Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年8月6日水曜日

「自己暗示」に紐づく習慣について


日々を歩んでいくうえで、もっとも怖いのは「自己暗示」に紐づく"習慣"なのではないかと、夜道にコンビニで買った缶ビールを飲みながらふと思い当たりました。

最近、毎日ビールを飲んでることに気づき、なぜかといえば学校が夏休みに入ったからで。
タバコをやめられないのも、毎日お酒を飲んでることも、
「依存」「アル中」...社会に流布した既存の悪習慣に自分を紐付け、無意識のうちに(しばしば有意識に)正当化しているうちに...いよいよやめられなくなっていく。
裏返せば、自己暗示なので、ふとした瞬間にやめられるほど些細なことでもあるとは思うのですが。

ぽかんといつも頭に浮かぶのは、アリストテレスの箴言。
繰り返し行うことが、人間の本質であり、美徳は、行為に表われず、習慣に現われる。

2013年5月19日日曜日

インド瞑想記⑩ 新しい朝― Perfect Equilibrium

#⑨続編

先に紹介した「早起きの常識を覆したら、毎朝5時に起きられるようになったお話」という記事で早起きの定義を
目を覚ますことではなく、両足で立ち上がることだ。
と変えることで、実行性(feasibility)が上がると書いてありました。同意です。 
インドにいる間はすんなり起きれても、日本に帰れば、飲み会があったり、タスクが溜まったり、早起きの障害が多くなっていきます。

孫社長が前にツイッターで言っていた「今日は人生で最も素晴らしい日になる。毎朝その様に願うことが大切だと思う」、"毎日がエブリデイ"みたいなはすごく大切で、今日は昨日と決定的に違うし、同じ日は死ぬまで訪れない。
こんな厳格にスケジュールが決まった瞑想プログラムでさえも7日目と8日目では決定的な懸絶がある。

要は、新しい習慣を自分の生活規則に組み込もうとしたときに、上の例のように視点の定点をズラす、定義を再構成することは実はすごく有効なんじゃないかということ。
"Gamificational Lifestyle"というエントリーで昔書いたことは実はいまでもハックとして使っていて、"ゲーム性"を日常に積極的に持ち込んでいく。
たとえば淀んで退屈な毎日もミッションインポッシブルのように、24のように勝手に緊張感をもって、一つ一つのタスクを一つの多いなる命題の下にこなしていく。
気付いた時には、それが自己規範となり、習慣となっていく。
ジョージ・オーウェルはこう言った。
小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる。
今日は4時前、ベルの音が鳴り響く前に目覚める。
退去日も近づいているため、部屋の掃除、外を掃いておく。

瞑想と瞑想の合間に、公衆便所(urinal)に行くと、いつも無数の蟻が長蛇の列をなしていて、活発に動き回っている。時間によって、疎らであったり、数えきれないほどごった返していることもある。
彼らにも彼らなりの生活秩序がある。ふと2年ほど前に読んだユクスキュルの『生物からみた世界』を想起する。
この本の中で今でも強く印象に残っているのは、やはり「時間があくまで相対的なものにすぎないこと。一人一人が大いなる主観の檻にある」ということ。人間のうちでも時間の流れは各々違っているように、人間と他生物ではそれこそ決定的に異なる。少しユクスキュルをひいてみる。
時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである。すでに述べたように、人間にとっての一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。
彼がここでいう「環世界」とはすべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。(Wikiより)それぞれの生命に、それぞれの営為がある。



これを分かりやすく捉えるために、ウィキペディアでも取り上げられているマダニの環世界は非常に興味深い。
マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。しかし血を提供する動物は、ダニの下をそう頻繁に通りがかるわけではない。マダニは長期にわたって絶食したままエサを待ち続ける必要がある。ある研究所ではダニが18年間絶食しながら生きていたという記録がある
この「環世界」という概念を基層に「コウモリであるとはどのようなことか」や「なぜ私は私なのか」といった関連項目を考えてみると面白い。 

