Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年5月9日金曜日

読書『政治の起源―人類以前からフランス革命まで』(上・下) フランシス・フクヤマ著


ひさしぶりにガッツリ政治学系の本を読みました。
フランシス・フクヤマといえば、何と言っても『歴史の終わり』が著名ですが、本著は米紙上では「歴史の始まり」と評されたそうです。

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Francis Fukuyama,フランシス フクヤマ,渡部 昇一

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上下巻構成でなかなかボリューミーな一冊なのですが、扱う範囲が人類の政治制度の起源(ユニークなのはそれを中国の秦の始皇帝に設定していること)からフランス革命までの発展なのです。
ということで、『政治の秩序と衰退』(仮)という続編に続いていくそう。

とまあかなりの気合で、彼のもちうる最大の知的リソースを総動員して、通史的かつ学際的に「政治の起源」を解き明かそうとした意欲作ということになるのかと思います。
政治学に限らず、進化生物学や社会心理学などあらゆる学問分野を渉猟しながら、一つの命題へと向かっていく姿勢はどちらかというとビッグ・ヒストリーの泰斗ジャレド・ダイアモンド(たとえば『昨日までの世界』)のようでもありながら、やはり重心は政治学・政治思想にあるので、多少なりとも前提知識が求められます。(この本でフクヤマが叩き台にしてるのはサミュエル・ハンチントンの『変革期社会の政治秩序』)

変革期社会の政治秩序〈上〉 (1972年)変革期社会の政治秩序〈上〉
サミュエル・ハンチントン,内山 秀夫

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変革期社会の政治秩序〈下〉 (1972年)変革期社会の政治秩序〈下〉 
サミュエル・ハンチントン,内山 秀夫

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あえて事前に読んでとよさそうな新書本をあげるなら、福田欽一さん『近代の政治思想』とE・H・カー『歴史とは何か』でしょうか。どちらも岩波です。

近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提 (岩波新書 青版 A-2)近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提
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歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か
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『歴史の終わり』からずっとフクヤマが語り続けてる規範についての話でもあるのですが、政治制度発展の基礎として4点挙げています。
  • 「包括適応度」や「血縁選択」、互恵的利他行動は、社会性の基礎的形態である。よほどのことがないかぎり、人はみな親族を大切にし、互いを助け合った友人に対して好感を抱く傾向がある。
  • 人間には抽象化能力があり、因果関係についての思考パターンをつくり出して、理論化する能力もある。さらに因果関係を目に見えない超越的な力に基づくと想定する傾向もある。これが信仰の基礎となり、信仰は社会的団結をつくる源として重要な役割を果たす。
  • 人間には、理性よりも感情に基づいて規範を守ろうとする傾向があり、その結果、ある思考パターンと、それにともなって生まれる慣習に、それ自体の内在的な価値があると見る傾向が生まれる。
  • 人は、「相互主観的」な承認を求める。それぞれの価値、それぞれの神々、慣習、生き方を承認してほしいと望む。承認を得れば、それが正統性の基礎となり、正統性によって政治的権威を行使できるようになる。

往々にして学者によって語られる世界史は欧米視点に偏りがちなのですが、今著ではギリシャ、ローマといった鉄板はもちろんのこと、中国や日本などのアジア、そしてインドやハンガリー、中南米、はたまたアフリカまで射程がほぼ全方位に及んでいます。
安易な一般化は避け、地域ごとの文化的特質なども斟酌しながら、それでも政治的な理論を導き出そうとする怜悧な観察眼と途方も無い知的作業。
そこから一応、導き出された政治制度を形成する3つの要因が、
  1. 強力で有能な国家
  2. 「法の支配」への国家の服従
  3. 全市民に対する政府の説明責任
そして収斂されたこれらの主要素にもさらに種々のサブ要素が複合的に絡まり合っています。


たとえば一般的な通説を鵜呑みにしないためにも、彼のこの言葉を引用しておきたいと思います。
近代化の諸々の要素はどれも、宗教改革、啓蒙思想、産業革命の一括パッケージの結果、生まれたものではない。独立都市や商取引の急速な発展が近代的な商法の発達を促したにしろ、法の支配はそもそも、経済ではなく宗教的な影響の産物である。したがって、経済の近代化に不可欠となる2つの基本制度―個人が社会的関係や所有権について選択の自由を持つ。政治支配が透明で予測可能な法に制限される―は、近代以前の制度、すなわち中世の教会によってつくられたのだった。これらの基本制度が経済分野にとって有効と分かるのは、もっとずっと後になってからである。
とまあ続編を待ちつつ、僕が個人的に嬉しかったのは訳者あとがきの最後の謝辞の部分で訳出を一緒に手伝ってくれた人の名前が挙げられていたのですが、その中で学生時代に授業を受けていた島田直幸先生の名前があったことです。
一年生のときに先生の「米洲圏概論」という講義を受け、それからアメリカ外交、ひいては国際政治への興味を持つキッカケになったのでした。
今は杏林大学で専任講師をなさってるとのことです。

