きを向いていることです。
コースは5つあります:


メディアにもよく顔を出す出身者でいえばチームラボの猪子(@inoko21)さんがたしか先端表現を中退で、評論家の荻上チキ(@torakare)さん、原発以後メディアで発言の多い開沼博(@kainumahiroshi)さんは博士課程に在籍しています。先日ブログでも取り上げた『「統治」を創造する』で執筆陣に名を連ねていた生貝直人(@ikegai)さんも出身者ですね。

注釈:おかげさまでこの記事は数万PVくらいみられているようです。今でも検索流入があるようなので、せっかくの機会ということで若干の加筆・修正したものを「note」に掲載しました。気になる方はぜひこちらから。

2013年9月16日月曜日

「半沢直樹」にまつわる毀誉褒貶


さきほど録画しておいた本日放送の第9回を観ました。
展開としてはいつも通り前半は窮地、絶体絶命、そして後半は怒涛の盛り返し。(いわゆる「倍返し」)

地下室に隠蔵していたとみられる「疎開資料」を金融庁の目から欺き、事無きを得た半沢に対し、渡真利が言った「魔法か?笑」良かったですねー。
「灯台下暗し」の二重化。

今月のはじめに書いた「自己啓発ドラマとしての「半沢直樹」」では触れなかったのですが、けっこう批判的というか冷めた感想も散見されます。
たとえば藤沢数希さんが「半沢直樹の何が面白いかわからない」という記事を書いていたり。(まあドラマなんて当該の分野で実際に仕事している人からしたら絵空事に映るのでしょうが)
その辺の事情を斟酌した上で、包括的かつ興味深かった記事がプレジデント・オンラインの「心理診断「半沢直樹」でスカッとする人はなぜ二流か?」。

でも思うんですが、みんなが「キャーキャー」一喜一憂している中、冷めたように斬り捨てるのはある意味で容易だし、ビューを集めることでしょう。
別に褒めちぎるのではもなく、disり倒すのでもなく、事実として驚異的な視聴率を叩き出していることを認め、なにがマスを焚きつける導火線となっているのか、その要因を探る方がよっぽど建設的だと思います。
そのためにはドラマの脚色性を糾弾するより、虚心坦懐に感動・共感する落とし所を敏感に感じ取ることが大切ではないのかということ。
群盲象を撫ず」とは言いますが、それを指摘した悦に浸るのではなく、そこから一歩思考のセンサーをもっと深部へと働かせ、その動因を沈思し、人間に(少なくとも"マス"に)宿る普遍性を探る方がよっぽど生産的かと思います。

たとえば視聴者は様々な職層の人がいるとは思いますが、どこかで大勢順応に反旗を翻し、サラリーマン=(雇われの身)でありながらも「矜持」を捨てないその姿に共感もしくは憧憬の念を感じているのではないでしょうか。

2013年9月13日金曜日

「NGO化」する世界


ここ1~2ヶ月ほど、学部時代のゼミ生で院に進学する数名が集まり、ゼミの先生を囲んで勉強会を何度かやってきました。
今日がその最終回で今日はAmitav Acharyaの"Regionalism and Integration: EU and Southeast Asian Experiences"をテクストに進行していきました。

途中で模擬試験という意味合いを込めて論述対策をするわけですが、そこで考えた内容を改めてここでまとめておきたいと思います。

Q. なぜアジアでは経済的相互依存の深化が外交に結びつかないのか。

ここでの目的は試験に正しく解答し、100点を得ることではないので、最初の「なぜアジア」では括弧に入れて、より一般化した経済と外交の関係について考えてみたいと思います。



これまでの歴史を紐解くと、ウェストファリア以前・以後、帝国、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)、冷戦(二極)、ヘゲモニー(米国覇権)、国家の在り方や国家間の枠組みに常に変動はありながらも、基本的に経済と外交は表裏のものであったのではないか。
ここでいう"経済"は原始レベルの交易活動のようなコミュニティー・ベースのものというよりは、国対国のより大きなレベルでの「経済」を指します。

