Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年5月21日水曜日

テレビは「民主主義」を殺すのか?


1960年代の池田勇人政権時から国会のテレビ中継がはじまり、テレビと政治の持ちつ持たれつの蜜月関係は連綿と続いてきた。
小泉政権時にはポピュリズムの最盛期を迎え、政治は劇場化し、じっさいに郵政民営化法が成立するなどの実際的な変化ももたらしてきた。

朝日新聞の特別編集委員を務める星浩氏とメディア研究者の逢坂巌氏共著による『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』や鈴木寛さん『テレビが政治をダメにした』などを読んで思ったことを、主に民主主義とマスメディアの関係についてのメモを残しておきたい。
テレビ政治―国会報道からTVタックルまで (朝日選書)テレビ政治―国会報道からTVタックルまで
星 浩,逢坂 巌

朝日新聞社
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テレビが政治をダメにした (双葉新書)テレビが政治をダメにした
鈴木 寛

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民主主義のエレメントを抽出すると、国民主権、政治的有効感覚(efficacy)、透明性/情報公開など枚挙に暇がなく、収拾がつかなくなってくる。
そのため、ここでは日本におけるメディアと民主主義を考えたいので、たんに制度としての「代議制民主主義」に限定して備忘録を残しておきたい。

まずテレビ擁護派の言い分で筆頭にあがるのが、テレビによって「民主主義の裾野広がった」ということ。
良くも悪くも、人々が政治に少なからず興味や意見をもつキッカケになった。
「朝ナマ、報道ステーション、TVタックルなど」碓井広義氏が言うような「町場ジャーナリズム」を形成した。
それに対し、(鈴木寛さんなどが急先鋒)批判派はそれにより民衆の政治に対する知識が浅薄なものとなり、誘導されたやすい、敷衍すると「民主主義が脆弱になった」という主張をする。
これはどちらも正しくて、ようは民主主義の拡大/脆弱性はコインの表裏であるということ。

そもそも60年代にテレビが政治に介入していくなかで、送り手・受け手の両者による上記の共犯関係は運命づけられていたのではないかと思う。
ここで「代議制民主主義」というものの、原理を思い出してみる必要がある。
最大限に簡略化すると、日々労働に追われる国民は忙しく、専心的に政治に費やす時間・能力がない。だから、政治を専門にする人間、代表者=政治家に、国民の代表としてその責を委任しましょう。
ただし、つぎに問題になるのは、選挙、投票。
そういう代表を選ぶにしても、各候補には政策や主義に差異がある。
いったいどれだけの人が各候補、各政党のマニフェストなどを読み込み、慎重に精査したうえで候補者を決め、投票しているか。
とくに大学や大学院に行くと、忘れてしまいがちなのですが、すべての人が客観的に独自の論理・思考でそういう作業を行うわけではないということ。(おそらく大卒者でもそういう人はいると思います)
地方の教習所に行ったとき、地元の友達とひさびさに会って話すときなど、階層というものを痛感するし、自分の論理は社会においては切り取られたほんの一部分にすぎないことが分かる。
若者はツイッター、フェイスブックで情報収集する、テレビなど見ないし、信じない、とインターネットの力を声高に叫ぶ傾向がある。
参院選の三宅洋平さんや都知事選の家入さんなど、当選こそできなかったものの、ある程度の票数を集めていることを鑑みると、将来的にそういう潮流になるのかもしれない。
しかしながら、現状では票田を占めるのは中年、高齢者層。
そういう人にとって尚テレビはメインの情報収集源でしょう。
視聴率至上主義の論理で動くテレビの側からすれば、二項対立などできるかぎり図式化し、扇情的な内容にすれば数字がとれる。(参考⇒「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」)
池上彰さんの情報番組が好評を博しているように、視聴者としてみれば肩肘張らずに、できるだけインスタントに政治的知識が得られるならそれに越したことはない。
これが上で述べた「共犯関係」の概要です。
思えば、テレビが登場する以前にもこういった共犯関係は存在しました。
この共犯が日本における現代民主主義に横たわっているのではないか、そう思うのです。

2014年5月9日金曜日

読書『政治の起源―人類以前からフランス革命まで』(上・下) フランシス・フクヤマ著


ひさしぶりにガッツリ政治学系の本を読みました。
フランシス・フクヤマといえば、何と言っても『歴史の終わり』が著名ですが、本著は米紙上では「歴史の始まり」と評されたそうです。

