Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年8月16日日曜日

読書『フラニーとズーイ』J・D・サリンジャー著

フラニーとズーイ (新潮文庫)

村上訳で『フラニーとズーイ』を読む。
ヘンリー・ミラー『北回帰線』にしろ、ギラギラした筆致で(おそらくハイな状態で?)一気呵成に書かれた文章というのは、読む度に発見がある。
フラリーの章はどこかしっとりとした上品な展開で物語が進んでいくのだけれど、ズーいに移った途端、ある意味猥雑なように、そして抽象度を上げながら物語は進行。
宗教、そして信仰のくだりでは『カラマーゾフの兄弟』のミーチャを想起してしまいました。

2014年1月4日土曜日

読書『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』高橋昌一郎著


國學院大學教授・高橋昌一郎先生の講談社現代新書の「限界」シリーズ3冊を一気通読。
出版順序でいうと、「理性」→「知性」→「感性」ということになるのですが、僕が初めに手にとったのは『知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性』でした。
読む順番はべつにランダムで構わないと思います。

1冊手に取ったら、続けざまに続編に触手を伸ばさざるをえないこと請負いです。

おそらく読者の知識量にも依るとは思うのですが、科学や哲学、自分のなかにバラバラに散逸していた知識の破片がパッチワークのように、滑らかに繋がっていく感覚。
継ぎ接ぎだらけで体系性の欠如した知識系に秩序がもたらされていく感覚。
知的好奇心の水平が一段階上がる感覚。
(小飼弾さんもそれぞれブログで紹介されてましたね⇒理性知性感性

あえてこの本の中に二項対立を持ち込むなら、広義の"科学"vs形而上学を含む哲学ということになると思います。
僕の読書遍歴からいっても、間違いなく自分は哲学よりの人間なので、自分の哲学・思想系の思索のストックを科学的見地から照らし返してみたときに、一気に視界が開けたというか、支え棒が取れたような気がしました。

以下では各書の中で印象に残った箇所や言葉を紹介しつつ、考えも拾い置きしておきます。

理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性
高橋昌一郎

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シリーズの初刊となる「理性」はおそらく3冊の中でも最も難度が高い内容ですが、それでも新書に相応しく専門外の人間でも読みやすい砕かれた文章となっています。
高橋先生の広範にわたる知識に瞠目するのはもちろん、良質なライターとしても稀有な科学者であることは間違いないと思われます。

いつだったかこんなツイートしてましたが、高橋昌一郎先生も間違いなくその一人でしょう。


アインシュタインのかの有名な「E=mc²」方程式に関して、あらためてこのごくごく短い式が世界、人類に与えた影響を再確認。
相対性理論は、時間と空間ばかりではなく、質量やエネルギーの概念も根本的に変革しました。アインシュタインの有名な方程式「E=mc²」は、物体の質量に光速度の二乗を掛けた結果がエネルギーと同等であることを示しています。原子力発電所では、ごく微量のウランの核分裂反応を利用して、膨大な原子力エネルギーを取り出しているわけですが、質量が膨大なエネルギーを秘めているという発想も、相対性理論に基づくものです。
科学や宗教、哲学、それぞれの領野の泰斗がぶち当たった理性という壁。
分野にとらわれずに多くの実例を上げてらっしゃるのですが、あえてパスカルの『パンセ』の引用だけひいておきます。
「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること」
知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性
高橋昌一郎

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シリーズを通してゲーデルの不完全性定理、アロウの不可能性定理が重要なキーファクターとなっていきますが、むしろ脇道から矢を放っていくニヒリスティックなファイヤアーベントの視座が僕には響きました。
「方法論的アナーキズム」を唱道した彼がポパーの『果てしなき探求』に対置させて発表した『暇つぶし』はその極致だと思われます。


あとは誰しもが考えたことがあるであろう、決定論と自由意志論の議論。
僕も子供の頃から漠然と、だけどずっとしつこく考え続けてきたことです。
一級の科学者や哲学者が考えてきた蓄積を体系的に把握できたのは嬉しかった。
「目的論的証明」とインテリジェント・デザインに際して、18世紀のイギリスの神学者ウィリアム・ペイリーが草原で拾った腕時計、虫や植物を例に喩えながら考察した『盲目の時計職人』の話は誰もが一度は目を通し、沈思してみる価値のある論究ですよね。