〜〜〜〜〜〜続きは「note」で公開中。

【瞑想記一覧】
■出発する直前
■インドへ到着
■いよいよ修行開始
■修行の後半戦
■最終日

2013年5月9日木曜日

インド瞑想記⑦ 圧倒的な自己修養ー Universe in the Head

#⑥の続き

苦痛は消え去り、快感へ変わっていく。陰鬱だった空模様が、晴れ渡っていくかのように。
目覚め、薄陽に包まれた外へ一歩足を踏み出し。吸い込む空気の一吸い目。ちょっとした恍惚感。
このブログのヘッダーに据えているブッダの言葉。
Each morning we are born again. What we do today is what matters most. (新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ)
毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。
ゆっくりとすすりながら、その甘露さと円やかで静謐な窓の外の景色に身が包まれていく。
今日も虚心坦懐に瞑想に臨む、心がそちらへ向かっていく。

ここまでで(6日目)どのくらい体重が落ちたのだろう。とても体が軽く感じる。
おそらく3〜5Kgくらいだろうか。カロリー計算で2食が日本の1食に満たないのではないだろうか。
体が食べ物を求めるのを諦めはじめ、水(といってもお湯)だけで済ませてしまう日もある。

衣食住のそのすべて、自分にとってかけがえのないもの、当たり前のもの、なくてはならないもの。それをいきなり取り上げられても、はじめは辛くとも、すぐに慣れてしまう。
人間の適応能力は思うよりも高い。
習慣は人間の根幹部で、習慣化するまでの時間を努力と呼ぶのではないか。
アリストテレスもこう言うように。
We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)
そういえば、昨日、こんな記事があった。 30年間黙々と“木を植えた男”、今では広大な森林に多くの動物の姿。
ローマは一日にして成らず、それはそうだけど、「習慣」はなにもかもを可能にする力を秘めている。

少し時間軸がズレて、入れ込んだ話になってしまうけど、先日GWにバイトをしていて思ったことを。
GWのバイトの繁忙さは異常で、時間が濁流のように高速で流れていく。
瞑想時の時間が止まったような、感覚とは比べ物にならない。アインシュタインの「相対性理論」を肌感覚で突きつけられた訳です。
きっと時代の寵児と呼称されるようなIT企業の社長と出家僧侶では根本的に流れている時間が違う。きっと3倍くらい感覚的に長い人生なのではないか、後者は。
2年ほど前に書いた「ゆっくり錆びるより、一気に燃え尽きたい」というエントリー。
多種多様、十人十色。それぞれの生き方がある。
生き急ぐのもまたいい、疲れ果てたときにこそ「」を感じたりもする。

『思考は現実化する』にある以下の言葉。これさえも時間の一つの捉え方であって、真理ではない。
人生というものは、チェス・ゲームのようなものである。そして、対戦相手は時間なのだ。もしあなたがためらっていたら、相手はどんどん先へ進んでしまう。あなたの駒はすっかり取り払われてしまうだろう。あなたが戦っている相手は、決して優柔不断ではないのだ。
ある人の目にはカッコイイがダサく、ダサいがカッコイイと映る。それだけのシンプルなこと。 



瞑想プログラムも折り返し地点を過ぎてからは、純粋に修行を楽しめるようになってきた。無我の境地を探求する。もちろん10日間で解脱に至れるはずはない。
それでもとにかく空漠とした時間の中をクロールし続ける。
とにかく瞑想・修行では呼吸法が鍵を握る。

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2012年8月6日月曜日

生命体としての「国家」



「国家」とはいかなるものであるか。これまでにもその相貌を明らかにすることを企図した、野心ある試みが多くの明敏な知識人によって歴史を通じてなされてきた。プラトンの『国家』、キケロやスピノザの『国家論』など例をあげれば枚挙にいとまがない。ところが古代からこれまでになされてきたこのような分析の理論的基盤は多くの部分で自己完結的なものであった。たとえばアリストテレスは『政治学』において国家を各器官を有した動物になぞらえて論じたが、彼がそこで射程にとらえていた構成要素は農民、手工職人、アゴラ、日雇労務者などの国家内部の在り方であった。言い換えれば、いわゆる統治論や内政的秩序論と等置されるようなきわめてミクロな視点で語られてきたのである。