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2013年7月29日月曜日

読書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

思えば、ピュリッツァー賞を受賞した『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』を読んだのがたしか大学1年生のときで、そのとき以来いわゆる「ビッグ・ヒストリー」の魅力に取り憑かれていて、折に触れて思考が狭隘化しないために、意識的にこのジャンルの本は読むようにしているのです。

『銃・病原菌・鉄』ではなぜ世界の一部の地域は著しき発展して、他の部分は文明から取り残されたのかを「銃」「病原菌」「鉄」といった新しいフレームワークから辿ったものでした。

今著『昨日までの世界』では、その"取り残された世界=昨日までの世界"の内部構造に迫り、現代文明のど真ん中にある私たちの社会と比較対象してみて、何が異なるのか、何が同じなのか、昨日までの世界=伝統的部族社会から私たちが学びうる知見はあるのかに迫っていく。
ダイヤモンド博士が長年にわたってニューギニアでフィールドワークを行なっていたということもあり、事例の中心はニューギニアになるが、その他の地域における部族などについても浩瀚な著作群・フィールドワークを参照しながら分析する。

伝統的社会の分布図

上下巻で貫かれている視点としては「昨日までの世界」から何を学ぶことができるのかという点。
行動的には現代人と変わらないホモ・サピエンスは、6万年前から10万年前に誕生した。「昨日までの世界」は、その歴史の大半の時代であり、そのホモ・サピエンスの遺伝的性質、文化、行動を形づくった時代である。考古学的発見から推測できるように、生活様式や技術的な変化の歩みは、およそ1万1000年前に肥沃三日月地帯で誕生した農耕の発生を受けて加速するまで、非常にゆっくりとしていた。最初に国家政府が誕生したのも、およそ5400年前の肥沃三日月地帯であった。つまり、今日のわれわれすべての祖先は1万1000年前まで「昨日までの世界」で生活し、多くの祖先もごく最近までそうした生活を送っていたということである。
「昨日までの世界」と現代社会に生きる我々の世界を対比する上で、非常に興味深い分析対象となりうるのが、ダイヤモンド博士自身が多くのフィールドワークを費やしたニューギニアです。

Jared Diamond博士(UCLA地理学教授)

1938年6月23日のニューギニア高地人の発見はいわゆる「ファースト・コンタクト」の直近の事例とされています。(詳細はBob Connolly、Robin Anderson共著の『Firtst Contact』)
これはNYアメリカ自然史博物館とオランダ植民地政府との共同探検隊で、バリエム渓谷に住む一群の人間集団を探検隊が発見した事例であり、それ以前までニューギニアは伝統的社会を営んでいたということになります。
現在のニューギニア人の多くは西欧化の波を受け、過去の生活様式を棄て去りながら、文明化をかなりの部分で享受している。ただし、多くの問題も浮上してきた。
たとえば肥満化に付随して起こる「糖尿病」。
以前までは「肥満」など皆無であったニューギニアでは男性女性問わず健康的で筋肉質な体をしていたが、ここ最近では肥満化が深刻化している。
しかし、なぜ同じような食べ物を食べ、同じような生活様式を送るヨーロッパ人では糖尿病の罹患率がニューギニアの人々と較べてそれほど高くないのか。
これは世界の大半の人々が数千年の長いスパンの中で辿った変化の過程を、1931年のファースト・コンタクトから2000年代まで急激なスピードでニューギニアの人が駆け抜けたからだと思われる。
長い年月をかけてヨーロッパ人は「倹約遺伝子」を淘汰してきたと推測される。
それに反し、伝統的社会では慢性的な飢餓状況にあったため、食べ物を食べられるときに(それこそ熊のように)貪り食うことが当たり前だった。
遺伝子レベルでも、「倹約遺伝子」が温存されて然りな環境が常態だったということ。
現在、世界で最も肥満病患者が多い人間集団とされているのが、ピマ族とナウル島に暮らす人々であり、ナウルでは20歳以上の3分の1が糖尿病とされている。

