Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2013年10月17日木曜日

院試について―東京大学大学院学際情報学府の場合


来春から東京大学大学院学際情報学府に進学することになります。

博報堂でインターンをしていたときにお世話になったメディア局の局長さんがココで「広告ビジネスコミュニケーション論」の講義を担当していたり、社会学、メディア論の一線級の先生方が顔を揃えられていること、海外の大学院に進学することも考えましたが、ココに決めました。
悩みになやんだ結果です。(思う所は去年書いた「就職、進学、生きていく事」というエントリーに書きました。その時からも紆余曲折はありましたが)

この大学院の特徴は文理横断の「学際性」に重きを向いていることです。
コースは5つあります:


メディアにもよく顔を出す出身者でいえばチームラボの猪子(@inoko21)さんがたしか先端表現を中退で、評論家の荻上チキ(@torakare)さん、原発以後メディアで発言の多い開沼博(@kainumahiroshi)さんは博士課程に在籍しています。先日ブログでも取り上げた『「統治」を創造する』で執筆陣に名を連ねていた生貝直人(@ikegai)さんも出身者ですね。

注釈:おかげさまでこの記事は数万PVくらいみられているようです。今でも検索流入があるようなので、せっかくの機会ということで若干の加筆・修正したものを「note」に掲載しました。気になる方はぜひこちらから。

2013年8月19日月曜日

読書『大学とは何か』吉見俊哉著

大学とは何か (岩波新書)

情報学環の教授であり、東大の副学長も務めていらっしゃる吉見俊哉先生の『大学とは何か』を読みました。
先生専門は一応、社会学(カルチュラル・スタディーズなど)とか、都市論とかメディア論とかになるんですけど、本当に守備範囲が広い。
教授の人たちは知識の守備範囲が広いという人は往々にしているんですが、実際にそれを著作にまで落とし込んで、突き詰めてやられる人は少数なんじゃないかと。
そういう意味では情報学環は吉見先生はじめ北田暁大先生などなどその手のオールラウンダーが多い。「学際情報」と冠たるだけありますよね。

この本で描かれることは以下の4点に集約されます。

①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展
②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場
③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築
④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか

中世の頃にもなると、「大学」というものの骨格が整えられていくのですが、その中心的役割を担ってきたドイツにあって、カントが「大学」というものについてどういう考えを抱いていたのか。
諸学部の争い」という彼の論文については以前どこかで聞いたことのあるような気がするのですが、実際に中身については今回はじめて知りました。そこで、少し紹介。
カントは神学部、法学部、医学部を「上級学部」とし、哲学部を「下級学部」に位置づけ、その両学部の弁証法的統一体として「大学」を捉えていました。以下、少し引用。
「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」
これに対して哲学部は、
「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」
上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知であるということ。なるほど、カントらしい。

ジョンズ・ホプキンス大

今のような大学の形に収斂したのが、米ジョンズ・ホプキンス大に求められるというのも初耳でした。
19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ
この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。 
この辺まで読み進めて思うのが、当たり前ですが、「大学」が社会における所与のものなどでは決してないということ。
たまたま今の時代は中学、高校、そして大学、そして就職が主なルートになってはいるものの、それは特定の時代背景に依って成立していることにほかならない。
とはいえ、福沢諭吉の『学問のススメ』を読んでも思うように、人類において人が学びたいという気持ちは普遍のもののような気がします。「知りたい」という方が精確かもしれません。

アカデメイア

プラトンのアカデメイアにしても藩校にしても、私塾にしても、なんでもいいのですが、少なくとも「大学」が不変の学問の場であったことは歴史を辿っても一度もなかったということ。
常に革新・進歩、後退・退潮を繰り返しながら変容を遂げてきたこと。
国民国家と大学も決して一蓮托生なわけではないということ。

題名にもなっている、「大学とは何か」。あとがきで、吉見俊哉先生の解答が用意されています。ある程度は予測できたことですが、
大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。
自身自らが、学際的視座から縦横無尽に領域を駆け巡り、それぞれ著書に落とすことで、現代社会における大学が抱える数多くの問題、たとえば大学・大学院の拡充にともなって質の低下が叫ばれる学生へ発破をかけているというか、メッセージを送っている気がしてならない。それに応えたいものです。 

2013年7月12日金曜日

読書『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』林香里著

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

東大院・情報学環教授の林香里先生の本を読みました。
実はこの本は林先生自身の博士論文が主な叩き台になっていて、東大初の「博士(社会情報学)」での授与だそう。
おそらく主査は花田達朗先生で、あとがきには吉見俊哉先生の名もありました。