グローバル化が進展をはじめて久しい今日において、この伝統的なテーマである「国家論」をますます空間的・時間的・文化的に稠密化する国際社会の視角から再考を加えて検討すれば違った国家の姿が浮かび上がるだろう。「保護する責任」をはじめたとした正当な介入の論議が活発化する現代はカントが未来を預言していたような「すべてが感知される時代」にいままさに私達がいることを示唆しているのかもしれない。トマス・ポッゲが論じるようなグローバルな正義、遠くの貧しい人にグローバルシティズンとして負う義務。そこで改めて「国」とは何かを考えてみたい。

国家は複合的でいて、動態的な存在である。その実体を一面的に捉えることは困難である。「人間」そのものを論じようとする際に、生物学的見地からみた人間の肉体部、形而上学的な魂をはじめとした人間の精神部を分けることが有効なように、国家に対する包括的理解を得ようとするならば、構造を截然と峻別し、各部を検討するのが最善の策と思われる。
アリストテレスはメタファーを賛美し、それだけが私達の思考を一歩先へと進めてくれる道具であると言って憚らない。
もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである『詩学』
国家を私達と同じように有限の命を有した「生命体」として捉えて、国家体がもつ各部位について考えを押し進めていきたい。国家をわたしたちと同じような人体をもった有機体というアナロジーで捉え直すことで、その巨大な全貌に近づけるような理解を得たい。もしこのようなアナロジーが成立するならば、人間界において培われてきた叡智・処方箋の幾ばくかを国家運営、国際政治に応用することができないものか。人と国家の袂を分かつ最大の要因はなにか。何を治療できて、何を治療できないのか。現代においても重病とされ、治癒困難な癌。国家間における「戦争」とは癌のような逃れようのない病理として捕捉されること常である。キケロは「最も正しい戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」と述べたものの、彼の時代から今の私達の時代まで「戦争」は不断なく生起し続けてきた。




否、正戦論の脈路は滔々と受け継がれ、アメリカの対アフガン・イラク戦にみえるように、むしろその傾向はますます強まっているとさえいえる。とはいえ、「癌」にしろ「戦争」にしろ、それらを十把一絡の便法として論じると、情況を正確に捉え損なうことになる。たとえば癌であるが、その言葉の重みがもつ悲壮感・絶望感とは裏腹に、その種類や発見時期によっては治癒が可能である。ちょうど結核がその昔まで不治の病だったように、医学の進歩と並行して数々の不治の病がリストから姿を消すに至っている。戦争についても同様のことがいえる。『危機の二十年』でカーが述べたように、第一次世界大戦の後、萌芽の兆しをみせた平和主義もその甘さにつけ込まれ、標榜していた理想は第二次世界大戦の勃発と共に儚くも無惨に破砕された。

国際政治学の伝統的な潮流であるリアリズムが規程するように、国家の最優先関心事項は「国益」であり、その方策として有効ならば戦争は正当化されうる。ましてや、囚人のジレンマの情況が国際関係のアリーナで克服されない限り、戦争が不治の病のリストから消えることなどありえないと喝破するのだ。たしかに「ホッブズ的恐怖」に託けたリアリズムの主張について全面的な否定はしがたい側面があるように思われる。では、二十世紀後半から唱えられはじめた民主的平和論はいかなる意味をもつのだろうか。異論・批判は渦巻くものの、正当性を裏付けるようなデータを提示される度に、戦争が終焉への歩みをはじめたとの希望をかされる。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの言葉が胸を反芻しながら。
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」  (ヴェルヌが父親に宛てた手紙の一節)

行政組織が不整備のままで、主権の所在も明確ではなく、地図さえも存在しなかった古代において思想家たちの喫緊の解決課題は空間的に限定された土地(コミュニティ)における秩序の安寧であった。ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ロックの『統治二論』などはいずれもそうした点を最大の係争点として思量を重ねている。ルソーも国家間関係をまったく度外視していたわけではなく、以下のような考案もしていた。


