2013年6月23日日曜日

ラディカルな発言をしすぎると、飯が食えない

一昨日書いた「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」というエントリーを佐々木俊尚(@sasakitoshinao)さんが朝のキュレーション・ツイートで使ってくれたおかげでビューが飛び跳ねました。
そのおかげで、数人の方がエントリーへの感想をくれました。
総じて、どの意見も概ね自分と同じ問題意識を抱えているようでした。 
こうやって一個人が書いた文章を叩き台として議論が巻き起こる、これは健全な情報環境だと思います。
双方向かつ自由な言論空間でのやり取り。ただ問題はこういったプラットフォームの埒外にいる人が、問題を構成している大部分の人達であるということで...。
これらを受けて、少し思ったところを補足。
ただ単に「ラディカル」なら良ければいいのかというと、それは否です。
至極まっとうなことを穿った見方からラディカルに否定しながら、この見方こそが「至極まっとうなのだ」という転位を画策するためには、真実味の香りを漂わせることが肝です。
いわば一種の「巧妙さ」を滑りこませてくるわけです。
ラディカルが先行し、論理破綻が明確な発言・発信には、いくらリテラシーが低くとも、人々はそれに目もくれない。
本当に大衆を飲み込んでいく潜性を持つラディカリティというのは常に"狡猾"なものです。

往々にして、その戦略として単純化した二分法が用いられます。
「こういった見方が主流である」だが、それは間違いである。「本来はこういった見方が正しいのだ」と反対の見方を拵えます。
「現在の潮流はカクカクシカジカの問題を内包している」と注意を喚起します。
実際に歴史は、世界史はこういったラディカルな物の見方を提示した人々を機軸に回り続けてきたと言っても過言ではないと思います。
全会一致で法的かつ公式に承認され誕生したヒトラーを元首とするナチ党。
付和雷同した無辜の大衆には、後のカタストロフィックな惨事はおそらく予見できなかったことでしょう。
ファシズム的公共性」これはメディアに限った話ではなく、政治がこれまで紀元前から苦慮してきた最大の係争点でもあるのです。

F・フクヤマが『歴史の終わり』で高らかと謳い上げた政治の最終段階としての「自由民主主義」の最大の矛盾が、前回の記事で触れた問題と通底しているのです。
讃美されがちな「集合知」という考え方も、そういった陥穽にハマると全く逆の様相(トクヴィルが危惧した民主主義の裏返りとしての「衆愚政治」)を呈してしまうわけです。

一昨日の記事に対して、やはり「真っ当なことを言い、それが真っ当に評価される社会が良い」と少しノスタルジックなツイートをなさっている方がいました。僕もそれはそう思います。
そこで紹介されていた『ウサギはなぜ嘘を許せないのか?』という本。



主人公のうさぎエドを中心に「正直に行動することの大切さ」を伝える啓蒙書のようなものでしょうか。「大切なのは"早く"ゴールすることではなく、"悔いなく"ゴールすること」という言葉が象徴的です。
問題は、自分はいくら正直で誠実だと腹をくくっていても、周りはそれをどうとらえているか、自分をどうみているのかは見えない。
"独善性"からいかに距離を置き続けることができるか。

上手いまとめが浮かびません。
ただ逡巡するなかで、ふと頭に浮かんだこと。それはフーコーのコレージュ・ド・フランス講義「真理への勇気」です。


 
この講義でフーコーは「すべてを語ること」(パレーシア:率直な語り)に照準を合わせます。「政治的な場において、勇気を持って真理を語ろうとすること」
見えないものをみようと生涯をかけて挑んだフーコーの仕事のうちでも見過ごすことのできない講義の一つだったと思います。
王政期に絶対的権力を誇った王の生殺与奪権に象徴されるように、彼の権力は圧倒的な可視性を担保に、市民を掌握していました。


ところが彼が『監獄の誕生』で明らかにしたのは、近代の市民は学校、病院、監獄などの施設で意図せず権力の網の目に絡めとられていること。身体性を通して権力を押し付けられていることをフーコーは系譜学的に明らかにしたのでした。
たとえば炎天下の校庭で、列を作らされ前に倣へなどを強制され、少しでも乱すと教師に叱責される。胸の奥で「なんでこんなことやらされてるんだろう」って思ってたとしても、「まあみんなやってるし、しょうがないか」と徐々に、ゆっくりと、大勢順応主義に飼い慣らされていく。

こういった複雑な権威の諸相はじめ、メディアに張り巡らされた言説、ラディカルかつ狡猾に繰り広げられる主義主張に「真理への勇気」を失わないように、小さな反抗を積み重ねていくこと。
フーコーはそう僕に教えてくれたような気がするのです。

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