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間
Francis Fukuyama,フランシス フクヤマ,渡部 昇一

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歴史の終わり〈下〉「歴史の終わり」後の「新しい歴史」の始まり歴史の終わり〈下〉「歴史の終わり」後の「新しい歴史」の始まり
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上下巻構成でなかなかボリューミーな一冊なのですが、扱う範囲が人類の政治制度の起源(ユニークなのはそれを中国の秦の始皇帝に設定していること)からフランス革命までの発展なのです。
ということで、『政治の秩序と衰退』(仮)という続編に続いていくそう。

とまあかなりの気合で、彼のもちうる最大の知的リソースを総動員して、通史的かつ学際的に「政治の起源」を解き明かそうとした意欲作ということになるのかと思います。
政治学に限らず、進化生物学や社会心理学などあらゆる学問分野を渉猟しながら、一つの命題へと向かっていく姿勢はどちらかというとビッグ・ヒストリーの泰斗ジャレド・ダイアモンド(たとえば『昨日までの世界』)のようでもありながら、やはり重心は政治学・政治思想にあるので、多少なりとも前提知識が求められます。(この本でフクヤマが叩き台にしてるのはサミュエル・ハンチントンの『変革期社会の政治秩序』)

変革期社会の政治秩序〈上〉 (1972年)変革期社会の政治秩序〈上〉
サミュエル・ハンチントン,内山 秀夫

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変革期社会の政治秩序〈下〉 (1972年)変革期社会の政治秩序〈下〉 
サミュエル・ハンチントン,内山 秀夫

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あえて事前に読んでとよさそうな新書本をあげるなら、福田欽一さん『近代の政治思想』とE・H・カー『歴史とは何か』でしょうか。どちらも岩波です。

近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提 (岩波新書 青版 A-2)近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提
福田 歓一

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歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か
E.H. カー,E.H. Carr,清水 幾太郎

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『歴史の終わり』からずっとフクヤマが語り続けてる規範についての話でもあるのですが、政治制度発展の基礎として4点挙げています。
  • 「包括適応度」や「血縁選択」、互恵的利他行動は、社会性の基礎的形態である。よほどのことがないかぎり、人はみな親族を大切にし、互いを助け合った友人に対して好感を抱く傾向がある。
  • 人間には抽象化能力があり、因果関係についての思考パターンをつくり出して、理論化する能力もある。さらに因果関係を目に見えない超越的な力に基づくと想定する傾向もある。これが信仰の基礎となり、信仰は社会的団結をつくる源として重要な役割を果たす。
  • 人間には、理性よりも感情に基づいて規範を守ろうとする傾向があり、その結果、ある思考パターンと、それにともなって生まれる慣習に、それ自体の内在的な価値があると見る傾向が生まれる。
  • 人は、「相互主観的」な承認を求める。それぞれの価値、それぞれの神々、慣習、生き方を承認してほしいと望む。承認を得れば、それが正統性の基礎となり、正統性によって政治的権威を行使できるようになる。

往々にして学者によって語られる世界史は欧米視点に偏りがちなのですが、今著ではギリシャ、ローマといった鉄板はもちろんのこと、中国や日本などのアジア、そしてインドやハンガリー、中南米、はたまたアフリカまで射程がほぼ全方位に及んでいます。
安易な一般化は避け、地域ごとの文化的特質なども斟酌しながら、それでも政治的な理論を導き出そうとする怜悧な観察眼と途方も無い知的作業。
そこから一応、導き出された政治制度を形成する3つの要因が、
  1. 強力で有能な国家
  2. 「法の支配」への国家の服従
  3. 全市民に対する政府の説明責任
そして収斂されたこれらの主要素にもさらに種々のサブ要素が複合的に絡まり合っています。