とまあ徹底的に決定論について考えているところで、ノーベル賞を受賞した物理学者スティーヴン・ワインバーグのこの言葉をポッと紹介されちゃうわけです。
「宇宙が明確になるにつれ、宇宙に意味がないこともますます明確になってくる」
感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)
高橋昌一郎

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現時点で最終刊となっている「感性」は前2著と比べ、若干趣向が異なります。
以前、科学的な見地から批判的視座を交えつつ考察していくのですが、議論の中核を占めるテーマが愛、自由、死などより根源的な形而上学的なトピックなのです。
そういう意味では読みやすく、読みにくいと言えるかもしれません。

個人的には「形而上学的反抗」を取り巻くカミュ=サルトル論争の項などにも新しい発見があったのですが、やはり最後はファイヤアーベントの科学への見方を紹介して閉じましょう。
「(科学は)最も新しく、最も攻撃的で、最も教条的な宗教的制度である」

2013年7月29日月曜日

読書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

思えば、ピュリッツァー賞を受賞した『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』を読んだのがたしか大学1年生のときで、そのとき以来いわゆる「ビッグ・ヒストリー」の魅力に取り憑かれていて、折に触れて思考が狭隘化しないために、意識的にこのジャンルの本は読むようにしているのです。

『銃・病原菌・鉄』ではなぜ世界の一部の地域は著しき発展して、他の部分は文明から取り残されたのかを「銃」「病原菌」「鉄」といった新しいフレームワークから辿ったものでした。

今著『昨日までの世界』では、その"取り残された世界=昨日までの世界"の内部構造に迫り、現代文明のど真ん中にある私たちの社会と比較対象してみて、何が異なるのか、何が同じなのか、昨日までの世界=伝統的部族社会から私たちが学びうる知見はあるのかに迫っていく。
ダイヤモンド博士が長年にわたってニューギニアでフィールドワークを行なっていたということもあり、事例の中心はニューギニアになるが、その他の地域における部族などについても浩瀚な著作群・フィールドワークを参照しながら分析する。

伝統的社会の分布図

上下巻で貫かれている視点としては「昨日までの世界」から何を学ぶことができるのかという点。
行動的には現代人と変わらないホモ・サピエンスは、6万年前から10万年前に誕生した。「昨日までの世界」は、その歴史の大半の時代であり、そのホモ・サピエンスの遺伝的性質、文化、行動を形づくった時代である。考古学的発見から推測できるように、生活様式や技術的な変化の歩みは、およそ1万1000年前に肥沃三日月地帯で誕生した農耕の発生を受けて加速するまで、非常にゆっくりとしていた。最初に国家政府が誕生したのも、およそ5400年前の肥沃三日月地帯であった。つまり、今日のわれわれすべての祖先は1万1000年前まで「昨日までの世界」で生活し、多くの祖先もごく最近までそうした生活を送っていたということである。
「昨日までの世界」と現代社会に生きる我々の世界を対比する上で、非常に興味深い分析対象となりうるのが、ダイヤモンド博士自身が多くのフィールドワークを費やしたニューギニアです。

Jared Diamond博士(UCLA地理学教授)

