この10日間、全身から朝日を浴びることの気持ちよさを感じながら過ごしてきた。
なんとなく、この施設から外へ一歩を踏み出し、雑踏のなかにスムーズに適応できるか不安がよぎる。
この施設自体は"街"から離れた郊外に閉鎖的にあるし、この10日間一度たりともセンターの外へ出ていないわけで、そういう意味で「日本」も「インド」もなく、自分はただ「瞑想」の内にあった。
〜〜〜〜〜〜続きは「note」で公開中。
#⑫では総括として、プログラムを通しての振り返りを書きたいと思っています。

目を覚ますことではなく、両足で立ち上がることだ。と変えることで、実行性(feasibility)が上がると書いてありました。同意です。
小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる。今日は4時前、ベルの音が鳴り響く前に目覚める。
時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである。すでに述べたように、人間にとっての一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。彼がここでいう「環世界」とはすべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。(Wikiより)それぞれの生命に、それぞれの営為がある。
マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。しかし血を提供する動物は、ダニの下をそう頻繁に通りがかるわけではない。マダニは長期にわたって絶食したままエサを待ち続ける必要がある。ある研究所ではダニが18年間絶食しながら生きていたという記録がある。この「環世界」という概念を基層に「コウモリであるとはどのようなことか」や「なぜ私は私なのか」といった関連項目を考えてみると面白い。
カラスが増えたから殺します。さらに猿が増えたから減らします。でもパンダは減ったから増やします。けど人類は増えても増やします。
僕らはいつでも神様に願って拝んでても、いつしかそうさ僕ら人類が神様になってたの。何様なのさ。
生きてる間すべて遠回り、すべて大回り、なのにそれなのに。近道探してみて小回り、お巡りに見つからないようにばっかり。
あげくの果ては拝み神頼み、少しでも楽に他人よりも前に。叶わぬと知るや否や嫌みひがみ鬼畜の極み南無阿弥陀仏。
草木は緑、花は咲き誇り色とりどり
四季はまた巡り、小春日和
用もないのにただ 並木通り 思う今一人
ハーフタイムなんてなしに過ぎる日常
俺もなんとかここで一応、やりくりしてるわけで
時にはなりふり構わずに生きよう
むかえる朝 変わらずにまだ 陽はまた昇り
くりかえしてゆく
窓の外は南風 洗い流してこの胸の痛みまで
過ぎ去りし日の涙 時がやがて無意識の中 連れ去るのなら
大事なのは光だけ あともう少しここにいたいだけフロリダ大学に留学しているときに、よく聴いていた。
Each morning we are born again. What we do today is what matters most. (新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ)毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。
We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)そういえば、昨日、こんな記事があった。 「30年間黙々と“木を植えた男”、今では広大な森林に多くの動物の姿。」
人生というものは、チェス・ゲームのようなものである。そして、対戦相手は時間なのだ。もしあなたがためらっていたら、相手はどんどん先へ進んでしまう。あなたの駒はすっかり取り払われてしまうだろう。あなたが戦っている相手は、決して優柔不断ではないのだ。ある人の目にはカッコイイがダサく、ダサいがカッコイイと映る。それだけのシンプルなこと。
一日一日が、これまでけがしてきた時間よりも早くて、神聖で、曙光に満たされた時間を含んでることを信じない人間は、結局、人生に絶望しているのであり、暗さをつのらせてゆく坂道を転落しているのである。感覚的な生活がいったん中断されたあと、人間の魂、いや、むしろ魂の諸器官は、毎朝活力を取り戻し、そのひとの「霊性」は、ふたたび気高い生活を営もうと努力するのである。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。そう、"孤独"の道をくぐり抜けること。ここに真の人間の実相はあるのではないかと思う。そして、東京の喧騒の渦の中にいれば、"孤独"に出会うことはほぼない。
僕らは思ってた以上に脆くて小さくて弱い。
でも風に揺れる稲穂のように柔らかくたくましく強い、そう信じて。
ビデオにとった『ショーシャンクの空に』見てからは、もっともっと確信に近いな。暗闇で振り回す両手も上昇気流生むんだ。とあるように、映画で描かれる壮絶なドラマはたとえ、それがドラマであったとしても、その疑似体験はいつも自分に勇気を付与してくれる。
映画は、本当のことを言う嘘だ。はその意味で核心を衝いていると思う。
Cause when I look inside my heart and I tell the truth to me, loud and clear my soul cries out with total honesty. I need the fire, fire, fire, to keep me warm. I got to feel the fire. (心の中を覗き込み真実を告げる時、完全な正直さと共に魂は高々と叫び声を上げる。熱を失わないために炎が必要なんだ。炎を感じるんだ)体でもいい、精神でもいい、魂がそこで叫び声を上げていることを感じる。