Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年8月6日月曜日

生命体としての「国家」



「国家」とはいかなるものであるか。これまでにもその相貌を明らかにすることを企図した、野心ある試みが多くの明敏な知識人によって歴史を通じてなされてきた。プラトンの『国家』、キケロやスピノザの『国家論』など例をあげれば枚挙にいとまがない。ところが古代からこれまでになされてきたこのような分析の理論的基盤は多くの部分で自己完結的なものであった。たとえばアリストテレスは『政治学』において国家を各器官を有した動物になぞらえて論じたが、彼がそこで射程にとらえていた構成要素は農民、手工職人、アゴラ、日雇労務者などの国家内部の在り方であった。言い換えれば、いわゆる統治論や内政的秩序論と等置されるようなきわめてミクロな視点で語られてきたのである。

グローバル化が進展をはじめて久しい今日において、この伝統的なテーマである「国家論」をますます空間的・時間的・文化的に稠密化する国際社会の視角から再考を加えて検討すれば違った国家の姿が浮かび上がるだろう。「保護する責任」をはじめたとした正当な介入の論議が活発化する現代はカントが未来を預言していたような「すべてが感知される時代」にいままさに私達がいることを示唆しているのかもしれない。トマス・ポッゲが論じるようなグローバルな正義、遠くの貧しい人にグローバルシティズンとして負う義務。そこで改めて「国」とは何かを考えてみたい。

国家は複合的でいて、動態的な存在である。その実体を一面的に捉えることは困難である。「人間」そのものを論じようとする際に、生物学的見地からみた人間の肉体部、形而上学的な魂をはじめとした人間の精神部を分けることが有効なように、国家に対する包括的理解を得ようとするならば、構造を截然と峻別し、各部を検討するのが最善の策と思われる。
アリストテレスはメタファーを賛美し、それだけが私達の思考を一歩先へと進めてくれる道具であると言って憚らない。
もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである『詩学』
国家を私達と同じように有限の命を有した「生命体」として捉えて、国家体がもつ各部位について考えを押し進めていきたい。国家をわたしたちと同じような人体をもった有機体というアナロジーで捉え直すことで、その巨大な全貌に近づけるような理解を得たい。もしこのようなアナロジーが成立するならば、人間界において培われてきた叡智・処方箋の幾ばくかを国家運営、国際政治に応用することができないものか。人と国家の袂を分かつ最大の要因はなにか。何を治療できて、何を治療できないのか。現代においても重病とされ、治癒困難な癌。国家間における「戦争」とは癌のような逃れようのない病理として捕捉されること常である。キケロは「最も正しい戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」と述べたものの、彼の時代から今の私達の時代まで「戦争」は不断なく生起し続けてきた。




否、正戦論の脈路は滔々と受け継がれ、アメリカの対アフガン・イラク戦にみえるように、むしろその傾向はますます強まっているとさえいえる。とはいえ、「癌」にしろ「戦争」にしろ、それらを十把一絡の便法として論じると、情況を正確に捉え損なうことになる。たとえば癌であるが、その言葉の重みがもつ悲壮感・絶望感とは裏腹に、その種類や発見時期によっては治癒が可能である。ちょうど結核がその昔まで不治の病だったように、医学の進歩と並行して数々の不治の病がリストから姿を消すに至っている。戦争についても同様のことがいえる。『危機の二十年』でカーが述べたように、第一次世界大戦の後、萌芽の兆しをみせた平和主義もその甘さにつけ込まれ、標榜していた理想は第二次世界大戦の勃発と共に儚くも無惨に破砕された。

国際政治学の伝統的な潮流であるリアリズムが規程するように、国家の最優先関心事項は「国益」であり、その方策として有効ならば戦争は正当化されうる。ましてや、囚人のジレンマの情況が国際関係のアリーナで克服されない限り、戦争が不治の病のリストから消えることなどありえないと喝破するのだ。たしかに「ホッブズ的恐怖」に託けたリアリズムの主張について全面的な否定はしがたい側面があるように思われる。では、二十世紀後半から唱えられはじめた民主的平和論はいかなる意味をもつのだろうか。異論・批判は渦巻くものの、正当性を裏付けるようなデータを提示される度に、戦争が終焉への歩みをはじめたとの希望をかされる。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの言葉が胸を反芻しながら。
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」  (ヴェルヌが父親に宛てた手紙の一節)

