Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年8月1日土曜日

読書『都市のドラマトゥルギー』吉見俊哉著


ぼくの指導教官の吉見俊哉先生の著書を拝読しました。
この本、実は先生の修士論文が下敷きになっているというから驚き。
本書は、近代的な都市化のなかでの盛り場の意味的な機制の変容を、都市に集合した人々の相互媒介的な身体性の側から捉え返すことを目指したもの。
とあるように、都市論をドラマトゥルギー=演技論の視覚から捉え返した論考。
〈演じる〉ことの根底にあるのは、間身体的な相互性を超越論的な審級との相互性に媒介していく、文字通りドラマティックな運動である。 
<浅草なるもの>から<銀座なるもの>へ、そして<新宿なるもの>から<渋谷なるもの>への 通時的な都市の変遷が理論的に論証されていくのが、個人的には方法論として、論の組み上げ方として非常に勉強になりました。
都市のドラマトゥルギー (河出文庫)都市のドラマトゥルギー (河出文庫)
吉見 俊哉

河出書房新社
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2015年5月5日火曜日

読書『さまよえる近代―グローバル化の文化研究』アルジュン・アパデュライ

さまよえる近代―グローバル化の文化研究グローバリゼーション研究(とりわけ文化研究寄り)の学問的ブレークスルーというか、一つの嚆矢となったであろうアルジュン・アパデュライの代表的著作を読了。6年間分の論文をまとめたものというだけあり、各々がわりと独立性を持ったトピックを扱ってはいますが、根底にはグローバリゼーションが進行し、単にネーションが衰退したり、興隆したり、という現象をみせているだけでなく、まったく違うレベルでトランスナショナルな情況があると主張。有名なのは①エスノスケープ(民族の地景)②メディアスケープ(メディアの地景)③テクノスケープ(技術の地景)④ファイナンススケープ(資本の地景)⑤イデオスケープ(観念の地景)というようにグローバリゼーション下の文化フローを5つの次元に輪切って把捉しようという提言をしたこと。グローバリゼーションに注目するということは、必然的に「ローカリティ」にも目を向けるわけですが、ぼくの指導教官でもある吉見俊哉先生が解説で簡潔にまとめていらっしゃった箇所が非常に分かりやすく、腹落ちしました。「ローカリティは、常にコンテクスト被規定的であると同時にコンテクスト生成的でもある。それは諸々の物理的-技術的な媒介によって条件づけられていると同時に、そのような媒介的な場を絶えず作り出し、グローバルなものに介入してもいるのだ」繰り返し注意を向けていたトランスナショナルな次元での新しい諸問題が生起するといっていたことと、今日イスラム国が跋扈している現状を合わせて考えると、どこか不気味な様相を呈しています。

2015年4月29日水曜日

読書『グローバリゼーションの文化政治』テッサ・モーリス=スズキ、吉見俊哉編

グローバリゼーションの文化政治 (グローバリゼーション・スタディーズ)指導教官の先生が編集なさった本を読む。やっぱり出自が政治経済ということもあり、文化研究、カルチュラルスタディーズのパースペクティブから「グローバリゼーション」を読み解いた著作は読んでいて新たな発見が多い。ただ、学問が違えど、グローバリゼーションが孕む自家撞着性に行き着く。すなわち、グローバルでヒト・モノ・カネが行き交うなかで、ナショナリズムが台頭してくるということ。あとは帝国/周縁というフレームワークが多用されがちななかにあって、視点をズラすと、"トランスナショナル"という新たな位相が浮かび上がってくる。アメリカン・ヘゲモニー、ディアスポラからピジン語、インドカレーまで幅広くマクロ/ミクロにグローバリゼーションを論じた本書で印象的だったのは、大半の論者がアパデュライの論考に一度は論及していたこと。まあ出版年度が2004年というのも関係しているんでしょうね。