1938年6月23日のニューギニア高地人の発見はいわゆる「ファースト・コンタクト」の直近の事例とされています。(詳細はBob Connolly、Robin Anderson共著の『Firtst Contact』)
これはNYアメリカ自然史博物館とオランダ植民地政府との共同探検隊で、バリエム渓谷に住む一群の人間集団を探検隊が発見した事例であり、それ以前までニューギニアは伝統的社会を営んでいたということになります。
現在のニューギニア人の多くは西欧化の波を受け、過去の生活様式を棄て去りながら、文明化をかなりの部分で享受している。ただし、多くの問題も浮上してきた。
たとえば肥満化に付随して起こる「糖尿病」。
以前までは「肥満」など皆無であったニューギニアでは男性女性問わず健康的で筋肉質な体をしていたが、ここ最近では肥満化が深刻化している。
しかし、なぜ同じような食べ物を食べ、同じような生活様式を送るヨーロッパ人では糖尿病の罹患率がニューギニアの人々と較べてそれほど高くないのか。
これは世界の大半の人々が数千年の長いスパンの中で辿った変化の過程を、1931年のファースト・コンタクトから2000年代まで急激なスピードでニューギニアの人が駆け抜けたからだと思われる。
長い年月をかけてヨーロッパ人は「倹約遺伝子」を淘汰してきたと推測される。
それに反し、伝統的社会では慢性的な飢餓状況にあったため、食べ物を食べられるときに(それこそ熊のように)貪り食うことが当たり前だった。
遺伝子レベルでも、「倹約遺伝子」が温存されて然りな環境が常態だったということ。
現在、世界で最も肥満病患者が多い人間集団とされているのが、ピマ族とナウル島に暮らす人々であり、ナウルでは20歳以上の3分の1が糖尿病とされている。

ニューギニア高地人、ファースト・コンタクトで初めて目にするヨーロッパ人の姿に恐れおののき、涙する姿

どこの未開部族であっても、ファースト・コンタクト(西洋文明との邂逅)移行、伝統文化を墨守するのは少数派で、ほとんどがその恩恵に預かることを優先し、伝統文化を捨て去るのが大勢のようにみえます。
「一度知ったら、戻ることのできない」魔力を備えているような。
(関連するかわかりませんが、ウルルン滞在記の逆バージョンで、諸部族を日本に招待するという企画があったのですが、それをみて思ったことを「無限なようでいて、無限でない「想像力」について」というエントリーの中で書きました)

そもそも、現代社会と伝統的社会とシンプルに区別できなのは当たり前で、ダイヤモンド博士はカテゴライゼーションについてはエルマン・サービスの4つのカテゴリーに依拠しています。人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類すると、
①小規模血縁集団(バンド)
②部族社会(トライブ)
③首長制社会(チーフダム)
④国家(ステート)

国家の誕生については
紀元前9000年頃ようやく始まった食料生産以前には国家は存在し得ず、その後、食料生産が数千年にわたって続けられて国家政府を必要とするほど稠密で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それに続いて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、続く1000年の間にそのほかの地域にも広がり、ついに今日では地球全体で描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地は全て国家に分割されるという状況にまでなった。
国家=つまり今の私たちが生活の基盤をおいている社会様式はきわめて新しいものだということ。


そういえばlifehackerに面白い記事がありました。「人類はこのまま進化したらどうなるか?10パターンの大胆予想
最近では社会的意義が過小評価され、「邪魔者扱い」されることも多い、"高齢者"も伝統的社会の中では尊敬される存在として、君臨し続けてきたそうで。
というのも、今は分からないことがあれば、なんでも「ググれ」ば分かってしまう世の中ですが、伝統的社会には当然Googleなどもないため、唯一の情報源が高齢者の脳ミソに詰まっていると考えられたわけで、部族の中では生き字引として敬われていたわけです。

人間集団のカテゴリーに拘わらず、"戦争"という事象は常に人類が相対してきた問題で、本著では以下の様な定義に基いて議論が行われています。
戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループの間で繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である。
たとえば、政治思想を勉強する中で、ホッブズがいう「自然状態」というのはイメージとして太古の野蛮な人たちの営みと捉えがちなのですが、先述の例でいえば、ニューギニアの人々はついこの間までその「自然状態」に身を置いていたということになります。 

La guerra del fútbol

本著では個人間の自然発生的な争いが組織的な戦争へとエスカレートした事例として、1969年の6月から7月にかけてエルサルバドルとホンジュラスの間で行われた「サッカー戦争」を挙げていました。

戦争や人類史的な災害のまとめとしてウィキペディアに面白い項目がありました。
英語になってしまうのですが、「List of wars and anthropogenic disasters by death toll

