2013年6月11日火曜日

アンパンマンから「死刑存置論」を考えてみる


私たちの価値観は環境の中で日々、刻々と醸成されていく。
人々の関わり、メディアで表象される数々のシーン、新聞の論説で語られる「こうあるべきである」理念。
そうした複雑なファクターが異種混淆し、複雑に絡まり合いながら一つの文化圏内で一定の「社会規範」は成熟していき、ある場合には「常識」として受容される。

とりわけ、それを強力に広範囲にわたって推し進めるのがテレビを中心としたマスメディアである。
言うまでもなく、テレビが世界すべてを映し出すことは不可能で、放映されるに至るまでには制作側の恣意的な優先順位がある。
報道を例にとると、これまでに指摘されてきたのはクローズアップされる国や地域が例に漏れずOECD加盟国との利害関係が幾分でもある国に限られているということだ。
たとえば「破綻国家」とされるソマリアにスポットライトが当てられることはほとんどない。
メディアの「議題設定機能」についてはここでは深く立ち入らない。

ここまでで何が言いたいかというと、価値観(とりわけ「正義観」にここでは注目したい)はあらゆるメディアに巧妙に埋め込まれており、絶えずこのような一定の価値(正義観)を内包した言説に曝されることで、私たちの奥深くで「正義観」が徐々に形成されていく。
自分自身でゆるぎなく把持していると思われる考え方や信条もかなりの部分が社会的に(しばしば無意識のうちに)形作られていく。

以前から不思議に思っていたことの一つに、日本の死刑賛成論がある。
日本は死刑賛成派が約8割とマジョリティを占め、先進国のなかではありえないほど高い数字を保ってきた。
(小林和之『おろかものの正義論』)で触れられていたのだが、人は「死刑制度」についての知識を深めていけばいくほど、賛成派から反対派へと移行していくという。
よく挙げられる理由の筆頭として、どこまでいっても被告が否認する限り「冤罪」の可能性が拭えないということがある。(この点については映画『それでもボクはやってない』を観たことがある人なら、痛いほど分かると思う)
賛成論者の論拠はきわめて明快で、例えば人を数人殺した加害者が死なないで、のうのうと生きていくのは許せないというものがある。(さらに一歩踏み込んで考えれば、被害者が将来的に子どもを生み、その子どもがまた子どもを生むといったように、実際の数字以上の生命を奪ってしまったと、言うこともできるかもしれない)
ただ上記の小林の本でも触れられていたいくつかのケースは、遺族が「死刑」を望まず、終身刑を支持した例もある。
ハンムラビ法典から旧約聖書にいたるまで、滔々と受け継がれてきた「目には目を歯には歯を」という同害報復刑では"黒い連鎖"が留まることを知らず、加害者が死に絶えれば、心の底から晴れ晴れするといった人はごく少数なのではないかと思われる。

ここで冒頭のメディアと正義の関わりに重心を戻したい。
なぜ日本では賛成論が主流なのか。
その遠因をメディア論的に語るならば、メディアの中でアニメ、報道、ドラマあらゆる形式で「勧善懲悪」的な価値観が是とされてきたことが、大方の日本人が共有する「正義観」を成り立たせるに至ったのではないかということだ。

先日、まだ幼い姪とテレビでやっていた「アンパンマン」をみているときに、フト思った。
とりわけ発育段階にある幼子は確固たる価値観や規範を自己のうちに確立できていない。
とくに3歳〜5歳時のコミュニケーション環境が以降の人生に与える影響が大きいことがしばしば指摘されるように、このときに浴びせられる情報が価値形成に与える影響は計り知れない。
アンパンマンではバイキングをアンパンチで倒し、ウルトラマンや仮面ライダーでも悪者を倒すのが決まりで、水戸黄門でもご隠居さまが最後に印籠をみせ、悪者を助さん格さんが成敗するのが定型。
「出る杭は打たれる」などの社会文化にもみられるように、とにかく一度、社会において「悪者」のレッテルを貼られると、徹底的に叩かれる慣例が浸透しているように思う。
相対的に欧米先進国では、処罰よりも先に、いかに適切に更生させ、再び社会に適応させるかに重点が置かれているように思う。
当然、日本の文化でほとんどの時間を過ごしてきた自分が他文化における「正義観」を単純に比較することは難しいにしても、死刑存置論者の数が先進国の中で圧倒的に多い日本で、アンパンマンをはじめとしたアニメなどテレビが「正義観」の規範形成に与えてきた影響は多分にあるのではないかと感じた。科学的な裏付けは一切ありませんが。

0 件のコメント:

コメントを投稿