過去から現在までの時間軸を辿ると、着々とグローバライゼーションが歩を進めてきたのが分かります。
「グローバル化」はメディア論の文脈で捉えると分かりやすいのですが、まず15-16世紀の印刷技術と流通、それに絡まる出版資本主義、つまりアンダーソンのいう「想像の共同体」の誕生です。この枠組はかなり強固に、基本的に現在までその基本的な基盤であり続けてきました。
それ以後のメディアの変遷(電信、ラジオ、テレビなど)も基本的に国民国家を強化する装置として機能してきました。



たとえばラジオははじめマニアたちの間で電波の送受信が行われ、一種の公共圏のようなものを創出していましたが、やがて送信部は切り取られ、受信部のみが残り、現在のラジオの形へと変貌してきました。(詳しくは水越伸『メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史』など)
これはラジオに限った話ではなく、電話も同様ではじめは現在のようなコミュニケーション・ツールとしてはではなく、遠隔地のコンサートのような演奏会から流れてくる音楽を聞くための道具であったりなど、新しいメディアには常に開かれた"可能的様態"があり、それを規定する要因は様々ですが、往々にして時代の権力側、エスタブリッシュメントと言い換えてもいいかもしれませんがその様態を決定してきました。(メディア史の総論としては吉見俊哉『メディア文化論』が断然オススメです)
いちばん顕著な例がテレビです。
テレビは与えたインパクトは計り知れないものがありますが、皇室、天皇巡幸をはじめ、国民が国家の象徴を共有することを可能にしたメディアとしては決定的な役割を果たしました。メディアの話はこの辺にします。



畢竟するに、テレビまでのメディアの変遷は国民国家の基盤を強化するように作用してきたのに対し、インターネットの誕生ははじめてその存在に揺らぎを与えることとなります。時間・空間的距離を短縮化もしくは無化したのです。

ここで予め、質問の答えとなるのではないかと考えている僕の仮説を呈示しておきたいと思います。
上記で簡単に述べたようなテクノロジーの進展に伴うメディアの変遷、国境を越えたグローバライゼーションの深化、多国籍企業の台頭、これらを一括りに「グローバル資本主義」としておきます。
やや弁証法的な見方になりますが、こういった背景の元、誤解を恐れずに言うと、世界はリバタリアン的世界観に染まりつつあるのでないか、というのが僕の仮説です。
つまり主権が断片化していく中で相対的に国家の役割も縮減している。
国家の手に負えなくなりつつある。さらには国家間の協力でも間に合わない。
たとえば、リーマン・ショック、ヨーロッパ経済危機。
これまでプラザ合意なりワシントン・コンセンサスなり、G20なり、国家首脳が集まり、なんとか経済を操作というかコントロールしようと努めてきたわけですが、いよいよ手に負えなくなってきた。野に放たれた資本主義という野獣、国家を越えた有象無象は国の管理下に置けなくなった。


ケイマン諸島

最近、取り沙汰されているタックス・ヘイブンを迂回した「租税回避」の問題でも、国家の網の目を潜り抜け、多国籍企業が法律という名の人工物を欺いていく。

例証しようとすればいくらでもできます。
このブログでも何度も言及している堤未果さんの『(株)貧困大国アメリカ』には目を覆いたくなるような実例が数多く挙げられており、民主主義の脆弱性が露呈されています。
金の論理を駆動力に展開されるロビー活動が立法を牛耳り、企業にとって耳の痛い法案はアンチ・キャンペーンで徹底的に叩き潰す。
アメリカでは全州で遺伝子組換え食品の表示義務がありません。
失業率が高まっているのに雇用創出のために予算は使われずに、フードスタンプ(簡単にいえば生活保護)のPRに予算がつぎ込まれています。
こういった倒錯の裏には安価の加工食品を生産する大企業が暗躍しています。
過去に類をみない程に肥大化したグローバル多国籍企業の収益はゆうに小国の予算規模を超えるものです。
一方で莫大な金を動かす大企業がせっせと租税回避に躍起になるなかで、国は増税を踏み切る。ただし、このしわ寄せを喰らうのは市民です。
根本的な解決足り得ない空理に終わるのです。
ただし、権力が国家から金の論理を盾にした多国籍企業に単純に移ったと断定するのも早計でしょう。



