Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年7月28日火曜日

読書『群像の時代 動きはじめたメディアコンテンツ』志村一隆著


明日のメディア』などでも知られる志村一隆さんの新著を読みました。
先日、下北沢B&Bで行われた今著の記念出版イベントに取材で行き、店頭で買いました。

マスメディアからソーシャルへというよく言われる大局的なメディア論のシフトは抑えながら、アドテク、人工知能、ゲーミフィケーションなどなど周辺領域などの各論をも網羅しつつ、次のメディアの行く末を占った本。
高城剛さんじゃないですが、志村さんも数年の間に多くの国を旅し、そこで得られた最新の海外メディア事情の知見もふんだんに詰め込まれている。
この本の要約的ハイライトとしては以下のような節でしょうか。

コンテンツビジネスの要諦は、著作権とコピー技術の独占だった。スマホなどのデジタル・テクノロジーが、その独占を民主化する。(10頁)
コンテンツとしての高価な映像とコミュニケーションのツールとして使われる安価な映像が入り交じる群像の時代。「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、量で凌駕する安価な映像は、映像がコンテンツとしてしか存在し得なかった時代にできた映像文法を変化させるだろう。(165頁)
20世紀は映像の世紀であるとは先人の言葉。21世紀は群像の世紀である。(166頁) 
群像の時代 動きはじめたメディアコンテンツ群像の時代 動きはじめたメディアコンテンツ
志村 一隆

ポット出版
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2015年5月5日火曜日

読書『さまよえる近代―グローバル化の文化研究』アルジュン・アパデュライ

さまよえる近代―グローバル化の文化研究グローバリゼーション研究(とりわけ文化研究寄り)の学問的ブレークスルーというか、一つの嚆矢となったであろうアルジュン・アパデュライの代表的著作を読了。6年間分の論文をまとめたものというだけあり、各々がわりと独立性を持ったトピックを扱ってはいますが、根底にはグローバリゼーションが進行し、単にネーションが衰退したり、興隆したり、という現象をみせているだけでなく、まったく違うレベルでトランスナショナルな情況があると主張。有名なのは①エスノスケープ(民族の地景)②メディアスケープ(メディアの地景)③テクノスケープ(技術の地景)④ファイナンススケープ(資本の地景)⑤イデオスケープ(観念の地景)というようにグローバリゼーション下の文化フローを5つの次元に輪切って把捉しようという提言をしたこと。グローバリゼーションに注目するということは、必然的に「ローカリティ」にも目を向けるわけですが、ぼくの指導教官でもある吉見俊哉先生が解説で簡潔にまとめていらっしゃった箇所が非常に分かりやすく、腹落ちしました。「ローカリティは、常にコンテクスト被規定的であると同時にコンテクスト生成的でもある。それは諸々の物理的-技術的な媒介によって条件づけられていると同時に、そのような媒介的な場を絶えず作り出し、グローバルなものに介入してもいるのだ」繰り返し注意を向けていたトランスナショナルな次元での新しい諸問題が生起するといっていたことと、今日イスラム国が跋扈している現状を合わせて考えると、どこか不気味な様相を呈しています。

2014年6月4日水曜日

なぜわたしたちは夢を見続けるのか?―「技術決定論」の解体作業


今なら、ビッグデータやクラウド、少し前ならWeb2.0、「技術が社会を変える!」という言説は繰り返し再生産し続けてきた。
「システム社会」「ネットワーク社会」などその容器を入れ替えながらも、本筋ではほとんど変わらない。

技術決定論(technical determinisim)とは学術的にいえば「技術が社会構造や社会的相互行為、個人を規定する唯一の要因であると主張する学説」である。(参考:「技術決定論と文化決定論(technological determinism and cultural determinism)」)

いずれにしてもこういった技術決定論的な視座に立った「情報化社会論」は佐藤俊樹教授によれば、60年代から滔々と語られ続けてきたという。
社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望
佐藤 俊樹

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なぜ半世紀もの長きにわたり、このディスコースは生きながらえてきたのか。
それははじめから死んでいたからだと佐藤教授はいう。
その比喩として、ホラー映画の「生きている死体(living dead)」を挙げている。
つまり実質・中身をもたないこと。
なんでもないことは、なんでもあるということでもある。
これを佐藤教授はゼロ記号=空虚な記号signifiant zero)と呼ぶ。

そしてそれを可能たらしめている背後にある要因としては近代産業社会(主な制度として産業資本主義、民主主義にもとづく社会制御という政治制度がある)がある。
佐藤教授は技術決定論を批判的に捉え返す。
術の進歩と社会の変化を考えるとき、どのような技術がどう使われ・どう発展していくか―そこには社会の側の多くの諸力が重層的かつ複合的に作用している実例を数多く上げながら、「情報技術が社会の仕組みを変える」のではなく、むしろ、社会の仕組みの方が技術のあり方を決めているのではないかというものだ。