「すなわち各国家は、それ自身の境界内で、その社会の一般意志のはたらきによって秩序を達成し、国家相互間の関係においては、接触を最小化することによって秩序を達成する世界である」

現在わたしたちの社会で当たり前となったインターネットなど存在しなかった時代に、ルソーがこういった小規模の自己完結的な国家からなる世界を構想していたとしても無理はないだろう。

たしかに当時から国境を隔てた領土紛争は絶えず行われていただろうが、現代の私達が直面するようなグローバル規模での戦争とはイメージの乖離があるだろう。
人間が絶えず文明的な進化を遂げてきたように、国家内部・外部においても劇的な変容があったことに疑いはない。故に、現代国家を論じるにはより広量的視野が求められる。グローバル化を通じて稠密化したネットワークを通じて、国家間のコミュニケーションは過去に類を見ないほど増大した。
グローバルレベルでのインタラクションが増すことそれ自体は讃美されるべきことかもしれないが、同時に多くの負の側面が指摘される。宗教間・文明間衝突(ハンチントン)、経済的格差(スティグリッツ)、国際テロリズム等など。

兎に角、他者との密度の濃い接触は当者に自己規定を強く求める。他者性を無視してアイデンティティを論じることはできないだろう。絶え間なく移りゆく環境、一方向に流れていく不可逆の歴史、偶有性の海に漂うのは人間のみならず、国家も同様である。国家それ自体が一人一人の人間の群衆を束ねた巨大な個体である。たとえば仮にベトナム戦争を立案したのがジョージ・ケナンだったとしても、責任は「アメリカ」という国家に、あたかも実体を伴うかのように帰着される。



『ローマ帝国衰亡史』から語り継がれてきたように、国家にも寿命があり、歴史は「盛者必衰の理」を常に呈示してきた。アイデンティティをもたない国家は独善的主体である。古代国家ではいかに国家内部の叛逆分子を抑えこみ、上層部の既得権益を死守するかだけを顧慮すればよかったのだ。ヘーゲルも国家を論じる際には内的・外的の両視点が必要不可欠であることを認識していたものの、彼の時代にあっては依然、その内部要因が相対的に強い地位を維持していた。
私法および私的利福の領域、家族および市民社会の領域に対して、国家は一面では外的必然性であり、それらの領域より高次の力であって、その本性にそれらの領域の利害と同様に法律も従属させられ、依存させられる。しかし、他面では、国家は、それらの領域の内在的目的であり、国家はその強さを、普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利害との統一において、すなわち諸個人が諸々の権利をもつかぎり、同時に国家に対する諸々の義務をもつという点においてもつのである。『法の哲学
ところが二十世紀、二十一世紀と時代を経るごとに国家間の関係性はより緊密なものとなり、あたかも国家ひとつひとつから成るような国際社会が存在するにいたった。(ブル)そこにおいては、国際的な規範や行法が自然発生的に生じ、同じ政治的性格を有する国家、例えば民主国家間においては戦争が生じにくいことを指摘したデモクラティック・ピース論がある。


ヘーゲル「即時的かつ対自的な国家は人倫敵全体である。<中略>国家が存在することは、世界における神の歩みにとって必須の事柄なのだ」『法の哲学』

もし仮に国家も私達と同じように脈打つ生命体なのだとしたら、限りある時間の中で呼吸し、行動し、苦悩や歓喜を覚えながら生の意味や存在の価値を追い求める「人間」そのものなのである。


一時の不安や希望。過去に縛られ、未来に思いを馳せ、不安定な現在を手探りで進む儚く脆い存在なのである。

Cf.
ジル・トゥルーズ「器官なき身体」
丸山眞男「イメージが作り出す新しい現実」
フランシス・フクヤマ「弾力性のある欲望」
アリストテレス「動物と国家のアナロジー」




2011年7月25日月曜日

どうして政治と向き合っていくか

2010年から2011年に移ろうとしていたとき、僕はオハイオ州の小さな村にいました。
来たる新年に足を踏み入れる前に自分自身の想い・気持ちを整理したかったのです。
そこで猛烈な勢いで文字を書きなぐりました。
その時のブログがコレです。当時はまだアメブロでブログを書いていました。
6月にあったゼミのプレゼン合宿では、これを発表しました。
加筆・推敲した内容をコチラに掲載します。

