Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2013年9月28日土曜日

読書『普遍の再生』井上達夫著

普遍の再生

東大院・法学研究科教授、井上達夫先生の『普遍の再生』を読みました。
井上先生の本はちょこちょこ読んでいて、2ヶ月くらい前にこのブログでも『世界正義論』を紹介しました。
先生の専門は法哲学で、僕の専門とは少し違うのですが、やはり哲学・思想はしっかり押さえておかないと土台がグラグラな理論の陥穽にハマりやすいので。

今著は先に刊行された『現代の貧困』という本の姉妹本だそうで、「現実に対する批判的変革原理としてリベラリズムを再定位することを企てた」一連の著作だそうです。
現代の貧困――リベラリズムの日本社会論 (岩波現代文庫)現代の貧困―リベラリズムの日本社会論
井上 達夫

岩波書店
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前著では天皇制・会社主義・55年体制の遺産という「戦後日本の三種の神器」を主な主題に据え、今著ではナショナリズム、欧米中心主義という知的政治的覇権、それに抗うアジア的価値観、そして民主的答責性を掘り崩すさまざまな超国家的あるいは脱国家的な権力体を主な論的に議論を進めていきます。
あとがきに本著を書くドライブとなった動機の要諦があったので、ここでも
現代世界の諸力・諸傾向に対して、リベラリズムの基底にある「普遍への企て」を擁護し、他者支配の合理化装置ではなく批判的自己変革原理として普遍を再生させること、これが本書の狙いである。
と、この引用はあとがきから引いたものですが、<序文 普遍の死に抗して>にも、強烈な意志が垣間見えます。「自己の恣意の絶えざる批判的再吟味を迫る理念として普遍を探求する知性のみが、権力の恣意を批判的に克服する地平を開くことができる」本書を通じて、種々のトピックが語られるわけですが、基本的に伏在しているテーゼは今しがた引用した一文に集約されると思います。

あとやはり、リベラリズムとナショナリズムの複雑な絡み合いに対する思想的・理論的理解への一助としてはタミールの『リベラルなナショナリズムとは』は必読かと思います。
リベラルなナショナリズムとはリベラルなナショナリズムとは
ヤエル タミール,Yael Tamir,押村 高,森分 大輔,高橋 愛子,森 達也

夏目書房
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個人的にすごく興味深かった箇所としては《第7章 普遍の再生―歴史的文脈主義から内発的普遍主義》の<1. あるシュムポシオン>でエッセイ調で綴られていた、井上先生がハーバードに留学していたときの回想記。(ちなみに東大のオンライン・コースの連続講義「正義を問い直す」でも少し、この時の話に触れてらっしゃいました)

ジョン・ロールズ

ボストンの日本料理屋でジョン・ロールズ、トーマス・スキャンロン、そして岩田靖夫教授と懐石料理を食べていた時、井上先生がロールズにこう訊ねたそうです。
"What is the best way to kill your theory?"
すると、ロールズは笑みを浮かべながらこう答えたそうです。
"You can not kill my theory. It will just die out" 
あとは一応、備忘録として歴史的文脈主義から脱却し、内発的普遍主義を唱道する根拠というか、視点を4つメモしておきます。 

①人権と民主主義という普遍的原理は覇権的に捏造された差異を解体し、それが隠蔽抑圧してきた差異を解放するとともに、この差異の葛藤の公正な包容を図る。
②普遍主義的正義理念が含意する公共的正当化要請は、普遍的人権原理と相俟って、文化的差異の公正な相互承認の枠組を構成する。
③法・言語・歴史など人間の実践の解釈は過去の事実によって一義的に確定されないからこそ、創造的解釈の比較査定のために普遍的評価原理が必要である。かかる解釈は歴史的文脈に依存しつつその規範的意義の最適化を図る。
④普遍志向は基礎付け主義を排した対話法的正当化理論と結合する。両者の統合は正当化を論議の文脈の差異に相関させる一方、正当化実践の論議開放性を保障する。

