村上訳で『フラニーとズーイ』を読む。
ヘンリー・ミラー『北回帰線』にしろ、ギラギラした筆致で(おそらくハイな状態で?)一気呵成に書かれた文章というのは、読む度に発見がある。
フラリーの章はどこかしっとりとした上品な展開で物語が進んでいくのだけれど、ズーいに移った途端、ある意味猥雑なように、そして抽象度を上げながら物語は進行。
宗教、そして信仰のくだりでは『カラマーゾフの兄弟』のミーチャを想起してしまいました。
物理学を突き詰めていくと、「哲学」に到達するし、哲学を突き詰めると「物理学」に逢着する。
この二つの領野を"二重スリッド"に考想を進めていくが肝要だと思う。
— 長谷川リョー (@_ryh) 2013, 12月 29
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簡単なことを「難しく」言うのは簡単だけど、難しいことを「簡単に」言うのは難しい。
良き書き手というのは、例外なく後者に長けている気がする。
そういう意味でまっさきに思いつくのは、内田樹さん( @levinassien )かなあ。
— 長谷川リョー (@_ryh) 2013, 12月 16
相対性理論は、時間と空間ばかりではなく、質量やエネルギーの概念も根本的に変革しました。アインシュタインの有名な方程式「E=mc²」は、物体の質量に光速度の二乗を掛けた結果がエネルギーと同等であることを示しています。原子力発電所では、ごく微量のウランの核分裂反応を利用して、膨大な原子力エネルギーを取り出しているわけですが、質量が膨大なエネルギーを秘めているという発想も、相対性理論に基づくものです。
「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること」
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「宇宙が明確になるにつれ、宇宙に意味がないこともますます明確になってくる」
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「(科学は)最も新しく、最も攻撃的で、最も教条的な宗教的制度である」
行動的には現代人と変わらないホモ・サピエンスは、6万年前から10万年前に誕生した。「昨日までの世界」は、その歴史の大半の時代であり、そのホモ・サピエンスの遺伝的性質、文化、行動を形づくった時代である。考古学的発見から推測できるように、生活様式や技術的な変化の歩みは、およそ1万1000年前に肥沃三日月地帯で誕生した農耕の発生を受けて加速するまで、非常にゆっくりとしていた。最初に国家政府が誕生したのも、およそ5400年前の肥沃三日月地帯であった。つまり、今日のわれわれすべての祖先は1万1000年前まで「昨日までの世界」で生活し、多くの祖先もごく最近までそうした生活を送っていたということである。
紀元前9000年頃ようやく始まった食料生産以前には国家は存在し得ず、その後、食料生産が数千年にわたって続けられて国家政府を必要とするほど稠密で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それに続いて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、続く1000年の間にそのほかの地域にも広がり、ついに今日では地球全体で描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地は全て国家に分割されるという状況にまでなった。
戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループの間で繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
国連開発計画読んでて立ち止まった。日本をはじめとした先進国での死因は上位から順に喫煙、高血圧、アルコール、高コレストロール、太り過ぎ。貧しい国では、食料不足、危険な性行為、飲料水汚濁、家屋内汚染。豊かな国では飽食が死亡につながり、貧しい国では貧困が死亡に直結している。ということをそういえばツイートしていましたが、生活様式が異なってくると当然、こういった死因の差異も明確になってくる。
— ryohfu (@_ryh) January 20, 2013
世界はプラシーボ効果の総体である。
たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしの言葉は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物をもち。あらゆる知識と奥義に通じ。必要とあれば山を揺るがすほどの信心を持ち合わせようとも。愛がなければ、無に等しい。
持てる全てを他者に与えようとも。己の身を燃やし尽くそうとも。そこに愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強く、情け深く。妬まず、誇らず、己惚れず。礼を失せず、利を貪らず、怒りを抱かず。不当に扱われたことをいつまでも恨まない。そして不義を喜ばない。愛は、真実を喜ぶ。
愛は、諦めないこと、信じること、希望を持つこと、耐え忍ぶこと、すべてにおいて過たず成し遂げる。
愛は永遠である。しかし預言は人に霊感を与えるも、廃れてしまう。異言による賜物も、いつか已んでしまう。知識は、いつかは過去のものとなってしまう。私たちの知識はしょせん断片にすぎない。預言もまたしかり。もし完全なるものが到来したならば、それら断片的なものは廃れてしまうだろう。
私が幼子だったとき、わたしは幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えていた。だが今や私は大人となり、幼子であった頃のやり方を棄てた。
私たちは今、鏡に映った朧な像を覗いている。だが来るべき時が来れば、私たちは真の像と正面から対峙することになろう。それゆえに、「信仰」「希望」「愛」。この3つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは、「愛」