Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2012年7月8日日曜日

知識の「エーゲ海」での泳法


エーゲ海は、地中海の一部を構成する海域で、ギリシャ、東をトルコに囲まれた入り江状の海である。
海を取り囲むの様々な形状をした小島の数々であり、地図で見るときわめて歪な様相を呈している。ほかの島・海の関係性と同様に、きわめて雑多な地形なのである。

「グローバル化がもたらす悪因の例をあげてください」

そんな問いを投げかけられ、口ごもってしまうことがあった。
唐突な質問。
頭に詰め込まれた知識の山脈を手探りで当たってみる。
あまりにも煩雑としていて、最適な答えへの手掛かりがつかめない。
茫漠と広がる知識の海の中で、行き場を失い、呼吸困難に陥る。

グローバル化の負の側面は枚挙に暇がない(たとえばスティグリッツを参照)が、だからこそ、そこには厳然とした序列化や整理が必要なのである。

知識を手当たり次第に吸収・インプットすれば、それでいい訳ではない。
学び得た知識は体系立てて整理を与え、自分の中に内在するフレームワークにおさめていかないことには、実践性や価値はほとんど皆無に等しい。

闇雲に書籍を多読し、あたかも膨大な知識を得たかのような錯覚に陥ることがあるが、「知識」は急務の局面に立たされたとき、実際的に「使え」なければ意味がないのである。

蓄積した知識群を咀嚼し、自分の血肉に変換する。
そのプロセスは思うほど容易ではなく、自分なりの判断・意味付けが必要になる。


と、以前書いたが、知識の束はそこから一歩先へと押し進めてくれる。
もうこの世にはいない歴史上の知の巨人たちと会話を読書は可能にし、新たな知見やモノの捉え方を教授してくれる。
行ったことのない土地へのイメージ、感じたことのない気持ち、人間関係の深遠さ、文学はそういった実体験とは別個のイメージフレームワークを与えてくれる。

知識の源泉は日常にあふれている。
大学での講義や日々の読書はその一端にすぎない。

今、読んでいる本のしおりに松下幸之助の言葉が目についた。
学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ石、流れぬ雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらすべてのことに学びたい。
「意識」は移り気で、きまぐれなものである。
絶えず自分から離さず、思考・知識と関連付けて物事を眺望すれば自分の限界領域は拡張され続けていくのだと思う。 



大学生ブログ選手権

2012年4月21日土曜日

「首なし鶏マイク」から思い出すカンボジアでの一日


首なし鶏マイク(Mike the Headless Chicken)は、首をはねられた後も18か月間生存していたことで知られるアメリカの雄鶏である。
コロラド州Fruitaの農家ロイド・オルセンの家で、1945年9月10日に夕食用として1羽の鶏が首をはねられた。通常ならそのまま絶命するはずであったが、その鶏は首の無いままふらふらと歩き回り、それまでと変わらない羽づくろいや餌をついばむようなしぐさをし始めた。翌日になってもこの鶏は生存し続け、その有様に家族は食することをあきらめ、切断した首の穴からスポイトで水と餌を与えた。(Wikiより)
マイクは約二年間生存を続け、その間、飼い主と共に全米を興行周遊し、当時としては相当の富を主にもたらしたとのこと。
それをみて、多くの人が鶏の首を断ち切って生存させようと試みたが、2日以上を生きた鶏はいなかった。
マイクは今もギネスに認定された首なしで長期間存命を続けた鶏として記載されているそう。

なんだか、カンボジアでの一日を思い出します。
あれはたしか大学二年生の春。
3~4日くらいだったか、カンボジアに旅行に行きました。
着くなり早々、トゥクトゥクのドライバーを雇い、結局最終日まで同じドライバーと過ごしました。