ソシオメディア論を研究している水越伸教授の見方も社会構成主義に近い。
「エレクトリック・メディアは情報技術の発達によって変化するだけではなく、国家や資本の編制力から、市民、あるいは大衆の想像力にいたる、複合的で重層的な社会の諸力の錯綜した結果として、今日のような姿に固定化させられてきた」
21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)21世紀メディア論
水越 伸

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たいして、技術決定論寄りの本としては東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が挙げられるだろう。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
東 浩紀

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議論のまとめなどは2年前に読んだ時のもののリンク先を参照してもらうとして、自分なりの一般意志2.0の解釈だけ付記しておきたい。
すなわち、それはゾーエーのとらえ方に顕著に見られるのではないかということ。
罵詈雑言でわめき散らす人、極右過激派のような人、社会には色んな人であふれている。
こうした個人をミクロに眺めるのならば、たしかに彼らは剥き出しのゾーエーに見える。
ただし「一般意志2.0」が射程にするのは、よりマクロで総体的なもの。
これをテクノロジー、制度・システムの設計によって最適化できるのではないかというふうに理解している。

ただし、考えてみれば分かるように、純粋な技術決定論的とはほぼ想定不可能だと思われる。

たとえば、四川大地震を例に。
この大規模な地震が起きたとき、ソーシャルメディアを通じてこのニュースは中国国内にもすぐさま知れ渡った。
時間を置かずに、寄付や支援が次々と届いた。
アメリカと中国の間に海底ケーブルが繋がれていたことはたしかに、これを可能にする重要なファクターであったことは間違いない。
しかしながら、それを可能にしたのはアメリカに留学していた中国人(その逆も然り)や海外に駐在した中国人など、はじめに社会的な紐帯・絆が醸成されていたということも見逃せない。
技術のケーブルには、社会のケーブルが欠かせないのだ。

このように技術決定論と非技術決定論の中間にあるような議論をしている本として、クレイ・シャーキーの『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』がある。
みんな集まれ! ネットワークが世界を動かすみんな集まれ! ネットワークが世界を動かす
クレイ シャーキー,岩下 慶一

筑摩書房
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その主張の核として以下を引用したい。
「革命は、社会が新しいテクノロジーを手にしただけでは起きない。社会がそれを新しい習慣とした時に起こるのである」
これは技術決定論的にとって核心的な批判だと思われる。
このような意味で本来、技術決定論的と対置されるべき対抗概念は存在しないのではないかと思う。
まっさきに浮かぶのが「社会決定論」という言葉であるが、技術と社会を同じレベルの変数として扱うのが極めて困難であるという点で(技術は独立へ、社会は従属変数)一応、これまでは社会構成主義や非技術決定論という語彙を用いた。
おそらく「強い技術決定論」や「弱い技術決定論」とするのが適当だと思われる。
たとえば政治哲学でもD・ミラーなどは「強いコスモポリタニズム」「弱いコスモポリタニズム」というような区別を行っている。
政治哲学 (〈一冊でわかる〉シリーズ)政治哲学 (〈一冊でわかる〉シリーズ)
デイヴィッド・ミラー,山岡 龍一,森 達也

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こうした社会学やメディア論、押しなべて言えば社会科学で積み上げられてきた理論や論争、フレームワークを道具として使い、いかに現実をみることができるか。
たとえばこの「技術決定論」に関するプレゼンを共同でやった先輩も「「起業したからこそ学問の大切さに気付いた」”現役東大院生”前島恵さんの起業ストーリー」というインターンシップ記事の中で、技術決定論や進歩史観といったアカデミズムでさかんに語られた問題をじっさいの社会に見出しています。

それでいうと、先日、電車内でツイッターの創業記を読んでいるときに同じことを思ったのでした。
ツイッターを創り上げた彼らの信念の裏には技術決定論的な視座が少なからずあったと思うのです。
ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切りツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り
ニック・ビルトン,伏見 威蕃

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【そういえばさっきこんなのありました】⇒2014年下半期にヒットしそうな5つのテクノロジー

孫さんが語るビジョン(「「300年後は平均寿命が200歳に」:【全文】ソフトバンク孫正義が予測する“テクノロジーの進化”」)。圧倒されます。技術決定論的な見方であることは間違いないにしても、とにかくワクワクしてくる。
だからわたしたちは夢を見続けるのかもしれません。

2014年5月6日火曜日

読書『グーテンベルクの銀河系』M・マクルーハン著、『印刷革命』E・L・アイゼンステイン

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成印刷革命

「文化人間情報学基礎」という講義の課題図書としてマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』をそして、補完的に読むと理解が深まるということで、その後にE・L・アイゼンステインの『印刷革命』を読みました。