【アウトライン】
Ⅰ. 序論
政治を見つめる《知の巨人たちからヒントを得ながら》

Ⅱ大学生としての自分
A. 学問の選択
1. 「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」
B. マスターサイエンスとしての政治
2. 「政治の本質は他者との活動にある」
3. 歴史の終焉

Ⅲ. 人生を歩んでいく自分
B. 政治的動物、『人間』
1. 「万人の万人に対する闘争」
2. アイデンティティ
C. 横たわる不均衡
1. 国際政治におけるゼロサムゲーム
2. コスモポリタニズム

Ⅳ. 結論
政治≒酸素

クッソ長いので、飛ばし飛ばしにでも読んでみてください。
途中、途中で言及した文献を挿入しておきます。
また、知の巨人は登場するたび、Wikipediaへのリンクを貼ってあります。活用してみてください。


【以下本文】
   2010年が終わろうとしていた夜、12月31日。僕はオハイオ州にある小さな町 にいました。明確な理由はないのですが、突然思い立って、20歳の自分が何を「射程」に捉えているのか、また、自らの内に以前からバラバラに介在していた曖昧な気持ちや考えを掴んで、クリアな形にして書き残しておこうと思い立ちました。義務感というか、この作業を経ないことには2011年に足を踏み入れることさえできないのでないかと感じるくらいの強い思いに駆られ、日記というかブログに筆を走らせたのでした。 つい先日、それをみて自分の方向性がその夜からブレてないことを再認識できた嬉しさと同時に、これをプレゼンテーションとしてシェアすることでまた新たな知見を得られ ることができたら面白くなるのではないかと思い、この発表に至っています。このプレゼンテーションでは、そのブログに基づいた内容で進めていきたいと思います。


   大枠に分けると、「大学生としての自分」と「人生を歩んでいく自分」という二種類の観点から「政治」を見つめた内容になっています。その節々で知の巨人たちからのヒントを借りています。その都度このiPadで人物画など示しながら進めていきたいと思います。(※実際のプレゼンではiPadを使用)


   大学4年間という決して短くない時間は後の人生に大きな大きな影響を与えます。ヴァラエティー豊かな学問分野から何を学ぶのか、その選択は決して蔑ろにされるべきではないと思います。自分が時間をかけて学んでいることの意義、それが将来の自分にとってどんな意味をもたらすのか。それと向き合っていく第一歩をここから踏み出したいと思います。単位を落とさない程度に勉強しておけばとりあえずは安泰、就職もどうにかなるだろう。マジョリティの学生がそう考えているだろうし、自分もそんな気はします。ただ、自分は別に就職、世間的に一流企業と呼ばれるような会社に入るために時間を削りながら勉強しているわけではありません。人間としての知的欲求を満たすにとどまらず、もっと新しいことを知りたい、それを元にもっともっと考えたい。「考えること」を考えたい。いつか死にゆくのに絶えず考え続けていくことの意味を考えたい。だから思考を止めないのです。これは、自分にとっては旅にでる時の気持ちと類似 しているような気がします。目にしたことのない景色を見てみたい、新しい人々に出会いたい。自分に内在するパースペクティブを掘り起こしたい。


   勉強をするときはいつもソフトバンク社長、孫さんの言葉をイメージしています。
「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」 
「脳がちぎれることも、ケツから火がでることもないのだから」


ここからは「政治」に話を移したいと思います。僕を含め、ここにいる多くの人 が「政治」を学んでいます。正直、高校生の時なんて自分が何を勉強したいのかなんて、皆目見当がついていませんでした。なんとなく漠然と興味のある分野を絞ってみて (例えば、英語が得意なら無作為に「国際」と名のつく学部を抽出してみたり)、受験する人が周りにも大勢いました。当時は「政治」そのものに対する知識は(未だにですが)浅薄で明確なヴィジョンなど持っていませんでした。ただ、学びを進めるうちにな んとなくその概要がみえてきたような気がするのです。それと同時にこの分野を選んでよかったという確信も膨らんできています。