2013年10月8日火曜日

読書『なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者』ロジャー・シルバーストーン著

なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者

ロジャー・シルバーストーンの『なぜメディア研究か』(原題:Why Study the Media?)を読みました。
彼はBBCのドキュメンタリーをはじめ、TVの現場で実務者としての経験を積みながら、アカデミックな世界においても「メディア論」という新しい学問領域のフロンティアで先鞭をつけ続けてきた権威です。
LSEの教授であり、同校大学院に設置されたメディア・コミュニケーション学科長でもあります。
(数多くの著書を上梓なされていますが、おそらく本著を脇に置くと、『テレビジョンと日常生活』(原題:Television and Everyday Life)が最も広く読まれている一冊かと思われます。
Television And Everyday LifeTelevision And Everyday Life
Roger Silverstone

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訳者の一人でもある東大・学際情報学府教授の吉見俊哉先生がゼミでも輪読した、とあとがきで書かれているように、おそらく世界中でメディア論を学ぶ学生たちの必読書となっていると思われます。
文体が独特で、軽妙にリズムよく流れていきながらも、行間の背後から伝わってくるコンテクストには彼の実務者としての経験とメディア論を包括的に網羅したアカデミックな知が充溢しています。
あとがきから少し引用
本書は、メディアを学び、研究するとはいったいどういうことなのかを、深部から解き明かしていく。いわば本書はメディアについてのメディアであり、私たちの日常的実践が織りなす無数の媒介作用を、その媒介作用の中に身をおきながら研究するための手引きである。
本著のはじめの方で、シルバーストーン教授自身がこのように述べています。

ロジャー・シルバーストーン教授
プロセスとしての媒介作用についてのわれわれの関心は、私たちがなぜメディアを研究しなければならないかという問いの中心にある。私たちは、経験と表象の敷居を超えて意味が動いていくありように、注意を注いでいかなければならない。
アイザリア・バーリンがメディアを「経験の総体的なテクスチュア」と呼称したように、日々流れていくなかで、積層として形成される私たちの経験の集合体を造形する主体がメディアに他ならず、純粋培養される"経験(experience)"というのは、本来ないはずなのかもしれません。 
そういう意味で、ジュディス・バトラーらのパフォーマンス論、ドラマトゥルギーを再考すると、新たなる視座が拓けるような気がします。
行為や身振りや欲望によって内なる核とか実体という結果が生み出されるが、生み出される場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身振りや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティブなものである。ジェンダー化された身体がパフォーマティブだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである」『ジェンダー・トラブル
シルバーストーン教授の言葉を付言しておきます。
メディアによる記憶化は、媒介された記憶である。技術は記憶と結びつき、記憶に媒介する。われわれは生きていくためにさまざまな付録を、つまり過去という時間のビタミンを提供され続けているのである
マイケル・レーノフが指摘したように、メディアはいつだって叫び狂っています。

「私を信じろ、私が世界だ」と。
注意深く、私たちを説得しようとするメディアの狡猾な立ち振舞いを眺めてみると、そのメカニズムは通時的な様態をみせていることに気付かされます。たとえば、紀元前すでにキケロは『弁論家について』でこんなことを言っています。
強い印象は、一点の力説、明快な説明、事件があたかもそこで起きているかのように思わせるほとんど視覚的な表現によって作られる。それは出来事の叙述にも、意見の説明と増幅にも非常に効果的であり、雄弁と同じ程度に、増幅しようとする事実が重要であるように聞き手に見せることもできる。説明は、しばしばすばやい再検討や、実際に言ったこと以上の理解を促す示唆、あるいは明快さを求める簡潔性、品位の格下げやからかいなどによって相殺され...(以下、略)」
弁論家について〈上〉 (岩波文庫)弁論家について〈上〉 
キケロー,Cicero,大西 英文