よく知られているようにマクルーハンはメディア論の始祖的なようにみられていて、技術決定論の嚆矢にもなったとみられる今著。
グーテンベルクの活版印刷術が発明され、人類は聴覚型から視覚型へと突入した。すると、①中央集権的、かつ②個人を基本的な単位とする"近代社会"が作り出された。
いわく、
五感のひとつが技術によって人間の外部に延長されるとき、その新技術が人間の精神の内部に内化されるのと同じ速度で、文化の新しい翻訳が発生する。
というように詩的な文体で、レトリックをふんだんにメディアの構造的変容が社会全体に多大な影響を及ぼし、人類の様態までもを変えてしまったという、まったく新しいフレームワークを与え、新たな学問領域を拓き、創発したという功績は認められるべきであるにしても、具体的な内実への言及は見られなかった。
これを宿題として、社会学は拡がりを見せていく。

『グーテンベルクの銀河系』を読み通して(レトリックやユニークなアナロジーに翻弄されながらも)肌感覚として、活版印刷登場以後、社会ひいては世界に地殻変動が全領域的に生起し、人類の型が変わったというのは分かった。
ただし、資料的な、分類学的な、そして書誌的な実証性を担保しながら、丹念に(文学性、詩的さを排除した形で)その変動の動態的プロセスが辿りたい。
だとすれば『印刷革命』はうってつけの本であり、著者も冒頭で述べているように、それ以前には(意外にも)そこを深堀りした先行研究はなかったという。
その意味で、マクルーハンにしろ、アイゼンステインにせよ、メディア論の枠組みに先鞭をつけてきたパイオニア中のパイオニアといえる。
そのぶん、研究は完全とはいえず、後発の研究を肉付けし、知識を補完する必要がある。

アイゼンスタインが『印刷革命』で行った作業で前提的な思想となっているのは、社会が変動するプロセスにはいくつもの変数があるが、その変数を辿った先にあるのが「印刷術」だということである。
印刷術を、複雑な因果関係を構成している数ある要素の一つにすぎないと考えることはできない。コミュニケーションの変容が因果関係そのものの性格を変えてしまったからである。印刷術が歴史的に特に重要なのは、印刷術によって、当時の一般的な継続と変化のパターンが根本的に変わってしまったためである
コミュニケーションの変容によって、ヨーロッパのキリスト教徒の、聖書や自然界に対する見方が変わった。神の言葉は多様性を帯び、神の業は一様不変となった。印刷機は字義にこだわる根本主義と近代科学双方の基礎を築いた。それは、依然として人文主義の学問には欠かせないものであり、今なお、われわれの壁なき博物館を支えている。 
グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成
マーシャル マクルーハン,森 常治

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印刷革命印刷革命
E.L. アイゼンステイン,Elizabeth L. Eisenstein,別宮 貞徳

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2014年3月25日火曜日

読書『MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体』田端信太郎著


LINE株式会社で執行役員を務める田端信太郎さん(@tabbata)の『MEDIA MAKERS』を読みました。
先月・今月読んだ『ITビジネスの原理』にしても『5年後、メディアは稼げるか?』にしても今著の影響が色濃く読み取れます。

紙媒体から電子書籍へ、テレビからネットへ。
メディアにパラダイムシフトが起きるとき、旧メディア側=既得権益層の守旧派は一般的な傾向として新しいメディアを一過性であったり、表層的なものとして唾棄します。(顔を背けるというか)
これは敷衍すればあらゆる原理に当てはまることで、例えば商店街で魚屋や八百屋を営む個人商店の店主がいくら「真面目にしっかりとした仕事をこなしていれば必ずお客は来てくれる」と主張してたとしても、大型量販店には太刀打ち出来ない。


このへんのアーキテクチャ論をCDを例にすごく分かりやすく説明なされていました。
アナログ盤からCDへの変化に象徴される、ユーザー主権的なノンリニア化(つまり、前後の文脈に関係なく、コンテンツの受け手がコンテンツ内を自由かつ瞬時にスキップして移動すること)は、今のあらゆるメディア消費の変化の底流にあるものです。現状のネットビジネスにおいても検索エンジン、スマートフォン、ソーシャルメディアという3点セットの浸透と普及は、全てのメディアを断片的なものに刻み込み、コンテンツは、その作り手側が想定した文脈などは無視して、好き勝手に、ユーザーから「つまみ食い」されるものへと変化していくことを要求してきます。
僕は観たことないのですが、『山猫』という映画の中でこんなセリフがあるそうです。
変わらずに生きていくためには、変わらなければならない。 
MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体
田端信太郎

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2014年3月19日水曜日

読書『5年後、メディアは稼げるか―Monetize or Die?』佐々木紀彦著


東洋経済オンライン」編集長・佐々木紀彦さんの『5年後、メディアは稼げるか?』読了。

先日みたNHK「日本のジレンマ―今読者はどこに?2014年 編集者の挑戦」に出演されていたこと、若干のバズを見せたイケダハヤトさんの「紙のライターよ、「文章の巧さ」を誇る暇があるなら「マネタイズ」を頑張りなさい」という記事を読み、一読してみることに。