この本で呈示される仮説をまず3つ
①ジャーナリズムという主体的な意識活動は、マスメディアの周縁に宿る。
②ジャーナリズムの新しい可能性は近代自由主義思想の延長線上には、もはや見出すことができない。
③マスメディアというシステムは、現代社会において「公共性のアンビバレントな潜在力」(ハーバーマス)をもつ。そしてそれは、文化の違いを超えて認められる。

とりわけ一番重要かつ中心的テーゼになってるのが一番最初の仮説で
「ジャーナリズムの核心はマスメディアの周縁に宿る」
というもの。タイトルにもなってるし、なによりもこの論文を書き始め、書き上げるための最も重要なテーゼになってるわけですね。 

この周縁・中心という切り取り方、というか論じ方はネグリ+ハートの『帝国』が最たるもので、マルクス主義も広義で捉えるならその枠組ということになると思いますが、フレームとして分かりやすいんですね。
《1章 大衆化社会とジャーナリズム―「タブロダイゼーション」論争の視点から》で1980年代以降マスメディアが生産する新聞記事や放送番組の内容がビジュアル化や娯楽化へ急激にシフトしてきたことや、さらに記事やナレーション部分が極端に圧縮されてきた現象を「タブロイド化」として文脈化して考察されているのですが、そのなかで重要だと思ったのが先述の花田先生の「公共圏のパラドクス」という問題。
公共圏は平等という普遍的な原理を追求し、入場資格の切り下げをはかって、元来の基準からみれば無資格者に対しても参入を許容していったが、逆にそれが批判的公衆による政治のコントロールという前提を失わせる結果となった。公共圏はその拡大によって機能不全に陥っていったとみられる。
ジャーナリズムの研究とはいっても、ルーマンのシステム論だったり、ハーバーマスの公共圏論だったり、アカデミズムでは常識とされていることが既知の知識として求められるので読者も、それ相応の知識がないと、ちと厳しい内容かと思います。
そういう意味で大学院生やジャーナリズム論などを学ぶ人はまだしも、いわゆる一般読者には少し難儀な内容かと。

一応、ルーマンの「公共圏」の定義を確認しておくと、
「あらゆる社会内部のシステム境界のリフレクション」あるいは「社会的部分システム、つまりすべてのインターラクションや組織、そして社会的機能システムや社会運動をとりまく社会内環境」
「公共圏とは、一般的社会のリフレクションのメディウム(媒介)であり、それは境界を横断できないことを記録し、そして諸観察の観察を記録しているのである」 
「公共圏」をこういうように捉え返すと、マスメディアの機能は「公共圏の生産」というよりも、公共圏の「表象」であるというようになるということ。

最初に挙げておいたテーゼを例証する理論的枠組として、オルタナティブ公共圏、デューイのパブリック概念、コミュニタリアニズム、デリベラティブ・デモクラシーの4つが上げられています。(このへんは林先生自身が日本、ドイツ、アメリカで過ごした経験が色濃く反映されてのことだと)

公共圏の話は大部分をハーバーマスに依拠しているので、少なくとも『公共性の構造転換』、『事実性と妥当性』は読んでおかなくてはならないかと思います。



デューイといえば、プラグマティズムの系譜で欠かせない人物ですが、プラグマティズム理解では魚津郁夫先生の『プラグマティズムの思想』がとても分かりやすくて必読です。


プラグマティズムを代表する思想家ジョン・デューイ

コミュニタリアニズムに関しては、この本でもリベラリズムとの80年代以降の論争を中心に述べられています。このブログでも以前、『リベラル・コミュニタリアン論争』を取り上げたことがありました。

とまあ、Ⅱ部までは理論的な話が続き、Ⅲ部でいよいよこの本の骨子となる事例研究へと入るわけです。事例は3つ。
日本の新聞の「家庭面」、ドイツの『ターゲスツァイトゥング』、米国の「パブリック・ジャーナリズム」
この3つの事例を通して、ローカルとグローバルの視点を止揚し架橋しながら、<マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心>のテーゼへ具体的に接近していくことが目的なんですね。