行政組織が不整備のままで、主権の所在も明確ではなく、地図さえも存在しなかった古代において思想家たちの喫緊の解決課題は空間的に限定された土地(コミュニティ)における秩序の安寧であった。ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ロックの『統治二論』などはいずれもそうした点を最大の係争点として思量を重ねている。ルソーも国家間関係をまったく度外視していたわけではなく、以下のような考案もしていた。


「すなわち各国家は、それ自身の境界内で、その社会の一般意志のはたらきによって秩序を達成し、国家相互間の関係においては、接触を最小化することによって秩序を達成する世界である」

現在わたしたちの社会で当たり前となったインターネットなど存在しなかった時代に、ルソーがこういった小規模の自己完結的な国家からなる世界を構想していたとしても無理はないだろう。

たしかに当時から国境を隔てた領土紛争は絶えず行われていただろうが、現代の私達が直面するようなグローバル規模での戦争とはイメージの乖離があるだろう。
人間が絶えず文明的な進化を遂げてきたように、国家内部・外部においても劇的な変容があったことに疑いはない。故に、現代国家を論じるにはより広量的視野が求められる。グローバル化を通じて稠密化したネットワークを通じて、国家間のコミュニケーションは過去に類を見ないほど増大した。
グローバルレベルでのインタラクションが増すことそれ自体は讃美されるべきことかもしれないが、同時に多くの負の側面が指摘される。宗教間・文明間衝突(ハンチントン)、経済的格差(スティグリッツ)、国際テロリズム等など。

兎に角、他者との密度の濃い接触は当者に自己規定を強く求める。他者性を無視してアイデンティティを論じることはできないだろう。絶え間なく移りゆく環境、一方向に流れていく不可逆の歴史、偶有性の海に漂うのは人間のみならず、国家も同様である。国家それ自体が一人一人の人間の群衆を束ねた巨大な個体である。たとえば仮にベトナム戦争を立案したのがジョージ・ケナンだったとしても、責任は「アメリカ」という国家に、あたかも実体を伴うかのように帰着される。



『ローマ帝国衰亡史』から語り継がれてきたように、国家にも寿命があり、歴史は「盛者必衰の理」を常に呈示してきた。アイデンティティをもたない国家は独善的主体である。古代国家ではいかに国家内部の叛逆分子を抑えこみ、上層部の既得権益を死守するかだけを顧慮すればよかったのだ。ヘーゲルも国家を論じる際には内的・外的の両視点が必要不可欠であることを認識していたものの、彼の時代にあっては依然、その内部要因が相対的に強い地位を維持していた。
私法および私的利福の領域、家族および市民社会の領域に対して、国家は一面では外的必然性であり、それらの領域より高次の力であって、その本性にそれらの領域の利害と同様に法律も従属させられ、依存させられる。しかし、他面では、国家は、それらの領域の内在的目的であり、国家はその強さを、普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利害との統一において、すなわち諸個人が諸々の権利をもつかぎり、同時に国家に対する諸々の義務をもつという点においてもつのである。『法の哲学
ところが二十世紀、二十一世紀と時代を経るごとに国家間の関係性はより緊密なものとなり、あたかも国家ひとつひとつから成るような国際社会が存在するにいたった。(ブル)そこにおいては、国際的な規範や行法が自然発生的に生じ、同じ政治的性格を有する国家、例えば民主国家間においては戦争が生じにくいことを指摘したデモクラティック・ピース論がある。


ヘーゲル「即時的かつ対自的な国家は人倫敵全体である。<中略>国家が存在することは、世界における神の歩みにとって必須の事柄なのだ」『法の哲学』

もし仮に国家も私達と同じように脈打つ生命体なのだとしたら、限りある時間の中で呼吸し、行動し、苦悩や歓喜を覚えながら生の意味や存在の価値を追い求める「人間」そのものなのである。


一時の不安や希望。過去に縛られ、未来に思いを馳せ、不安定な現在を手探りで進む儚く脆い存在なのである。

Cf.
ジル・トゥルーズ「器官なき身体」
丸山眞男「イメージが作り出す新しい現実」
フランシス・フクヤマ「弾力性のある欲望」
アリストテレス「動物と国家のアナロジー」




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