新書のような体裁で、一日かからずササッと読めます。

<序章―メディア新世界で起きる7つの変化>では

①紙が主役→デジタルが主役
②文系人材の独壇場→理系人材も参入
③コンテンツが王様→コンテンツとデータが王様
④個人より会社→会社より個人
⑤平等主義+年功序列→競争主義+待遇はバラバラ
⑥書き手はジャーナリストのみ→読者も企業もみなが筆者
⑦編集とビジネスの分離→編集とビジネスの融合

とのこと。

ウェブメディアにおいては、"一貫性"よりも"多様性"が重要だとの記述の中で、個人的に面白かったのがテレビ局との喩え。
ウェブメディアの記事構成は、テレビ局の番組構成に似ています。テレビ番組には、堅い報道番組もあれば、お笑い番組もあれば、ドラマもあれば、スポーツ中継もあります。同じようにウェブメディアでも、多様性がポイントになります。「東洋経済オンライン」でも、恋愛ネタからお堅い経済ネタまでを網羅した、バラエティに富んだラインナップを意識しています。
フィナンシャル・タイムズやニューヨーク・タイムズのように、足場をウェブへ移してからも成功しているところに戦略を学ぶのはもちろんなんですが、日本というメディア環境が特殊なコンテクストの中で、「新聞」に思うところは上記の引用でいうところの"中間地点"という気も。

国産メディアでやっぱり課金の仕組みも含めて、先進的な取り組みをしてるのはcakes(ケイクス)になるんでしょうか。(経済系メディアではないですが)

メディア論とは離れたところで佐々木さんは古典の重要性を説いておられましたが、これはライフネットの出口さん、田村耕太郎さんなど多くの著名人と同じ主張。

というようなこともあって、本著内でも引用されていたショーペンハウアーの影響は行間から窺い知れました。
最後はメディアとは関係ないところで、(ショーペンハウアーの『孤独と人生』にもつながりそうな)元イェール大准教授で文芸家ウィリアム・デレズウィッツが語るリーダーシップについての講演の一部で閉じます。
リーダーシップにとって、真に重要なのは想像力であり、新規かつ逆張り的な物の見方を考え出し、それを表現する勇気です。よきリーダーであるためには、いかにしてひとりの時間をつくるか、ひとりで思考に集中できるか、大多数の一致した意見に左右されないか、をわかっていなければなりません。"孤独”とは、ひとりで静かな時をすごすことへの自信と心地よさです。
5年後、メディアは稼げるか――Monetize or Die?5年後、メディアは稼げるか――Monetize or Die?
佐々木 紀彦

東洋経済新報社
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2013年10月8日火曜日

読書『なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者』ロジャー・シルバーストーン著

なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者

ロジャー・シルバーストーンの『なぜメディア研究か』(原題:Why Study the Media?)を読みました。
彼はBBCのドキュメンタリーをはじめ、TVの現場で実務者としての経験を積みながら、アカデミックな世界においても「メディア論」という新しい学問領域のフロンティアで先鞭をつけ続けてきた権威です。
LSEの教授であり、同校大学院に設置されたメディア・コミュニケーション学科長でもあります。
(数多くの著書を上梓なされていますが、おそらく本著を脇に置くと、『テレビジョンと日常生活』(原題:Television and Everyday Life)が最も広く読まれている一冊かと思われます。
Television And Everyday LifeTelevision And Everyday Life
Roger Silverstone

Routledge
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訳者の一人でもある東大・学際情報学府教授の吉見俊哉先生がゼミでも輪読した、とあとがきで書かれているように、おそらく世界中でメディア論を学ぶ学生たちの必読書となっていると思われます。
文体が独特で、軽妙にリズムよく流れていきながらも、行間の背後から伝わってくるコンテクストには彼の実務者としての経験とメディア論を包括的に網羅したアカデミックな知が充溢しています。
あとがきから少し引用
本書は、メディアを学び、研究するとはいったいどういうことなのかを、深部から解き明かしていく。いわば本書はメディアについてのメディアであり、私たちの日常的実践が織りなす無数の媒介作用を、その媒介作用の中に身をおきながら研究するための手引きである。
本著のはじめの方で、シルバーストーン教授自身がこのように述べています。