なぜなら国家という隠れ蓑に隠れて莫大な収益を上げている産業も存在するからです。
言わずもがなですが、とくにアメリカで巨大な「軍産複合体」。
アメリカは戦争で成長してきたといっても過言ではありません。
なにもアメリカのみならず、中国やロシア、フランスなど国連で常任理事国を務める大国では武器の輸出が立派な産業として確立されています。
戦争や核兵器の廃絶、環境問題への取り組み、国際レジームを構想する際に、大国の参加は必要不可欠なファクターですが、なぜ簡単に一致団結できないかというえば、既述のような大企業の存在があるのです。
今、『統治を創造』するという著作を読んでいますが、いまいちテンションが上がってこない背景にはこういった暗澹たる現況があります。
「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会
谷本 晴樹,淵田 仁,吉野 裕介,藤沢 烈,生貝 直人,イケダハヤト,円堂 都司昭,西田 亮介,塚越 健司

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話をはじめの問いに近づけます。
従来まで一蓮托生で表裏の関係にあった経済と外交。両者が「国家レベル」で一致していた。ところがグローバル資本主義の波に飲まれる形で、経済の部分の主要な担い手が国家から企業、グループ、個人へと下降してきた。
ただし、外交は未だに国家の手中にある。ここで乖離が生じている。
オリジナルのクエスチョンでは「なぜアジアでは」という文言がありました。
この問題に紐つけて考えると、日・韓・中の間には溝の深い歴史問題があります。
いわゆる反日感情、反韓感情といった類のものです。



なんとなく空気感としてそういったものはあるものの、自分の実体験や友達の話を聞く限りでは、韓国にはあまり良いイメージはないが、韓国人の友達はみんな良い奴だ、などと首尾一貫しない考えを持っている人が数多くいることに気付かされます。
でも、本当の気持ちというか実体性があるのは後者なのではないかと思います。
反日、反韓などといったとき、そこになるのは「顔のない」日本人であり、韓国人であるわけです。
スポーツはよりむき出しのナショナリズムが表象されます。
個人ベースでは友好なのに、国家となると犬猿の仲になる。このパラドックスには、経済と外交の不一致と似た構造があるのではないかと。
外交が国内問題から目を逸らさせるために、対外ナショナリズムを煽るだけの道具化しているのではないか。



国家が国家たりえたGovernmentとしての役割が担えなくなりつつある中で、リバタリアンが希求するような国家の形態へと収斂していくという見方にはまだまだ異論があるとは思いますが、TPPなど国家間連携協定の枠組を幾つ打ち立てても、濁流の中を下流から上流へ必死に泳ぐ鮭と変わらないのではないかと、思ってしまうわけですが。
夜警国家のように国家の機能が最小化されていくなかで、ラディカルなリバタリアン(アナルコ・キャピタリスト)のように司法も民営化されるべきだとする立場もありますが、僕は国家の最終審級はしばらくは(僕らが生きている間は)保持されるだろうと思います。
いずれにせよ、国家や行政府と区別するための"non-governmental"のNGOと国家の間の距離が縮まっていることに疑いはないのではないかということ。



最後に外交の話を。
再び日中韓の問題に限定すると、どちらが正しいかの議論をしていても平行線を打開できないのではないかということが一つ。
バイラテラルな堂々巡りを続けるよりも、よりメタな次元、政治的意志の統合といいますか、国が担うべきイニシアチブとして世界としてのコンセンサスを探る場として捉え返すほうが賢明ではないかということ。(もちろん安易かつ極めてオプティミスティックな物言いであることは承知です)
なによりも現況のデッドロックから脱却するためには「外交」という概念そのものを捉え返す時機なのではないかということです。

2013年9月9日月曜日

リーガル・ドラマはなぜかくもこうおもしろいのか


数あるジャンルの中でも訴訟もののドラマ、映画は大好物でついつい見てしまいます。
まあ現実の訴訟よりも脚色され、単純化されているのは否めないですが、だからこそ取っ付き易くのめり込みやすいのでしょう。
とはいえ『それでもボクはやってない』など、いつ自分の身に降りかかるかもしれない事案などは、一度自分を主人公に憑依させることで、擬似的に経験しておくことで、万が一痴漢事件に巻き込まれた時に正しい行動をできる蓋然性は高まりそうです。

