2013年5月9日木曜日

インド瞑想記⑦ 圧倒的な自己修養ー Universe in the Head

#⑥の続き

苦痛は消え去り、快感へ変わっていく。陰鬱だった空模様が、晴れ渡っていくかのように。
目覚め、薄陽に包まれた外へ一歩足を踏み出し。吸い込む空気の一吸い目。ちょっとした恍惚感。
このブログのヘッダーに据えているブッダの言葉。
Each morning we are born again. What we do today is what matters most. (新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ)
毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。
ゆっくりとすすりながら、その甘露さと円やかで静謐な窓の外の景色に身が包まれていく。
今日も虚心坦懐に瞑想に臨む、心がそちらへ向かっていく。

ここまでで(6日目)どのくらい体重が落ちたのだろう。とても体が軽く感じる。
おそらく3〜5Kgくらいだろうか。カロリー計算で2食が日本の1食に満たないのではないだろうか。
体が食べ物を求めるのを諦めはじめ、水(といってもお湯)だけで済ませてしまう日もある。

衣食住のそのすべて、自分にとってかけがえのないもの、当たり前のもの、なくてはならないもの。それをいきなり取り上げられても、はじめは辛くとも、すぐに慣れてしまう。
人間の適応能力は思うよりも高い。
習慣は人間の根幹部で、習慣化するまでの時間を努力と呼ぶのではないか。
アリストテレスもこう言うように。
We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)
そういえば、昨日、こんな記事があった。 30年間黙々と“木を植えた男”、今では広大な森林に多くの動物の姿。
ローマは一日にして成らず、それはそうだけど、「習慣」はなにもかもを可能にする力を秘めている。

少し時間軸がズレて、入れ込んだ話になってしまうけど、先日GWにバイトをしていて思ったことを。
GWのバイトの繁忙さは異常で、時間が濁流のように高速で流れていく。
瞑想時の時間が止まったような、感覚とは比べ物にならない。アインシュタインの「相対性理論」を肌感覚で突きつけられた訳です。
きっと時代の寵児と呼称されるようなIT企業の社長と出家僧侶では根本的に流れている時間が違う。きっと3倍くらい感覚的に長い人生なのではないか、後者は。
2年ほど前に書いた「ゆっくり錆びるより、一気に燃え尽きたい」というエントリー。
多種多様、十人十色。それぞれの生き方がある。
生き急ぐのもまたいい、疲れ果てたときにこそ「」を感じたりもする。

『思考は現実化する』にある以下の言葉。これさえも時間の一つの捉え方であって、真理ではない。
人生というものは、チェス・ゲームのようなものである。そして、対戦相手は時間なのだ。もしあなたがためらっていたら、相手はどんどん先へ進んでしまう。あなたの駒はすっかり取り払われてしまうだろう。あなたが戦っている相手は、決して優柔不断ではないのだ。
ある人の目にはカッコイイがダサく、ダサいがカッコイイと映る。それだけのシンプルなこと。 



瞑想プログラムも折り返し地点を過ぎてからは、純粋に修行を楽しめるようになってきた。無我の境地を探求する。もちろん10日間で解脱に至れるはずはない。
それでもとにかく空漠とした時間の中をクロールし続ける。
とにかく瞑想・修行では呼吸法が鍵を握る。

〜〜〜〜〜〜続きは「note」で公開中。

【瞑想記一覧】
■出発する直前
■インドへ到着
■いよいよ修行開始
■修行の後半戦
■最終日

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