現代人と較べて未開人(伝統的社会に住む人を意味し、卑下した意味は含まないことを明記する)はリスクへの感応性が極めて高いことをダイヤモンド博士は強調し、それを肯定的に捉えた上で「建設的なパラノイア」と名づけます。
フィールドワークの体験を適宜、折込ながら考察を深めていくんですが、なんとなくジャングルの描写とかで、僕はコナン・ドイルの『失われた世界』の世界観を想起してしまったんですね。あの、なんともいえないワクワク感。

野生のカバ

あと、驚きだったのが、アフリカ人はライオンとか豹とか、ハイエナとかゾウ、はたまた野牛やワニなどが外敵で実際に強襲されて落命することもあるんですが、最も人を殺すことが多いのが野生のカバであるということ。(個人的にはカバにとても強く関心を抱いていて、フロリダにいた頃に動物園にいったときの日記を残していたのでした。「カバは馬でも鹿でもない」)


まあこれもあくまで一般論で、たとえばクン族にとっては、最も脅威となるのはブラックマンバなどの毒蛇。

途上国では日々の食にありつくのに精一杯なのに先進国ではいかに食べないか、カロリーを抑えるのかに邁進するという倒錯が起きているというのは、よく聞かれる話で、ようは文明の形式が異なれば、何が重要なのかの優先順位に差が出てくる。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
ということをそういえばツイートしていましたが、生活様式が異なってくると当然、こういった死因の差異も明確になってくる。 

さらに宗教、多言語主義など、現代社会に生きる我々にとっても重要課題と思われる事柄に切り込んでいくわけですが、いかせん膨大となりキリがなくなっていくので、この辺で打ち止めにしておきます。

2013年7月9日火曜日

宗教・理由・占い―「与えられること」について


こんなものがインスタで流れてた。
最初に見つけた3つが今自分に必要なものなのだそう。
僕は最初に「希望」「睡眠」「信頼」が目につきました。

まあ、穿った見方をするなら、「こんなもん、誰にでも当てはまるもんしか入ってないじゃろが。ボケ」となるわけですが。
それはもちろんそうなわけで。
朝のニュースで必ずやってる占い。手を変え品を変え、繰り返し毎日やってますよね。
誕生月、星座、血液型....などなど。

こんなこと言ったら叱られるかもですが、(まああくまで僕の個人的な主観として聞き流してください)
大枠でとらえると、「宗教」も同じなんじゃないかなーって思うんです。
仏教全般っていうとかなり誤解を招くので、とりわけ日本の宗教仏教、たとえば浄土真宗はキリスト教と根底で近似していて、「信じていれば救われる」という思想があるわけですよね。

人はある瞬間に、自分の意思とは別個のところで(これも宗教によっては非難されそうなんですが)この世に産み落とされ、右も左も分からない中で、多くの人の手を借りながら、曲がりなりにも生の軌跡を歩んでいきますよね。

そこで、思うのは「人は根源的に『理由』を外在的に与えられることを求めているんじゃないか」ということ。前意識のレベルで。

関係ないかもしれないけど、「なぜ、その職業に就こうと思ったのですか?」とか「なぜ、これを始められたのですか?」とかその端緒なりモチベーションの淵源となったものって、理由を与えられたから、(少なくとも前意識的にそう錯覚したから)という場合が多いように思うわけです。
たとえば「小学校のときの先生が褒めてくれたから」はたまた「お父さんに、『お前、才能あるよ』と言われたから」など。
自分の内在とは別個のところで、"外在的"に誰かに何かを「与えられた」と感じたときに、それが生を彫琢していく(キャリアを形作っていく)のではないかと思うんですね。

そういう意味で、「思い込み」が人生の駆動力になっていくことが往々にしてあるんですね。
その想いが極めて強い場合に「運命」とか「宿命」に転化していく。

こんな命題というか戯言を言って、この短いエントリーを締めようと思います。
世界はプラシーボ効果の総体である。

2013年1月27日日曜日

映画『愛のむきだし』


バチコンきましたね。。
ここのところ映画を劇場やDVDで観る機会がやたら多くて、その度だいたい途中で少し寝落ちしちゃうのがパターンだったのですが(先日友達にゴリ押しされた観た『リリーシュシュのすべて』も爆睡してしまいました)、今作は目が釘付けでした。