ニューギニア高地人、ファースト・コンタクトで初めて目にするヨーロッパ人の姿に恐れおののき、涙する姿

どこの未開部族であっても、ファースト・コンタクト(西洋文明との邂逅)移行、伝統文化を墨守するのは少数派で、ほとんどがその恩恵に預かることを優先し、伝統文化を捨て去るのが大勢のようにみえます。
「一度知ったら、戻ることのできない」魔力を備えているような。
(関連するかわかりませんが、ウルルン滞在記の逆バージョンで、諸部族を日本に招待するという企画があったのですが、それをみて思ったことを「無限なようでいて、無限でない「想像力」について」というエントリーの中で書きました)

そもそも、現代社会と伝統的社会とシンプルに区別できなのは当たり前で、ダイヤモンド博士はカテゴライゼーションについてはエルマン・サービスの4つのカテゴリーに依拠しています。人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類すると、
①小規模血縁集団(バンド)
②部族社会(トライブ)
③首長制社会(チーフダム)
④国家(ステート)

国家の誕生については
紀元前9000年頃ようやく始まった食料生産以前には国家は存在し得ず、その後、食料生産が数千年にわたって続けられて国家政府を必要とするほど稠密で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それに続いて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、続く1000年の間にそのほかの地域にも広がり、ついに今日では地球全体で描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地は全て国家に分割されるという状況にまでなった。
国家=つまり今の私たちが生活の基盤をおいている社会様式はきわめて新しいものだということ。


そういえばlifehackerに面白い記事がありました。「人類はこのまま進化したらどうなるか?10パターンの大胆予想
最近では社会的意義が過小評価され、「邪魔者扱い」されることも多い、"高齢者"も伝統的社会の中では尊敬される存在として、君臨し続けてきたそうで。
というのも、今は分からないことがあれば、なんでも「ググれ」ば分かってしまう世の中ですが、伝統的社会には当然Googleなどもないため、唯一の情報源が高齢者の脳ミソに詰まっていると考えられたわけで、部族の中では生き字引として敬われていたわけです。

人間集団のカテゴリーに拘わらず、"戦争"という事象は常に人類が相対してきた問題で、本著では以下の様な定義に基いて議論が行われています。
戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループの間で繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である。
たとえば、政治思想を勉強する中で、ホッブズがいう「自然状態」というのはイメージとして太古の野蛮な人たちの営みと捉えがちなのですが、先述の例でいえば、ニューギニアの人々はついこの間までその「自然状態」に身を置いていたということになります。 

La guerra del fútbol

本著では個人間の自然発生的な争いが組織的な戦争へとエスカレートした事例として、1969年の6月から7月にかけてエルサルバドルとホンジュラスの間で行われた「サッカー戦争」を挙げていました。

戦争や人類史的な災害のまとめとしてウィキペディアに面白い項目がありました。
英語になってしまうのですが、「List of wars and anthropogenic disasters by death toll

現代人と較べて未開人(伝統的社会に住む人を意味し、卑下した意味は含まないことを明記する)はリスクへの感応性が極めて高いことをダイヤモンド博士は強調し、それを肯定的に捉えた上で「建設的なパラノイア」と名づけます。
フィールドワークの体験を適宜、折込ながら考察を深めていくんですが、なんとなくジャングルの描写とかで、僕はコナン・ドイルの『失われた世界』の世界観を想起してしまったんですね。あの、なんともいえないワクワク感。

野生のカバ

あと、驚きだったのが、アフリカ人はライオンとか豹とか、ハイエナとかゾウ、はたまた野牛やワニなどが外敵で実際に強襲されて落命することもあるんですが、最も人を殺すことが多いのが野生のカバであるということ。(個人的にはカバにとても強く関心を抱いていて、フロリダにいた頃に動物園にいったときの日記を残していたのでした。「カバは馬でも鹿でもない」)


まあこれもあくまで一般論で、たとえばクン族にとっては、最も脅威となるのはブラックマンバなどの毒蛇。

途上国では日々の食にありつくのに精一杯なのに先進国ではいかに食べないか、カロリーを抑えるのかに邁進するという倒錯が起きているというのは、よく聞かれる話で、ようは文明の形式が異なれば、何が重要なのかの優先順位に差が出てくる。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
ということをそういえばツイートしていましたが、生活様式が異なってくると当然、こういった死因の差異も明確になってくる。 