事例研究で明らかになる6つの知見。
①マスメディアの周縁に生まれたジャーナリズムが「中心」とのインタラクションを拒絶し、その内側にのみ言論を発信することにとどまれば、中心との比較のなかでの「周縁」性というプロフィールさえ得られないばかりか、社会における「言論発言媒体」としての存在も危ういものとなってしまう。
②そうであるがゆえに、「周縁」ジャーナリズムもそれなりに力をつけて「中心」に働きかけていかなければならない。しかし「周縁」が体力をつけることは、すなわち「中心」へと近づいていくことを意味し、それは「周縁」に立地した自らのアイデンティティの源泉を枯渇させることにつながる。
③マスメディアの周縁に生きるジャーナリズムの存在は、たとえ苦境に陥っているとしても、それぞれに社会にインパクトを与えてきた活動である。その点で、これらは、周縁からではあるが、<マスメディア・ジャーナリズム>というものの制度的価値を社会に知らしめた存在である。
④社会変動によって「周縁」と「中心」は動きつづける。ある言論媒体が「周縁」から発生したとしても、社会変動との連関で、いつのまにか「中心」言論へと浮上していくこともある。そのとき媒体組織自体はアイデンティティ危機に陥る。
⑤「ジャーナリズム」という考え方は実は多様なる思想的裏付けによってさまざまな形であってもよい。にもかかわらず、「マスメディア」という、公共圏における有力な媒体システムの活動がその中心モデルとなっているために、それ以外のジャーナリズムの在り方についての議論が深まらず、「マスメディア周縁部分のジャーナリズム」の存在の影は薄い。今日の社会的空間において、「マスメディア」以外のジャーナリズム媒体が生きる場はますます狭まってきている。その活路、あり様も自らで模索していかなければならない。
⑥周縁性を特性とするジャーナリズムであっても、マスメディアを中心として展開される情報化社会の舞台からは降りることができない。ゆえにマスメディアの影響は周縁のメディアにおけるジャーナリズム活動に波及することが避けられない。その影響は、周縁部が弱小であるがゆえに、その組織運営に直接及ぶ。たとえばマスメディア企業がつくりだした受け手側の環境―視聴者や読者、聴取者の娯楽志向や細分化など―に対しては、周縁のメディアもその存続をかけて、否応なしに対応していかなければならない。

異なる文化における3つの事例に備わっていた共通の精神
ジャーナリズムを対立する意識の言論空間と見なしたこと。
②ジャーナリズムを歴史的な見地からイデオロギーの力学とみなしたこと。
③「現代の<政治的なるもの>」とは何か、ということを考え、社会に示そうとしたこと。

この「政治的なるもの」でパッと浮かんだのは北田暁大先生が『責任と正義』で「社会的なるもの」の肥大vs「政治的なるもの」の盲点化という構図で扱っていたのを思い出しました。

周縁、中心の話で問題というか、パラドクスを引き起こしてしまうのは以下の点なんですね
ジャーナリズムの核心は市民の周縁的言論活動にありながらも、それがマスメディアという社会の中心的言論活動へと吸収されていくことで、そのエートスを失ってしまう、という問題意識。
これはフェミニズムがぶち当たる「拡大と拡散のパラドクス」と同型の問題です。



あと、アメリカで勃興した「パブリック・ジャーナリズム」。
これを生み出した社会的背景として、 
①市民と政治との間のデタッチメント
②市民社会内部におけるデタッチメント
③マスメディアとオーディエンスとの間のデタッチメント
④ジャーナリズムとアカデミズムの間のデタッチメント

①に関してはパトナムが『孤独なボーリング』で指摘した「社会的資本(social capital)」の喪失が挙げられています。

このアメリカのパブリック・ジャーナリズムの事例研究のなかで気になったのはデリベラティブ・オピニオン・ポリング(DOP: Deliberative Opinion Poling)。市民参加型の世論調査ですね。
民主主義のデューイ的理解とリップマン的理解との間のジレンマと、「科学的」世論調査結果への疑問の双方を酌量した上で、一部の学者たちが実験的に導入してきた新しい世論調査のこと。
※デューイ的理解:万人の政治的平等を基本としており、そのことはつまり、政治的な能力及び関心を持たない「マス」全体を政治過程に編入することを意味する。
リップマン的理解:比較的政治能力のあるエリートが中心となって能率的に民主主義を運営していくという点で現実性を持つが、一部の選ばれた者に政治を委ねるという政治的不平等を前提としているために、畢竟「非民主的民主政治」という矛盾に陥ってしまう。