最終日も予定していた日程を終え、飛行機の時間まで数時間余りました。
そしたらドライバーだったポー(この時までにかなり仲良くなっていた)が、「じゃあ、ウチに来なよ。おもてなししたいんだ」と言い出しました。
行きの飛行機でパラパラ読んでいた「地球の歩き方- カンボジア」に記載されていた事項が脳裏をよぎります。
「親しくなった現地人・ドライバーなどに自宅へ招かれても決して付いていかぬこと」
ぎくっ。
ただ、やっぱり直感を信じたかった。
ポーは心の底から良い奴だと。
そこで身ぐるみ剥がされて全部持ってかれたって、死んだって。それはそれだと。
腹をくくり、バイクの後ろ、徐々に徐々に都市部を離れて郊外へ。
だんだん人口建築物もないような、鬱蒼とした茂みの中へ。深く深く。



ついに到着。
電気・ガス・水道などはなく、それこそ葉っぱと木だけで作ったような竪穴式住居のような家。同じような家がいくつか立ち並ぶ、ちょっとした集落がそこにありました。
辺りもゆっくりと暗くなっていきます。
ひと通り、近所さんたち(おそらくほとんどが親類)に挨拶を済ませると、庭にいた鶏をいきなりナイフで屠ると、嬉しそうにそれを僕に見せながら「今日はご馳走だ」と言いました。





それからお湯を沸かし、羽根などを剥いだ鶏をそこにぶち込み、茹で上がるのを待ちます。
その間、野草のようなものを板の上で擦り潰しながら、ソースをつくります。

夕食が出来上がる頃には近所さんたちもぞろぞろと集まりはじめました。
鶏の腹を切り、内蔵を取り出し「ほら、ここが一番おいしいとこなんだ」と言って僕に差し出してきました。
それは今までみたこともないような内臓でした。
断るわけにもいかず、意を決して口へ。
味は覚えていません。
肉の部位も食べましたが、恐らく急に殺されたから筋肉が硬直していてとても固かった。


夜は更け、辺り照らすのは小さなキャンドルのみ。
ビールを片手にささやかな宴はゆっくりとした時間の中ですぎていきました。
上を見上げると無数の星が僕らを見下ろしていました。
みんなに日本語を教えてあげたり、カンボジア語を教わったり、日本のことをどう思うか聞いたり、将来のことはどう考えているかお互いの悩みを打ち明け合ったり、本当に素敵な時間でした。
こうやって自宅に連れてくるのは観光客が集まるような場所が「カンボジア」なのではなく、こういった貧困層もたしかにカンボジアを構成する一部分なのだということをわかってもらいたいと言っていました。


カンボジアで出会った人々との出逢いを通して本当に多くの事を考えました。
ここには書ききれないくらい。
たとえばポーが僕で、僕がポーで生まれていたなら?
僕は日本に生まれることを選んだわけではないし、ポーもカンボジアで生まれることを選んだわけでもない。



目を閉じて、頭を空っぽにする。
スーッとゆっくり呼吸して、そっとポーになってみる、なろうとしてみる。
生まれた瞬間をイメージして、友達と遊び、成長して、大人になる、その過程。
老い、次の世代を思いながら過ごすさりげない日々を想像する。

彼が彼女だったかもしれない、僕があの子だったかもしれない。
そう思うと、目の前の人、隣にいる人、遠くで何か作業をしている人、そのすべてが愛おしくなるような気持ちをおぼえます。

たとえば鶏、家畜はどうだろうか。
家畜として(死にいく宿命として)人間によって交配が行われ、飼育されなければその生命はなかった。
遅かれ早かれ家畜として屠られることを知っていたとしても、その間で人間と同じように小さな出逢いがいくつかあって、そこで恋をするかもしれないし、感動を体験して、生まれてきたことの奇跡を感じることができるのかもしれない。



映画「わたしを離さないで」を観た時もでも同じ事を考えました。
臓器提供のためだけに生まれてくる子供たち、その絶対的な宿命と真正面から対峙しながら、生きていること、生きていくことの意味を掴もうともがく姿。