さらに宗教、多言語主義など、現代社会に生きる我々にとっても重要課題と思われる事柄に切り込んでいくわけですが、いかせん膨大となりキリがなくなっていくので、この辺で打ち止めにしておきます。

2012年8月6日月曜日

生命体としての「国家」



「国家」とはいかなるものであるか。これまでにもその相貌を明らかにすることを企図した、野心ある試みが多くの明敏な知識人によって歴史を通じてなされてきた。プラトンの『国家』、キケロやスピノザの『国家論』など例をあげれば枚挙にいとまがない。ところが古代からこれまでになされてきたこのような分析の理論的基盤は多くの部分で自己完結的なものであった。たとえばアリストテレスは『政治学』において国家を各器官を有した動物になぞらえて論じたが、彼がそこで射程にとらえていた構成要素は農民、手工職人、アゴラ、日雇労務者などの国家内部の在り方であった。言い換えれば、いわゆる統治論や内政的秩序論と等置されるようなきわめてミクロな視点で語られてきたのである。

グローバル化が進展をはじめて久しい今日において、この伝統的なテーマである「国家論」をますます空間的・時間的・文化的に稠密化する国際社会の視角から再考を加えて検討すれば違った国家の姿が浮かび上がるだろう。「保護する責任」をはじめたとした正当な介入の論議が活発化する現代はカントが未来を預言していたような「すべてが感知される時代」にいままさに私達がいることを示唆しているのかもしれない。トマス・ポッゲが論じるようなグローバルな正義、遠くの貧しい人にグローバルシティズンとして負う義務。そこで改めて「国」とは何かを考えてみたい。

国家は複合的でいて、動態的な存在である。その実体を一面的に捉えることは困難である。「人間」そのものを論じようとする際に、生物学的見地からみた人間の肉体部、形而上学的な魂をはじめとした人間の精神部を分けることが有効なように、国家に対する包括的理解を得ようとするならば、構造を截然と峻別し、各部を検討するのが最善の策と思われる。
アリストテレスはメタファーを賛美し、それだけが私達の思考を一歩先へと進めてくれる道具であると言って憚らない。
もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである『詩学』
国家を私達と同じように有限の命を有した「生命体」として捉えて、国家体がもつ各部位について考えを押し進めていきたい。国家をわたしたちと同じような人体をもった有機体というアナロジーで捉え直すことで、その巨大な全貌に近づけるような理解を得たい。もしこのようなアナロジーが成立するならば、人間界において培われてきた叡智・処方箋の幾ばくかを国家運営、国際政治に応用することができないものか。人と国家の袂を分かつ最大の要因はなにか。何を治療できて、何を治療できないのか。現代においても重病とされ、治癒困難な癌。国家間における「戦争」とは癌のような逃れようのない病理として捕捉されること常である。キケロは「最も正しい戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」と述べたものの、彼の時代から今の私達の時代まで「戦争」は不断なく生起し続けてきた。




否、正戦論の脈路は滔々と受け継がれ、アメリカの対アフガン・イラク戦にみえるように、むしろその傾向はますます強まっているとさえいえる。とはいえ、「癌」にしろ「戦争」にしろ、それらを十把一絡の便法として論じると、情況を正確に捉え損なうことになる。たとえば癌であるが、その言葉の重みがもつ悲壮感・絶望感とは裏腹に、その種類や発見時期によっては治癒が可能である。ちょうど結核がその昔まで不治の病だったように、医学の進歩と並行して数々の不治の病がリストから姿を消すに至っている。戦争についても同様のことがいえる。『危機の二十年』でカーが述べたように、第一次世界大戦の後、萌芽の兆しをみせた平和主義もその甘さにつけ込まれ、標榜していた理想は第二次世界大戦の勃発と共に儚くも無惨に破砕された。

国際政治学の伝統的な潮流であるリアリズムが規程するように、国家の最優先関心事項は「国益」であり、その方策として有効ならば戦争は正当化されうる。ましてや、囚人のジレンマの情況が国際関係のアリーナで克服されない限り、戦争が不治の病のリストから消えることなどありえないと喝破するのだ。たしかに「ホッブズ的恐怖」に託けたリアリズムの主張について全面的な否定はしがたい側面があるように思われる。では、二十世紀後半から唱えられはじめた民主的平和論はいかなる意味をもつのだろうか。異論・批判は渦巻くものの、正当性を裏付けるようなデータを提示される度に、戦争が終焉への歩みをはじめたとの希望をかされる。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの言葉が胸を反芻しながら。
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」  (ヴェルヌが父親に宛てた手紙の一節)