宇宙は、世界は、国は、コミュニティは「政治」がなければカオスに陥ってしまいます。秩序をもたらすのが「政治」です。ルールがないと殺人や窃盗をはじめとした不正を治める手段がない、フィジカル的に強靭な者が理不尽に権威をひけらかし、「正義」が達成されることは困難となります。そうゆう意味で法を施行するためにもまずは 「政治」が必要なのです。「政治」が整備されてはじめて世界が成り立つとすれば、他のすべての学問も「政治」がまずは成り立たない事には開始されることさえないのです。アリストテレス先生が政治を「マスターサイエンス」と呼称したのも、それを意味してでしょう。政治哲学者のハンナ・アーレント先生に言わせると、「政治の本質は他者との活動」であるそうです。この言葉には大いに賛同します。





人間はひとりで生きて行くことができません。生まれてから、死ぬまでずっと他者との関わりの中で自己を規定していきます。世界で生きて行くからには、他者との関わっていかなくてはならないし、相互扶助していくことで人生を実りあるものに拵えていくのです。ところが人間は程度の差こそあれ、本能的に自己の利益を最優先にする性向があり、個人の本質はエゴイズムといっても過言ではないかもしれません。そこに 「政治」がなければアナーキーを創出してしまうのです。自分のテリトリーを守るため、生きるために略奪を繰り返すのです。例えば、家族や恋人が24時間危険に晒されていたら眠ることさえままらないでしょう。

古来から人類は真の「政治」を構築することに努めてきました。「生活の安寧」は縄文時代よりももっと前からの人類の中心命題であり続けました。試行錯誤を繰り返しながら。ちょっとづつ付け足し、付け足し、時の賢人たちが知恵を絞りながら理想の政治を形作ることに心血を注いできました。時には思想の違いや政治制度の違いが大戦を巻き起こすとこさえありました。それは現代に至った今でさえも。冷戦がその良い例です。冷戦の終結が直接、資本主義の勝利を意味するのかを判断するのはにわかに時期尚早な思いが残りますが。そして今、私たちは「民主主義」という政治制度の元、日々の暮らしを営んでいます。フランシス・フクヤマ先生は民主主義に至った現代を「歴史の終わり」と宣言しました。これ以上の社会制度の発展はないと断言しながら。これが全世界に普及すれば平和は達成されると主張しながら。自分自身はフクヤマ先生には半分賛成半分反対の心境です。民主主義自体に半信半疑で絶対の信用をおけるような完璧な代物ではないと感じるからです。一見、とても魅力的ですが、内に抱える脆弱性も反面目立つからです。ヘーゲル先生が言うように弁証法的な視点が民主主義国家の国民に共有されていないことには、マイノリティの権利が抑圧され続け、容易に衆愚政治に変換されうるきらいがあります。ポピュリズムにも弱いです。





デモクラシーを標榜する国の代表、アメリカに目を向けてみます。人々が思う以 上に社会に蔓延する経済格差が深刻化しています。それはジョン・ロールズ先生が列挙する原則が守られていないからではないでしょうか。特に彼が第二原理で述べている 「格差原理」。不平等が最も不遇な立場にいる人の利益を最大化するという原則。



ここからはもうすこし根源的な問題、人生を歩んでいくうえで向き合い続けていかなければならない様々なことがらを考察していきたいと思います。私たちは犬や猿や象と同じように動物です。だけど特別な動物です。アリストテレス先生は人間を政治的動物として、他の動物と峻別しました。「自足して共同の必要のないものは神であり、 共同できないものは野獣である」と。人間の知能の高さは他の生物と比になりません。 その高度に発達した脳をもって数々の概念や制度を生み出してきました。「政治」こそが人間を「特別」とたらしめる要因と考えてやまないです。政治を持たない他の動物達は野生、自然状態の中でサバイバルのための闘争を日々繰り広げる。そこに「安寧」は 存在しません。それを「万人の万人に対する闘争」として指摘したのがトマス・ホッブズ先生です。社会契約を通して、権力をリヴァイアサンに委譲する代わりに「安心」を得ること可能にしたのです。
(※「社会契約」や「リヴァイアサン」といった基本用語の説明・確認はここでは割愛します。Wikipedia見れば、一発なので確認してみてください。)