普遍の追求は文脈を歪曲する覇権を解体し、多様な文脈の相互承認を保障し、文脈をよりよく意義付け、そして文脈を開放するために不可欠なのである。

2013年7月14日日曜日

読書『責任と正義―リベラリズムの居場所』北田暁大著

責任と正義―リベラリズムの居場所

東大・情報学環准教授の北田暁大先生の『責任と正義』を読みました。
この本の元は北田先生の博士論文だそうです。
北田暁大先生といえば、理論社会学が専門で文化社会学の分野でよく知られていて、最近では思想界とも関わりが深く、宮台真司さんや東浩紀さんとも共著を出していらっしゃいます。


なので、博士論文のテーマが「責任」と「正義」というゴテゴテの政治思想を扱ったものというのは、意外な訳ですね。
ただ、だからこそ個人的にはとても興味を惹かれたわけです。
なぜなら僕自身、学部生のときに政治思想を中心に勉強して、今は社会学やメディア史を辿っているところなので、学問領野に問われない横断性というのには共感するものがあるからです。

この本のおおまかな構図としては「社会的なるもの」の肥大/ 「政治的なるもの」の盲点化というものがあります。
社会における「社会的なるもの」を相対化する言説が、社会理論(社会の意味論)における「社会的なるもの」の肥大=社会学帝国主義を帰結するという逆理。
というように昨今の政治学の領域における業績を簡単にみてみても、「社会学的なるもの」の影響というか、浸食というか、無視できないほど肥大化しているし、逆に社会学においては「政治的なるもの」が実は盲点化されているというのが北田先生の指摘です。 
ということもあり、
伝統的な政治学や法学が「アルキメデスの点」として自明視してきた政治(学)的概念―「自由」「平等」「正義」など―を、具体的な「社会的」文脈に再配置し、その社会的・政治的効果を正確に測定していくこと。政治(哲)学・法(哲)学が対象としてきた事柄を、「政治(学)な」概念によってではなく、「社会(学)的な」概念によって分節化していくという知的エートスは、もはや法(学)や政治(学)を語る上で欠かすことのできない基本的な素養とみなされるようになっている。
だから、
「いかなる国家が望ましいか」「自由/平等の基礎づけ」「正義概念の再検討」「正しい再配分はどのようなものでありうるか」といった政治(学)的問いは、「国家/自由/平等/正義は、いかにして語られ、どのような社会的・政治的帰結を生み出したのか」といった社会(学)的な問いに置き換えられなければならない。 
というようにして、「社会的なるもの」「政治的なるもの」の間を(どちらの優先性を付与するでもなく)絶えず意識的に往還しながら、問題の検討(すなわち「リベラリズムの居場所)の検討に向かっていくんですね。 
「まえがき」でこんなこともおっしゃってます。
「やんちゃなリベラリズム」と「しみじみとした社会学帝国主義」のあいだで思考することの快楽(と苦痛)を、多くの読者と共有することができたなら、著者としてこれ以上の幸せはない。
卒論でロールズを苦労しながらも読み砕き、最近、社会学に食指を伸ばしている当の自分としては、わずかながらもそうした快楽(ほとんどが苦しみでしたが)を共有できたのは収穫だと思っています。 