たとえば一般的な通説を鵜呑みにしないためにも、彼のこの言葉を引用しておきたいと思います。
近代化の諸々の要素はどれも、宗教改革、啓蒙思想、産業革命の一括パッケージの結果、生まれたものではない。独立都市や商取引の急速な発展が近代的な商法の発達を促したにしろ、法の支配はそもそも、経済ではなく宗教的な影響の産物である。したがって、経済の近代化に不可欠となる2つの基本制度―個人が社会的関係や所有権について選択の自由を持つ。政治支配が透明で予測可能な法に制限される―は、近代以前の制度、すなわち中世の教会によってつくられたのだった。これらの基本制度が経済分野にとって有効と分かるのは、もっとずっと後になってからである。
とまあ続編を待ちつつ、僕が個人的に嬉しかったのは訳者あとがきの最後の謝辞の部分で訳出を一緒に手伝ってくれた人の名前が挙げられていたのですが、その中で学生時代に授業を受けていた島田直幸先生の名前があったことです。
一年生のときに先生の「米洲圏概論」という講義を受け、それからアメリカ外交、ひいては国際政治への興味を持つキッカケになったのでした。
今は杏林大学で専任講師をなさってるとのことです。

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2012年9月11日火曜日

読書『リベラルなナショナリズムとは』ヤエル・タミール著


イスラエルのテル・アヴィヴ大学の政治哲学教授であり、イスラエル労働党の著名な政治家、2006年にはイスラエルの教育大臣も務めたイスラエルの平和運動家ヤエル・タミールが著した『リベラルなナショナリズムとは』を読みました。
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」
ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

【公民教育とナショナルな教育】
市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。
【オプティミスティックなのだろうか?】
われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。
【胎動するナショナリズム】
例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。
【本著の主張】
すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。 
【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】
単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。
 【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】
ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。
【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】
という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける
【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】
アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。
結論として
未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。 
訳者あとがきより
リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。 
ズバッと。

2012年6月23日土曜日

藤原帰一先生講演「内政優位の政治と国際関係」聞きに行きました


主題は「内政優位の政治と国際関係」について。
2012年は安保理常任理事国でいうと、イギリス以外の四カ国で選挙があるということで(日本は不確かですが)今年はエレクション・イヤーな訳です。

アジェンダ

幾つか気になった点だけ、備忘録的に列挙しておきます。

カントが『永遠平和のために』で平和実現の条件として共和制を挙げていることは周知のところなんですが、その共和制には君主の存在を認めているということです。
つまるところの立憲君主制ということです。
関連して、外交官を目指す人のバイブルともされる『外交』の著者ハロルド・ニコルソンは世論は外交にとっての害悪であり、ポピュリズムに陥りやすい旨を述べていますが、彼は民主主義それ自体は否定していないということは重要な点です。
伝統的外交+デモクラシーが彼の理想形だったわけで、カントにしろニコルソンにしろ決して極論を言っているわけではないことは理解しておかなくてはと思いました。

あとは文民が必ずしも戦争を忌避するとは限らないことです。
文民統制が逆立ちし、文民が戦争を主導することがある。イラク戦争はその最たる例。

外交と世論の関係については多くの見解がありますが、中でもミルの言葉は時勢によらない普遍性があると思います。帰一先生が講演の最後に紹介していました。

「世論がどこまで国際関係に成熟した議論を持てるのか」


講演の最後に著書にサインを頂きました。
勉学精進します。





大学生ブログ選手権

2011年11月5日土曜日

読書『はじめての政治哲学―「正しさ」をめぐる23の問い』小川仁志著

itqou/ クラムボン



ゼミでも「政治哲学」を扱うことがしょっちゅうあるので、おさらいというか初心にかえる意味合いを込めて新書で入門書を読みました。
平易な言葉で政治哲学の重要な研究者の理説が網羅されているし、実際の事例と絡めながら説明してくれるのですごくわかりやすいです。

グローバリゼーションが進行して「主権」の所在が曖昧で不明瞭になってきているというのはよく耳にする指摘ですが、そのことに関するデヴィッド・ヘルドの説明が最もしっくりくると感じています。
主権は無限で不可分の排他的な公的権力の形態として個別の国家に具現されているわけではなく、多数の連携型の権力中枢と重複型の権威領域からなるシステムに埋め込まれているといいます。
もはや一国が国民国家の内に「主権」を有していると言うよりも、複層的な多領域のコンプレックスな絡まり合いの中に流動的に埋めこまれている(embedded)されているということです。


それから、パレスチナ出身の比較文学者エドワード・サイード がテロリズムに対抗する唯一の方法を指し示し、アメリカのアフガニスタン侵略を非難した言葉も印象に残っています。
忍耐と啓蒙こそが報復の連鎖を断ち切り、互いの陣営に真の自由をもたらす唯一の理想の道である。
報復は報復を生み出し、その無限ループの中で殲滅が繰り返され、無残にも罪なき人の血が流されていくのです。
「寛容」の心からしか解決は導けないと。