そして、ジョン・ロック先生はそのために政府が必要だと考えました。従来までの王権神授説を否定して、国民に社会契約の概念を説いたのです。ただ、政府の暴利の可能性を認識していたし、政教分離を進めるなど現実主義的な側面も持ちあわせていました。これが後世のモンテスキュー先生の三権分立論に受け継がれることになるのです。人間だって未だに内戦を繰り返しているじゃないかと指摘する人もいるかもしれない。グルジア、スーダン、ソマリア、枚挙にいとまがなく世界各地で。それは他ならず、「政治」の未発達、未熟さに起因しているのではないでしょうか。





サミュエル・ハンティントン先生が言うように「宗教」や「文明」の衝突に起因すると主張する学者の方々も多くいます。極度に複雑度を増した世界のどの局面を切り取るかで見え方は随分と異なるし、一概に正解を断定することはあまりにも危険です。 政治学は誤謬に満ちているからです。ただあくまでも世界の根幹をなす「政治」の乱れがある限り、「宗教」「文明」をはじめとする諸々の副次的なファクターも安定しないのは明らかです。



政治は僕らがこのゼミで学んでいるアイデンティティとも密接に関係があります。以前、「人は国籍から逃れることができるのか」について熟考していたことがありました。生まれた時点で日本人。眼に見える選択権をあたえられるわけでもなく、どうやったらこれを放棄できるのでしょうか。たとえば無人島で生まれ育ったらどうなるでしょうか。ストレンジャーが島に入ってきて、殺害したらどの法で裁かれるのでしょうか。基本的に日本人であったらその国が提供する様々なサービスや福祉を享受します。 例えば、警察機能などです。日本社会で生活を送る以上は、私は日本人ですという「暗黙の合意」がなされます。例えばスーパーで払う消費税を払っている時点で。合意がなされた時点でその国が施行する法を遵守することが強制され、違反すれば処罰を受けます。ただ無人島ではどうでしょうか。いつ合意形成がなされるでしょうか。シンプルに先祖や親の国籍が適用されれば事足るのでしょうか。それではアイデンティティ以前に 人間の尊厳的な権利を侵しているよな気がします。最近ではこのような、倫理的でリアルな問題が「正義」を基軸にサンデル教授を筆頭に注目を浴びています。



僕はこのゼミで世界の不均衡について考えていきたいと思っています。オリンピックの200m走をイメージしてみてください。様々な国から競技に参加しているランナーが銃声を合図に一気に駆け出します。極めて公平です。そこにはハンディキャップ もなければ不正もありません。フライングすれば仕切り直しされるし、ステロイドを使 用すれば資格が剥奪されます。これは極めてフェアーです。ただ現状の国際政治はどうでしょうか。アンフェアなレースが歴史的に繰り返されてきたのではないでしょうか。 範例を挙げると枚挙に暇がありませんが貿易がその一例です。輸出入体制にしても一 度、先進国がそのフレームワークを自分たちに有利なカタチで築くと、途上国は恒常的に搾取の対象になり続けます。誰かの豊かさは誰かの苦しみであり続けるのです。そう考えてみると国際政治はゼロサムゲームなのかもしれません。各国がパイの取り合い 繰り広げているのです。パイとは利得の取り分のことです。

簡単に説明してみます。競馬のシステムを頭に思い浮かべてみてください。人々が馬券を買う。そのお金が一カ所にプールされ、レースの結果に応じて、的中者に分配されます。一カ所に集まった「分配」をしているだけで、プールに貯まったパイ自体が増えることはありません。配当はオッズで調整されます。マクロ、マクロに考えるとその害悪を被っているのは他でもない個人、人間なのです。海外に足を運ぶたびに実感をすることになります。カンボジア、タイ、メキシコなどでも幾度と無くその現状を目の当たりにし、閉口してしまう場面も多々ありました。大学や会議室でいくら国際政治を大きな枠組で議論しても、辿れば個人なのです。彼らの苦しみは理解しようと思ってもできるわけがありません、実際にその境遇を味わうまでは。タイで深刻化する児童買春も臓器売買も、あらゆる負の産物の流れの水源を辿ってもどこにも行き着きません。歪んだ世界構造そのものが不均衡に満ちているうちは。