そういえば、ハンターハンターの最新巻の中の冨樫さんの言葉も印象的でした。
「乾杯しやうぢゃないか。人といふものどもに。善人も悪人もいつの世も人はくり返す。膿むには余りに長く、学ぶには余りにも短い時の螺旋上。だからこそ好く欲し、好く発するのだろう?命など陽と地と詩とで満たされるほどのものなのに」

偶有性の海の中を泳ぎ続けていくこと、やみくもにパドリングし続けること。
それ以外に僕に何ができるだろう。

フロリダにいても、東京にいても、バハマにいても、北極にいても、宇宙にいても、自分は"ココ"にいるということ、それだけは忘れずにいたい。

You've got to let go of who you are, to become who you will be.
Keep crawling.
Peace.

大学生ブログ選手権

2011年11月10日木曜日

不可抗力のなかで、どこまで羽根をのばせるか

Whatever/ Oasis


「期限切れかけの電池で鈍る毎日、絶縁。リセットしたアラームタイマー、愛想もなく過ぎる日々だけ」(十二進法の夕景/ Asian Kung-Fu Generation)
「たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする。きっと悪い種が芽を出して、もうさよならなんだ」(ソラニン/ Asian Kung-Fu Generation)
日々は加速して、気づけば一週間が過ぎる。月曜日から、フト我にかえると次の月曜日の中に自分はいる。
過ぎた日々を振り返ると怖くもなる、言葉にできない刹那が思い出や過ぎた時間に靄をかけていくように。

朝起きると、準備・支度をして学校に向かう。何を考えるわけでもなく、いつもどおりの動作を繰り返しながら。ときどきミスも起こるけど。
授業に出席する、課題をこなす、合間の時間に読書をする。
自由なはずなのに、自由ではないこの感じ。
見えない足枷に、見えない鎖にかたく繋がれているように。

積まれた煩雑な事務手続きの書類、遊ぶためのお金を稼ぐアルバイト、 単位を落とさないための最低限の勉強、友達との他愛のない会話。

ぷかぷかと浮かぶ空白の時間。
そこに本当の「自由」があるのかもしれない。
忙しく過ぎていく日々のそれぞれに埋め込まれた、いや穴がぽっかり空いた自分だけの時間がある。
どんなに忙しくても。
不可抗力の楔から解き放たれる瞬間が。

そんな時、翻って、自分は何をしているか。してきたか。していくのか。

ぼくは天才でもなんでもない、ただの凡人なのだから、ただ小さく小さく積み上げていくことしかできない。
I'm free to be whatever I. Whatever I choose and I'll sing the blues if I want. (Whatever/ Oasis)
大学生ブログ選手権

2011年7月21日木曜日

全てをこの手に掴むことはできない、だから僕はこの自由の海で泳ぎ続ける

なにもかもを手中におさめることは誰にもできない。
アインシュタインもビルゲイツもぼくも。
世界の創造主、神様はそうゆう風に世界をつくった。
「時間」という仕組みで世界を鎖で覆った。
「完全な自由」に鍵を掛けた。

ぼくらは一瞬、一瞬に判断を求められる。
その一瞬、一瞬の何気ない判断が重層的に重なった未来にいまいるわけで、これからもそのサイクルは際限なく続いていく。

「時間」そのものをお金で買うことはできない。
不老不死の秘薬やタイムマシーンのことはよくわからない。

アルバイトをすると、必然的に拘束される時間が生じてくる。
24時間に自由が効かないスペースができる。

でも制約ができると、制約のない時間の尊さを思い知る。
時間を有意義に使おうと躍起になる。
「自由の大海」にはいくつもの流木が漂流していて、激しい波がうなりをあげることもある。
神様の裁量で天気が思わしくない日なんかは、自分の力であがらうことのできないような自然摂理のミエナイ力がぼくらの運命を翻弄する。
それでも泳ぎ続ければ、急に流されることも、溺れることもない。

どこまでも続く「その向こう」まで泳ぎ続けるしかないんだと思う。