ロジャー・シルバーストーン教授
プロセスとしての媒介作用についてのわれわれの関心は、私たちがなぜメディアを研究しなければならないかという問いの中心にある。私たちは、経験と表象の敷居を超えて意味が動いていくありように、注意を注いでいかなければならない。
アイザリア・バーリンがメディアを「経験の総体的なテクスチュア」と呼称したように、日々流れていくなかで、積層として形成される私たちの経験の集合体を造形する主体がメディアに他ならず、純粋培養される"経験(experience)"というのは、本来ないはずなのかもしれません。 
そういう意味で、ジュディス・バトラーらのパフォーマンス論、ドラマトゥルギーを再考すると、新たなる視座が拓けるような気がします。
行為や身振りや欲望によって内なる核とか実体という結果が生み出されるが、生み出される場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身振りや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティブなものである。ジェンダー化された身体がパフォーマティブだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである」『ジェンダー・トラブル
シルバーストーン教授の言葉を付言しておきます。
メディアによる記憶化は、媒介された記憶である。技術は記憶と結びつき、記憶に媒介する。われわれは生きていくためにさまざまな付録を、つまり過去という時間のビタミンを提供され続けているのである
マイケル・レーノフが指摘したように、メディアはいつだって叫び狂っています。

「私を信じろ、私が世界だ」と。
注意深く、私たちを説得しようとするメディアの狡猾な立ち振舞いを眺めてみると、そのメカニズムは通時的な様態をみせていることに気付かされます。たとえば、紀元前すでにキケロは『弁論家について』でこんなことを言っています。
強い印象は、一点の力説、明快な説明、事件があたかもそこで起きているかのように思わせるほとんど視覚的な表現によって作られる。それは出来事の叙述にも、意見の説明と増幅にも非常に効果的であり、雄弁と同じ程度に、増幅しようとする事実が重要であるように聞き手に見せることもできる。説明は、しばしばすばやい再検討や、実際に言ったこと以上の理解を促す示唆、あるいは明快さを求める簡潔性、品位の格下げやからかいなどによって相殺され...(以下、略)」
弁論家について〈上〉 (岩波文庫)弁論家について〈上〉 
キケロー,Cicero,大西 英文

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歴史にはパターンがあるといのは史家学者の見解の一つではありますが、メディアという観点からそれを考察するとき、経路は似たり寄ったりでも、時代毎に主体となる物象は常に変遷してきました。たとえば、リチャード・マッケオンの言葉を引くと
ローマ人のレトリックにおける共通の場は実用的技術と法律の知識に由来し、人文学のレトリックにおけるそれは芸術と文学から来ている。そして、私たち現代人のレトリックは、商業広告と計算機のテクノロジーの内にその共通の場を見出すのである。
まあ、この辺の話を突き詰めていくとポストモダンの思潮に行き着くことになりそうなんですが、(そういう意味でいうとメディア論自体は現代思想と親和性が高そうです)ジグムント・バウマンの社会におけるモラリティについてを最後に引っ張っておきます。 
モラリティは社会の産物ではない。モラリティは社会が操作する、つまり搾取したり、向きを変えさせたり、無理に押し込めたりするような、なにもかもなのである。裏を返せば、不道徳な行動、言い換えれば他者に対する責任を見放し、放棄する行いは、社会の機能不全の結果ではないのである。それはむしろ主観性の社会的管理という問題の位相で探求されねばならない、モラルというよりはインモラルな行動の発生のことなのである。
Modernity and the HolocaustModernity and the Holocaust
Zygmunt Bauman

Polity

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2013年9月13日金曜日

「NGO化」する世界


ここ1~2ヶ月ほど、学部時代のゼミ生で院に進学する数名が集まり、ゼミの先生を囲んで勉強会を何度かやってきました。
今日がその最終回で今日はAmitav Acharyaの"Regionalism and Integration: EU and Southeast Asian Experiences"をテクストに進行していきました。

途中で模擬試験という意味合いを込めて論述対策をするわけですが、そこで考えた内容を改めてここでまとめておきたいと思います。

Q. なぜアジアでは経済的相互依存の深化が外交に結びつかないのか。

ここでの目的は試験に正しく解答し、100点を得ることではないので、最初の「なぜアジア」では括弧に入れて、より一般化した経済と外交の関係について考えてみたいと思います。



これまでの歴史を紐解くと、ウェストファリア以前・以後、帝国、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)、冷戦(二極)、ヘゲモニー(米国覇権)、国家の在り方や国家間の枠組みに常に変動はありながらも、基本的に経済と外交は表裏のものであったのではないか。
ここでいう"経済"は原始レベルの交易活動のようなコミュニティー・ベースのものというよりは、国対国のより大きなレベルでの「経済」を指します。

過去から現在までの時間軸を辿ると、着々とグローバライゼーションが歩を進めてきたのが分かります。
「グローバル化」はメディア論の文脈で捉えると分かりやすいのですが、まず15-16世紀の印刷技術と流通、それに絡まる出版資本主義、つまりアンダーソンのいう「想像の共同体」の誕生です。この枠組はかなり強固に、基本的に現在までその基本的な基盤であり続けてきました。
それ以後のメディアの変遷(電信、ラジオ、テレビなど)も基本的に国民国家を強化する装置として機能してきました。