なぜ見えない国境の向こう側で喘ぎ苦しむ人々を見過ごすことができるのでしょうか。それを許せてしまう理由は一体何なのでしょうか。ナショナリズムでしょうか、 アイデンティティでしょうか。真の答えを求め、心の内をえぐりだすのは大変に困難を伴います、精神をすり減らすことです。しかしながら、主体性を持ちながら苦悩し、痛みと向き合わないことには真の学びはないと思います。

「貧困」をどうにかしなくてはと声高に叫び、NGOなどを介して途上国にボランティアに行く学生が跡を絶ちません。それが悪いとは思わないし、何かの糸口になれば素晴らしいことだと思いますが、独りよがりに終わったり、根本的な解決につながることはなかなかないと思います。「政治」が変わらないことには、世界は変わらないのです。本当にそう思います。政治規範がグローバルかつドラマティックに変わり、パラダイムシフトを起こさない限りは。自分が標榜するのは限りなく理想論に近いのかもしれません。理想は世界がゼロサムゲームから抜け出すことです。エゴイズムを捨て、グ ローバルアイデンティティを共有することです。伝統的なリアリズムでは国ごとが自国の国益を最大化することが至上命題ですが、どうにかそこから抜けだしていけないものか。凝り固まった現実主義を崩せないものか。

カント先生が「永遠平和のために」でいうようなコスモポリタニズムのようなもの。世界市民としての自覚。隣人愛が世界の隅々まで伝わって人が人を愛して、世界が世界を愛せれば。功利主義つまり最大多数の最大幸福をベースに置きつつ、個人の権利の最大限の尊重。それは可能なのでしょうか。民主主義である以上は、多数決にならざるおえないのでしょうか。苦悩は続きますね。「海底二万マイル」の作者としても有名なフランスの小説家ジュール・ヴェルヌ先生の有名な名言があります。「人間が想像できることは、人間が実現できることだ」まずはこれを自分自身がとことん信じることから始まるのではないかと思っています。





最後にハーバード大学教授ジョセフ・ナイ先生が日米安保について述べた言葉を紹介したいと思います。「日米安保は酸素みたいなものだ。無くなって初めてその大切さに気づく。」これは政治そのものにあてはまるのではないでしょうか。酸素がなくては人は生きられない。そんな当たり前のこと、日々の生活でいちいち立ち止まって考えたりすることはほとんどないですが。政治がなくては生きていけないことに気づいてない人すらいるのが現状です。昨今の日本では政治不信が浸透して、政治に期待を寄せる人はごく少数となってしまいました。政治家の言葉がオオカミ少年に聞こえ、政治が諸悪の根源とまで見なされてしまっているのです。



そんな中で僕らが日々、政治やら哲学やら、なんだか難しい本とにらめっこして過ごすことにどれほどの意義があるでしょうか。正直「こーんなことやってて何になるんだろう」とか思うことは多々あるけど、スティーブ・ジョブズ先生は言われました。 「点と点の繋がりは予測できません。あとで振り返って、点の繋がりに気づくのです。 今やっていることがどこかに繋がると信じてください。その点がどこかに繋がると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても自信を持って歩き通せるからです。それが人生に違いをもたらします」自分は宇宙飛行士だろうが政治家だろうがプロ野球選手だろうがペット店員だろうがフリーターだろうが「正義」にコミットしていきたいと思っています。継続的な「正義」への粘り強いコミットが何かに繋がり、僕が生まれてきた意味を見出すことができると信じて。



長い文章を拝読、ありがとうございます。
他にもいくつかゼミで発表したモノがあるので、いつかのブログで紹介したいと思います。