絶えず学問領域の枠を飛び出して、インターディシプリナリーに問題の検討にあたる北田先生のやり方は、素人(まだ学が十分に足りていない者)にとっては簡単な読書ではありません。
ただ、読了後に、もう一度「まえがき」を読み返していると、このような記述があり、思わず微笑んでしまいました。
ところで、右に記したような見取り図はあまりに抽象的すぎて本書が何を問題としているのかわかりにくいという読者もいることだろう。たしかにこの見取り図は、全文を書き終えた私が事後的・遡及的に捏造した物語のようなものであり、(こう言ってはなんだが)私以外にはその意義を見いだすことが難しいものかもしれない。<中略>ここに「まえがきにかえて」として述べたことは、全体を読み通した後にでも(そういう奇特な読者がいたとして、の話だが)思い起こしていただければ幸いである。
この本で、リベラリズムを検討していくわけですが、伝統的なリバタリアニズムやコミュニタリアニズムとの相克というようなものではなく、あくまでルーマンやハーバーマス、はたまたリチャード・ローティといったポストモダン政治学、または「システム倫理学」を唱道する大庭健先生というように、幅広い知識が前提とされるため、社会学について中途半端な知識しか持っていない自分としては少しチャレンジングでした。 
こういった北田先生の学問に対する姿勢は情報学環のホームページにある研究紹介にも見てとれます。
・・・こうしたマクルーハン的方法と、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコー、フリードリッヒ・キットラーといった人びとの方法論的意識をつき合わせつつ、新たな社会史・歴史社会学の可能性を模索していく、というのが私の研究スタイルです。この研究スタイルを貫くには、一次資料への興味関心のみならず、理論と実証を往復する知的体力が必要とされます
そうなのです。この本を読めばそれが肌で分かるように、「知的体力」が要求されるのです。 
先に自分は社会学の知識が十分でないといいましたが、本書の中核で記述のあった「社会学的思考の《原罪》他者の問いの隠蔽」という箇所は肝に銘じて社会学の勉強にあたりたいと思いました。
社会学的な思考は、様々な形で―「価値被拘束生論」「歴史神学の挿入」「相対化の戦略」―《「である」》⇒《「べし」》の導出を「解決」したのだと自らに言い聞かせてきた。しかしそれは、問題の「解決」などではさらさらなくむしろ「隠蔽」「抑圧」であったこと―このことは関係性=制度の学としての社会学がいわば宿命的に引き受けざるをえない《原罪》として、まずしっかりと自覚しておかなくてはならない。

補論の中でさらっと触れられていた人間以外の動植物の権利をいかに規定していくかという問題。この辺はヌスバウムあたりが真正面から取り組んでいる問題ですね。(参照:『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』)


たとえばグリーンピースが理性や知能程度の高さを理由にクジラやイルカを高等哺乳類として、保護されるべき対象ととらえるならば、通常、本来的な理性が欠け、知能程度も健常者よりは低いと見積もられる障碍者や痴呆の老人は被権利者としては適当ではないということになってしまうのか、など。突き詰めて考える必要のある問題が現出してきます。

これに関連して、「尊厳」について。ここの部分は村松聡さんの『ヒトはいつ人になるか』などを参考にしながら。
《贈与を受けるべき/受けざるべき存在》の差異づけは、《合理性を帰属しうる/しえない》とか《痛みを感じうる/感じない》といった差異=規準にではなく、《尊厳のある/ない》という差異=規準に照応する。ところが、《尊厳のある/ない》という差異は、まさしく根拠なく差異づけられる―つまり、他の属性に還元・翻訳することができない―という点にこそ、その本質的意味が見いだされるようなものであり、個々人による尊厳帰属の理由を不偏的・非人称的な観点から調整することは原理的に不可能なのであった。つまり《リベラル》は、リベラルな権利を贈与する範囲の確定をリベラルな様式に則って決定することができないのである。
ここがリベラルの臨界点、すなわち限界なのであると。一方通行の行き止まり。 
そして四部「社会的なるもの」の回帰 第七章 正義の居場所―社会の自由主義へと最深部へと向かっていくわけです。
そこでまず最初に、ここまでの議論で明らかになってこととして確認しておきたいのは
リベラリズムはその規範的・道徳的優位性によってではなく、現代社会における機能的な位置価によって、その「徳性」を担保されるのである。
ということ。 
これは繰り返し、北田先生もロールズなどを批判しながら注意を喚起している点なのですが、
だから我々はゆめゆめ《正義》を「社会制度の第一の徳」「他なるものとの出会い(損ね)の契機」などと規範的に意味づけてはならない。
ということで
リベラリズムがコミットする正義は、様々な善の構想の相克をメタレベルにおいて調停・裁定する規準でも、人間の本性への洞察や功利計算から導き出される道徳原理でもない。それは、人々の行為の連接可能性(帰責=観察の円滑な連接)を特有の形式で担保することによって、責任のインフレーション(過剰な帰責可能性)を収束させる一方法論なのであって、その存在意義は―倫理的価値によって根拠づけられるのではなく―他の方法論との対照関係においてのみ規定されうるようなものなのだ。 
この本で北田先生があえて、自分の専門領域である文化社会学やメディア史から距離をおいて、こういった問題にチャレンジしようとした野心の根底に「リベラリズムと社会システム理論を架橋する」という問題意識があったわけです。これはあとがきの「現実(主義)から遠く離れて」でも言及されています。 