べつに話題のテレビドラマや映画などのすべてを追って、時勢をの波から取り残されないようにしているわけではないですが、ある程度、今の世間の趨勢を把握しておくという意味ではそういったコンテンツをうまい具合につまみ食いするというのが僕のやり方です。
たしかに視聴率などの数値は数々の批判がつきまとうように絶対的な指標とは言いがたいものの、やはり相対的には参考になる値です。
視聴率が高いには高いなりの理由がある。他を出し抜きそれなりの数字の叩きだす背景にはバズ要因が必ず伏在している。それで一見してみようとなるわけです。
こういった数値を手がかかりにコンテンツを漁るのも一手法ですが、映画・ドラマ等に限らず、読書でも舞台でもなんでも、その界の自分の嗜好に合ったキュレーターを幾人かフォローしておくのが一番スマートなやり方な気がします。
自分で全方位をフォローするのはいかせん能率が悪いし、必ず"こぼれ"が出てしまう。
RSSリーダー、GunosyAntennaのような感覚を、インフルエンサーに付与する、というより見出す。


という前置きを説明した上で、あくまで世俗的なバラエティやドラマ方面のアンテナ感度がかなり高いのが南海キャンディーズの山ちゃん。
彼がアイドル業界に深い造詣を持っているのは周知ですが、それに限らずジャンルを問わないバラエティ、ドラマ類にも広いアンテナを張り巡らし、面白いと思ったものをすぐにメディアで発言しているので、僕もたまに参考にしてます。
リーガル・ハイ』はラジオで山ちゃんが推していたもので、むしろ『半沢直樹』以上に役者・堺雅人が全面に出ているとオススメしていたので、僕も3日くらいでSPも含めた通常放送を見てしまいました。

『リーガル・ハイ』を観ていて思うのは、弁が立つものが正義というか、周りの群衆を飲み込んでいくということ。時代は常にそうあり続けたのではないかということ。
最近でいえば、大阪市長の橋下徹さん、自民党の小泉進次郎さん。雄弁な語り口の人の周りには人が集まってくる。

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このドラマで主人公・古美門研介を演じる堺雅人も人格は最低でありながらも、マシンガンのように繰り出す理路整然かつ根拠に基づく弁証は見事というほかない。
そして度々、諜報員を雇い法律すれすれの工作活動をしたり、巧みにお金を使ったり、「法」や「裁判」が腹蔵する脆弱性を逆手にとり、無敗神話を築き上げていく。
その法律事務所に新人弁護士として入るのが新垣結衣演じる黛真知子。彼女は生来の真面目な女性で、無垢な正義心の塊、本当の「真理」の探求のため、あえて古美門事務所の門を叩く。
と、まあこのドラマの内容をつらつら述べてても仕方ないのですが、キャッチコピーで「愛も、法も、嘘がすき。」と掲げられているように、古美門に言わせれば、正義に基づく真理などあり得ないということ。


なにも日本だけに特有の問題なのではなく、とくにアメリカではより深刻にそういった脆弱性が表出しているといっていいと思います。
このドラマでもお金を持つものが弱者を握りつぶそうとする描写は幾度となく出てきますが、アメリカでもこの問題は根深く、大企業を相手にしたとき、個人が戦える素地はほぼないのが現状となっています。この辺の話はやはり堤未果さんの『(株)貧困大国アメリカ』に譲ります。

パスカル

力=資本(金)の論理の前に、司法も民主主義も無力ということでしょうか。
怜悧な炯眼に満ちた随想録『パンセ』でパスカルは以下の様なことを述べています。
「正義。力。正しい者に従うのは、正しいことであり、最も強い者に従うのは必然のことである。力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的であるこのようにして人は、正しい者を強くできなかったので、強い者を正しいとしたのである」
身震いします。

『リーガル・ハイ』ではあらゆる争点領域で古美門研介が顔を出し、見事に勝利を収めていきますが、じっさいの弁護士稼業としては、あり得ないことではないかと思います。
普通は得意とする領野が決まっているのが定石ではないかと。
たとえば第9〜10話にかけては村人たちが団結して、環境問題を理由として大企業を訴える訴訟を起こすのですが、これはジュリア・ロバーツ主演の実話に基づく映画『エリン・ブロコビッチ』で描かれていたような内容に近いです。

検察側の視点のドラマの筆頭ではやはりキムタク主演の『HERO』ですかね。
古典としては、僕も大学時代の英語の授業の教材で観た『十二人の怒れる男』が有名どころでしょうか。

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