岩波書店
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歴史にはパターンがあるといのは史家学者の見解の一つではありますが、メディアという観点からそれを考察するとき、経路は似たり寄ったりでも、時代毎に主体となる物象は常に変遷してきました。たとえば、リチャード・マッケオンの言葉を引くと
ローマ人のレトリックにおける共通の場は実用的技術と法律の知識に由来し、人文学のレトリックにおけるそれは芸術と文学から来ている。そして、私たち現代人のレトリックは、商業広告と計算機のテクノロジーの内にその共通の場を見出すのである。
まあ、この辺の話を突き詰めていくとポストモダンの思潮に行き着くことになりそうなんですが、(そういう意味でいうとメディア論自体は現代思想と親和性が高そうです)ジグムント・バウマンの社会におけるモラリティについてを最後に引っ張っておきます。 
モラリティは社会の産物ではない。モラリティは社会が操作する、つまり搾取したり、向きを変えさせたり、無理に押し込めたりするような、なにもかもなのである。裏を返せば、不道徳な行動、言い換えれば他者に対する責任を見放し、放棄する行いは、社会の機能不全の結果ではないのである。それはむしろ主観性の社会的管理という問題の位相で探求されねばならない、モラルというよりはインモラルな行動の発生のことなのである。
Modernity and the HolocaustModernity and the Holocaust
Zygmunt Bauman

Polity

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2013年8月19日月曜日

読書『大学とは何か』吉見俊哉著

大学とは何か (岩波新書)

情報学環の教授であり、東大の副学長も務めていらっしゃる吉見俊哉先生の『大学とは何か』を読みました。
先生専門は一応、社会学(カルチュラル・スタディーズなど)とか、都市論とかメディア論とかになるんですけど、本当に守備範囲が広い。
教授の人たちは知識の守備範囲が広いという人は往々にしているんですが、実際にそれを著作にまで落とし込んで、突き詰めてやられる人は少数なんじゃないかと。
そういう意味では情報学環は吉見先生はじめ北田暁大先生などなどその手のオールラウンダーが多い。「学際情報」と冠たるだけありますよね。

この本で描かれることは以下の4点に集約されます。

①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展
②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場
③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築
④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか

中世の頃にもなると、「大学」というものの骨格が整えられていくのですが、その中心的役割を担ってきたドイツにあって、カントが「大学」というものについてどういう考えを抱いていたのか。
諸学部の争い」という彼の論文については以前どこかで聞いたことのあるような気がするのですが、実際に中身については今回はじめて知りました。そこで、少し紹介。
カントは神学部、法学部、医学部を「上級学部」とし、哲学部を「下級学部」に位置づけ、その両学部の弁証法的統一体として「大学」を捉えていました。以下、少し引用。
「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」
これに対して哲学部は、
「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」
上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知であるということ。なるほど、カントらしい。

ジョンズ・ホプキンス大

今のような大学の形に収斂したのが、米ジョンズ・ホプキンス大に求められるというのも初耳でした。
19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ
この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。 
この辺まで読み進めて思うのが、当たり前ですが、「大学」が社会における所与のものなどでは決してないということ。
たまたま今の時代は中学、高校、そして大学、そして就職が主なルートになってはいるものの、それは特定の時代背景に依って成立していることにほかならない。
とはいえ、福沢諭吉の『学問のススメ』を読んでも思うように、人類において人が学びたいという気持ちは普遍のもののような気がします。「知りたい」という方が精確かもしれません。

アカデメイア

プラトンのアカデメイアにしても藩校にしても、私塾にしても、なんでもいいのですが、少なくとも「大学」が不変の学問の場であったことは歴史を辿っても一度もなかったということ。
常に革新・進歩、後退・退潮を繰り返しながら変容を遂げてきたこと。
国民国家と大学も決して一蓮托生なわけではないということ。

題名にもなっている、「大学とは何か」。あとがきで、吉見俊哉先生の解答が用意されています。ある程度は予測できたことですが、
大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。
自身自らが、学際的視座から縦横無尽に領域を駆け巡り、それぞれ著書に落とすことで、現代社会における大学が抱える数多くの問題、たとえば大学・大学院の拡充にともなって質の低下が叫ばれる学生へ発破をかけているというか、メッセージを送っている気がしてならない。それに応えたいものです。