この本から僕が学んだのは、内容以上に、そういった学問に対するアティチュードではないかと思うのです。

2013年1月16日水曜日

読書『リベラル・コミュニタリアン論争』アダム・スウィフト、スティーヴン・ムルホール著


ゆっくり読んでいたらかなりの日数を要していました。
本の構成としてはリベラリズムの旗頭とされるロールズの一連の著作群(『正義論』を中心)に対するコミュニタリアンの批判とそれに対するリベラリズムの応答。
この行ったり来たりを詳細に検討したもの。政治思想に関わらず、哲学、倫理学、はたまた経済学まで、テーマ自体がかなり分野横断的なので学部生も院生も一読の価値があると思います。

コミュニタリアンとしてサンデル、マッキンタイア、テイラー、そしてウォルツァー
リベラリストとしてロールズ、ローティ、ドゥオーキン、そしてジョゼフ・ラズ。



【基本的なコミュニタリアンの論旨】
社会的紐帯は、他のたんに個人的な目的を達成するための手段としての価値を超えて、それ自体として価値がある。
サンデルが「原初状態の秘密」として描き出した部分が面白かった。 
原初状態の秘密ーそしてその正当化を生む効力の謎ーは、そこにいる当事者がなすことではなく、むしろ理解することのなかにある。問題なのは、かれらがなにを選択するかではなく、なにかを理解するかであり、なにを決定するかではなく、なにを発見するかである。原初状態において生じていることは、結局のところ契約ではない。それは、ある間主観的存在が、自己意識に到達することなのである。
【テイラーのコミュニタリアン的人間観】 
人間とは、自己解釈する動物であり、人格としての自分のアイデンティティが、自分の帰属する言語共同体を基盤としてそこから導き出せる善の構想への方向付けと愛着とに依存している生き物に他ならない。


【「対話の網の目」】
わたしが怒りとはなにか、愛とはなにか、不安とはなにかといったことを学ぶには、われわれにとってーつまり、われわれの共同体を作り上げている関係性の網の目のなかで特定の役割なり地位を有する人びとにとってーそうしたことがらをがどんな意義をもつのか、他者と経験を共有するほかないのである。
【コミュニタリアニズムのリベラリズムに対する攻撃】 
リベラリズムのように個人主義的な政治の伝統は、すなわち、一定の自由と平等に対する一人一人の人間の権利に重きをおく政治の伝統は、それら諸権利を保護することへの関心を表現するにしても、それら諸権利を下から支えている社会構造をも同時に保護する必要性を無視していたり、そのような必要性と矛盾したりする形でそうした関心を表現してはいけないことになる。
(五つのアジェンダ)⇒ 
①人格の構想
②非社会的個人主義
③普遍主義
④主観主義か客観主義か
⑤反完成主義と中立性




個人的に響いた箇所

<どんな挑戦に直面しているかを自分で決定する>ということが、ほかでもないその決定するという挑戦の媒介変数なのである。
あとコミュニタリアニズムを理解(grasp)するのに役立ちそうなドゥオーキン巧い比喩
オーケストラが集合的な生を有するのは、その構成員が、そのなかで自分たちが構成要素としてあらわれる、人格化された行為の単位(unit of agency)を承認するからである。
⇒ある共同体の共同的生は、さまざまな実践や態度によって、集合的なものとして取り扱われる諸活動を含む。それらの実践や態度が、一つの集合的行為者としての共同体を創造するのである。
ラズのリベラリストらしい主張としては 
自律的であるために、また自律的な生を営むために、なくてはならないのは複数の選択肢である。人間にはさまざまな能力を行使したいという生得的な衝動がある。複数の選択肢があると、ひとが生涯にわたって持続する諸々の活動が、全体としてみれば人間のありとあらゆる能力の行使になるし、またどれか一つの能力をあえて発達させないことも可能になるのである。
なかなかヴォリューミーなので、ゆっくり味わって読もうとすれば一日では厳しい分量です。「リベラルvsコミュニタリアン論争」の既知の知識がないと尚更。
学部生の教科書としてはかなり良書だと思います。 