たとえばラジオははじめマニアたちの間で電波の送受信が行われ、一種の公共圏のようなものを創出していましたが、やがて送信部は切り取られ、受信部のみが残り、現在のラジオの形へと変貌してきました。(詳しくは水越伸『メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史』など)
これはラジオに限った話ではなく、電話も同様ではじめは現在のようなコミュニケーション・ツールとしてはではなく、遠隔地のコンサートのような演奏会から流れてくる音楽を聞くための道具であったりなど、新しいメディアには常に開かれた"可能的様態"があり、それを規定する要因は様々ですが、往々にして時代の権力側、エスタブリッシュメントと言い換えてもいいかもしれませんがその様態を決定してきました。(メディア史の総論としては吉見俊哉『メディア文化論』が断然オススメです)
いちばん顕著な例がテレビです。
テレビは与えたインパクトは計り知れないものがありますが、皇室、天皇巡幸をはじめ、国民が国家の象徴を共有することを可能にしたメディアとしては決定的な役割を果たしました。メディアの話はこの辺にします。



畢竟するに、テレビまでのメディアの変遷は国民国家の基盤を強化するように作用してきたのに対し、インターネットの誕生ははじめてその存在に揺らぎを与えることとなります。時間・空間的距離を短縮化もしくは無化したのです。

ここで予め、質問の答えとなるのではないかと考えている僕の仮説を呈示しておきたいと思います。
上記で簡単に述べたようなテクノロジーの進展に伴うメディアの変遷、国境を越えたグローバライゼーションの深化、多国籍企業の台頭、これらを一括りに「グローバル資本主義」としておきます。
やや弁証法的な見方になりますが、こういった背景の元、誤解を恐れずに言うと、世界はリバタリアン的世界観に染まりつつあるのでないか、というのが僕の仮説です。
つまり主権が断片化していく中で相対的に国家の役割も縮減している。
国家の手に負えなくなりつつある。さらには国家間の協力でも間に合わない。
たとえば、リーマン・ショック、ヨーロッパ経済危機。
これまでプラザ合意なりワシントン・コンセンサスなり、G20なり、国家首脳が集まり、なんとか経済を操作というかコントロールしようと努めてきたわけですが、いよいよ手に負えなくなってきた。野に放たれた資本主義という野獣、国家を越えた有象無象は国の管理下に置けなくなった。


ケイマン諸島

最近、取り沙汰されているタックス・ヘイブンを迂回した「租税回避」の問題でも、国家の網の目を潜り抜け、多国籍企業が法律という名の人工物を欺いていく。

例証しようとすればいくらでもできます。
このブログでも何度も言及している堤未果さんの『(株)貧困大国アメリカ』には目を覆いたくなるような実例が数多く挙げられており、民主主義の脆弱性が露呈されています。
金の論理を駆動力に展開されるロビー活動が立法を牛耳り、企業にとって耳の痛い法案はアンチ・キャンペーンで徹底的に叩き潰す。
アメリカでは全州で遺伝子組換え食品の表示義務がありません。
失業率が高まっているのに雇用創出のために予算は使われずに、フードスタンプ(簡単にいえば生活保護)のPRに予算がつぎ込まれています。
こういった倒錯の裏には安価の加工食品を生産する大企業が暗躍しています。
過去に類をみない程に肥大化したグローバル多国籍企業の収益はゆうに小国の予算規模を超えるものです。
一方で莫大な金を動かす大企業がせっせと租税回避に躍起になるなかで、国は増税を踏み切る。ただし、このしわ寄せを喰らうのは市民です。
根本的な解決足り得ない空理に終わるのです。
ただし、権力が国家から金の論理を盾にした多国籍企業に単純に移ったと断定するのも早計でしょう。



なぜなら国家という隠れ蓑に隠れて莫大な収益を上げている産業も存在するからです。
言わずもがなですが、とくにアメリカで巨大な「軍産複合体」。
アメリカは戦争で成長してきたといっても過言ではありません。
なにもアメリカのみならず、中国やロシア、フランスなど国連で常任理事国を務める大国では武器の輸出が立派な産業として確立されています。
戦争や核兵器の廃絶、環境問題への取り組み、国際レジームを構想する際に、大国の参加は必要不可欠なファクターですが、なぜ簡単に一致団結できないかというえば、既述のような大企業の存在があるのです。
今、『統治を創造』するという著作を読んでいますが、いまいちテンションが上がってこない背景にはこういった暗澹たる現況があります。
「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会
谷本 晴樹,淵田 仁,吉野 裕介,藤沢 烈,生貝 直人,イケダハヤト,円堂 都司昭,西田 亮介,塚越 健司

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話をはじめの問いに近づけます。
従来まで一蓮托生で表裏の関係にあった経済と外交。両者が「国家レベル」で一致していた。ところがグローバル資本主義の波に飲まれる形で、経済の部分の主要な担い手が国家から企業、グループ、個人へと下降してきた。
ただし、外交は未だに国家の手中にある。ここで乖離が生じている。
オリジナルのクエスチョンでは「なぜアジアでは」という文言がありました。
この問題に紐つけて考えると、日・韓・中の間には溝の深い歴史問題があります。
いわゆる反日感情、反韓感情といった類のものです。