時間は4時間と長丁場なのですが、体感はそれよりぜんぜん短くてほんとあっという間でした。DISC1はアッパーで、DISC2はダウナー。
このアップ&ダウンはすごい。その狭間にいるのが、満島ひかり演じるヨーコ。

主演はAAAの西島隆弘。この時点で観る気を失くす人もいそうなのですが(僕もそうです)、鑑賞してみると、ところがどっこい、バイアスふっ飛ばされます。
園子温監督は演技指導が厳しいことで有名なので、きっと徹底していたのだと思います。

満島あかりも圧巻の演技だったんですが、個人的には渡部篤郎が一番目立ってました。

登場人物のそれぞれがトラウマティックな体験を抱えていて、そうした人々が一点へと収束していく。
と、ありがちなストーリーラインかと思いきや、DISC2に入った途端、間髪を入れずにカタストロフィが始まる。


テーマは「愛」それも、むきだしの「愛」。

コリント書第一の手紙の第13章からの引用をヨーコがすらすら叫ぶ(3-4分くらいの圧巻のシーン)
たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしの言葉は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物をもち。あらゆる知識と奥義に通じ。必要とあれば山を揺るがすほどの信心を持ち合わせようとも。愛がなければ、無に等しい。
持てる全てを他者に与えようとも。己の身を燃やし尽くそうとも。そこに愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強く、情け深く。妬まず、誇らず、己惚れず。礼を失せず、利を貪らず、怒りを抱かず。不当に扱われたことをいつまでも恨まない。そして不義を喜ばない。愛は、真実を喜ぶ。
愛は、諦めないこと、信じること、希望を持つこと、耐え忍ぶこと、すべてにおいて過たず成し遂げる。 
愛は永遠である。しかし預言は人に霊感を与えるも、廃れてしまう。異言による賜物も、いつか已んでしまう。知識は、いつかは過去のものとなってしまう。私たちの知識はしょせん断片にすぎない。預言もまたしかり。もし完全なるものが到来したならば、それら断片的なものは廃れてしまうだろう。 
私が幼子だったとき、わたしは幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えていた。だが今や私は大人となり、幼子であった頃のやり方を棄てた。 
私たちは今、鏡に映った朧な像を覗いている。だが来るべき時が来れば、私たちは真の像と正面から対峙することになろう。それゆえに、「信仰」「希望」「愛」。この3つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは、「


きっと人は、心の底から信じられるもの、むきだしの愛を預けられるものを求めて彷徨っているだけのか弱い存在で。
それがキリスト教でも仏教でも、新興宗教であろうとも。
盲信できるもの。むきだしの愛をぶつけられるもの。
生きていく意味を与えてくれるもの。
だから真理なんてものを探り当てようとすることがナンセンスなんだと思う。

洋楽フリークが心の何処かでビジュアル系バンド大好きな人を見下していたとしても、彼らもまったく同様のことを思っていたとしたら、そこに優劣なんてあるはずなくて。

唐突ですが、ヘーゲルの思考の枠組みを援用すれば、それが分かりやすいんじゃないかと。
彼は「矛盾」、「対立」、「差異」を峻別しました。

資本家と労働者の間に矛盾があっても、協同組合をつくることで、資本家と労働者の転換が可能になる。だから矛盾は解消できる。
対立は、一方がもう一方を完全に絶滅することで解消できる。
ところが差異は解消不能である。たとえば議論する相手から、「これは趣味だよ」と言われたら、もうその先には介入できない。趣味は差異だから。差異は解消できない以上、どうしても自分の立場を決めなければならない。だから、どっちの立場に立つかによって、世界は違ってみえる。



信仰だって、まったく同じ事だと思ったわけです。

けっきょくそーいったすべてを貫くものは「愛」以外にありえないわけで。




完全主観採点:★★★★★