コスモポリタン思想の潮流をくむポッゲの「果たしうる義務」という概念を理解しておくことも、これからの時代には不可欠であると思います。
グローバルな資源の配当という名の基金のことです。資源の生産の1パーセントを途上国のサービスに役立てることで、地球上のすべての人に基本的なインフラを供給できる。
国際政治がゼロサムゲーム的思考から脱却し、いや脱却する必要さえないのかもしれません。少しの、ほんの少しの「共有精神」「救済精神」で、平和はわたしたちが思うよりももっと簡単に実現しうるものであるのかもしれません。
大学生ブログ選手権

2011年7月25日月曜日

どうして政治と向き合っていくか

2010年から2011年に移ろうとしていたとき、僕はオハイオ州の小さな村にいました。
来たる新年に足を踏み入れる前に自分自身の想い・気持ちを整理したかったのです。
そこで猛烈な勢いで文字を書きなぐりました。
その時のブログがコレです。当時はまだアメブロでブログを書いていました。
6月にあったゼミのプレゼン合宿では、これを発表しました。
加筆・推敲した内容をコチラに掲載します。

【アウトライン】
Ⅰ. 序論
政治を見つめる《知の巨人たちからヒントを得ながら》

Ⅱ大学生としての自分
A. 学問の選択
1. 「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」
B. マスターサイエンスとしての政治
2. 「政治の本質は他者との活動にある」
3. 歴史の終焉

Ⅲ. 人生を歩んでいく自分
B. 政治的動物、『人間』
1. 「万人の万人に対する闘争」
2. アイデンティティ
C. 横たわる不均衡
1. 国際政治におけるゼロサムゲーム
2. コスモポリタニズム

Ⅳ. 結論
政治≒酸素

クッソ長いので、飛ばし飛ばしにでも読んでみてください。
途中、途中で言及した文献を挿入しておきます。
また、知の巨人は登場するたび、Wikipediaへのリンクを貼ってあります。活用してみてください。


【以下本文】
   2010年が終わろうとしていた夜、12月31日。僕はオハイオ州にある小さな町 にいました。明確な理由はないのですが、突然思い立って、20歳の自分が何を「射程」に捉えているのか、また、自らの内に以前からバラバラに介在していた曖昧な気持ちや考えを掴んで、クリアな形にして書き残しておこうと思い立ちました。義務感というか、この作業を経ないことには2011年に足を踏み入れることさえできないのでないかと感じるくらいの強い思いに駆られ、日記というかブログに筆を走らせたのでした。 つい先日、それをみて自分の方向性がその夜からブレてないことを再認識できた嬉しさと同時に、これをプレゼンテーションとしてシェアすることでまた新たな知見を得られ ることができたら面白くなるのではないかと思い、この発表に至っています。このプレゼンテーションでは、そのブログに基づいた内容で進めていきたいと思います。


   大枠に分けると、「大学生としての自分」と「人生を歩んでいく自分」という二種類の観点から「政治」を見つめた内容になっています。その節々で知の巨人たちからのヒントを借りています。その都度このiPadで人物画など示しながら進めていきたいと思います。(※実際のプレゼンではiPadを使用)


   大学4年間という決して短くない時間は後の人生に大きな大きな影響を与えます。ヴァラエティー豊かな学問分野から何を学ぶのか、その選択は決して蔑ろにされるべきではないと思います。自分が時間をかけて学んでいることの意義、それが将来の自分にとってどんな意味をもたらすのか。それと向き合っていく第一歩をここから踏み出したいと思います。単位を落とさない程度に勉強しておけばとりあえずは安泰、就職もどうにかなるだろう。マジョリティの学生がそう考えているだろうし、自分もそんな気はします。ただ、自分は別に就職、世間的に一流企業と呼ばれるような会社に入るために時間を削りながら勉強しているわけではありません。人間としての知的欲求を満たすにとどまらず、もっと新しいことを知りたい、それを元にもっともっと考えたい。「考えること」を考えたい。いつか死にゆくのに絶えず考え続けていくことの意味を考えたい。だから思考を止めないのです。これは、自分にとっては旅にでる時の気持ちと類似 しているような気がします。目にしたことのない景色を見てみたい、新しい人々に出会いたい。自分に内在するパースペクティブを掘り起こしたい。