なんとなく空気感としてそういったものはあるものの、自分の実体験や友達の話を聞く限りでは、韓国にはあまり良いイメージはないが、韓国人の友達はみんな良い奴だ、などと首尾一貫しない考えを持っている人が数多くいることに気付かされます。
でも、本当の気持ちというか実体性があるのは後者なのではないかと思います。
反日、反韓などといったとき、そこになるのは「顔のない」日本人であり、韓国人であるわけです。
スポーツはよりむき出しのナショナリズムが表象されます。
個人ベースでは友好なのに、国家となると犬猿の仲になる。このパラドックスには、経済と外交の不一致と似た構造があるのではないかと。
外交が国内問題から目を逸らさせるために、対外ナショナリズムを煽るだけの道具化しているのではないか。



国家が国家たりえたGovernmentとしての役割が担えなくなりつつある中で、リバタリアンが希求するような国家の形態へと収斂していくという見方にはまだまだ異論があるとは思いますが、TPPなど国家間連携協定の枠組を幾つ打ち立てても、濁流の中を下流から上流へ必死に泳ぐ鮭と変わらないのではないかと、思ってしまうわけですが。
夜警国家のように国家の機能が最小化されていくなかで、ラディカルなリバタリアン(アナルコ・キャピタリスト)のように司法も民営化されるべきだとする立場もありますが、僕は国家の最終審級はしばらくは(僕らが生きている間は)保持されるだろうと思います。
いずれにせよ、国家や行政府と区別するための"non-governmental"のNGOと国家の間の距離が縮まっていることに疑いはないのではないかということ。



最後に外交の話を。
再び日中韓の問題に限定すると、どちらが正しいかの議論をしていても平行線を打開できないのではないかということが一つ。
バイラテラルな堂々巡りを続けるよりも、よりメタな次元、政治的意志の統合といいますか、国が担うべきイニシアチブとして世界としてのコンセンサスを探る場として捉え返すほうが賢明ではないかということ。(もちろん安易かつ極めてオプティミスティックな物言いであることは承知です)
なによりも現況のデッドロックから脱却するためには「外交」という概念そのものを捉え返す時機なのではないかということです。

2013年8月19日月曜日

読書『大学とは何か』吉見俊哉著

大学とは何か (岩波新書)

情報学環の教授であり、東大の副学長も務めていらっしゃる吉見俊哉先生の『大学とは何か』を読みました。
先生専門は一応、社会学(カルチュラル・スタディーズなど)とか、都市論とかメディア論とかになるんですけど、本当に守備範囲が広い。
教授の人たちは知識の守備範囲が広いという人は往々にしているんですが、実際にそれを著作にまで落とし込んで、突き詰めてやられる人は少数なんじゃないかと。
そういう意味では情報学環は吉見先生はじめ北田暁大先生などなどその手のオールラウンダーが多い。「学際情報」と冠たるだけありますよね。

この本で描かれることは以下の4点に集約されます。

①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展
②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場
③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築
④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか

中世の頃にもなると、「大学」というものの骨格が整えられていくのですが、その中心的役割を担ってきたドイツにあって、カントが「大学」というものについてどういう考えを抱いていたのか。
諸学部の争い」という彼の論文については以前どこかで聞いたことのあるような気がするのですが、実際に中身については今回はじめて知りました。そこで、少し紹介。
カントは神学部、法学部、医学部を「上級学部」とし、哲学部を「下級学部」に位置づけ、その両学部の弁証法的統一体として「大学」を捉えていました。以下、少し引用。
「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」
これに対して哲学部は、
「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」
上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知であるということ。なるほど、カントらしい。

ジョンズ・ホプキンス大

今のような大学の形に収斂したのが、米ジョンズ・ホプキンス大に求められるというのも初耳でした。
19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ
この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。 
この辺まで読み進めて思うのが、当たり前ですが、「大学」が社会における所与のものなどでは決してないということ。
たまたま今の時代は中学、高校、そして大学、そして就職が主なルートになってはいるものの、それは特定の時代背景に依って成立していることにほかならない。
とはいえ、福沢諭吉の『学問のススメ』を読んでも思うように、人類において人が学びたいという気持ちは普遍のもののような気がします。「知りたい」という方が精確かもしれません。

アカデメイア

プラトンのアカデメイアにしても藩校にしても、私塾にしても、なんでもいいのですが、少なくとも「大学」が不変の学問の場であったことは歴史を辿っても一度もなかったということ。
常に革新・進歩、後退・退潮を繰り返しながら変容を遂げてきたこと。
国民国家と大学も決して一蓮托生なわけではないということ。