行政組織が不整備のままで、主権の所在も明確ではなく、地図さえも存在しなかった古代において思想家たちの喫緊の解決課題は空間的に限定された土地(コミュニティ)における秩序の安寧であった。ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ロックの『統治二論』などはいずれもそうした点を最大の係争点として思量を重ねている。ルソーも国家間関係をまったく度外視していたわけではなく、以下のような考案もしていた。


「すなわち各国家は、それ自身の境界内で、その社会の一般意志のはたらきによって秩序を達成し、国家相互間の関係においては、接触を最小化することによって秩序を達成する世界である」

現在わたしたちの社会で当たり前となったインターネットなど存在しなかった時代に、ルソーがこういった小規模の自己完結的な国家からなる世界を構想していたとしても無理はないだろう。

たしかに当時から国境を隔てた領土紛争は絶えず行われていただろうが、現代の私達が直面するようなグローバル規模での戦争とはイメージの乖離があるだろう。
人間が絶えず文明的な進化を遂げてきたように、国家内部・外部においても劇的な変容があったことに疑いはない。故に、現代国家を論じるにはより広量的視野が求められる。グローバル化を通じて稠密化したネットワークを通じて、国家間のコミュニケーションは過去に類を見ないほど増大した。
グローバルレベルでのインタラクションが増すことそれ自体は讃美されるべきことかもしれないが、同時に多くの負の側面が指摘される。宗教間・文明間衝突(ハンチントン)、経済的格差(スティグリッツ)、国際テロリズム等など。

兎に角、他者との密度の濃い接触は当者に自己規定を強く求める。他者性を無視してアイデンティティを論じることはできないだろう。絶え間なく移りゆく環境、一方向に流れていく不可逆の歴史、偶有性の海に漂うのは人間のみならず、国家も同様である。国家それ自体が一人一人の人間の群衆を束ねた巨大な個体である。たとえば仮にベトナム戦争を立案したのがジョージ・ケナンだったとしても、責任は「アメリカ」という国家に、あたかも実体を伴うかのように帰着される。



『ローマ帝国衰亡史』から語り継がれてきたように、国家にも寿命があり、歴史は「盛者必衰の理」を常に呈示してきた。アイデンティティをもたない国家は独善的主体である。古代国家ではいかに国家内部の叛逆分子を抑えこみ、上層部の既得権益を死守するかだけを顧慮すればよかったのだ。ヘーゲルも国家を論じる際には内的・外的の両視点が必要不可欠であることを認識していたものの、彼の時代にあっては依然、その内部要因が相対的に強い地位を維持していた。
私法および私的利福の領域、家族および市民社会の領域に対して、国家は一面では外的必然性であり、それらの領域より高次の力であって、その本性にそれらの領域の利害と同様に法律も従属させられ、依存させられる。しかし、他面では、国家は、それらの領域の内在的目的であり、国家はその強さを、普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利害との統一において、すなわち諸個人が諸々の権利をもつかぎり、同時に国家に対する諸々の義務をもつという点においてもつのである。『法の哲学
ところが二十世紀、二十一世紀と時代を経るごとに国家間の関係性はより緊密なものとなり、あたかも国家ひとつひとつから成るような国際社会が存在するにいたった。(ブル)そこにおいては、国際的な規範や行法が自然発生的に生じ、同じ政治的性格を有する国家、例えば民主国家間においては戦争が生じにくいことを指摘したデモクラティック・ピース論がある。


ヘーゲル「即時的かつ対自的な国家は人倫敵全体である。<中略>国家が存在することは、世界における神の歩みにとって必須の事柄なのだ」『法の哲学』

もし仮に国家も私達と同じように脈打つ生命体なのだとしたら、限りある時間の中で呼吸し、行動し、苦悩や歓喜を覚えながら生の意味や存在の価値を追い求める「人間」そのものなのである。


一時の不安や希望。過去に縛られ、未来に思いを馳せ、不安定な現在を手探りで進む儚く脆い存在なのである。

Cf.
ジル・トゥルーズ「器官なき身体」
丸山眞男「イメージが作り出す新しい現実」
フランシス・フクヤマ「弾力性のある欲望」
アリストテレス「動物と国家のアナロジー」