   勉強をするときはいつもソフトバンク社長、孫さんの言葉をイメージしています。
「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」 
「脳がちぎれることも、ケツから火がでることもないのだから」


ここからは「政治」に話を移したいと思います。僕を含め、ここにいる多くの人 が「政治」を学んでいます。正直、高校生の時なんて自分が何を勉強したいのかなんて、皆目見当がついていませんでした。なんとなく漠然と興味のある分野を絞ってみて (例えば、英語が得意なら無作為に「国際」と名のつく学部を抽出してみたり)、受験する人が周りにも大勢いました。当時は「政治」そのものに対する知識は(未だにですが)浅薄で明確なヴィジョンなど持っていませんでした。ただ、学びを進めるうちにな んとなくその概要がみえてきたような気がするのです。それと同時にこの分野を選んでよかったという確信も膨らんできています。

宇宙は、世界は、国は、コミュニティは「政治」がなければカオスに陥ってしまいます。秩序をもたらすのが「政治」です。ルールがないと殺人や窃盗をはじめとした不正を治める手段がない、フィジカル的に強靭な者が理不尽に権威をひけらかし、「正義」が達成されることは困難となります。そうゆう意味で法を施行するためにもまずは 「政治」が必要なのです。「政治」が整備されてはじめて世界が成り立つとすれば、他のすべての学問も「政治」がまずは成り立たない事には開始されることさえないのです。アリストテレス先生が政治を「マスターサイエンス」と呼称したのも、それを意味してでしょう。政治哲学者のハンナ・アーレント先生に言わせると、「政治の本質は他者との活動」であるそうです。この言葉には大いに賛同します。





人間はひとりで生きて行くことができません。生まれてから、死ぬまでずっと他者との関わりの中で自己を規定していきます。世界で生きて行くからには、他者との関わっていかなくてはならないし、相互扶助していくことで人生を実りあるものに拵えていくのです。ところが人間は程度の差こそあれ、本能的に自己の利益を最優先にする性向があり、個人の本質はエゴイズムといっても過言ではないかもしれません。そこに 「政治」がなければアナーキーを創出してしまうのです。自分のテリトリーを守るため、生きるために略奪を繰り返すのです。例えば、家族や恋人が24時間危険に晒されていたら眠ることさえままらないでしょう。

古来から人類は真の「政治」を構築することに努めてきました。「生活の安寧」は縄文時代よりももっと前からの人類の中心命題であり続けました。試行錯誤を繰り返しながら。ちょっとづつ付け足し、付け足し、時の賢人たちが知恵を絞りながら理想の政治を形作ることに心血を注いできました。時には思想の違いや政治制度の違いが大戦を巻き起こすとこさえありました。それは現代に至った今でさえも。冷戦がその良い例です。冷戦の終結が直接、資本主義の勝利を意味するのかを判断するのはにわかに時期尚早な思いが残りますが。そして今、私たちは「民主主義」という政治制度の元、日々の暮らしを営んでいます。フランシス・フクヤマ先生は民主主義に至った現代を「歴史の終わり」と宣言しました。これ以上の社会制度の発展はないと断言しながら。これが全世界に普及すれば平和は達成されると主張しながら。自分自身はフクヤマ先生には半分賛成半分反対の心境です。民主主義自体に半信半疑で絶対の信用をおけるような完璧な代物ではないと感じるからです。一見、とても魅力的ですが、内に抱える脆弱性も反面目立つからです。ヘーゲル先生が言うように弁証法的な視点が民主主義国家の国民に共有されていないことには、マイノリティの権利が抑圧され続け、容易に衆愚政治に変換されうるきらいがあります。ポピュリズムにも弱いです。





デモクラシーを標榜する国の代表、アメリカに目を向けてみます。人々が思う以 上に社会に蔓延する経済格差が深刻化しています。それはジョン・ロールズ先生が列挙する原則が守られていないからではないでしょうか。特に彼が第二原理で述べている 「格差原理」。不平等が最も不遇な立場にいる人の利益を最大化するという原則。