題名にもなっている、「大学とは何か」。あとがきで、吉見俊哉先生の解答が用意されています。ある程度は予測できたことですが、
大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。
自身自らが、学際的視座から縦横無尽に領域を駆け巡り、それぞれ著書に落とすことで、現代社会における大学が抱える数多くの問題、たとえば大学・大学院の拡充にともなって質の低下が叫ばれる学生へ発破をかけているというか、メッセージを送っている気がしてならない。それに応えたいものです。 

2013年6月11日火曜日

アンパンマンから「死刑存置論」を考えてみる


私たちの価値観は環境の中で日々、刻々と醸成されていく。
人々の関わり、メディアで表象される数々のシーン、新聞の論説で語られる「こうあるべきである」理念。
そうした複雑なファクターが異種混淆し、複雑に絡まり合いながら一つの文化圏内で一定の「社会規範」は成熟していき、ある場合には「常識」として受容される。

とりわけ、それを強力に広範囲にわたって推し進めるのがテレビを中心としたマスメディアである。
言うまでもなく、テレビが世界すべてを映し出すことは不可能で、放映されるに至るまでには制作側の恣意的な優先順位がある。
報道を例にとると、これまでに指摘されてきたのはクローズアップされる国や地域が例に漏れずOECD加盟国との利害関係が幾分でもある国に限られているということだ。
たとえば「破綻国家」とされるソマリアにスポットライトが当てられることはほとんどない。
メディアの「議題設定機能」についてはここでは深く立ち入らない。

ここまでで何が言いたいかというと、価値観(とりわけ「正義観」にここでは注目したい)はあらゆるメディアに巧妙に埋め込まれており、絶えずこのような一定の価値(正義観)を内包した言説に曝されることで、私たちの奥深くで「正義観」が徐々に形成されていく。
自分自身でゆるぎなく把持していると思われる考え方や信条もかなりの部分が社会的に(しばしば無意識のうちに)形作られていく。

以前から不思議に思っていたことの一つに、日本の死刑賛成論がある。
日本は死刑賛成派が約8割とマジョリティを占め、先進国のなかではありえないほど高い数字を保ってきた。
(小林和之『おろかものの正義論』)で触れられていたのだが、人は「死刑制度」についての知識を深めていけばいくほど、賛成派から反対派へと移行していくという。
よく挙げられる理由の筆頭として、どこまでいっても被告が否認する限り「冤罪」の可能性が拭えないということがある。(この点については映画『それでもボクはやってない』を観たことがある人なら、痛いほど分かると思う)
賛成論者の論拠はきわめて明快で、例えば人を数人殺した加害者が死なないで、のうのうと生きていくのは許せないというものがある。(さらに一歩踏み込んで考えれば、被害者が将来的に子どもを生み、その子どもがまた子どもを生むといったように、実際の数字以上の生命を奪ってしまったと、言うこともできるかもしれない)
ただ上記の小林の本でも触れられていたいくつかのケースは、遺族が「死刑」を望まず、終身刑を支持した例もある。
ハンムラビ法典から旧約聖書にいたるまで、滔々と受け継がれてきた「目には目を歯には歯を」という同害報復刑では"黒い連鎖"が留まることを知らず、加害者が死に絶えれば、心の底から晴れ晴れするといった人はごく少数なのではないかと思われる。

ここで冒頭のメディアと正義の関わりに重心を戻したい。
なぜ日本では賛成論が主流なのか。
その遠因をメディア論的に語るならば、メディアの中でアニメ、報道、ドラマあらゆる形式で「勧善懲悪」的な価値観が是とされてきたことが、大方の日本人が共有する「正義観」を成り立たせるに至ったのではないかということだ。

先日、まだ幼い姪とテレビでやっていた「アンパンマン」をみているときに、フト思った。
とりわけ発育段階にある幼子は確固たる価値観や規範を自己のうちに確立できていない。
とくに3歳〜5歳時のコミュニケーション環境が以降の人生に与える影響が大きいことがしばしば指摘されるように、このときに浴びせられる情報が価値形成に与える影響は計り知れない。
アンパンマンではバイキングをアンパンチで倒し、ウルトラマンや仮面ライダーでも悪者を倒すのが決まりで、水戸黄門でもご隠居さまが最後に印籠をみせ、悪者を助さん格さんが成敗するのが定型。
「出る杭は打たれる」などの社会文化にもみられるように、とにかく一度、社会において「悪者」のレッテルを貼られると、徹底的に叩かれる慣例が浸透しているように思う。
相対的に欧米先進国では、処罰よりも先に、いかに適切に更生させ、再び社会に適応させるかに重点が置かれているように思う。
当然、日本の文化でほとんどの時間を過ごしてきた自分が他文化における「正義観」を単純に比較することは難しいにしても、死刑存置論者の数が先進国の中で圧倒的に多い日本で、アンパンマンをはじめとしたアニメなどテレビが「正義観」の規範形成に与えてきた影響は多分にあるのではないかと感じた。科学的な裏付けは一切ありませんが。