その他のメモ

2012年9月11日火曜日

読書『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』白川俊介著


先生に薦められた白川俊介さんの『ナショナリズムの力』読みました。
白川さんはまだ29歳なんですね、若い。

タミールの『リベラルなナショナリズムとは』を読んだばかりだったので、内容が滑らかに頭に入ってきました。

今著でもコスモポリタニズムとは一定の距離をおきつつ、リベラリズムの系譜学的変容、ナショナリズムと結びつくまでの道程がわかりやすく論じられています。

骨格としては
リベラル・ナショナリズム論は、リベラル・デモクラシーの理念や政治枠組みがナショナリティに支えられていることを強く自覚し、またそれを積極的に評価する。
「多文化共生」を構想するうえで、ナショナリティ・国民国家・国境線は単に障害でしかなく、乗り越えられるべきものなのだろうか。ナショナリズムと共生は一見すると相反するもののように思われる。だが、ナショナリズムには、リベラル・デモクラシーを下支えし、多文化共生を支える力もある。
リベラル・ナショナリストは、従来のリベラルの想定してきた無属性的な負荷なき自我観および文化中立的国家観を批判し、リベラル・デモクラシーの政治枠組みにはナショナルな文化が不可避的に反映され、そのことによって政治枠組みを安定的なものにし、また個人は、みずからになじみ深い政治枠組みのなかで善き生の構想を自由に探求できるという。 
【「雑居型多文化共生世界の構想」と「棲み分け型多文化共生世界の構想」】
単一のリベラル・デモクラシーの枠組みにおいて人びとが暮らす「雑居型」ではなく、それぞれのナショナルな文化に根ざした、個別的かつ多元的な政治枠組みが構想され、お互いを尊重しながら共存するという「棲み分け型多文化共生世界」の構想が立ち現れてくる。
【「社会構成文化」(societal culture)】 
「公的領域と私的領域の両方を含む人間の活動のすべての範囲ーそこには、社会生活・教育・宗教・余暇・経済生活が含まれるーに渡って、さまざまな有意義な生き方をその成員に提供する文化」であり、この文化は「それぞれが一定の地域にまとまって存在する傾向にあり、そして共有された言語に基づく傾向にある」
【LDのバッテリーとしてのナショナリティ】
社会正義や民主主義などが安定的に機能するためには、当該の政治社会に信頼関係や連帯意識が成立していなければならないということであり、それらは親族・社会階級・宗教・民族などの絆を越えるネイションへの帰属心によってもたらされる。この意味でナショナリティとは、リベラル・デモクラシーの政治枠組みを安定的かつ持続的に起動させるいわば「動力源」である。 
【「非自発的アソシエーション」by マイケル・ウォルツァー】
それは簡単には離脱できないような、一定程度閉じられたものである。「」は構成員をそこから離脱できないように道徳的に束縛する。閉ざされた空間のなかで他者とともに生き、相互に扶助しあうといった社会的協働の基礎を生みだす。ウォルツァーは「交互に支える用意のある相互支援の政治体制がなければ、自由な諸個人からなる政治体制は存在しえないだろう」という。
さいごにアイザイア・バーリンのコスモポリタニズムに対する警句
「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史的記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれることは、飲食、安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、みずからにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからにほかならない。コスモポリタニズムは、彼らをもっとも人間らしく、また彼らが彼らたるゆえんを捨て去ってしまうのである」
このタイミングでこの本と巡り会えたことはぼく個人的には大きい。
卒論の核というか、教科書になりそうな本です。 

読書『リベラルなナショナリズムとは』ヤエル・タミール著


イスラエルのテル・アヴィヴ大学の政治哲学教授であり、イスラエル労働党の著名な政治家、2006年にはイスラエルの教育大臣も務めたイスラエルの平和運動家ヤエル・タミールが著した『リベラルなナショナリズムとは』を読みました。
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」
ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

【公民教育とナショナルな教育】
市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。
【オプティミスティックなのだろうか?】
われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。
【胎動するナショナリズム】
例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。
【本著の主張】
すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。 
【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】
単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。
 【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】
ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。
【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】
という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける
【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】
アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。
結論として
未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。 
訳者あとがきより
リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。 
ズバッと。