ここからはもうすこし根源的な問題、人生を歩んでいくうえで向き合い続けていかなければならない様々なことがらを考察していきたいと思います。私たちは犬や猿や象と同じように動物です。だけど特別な動物です。アリストテレス先生は人間を政治的動物として、他の動物と峻別しました。「自足して共同の必要のないものは神であり、 共同できないものは野獣である」と。人間の知能の高さは他の生物と比になりません。 その高度に発達した脳をもって数々の概念や制度を生み出してきました。「政治」こそが人間を「特別」とたらしめる要因と考えてやまないです。政治を持たない他の動物達は野生、自然状態の中でサバイバルのための闘争を日々繰り広げる。そこに「安寧」は 存在しません。それを「万人の万人に対する闘争」として指摘したのがトマス・ホッブズ先生です。社会契約を通して、権力をリヴァイアサンに委譲する代わりに「安心」を得ること可能にしたのです。
(※「社会契約」や「リヴァイアサン」といった基本用語の説明・確認はここでは割愛します。Wikipedia見れば、一発なので確認してみてください。)



そして、ジョン・ロック先生はそのために政府が必要だと考えました。従来までの王権神授説を否定して、国民に社会契約の概念を説いたのです。ただ、政府の暴利の可能性を認識していたし、政教分離を進めるなど現実主義的な側面も持ちあわせていました。これが後世のモンテスキュー先生の三権分立論に受け継がれることになるのです。人間だって未だに内戦を繰り返しているじゃないかと指摘する人もいるかもしれない。グルジア、スーダン、ソマリア、枚挙にいとまがなく世界各地で。それは他ならず、「政治」の未発達、未熟さに起因しているのではないでしょうか。





サミュエル・ハンティントン先生が言うように「宗教」や「文明」の衝突に起因すると主張する学者の方々も多くいます。極度に複雑度を増した世界のどの局面を切り取るかで見え方は随分と異なるし、一概に正解を断定することはあまりにも危険です。 政治学は誤謬に満ちているからです。ただあくまでも世界の根幹をなす「政治」の乱れがある限り、「宗教」「文明」をはじめとする諸々の副次的なファクターも安定しないのは明らかです。



政治は僕らがこのゼミで学んでいるアイデンティティとも密接に関係があります。以前、「人は国籍から逃れることができるのか」について熟考していたことがありました。生まれた時点で日本人。眼に見える選択権をあたえられるわけでもなく、どうやったらこれを放棄できるのでしょうか。たとえば無人島で生まれ育ったらどうなるでしょうか。ストレンジャーが島に入ってきて、殺害したらどの法で裁かれるのでしょうか。基本的に日本人であったらその国が提供する様々なサービスや福祉を享受します。 例えば、警察機能などです。日本社会で生活を送る以上は、私は日本人ですという「暗黙の合意」がなされます。例えばスーパーで払う消費税を払っている時点で。合意がなされた時点でその国が施行する法を遵守することが強制され、違反すれば処罰を受けます。ただ無人島ではどうでしょうか。いつ合意形成がなされるでしょうか。シンプルに先祖や親の国籍が適用されれば事足るのでしょうか。それではアイデンティティ以前に 人間の尊厳的な権利を侵しているよな気がします。最近ではこのような、倫理的でリアルな問題が「正義」を基軸にサンデル教授を筆頭に注目を浴びています。



僕はこのゼミで世界の不均衡について考えていきたいと思っています。オリンピックの200m走をイメージしてみてください。様々な国から競技に参加しているランナーが銃声を合図に一気に駆け出します。極めて公平です。そこにはハンディキャップ もなければ不正もありません。フライングすれば仕切り直しされるし、ステロイドを使 用すれば資格が剥奪されます。これは極めてフェアーです。ただ現状の国際政治はどうでしょうか。アンフェアなレースが歴史的に繰り返されてきたのではないでしょうか。 範例を挙げると枚挙に暇がありませんが貿易がその一例です。輸出入体制にしても一 度、先進国がそのフレームワークを自分たちに有利なカタチで築くと、途上国は恒常的に搾取の対象になり続けます。誰かの豊かさは誰かの苦しみであり続けるのです。そう考えてみると国際政治はゼロサムゲームなのかもしれません。各国がパイの取り合い 繰り広げているのです。パイとは利得の取り分のことです。