民主主義研究の泰斗ロバート・ダールはDOPに肯定的な向きを持っていて、「批判的大衆(critical mass)」の形成を促すとして、こう言ってます。
DOPの長所は、民主社会の理想―すなわち市民の理性的討論と市民全員の参加―が擬似的にせよ、両立されることであろう。
とまあ、なかなか結構、ルーマン、ハーバーマス、デューイ、リップマン、コミュニタリアニズム思想などなど、ジャーナリズム研究を飛び出して政治思想、社会学などを吸収しながら博士論文を書かれたということで、林先生自身が学際的に研究を進めていった軌跡が詰め込まれているような気がしました。
もちろん理論面だけではなく、実証性もしっかりとあって、当事者たちへのインタビューもふんだんにつめ込まれている。なによりも、日本語、英語、ドイツ語による徹底した文献購読、構成の仕方まで、マスター、ドクター問わず院生にはかなり示唆深い本ではないかと。逆にだからこそ、一般読者には少し近づきがたい一冊にもなっているのかなーと。
ここにも学術書vs新書、高級紙vsタブロイド紙ならぬ、壁がどうしても生まれてしまうのかなーという問題を見ずにはいられないというか、なんというか。

2013年6月24日月曜日

情報生存学


もんじゃを焼いていて、お客さんによく尋ねられること。
「やっぱり上手いですねー。どれくらいの割合で失敗するんですか?」
それで僕は「99.9%失敗しないです」つまり100回に一回失敗があるかないか、と答えます。
こういう類のシンプルなスキルは方法を覚えて、一度慣れるとほとんど、不可抗力ではない限り失敗はない。
よく芸能人が始球式でとんでもない暴投をしますよね。
あれはプロでは有り得ないです。ワイルドピッチはありますが、あそこまでの暴投はまずないです。「99.9%は」

情報には2種類あると思うんです。
知っているか知らないかで決定的な差が出るヴァイタルな情報。(All or nothingですね)
もんじゃを例にしても、方法を知らないと、いくら焼いても土手から必ずと言っていいほど、汁が溢れだします。
例えば、震災のときに◯◯◯という場所に救援物資が届いた。それを知っているか知らないか、これが生の分岐点になることもあります。
往々にしてこっちの情報のタイプは「情報へのアクセス」という問題と密接に関わってきます。デジタルデバイドの文脈で語られるのはこっちのヴァリアントです。

それで、もう一方がいわゆる「知識」と呼ばれる情報。
こちらはAll or Nothingというよりもコツコツと積み上げていき、有機的にその"知識"を蓄えていき体系化する。前者が生命の分岐点になるほどの重大性はないですが、社会では重視されることも多い。
んでこの知識も多言語学習の理論で言われるように「宣言的知識」「手続き的知識」とさらに細分化されていくわけです。
宣言的知識(declarative knowledge)は言葉で内容を説明できるもの。
手続き的知識(procedural knowledge)は言葉では説明できないけれども、確かに脳内にストックされている形式知。
アインシュタインに言わせれば、「お婆ちゃんに説明できなければ、理解したとはいえない」となるわけですが。

グローバルに瀰漫する不均衡の様相はさまざまあるわけですが、貧困一つとっても、最初に上げた情報のタイプが根っこにあると思うんです。ある意味でこの二つの情報は相互補完的なわけですが、なによりも生存に必要なのは前者だと思うのです。
それへのアクセスを得るための情報の情報をどうするか。
情報、情報、情報、現代社会で喧伝される「情報」。
考えれば考える程、たしかに「生存」との結びつきが見えてくる。
京大に去年、新しくできた大学院「総合生存学館」もこういった問題意識があったのは間違いないと思います。
東大の学際情報学府にせよ、"生存性"を取り巻く情報の在り方、扱い方、捌き方。
「情報格差(digital divide)」という言葉の裏にはかなり深刻な「生」の格差があることも見逃せません。
先進国に住んでいるとあまり見えてこないかもしれませんが、アフリカをはじめとする途上国ではかなり深刻な状況だと思います。
思い出すのはいつだったかの救済キャンペーンで、ハリウッドかなにかのセレブがヘリコプターから地上に哺乳瓶とミルクを投げばら撒いた。
ただ使途や用途が適切に伝えられることもなく、誤った使用法から衛生面での被害が噴出し、自体は悪化。ある者は闇市でそれらを売りさばき、結局は良心の押し売りになってしまった。
情報をめぐる生の政治、もうちょっと沈思してみたい問題の一つです。