簡単に説明してみます。競馬のシステムを頭に思い浮かべてみてください。人々が馬券を買う。そのお金が一カ所にプールされ、レースの結果に応じて、的中者に分配されます。一カ所に集まった「分配」をしているだけで、プールに貯まったパイ自体が増えることはありません。配当はオッズで調整されます。マクロ、マクロに考えるとその害悪を被っているのは他でもない個人、人間なのです。海外に足を運ぶたびに実感をすることになります。カンボジア、タイ、メキシコなどでも幾度と無くその現状を目の当たりにし、閉口してしまう場面も多々ありました。大学や会議室でいくら国際政治を大きな枠組で議論しても、辿れば個人なのです。彼らの苦しみは理解しようと思ってもできるわけがありません、実際にその境遇を味わうまでは。タイで深刻化する児童買春も臓器売買も、あらゆる負の産物の流れの水源を辿ってもどこにも行き着きません。歪んだ世界構造そのものが不均衡に満ちているうちは。

なぜ見えない国境の向こう側で喘ぎ苦しむ人々を見過ごすことができるのでしょうか。それを許せてしまう理由は一体何なのでしょうか。ナショナリズムでしょうか、 アイデンティティでしょうか。真の答えを求め、心の内をえぐりだすのは大変に困難を伴います、精神をすり減らすことです。しかしながら、主体性を持ちながら苦悩し、痛みと向き合わないことには真の学びはないと思います。

「貧困」をどうにかしなくてはと声高に叫び、NGOなどを介して途上国にボランティアに行く学生が跡を絶ちません。それが悪いとは思わないし、何かの糸口になれば素晴らしいことだと思いますが、独りよがりに終わったり、根本的な解決につながることはなかなかないと思います。「政治」が変わらないことには、世界は変わらないのです。本当にそう思います。政治規範がグローバルかつドラマティックに変わり、パラダイムシフトを起こさない限りは。自分が標榜するのは限りなく理想論に近いのかもしれません。理想は世界がゼロサムゲームから抜け出すことです。エゴイズムを捨て、グ ローバルアイデンティティを共有することです。伝統的なリアリズムでは国ごとが自国の国益を最大化することが至上命題ですが、どうにかそこから抜けだしていけないものか。凝り固まった現実主義を崩せないものか。

カント先生が「永遠平和のために」でいうようなコスモポリタニズムのようなもの。世界市民としての自覚。隣人愛が世界の隅々まで伝わって人が人を愛して、世界が世界を愛せれば。功利主義つまり最大多数の最大幸福をベースに置きつつ、個人の権利の最大限の尊重。それは可能なのでしょうか。民主主義である以上は、多数決にならざるおえないのでしょうか。苦悩は続きますね。「海底二万マイル」の作者としても有名なフランスの小説家ジュール・ヴェルヌ先生の有名な名言があります。「人間が想像できることは、人間が実現できることだ」まずはこれを自分自身がとことん信じることから始まるのではないかと思っています。





最後にハーバード大学教授ジョセフ・ナイ先生が日米安保について述べた言葉を紹介したいと思います。「日米安保は酸素みたいなものだ。無くなって初めてその大切さに気づく。」これは政治そのものにあてはまるのではないでしょうか。酸素がなくては人は生きられない。そんな当たり前のこと、日々の生活でいちいち立ち止まって考えたりすることはほとんどないですが。政治がなくては生きていけないことに気づいてない人すらいるのが現状です。昨今の日本では政治不信が浸透して、政治に期待を寄せる人はごく少数となってしまいました。政治家の言葉がオオカミ少年に聞こえ、政治が諸悪の根源とまで見なされてしまっているのです。



そんな中で僕らが日々、政治やら哲学やら、なんだか難しい本とにらめっこして過ごすことにどれほどの意義があるでしょうか。正直「こーんなことやってて何になるんだろう」とか思うことは多々あるけど、スティーブ・ジョブズ先生は言われました。 「点と点の繋がりは予測できません。あとで振り返って、点の繋がりに気づくのです。 今やっていることがどこかに繋がると信じてください。その点がどこかに繋がると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても自信を持って歩き通せるからです。それが人生に違いをもたらします」自分は宇宙飛行士だろうが政治家だろうがプロ野球選手だろうがペット店員だろうがフリーターだろうが「正義」にコミットしていきたいと思っています。継続的な「正義」への粘り強いコミットが何かに繋がり、僕が生まれてきた意味を見出すことができると信じて。



長い文章を拝読、ありがとうございます。
他にもいくつかゼミで発表したモノがあるので、いつかのブログで紹介したいと思います。