2013年8月31日土曜日

「躰を曝け出すこと」と「演技力」との融点―満島ひかりと吉高由里子


日テレの連続ドラマ「Woman」で主演の満島ひかりさん。
演技力がかなり評価されているようです。
僕自身も映画『愛のむきだし』で度肝を抜かれたのを覚えています。
それからというもの満島ひかりさんが出ていると、なんとなく目をそちらへと奪われてしまうのです。


カロリーメイトのCMも最高でしたね。僕の周りでも軽くバズっていました。
その流れでドラマ「モテキHulu観てみることに。
結果、映画『モテキ』よりも断然面白いという。
その流れで、マンガも見てみることに。
すごいですよね。一人のキャストに魅せられたことから、コンテンツの連鎖が続いていくって。

ただ思うところを。
「女優」って本当に難しい職業なんだなーとつくづく思います。
先日、ミッツ・マングローブさんがブログで共に不遇時代というか(今のように二人ともTVで活躍する前に)満島さんと語り合っていた時のことを回想していました。

女優・俳優として前線へ駆け上がるにはいろいろな回路があるのだと思います。
最近では芸人でも雨上がり決死隊の宮迫さんやカンニングの竹山さん、歌舞伎界では市川染五郎さんとか、僕の大好きな香川照之さんなど、各界から流れこんできます。
そこで正攻法でトップへと上り詰めていくのは一筋縄ではいかない、何かしらの武器やインパクトがないと。
単純に演技力で評価される以前に、何か一発で成功なり結果を残さなくてはならないという現実があるのではないか。


満島さんと吉高由里子さんでいえば、二人とも初期に大きな決断をしていると思うんです。(二人からしたら、それほどの決断ではないのか否か、それは分かりませんが)
吉高さんでいえば『蛇にピアス』で全裸を曝け出しているし、満島さんでいえば『カケラ』でワキ毛が話題になったり、果敢にセックスシーンに挑戦していたりなど、売れる全段階で演技力の前にいわゆる「女優魂」なるものを呈示しなくてはならないというところでしょうか。

読書『僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話』本田亮著

僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話

元エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクター本田亮さんの著書を読みました。
電通を早期退職なされてフリーになってから2年が経つそうです。
電通時代の経験を惜しげも無く、ショート・ストーリ化し、そこにキャプションを付けて項目別に並列されています。
広告系の自己啓発チックなノウハウ本は8割型この体裁ですよね。
たしか水野学さんの『アイデアの接着剤』とか高橋宣行さんの『博報堂スタイル』も同様だったんじゃないかと。よりメソッドに特化したものだと『考具』もそうですね。

タイトルからも推測できるように、電通でキャリアを積まれた本田さんが大先輩で、自分が代理店の新人っていう体で話を聞くと、(本を読むと)それこそ居酒屋とかで大先輩から貴重な積年の体験談を聞いているような感覚に。
というのも具体的なクライアントとか共に仕事をした人の個人名がわんさか出てくるので、話にリアリティがあって、より印象に残りやすのです。(もちろんクライアントの名前は一応例えば、N社のようにイニシャル化されていますが)

本田さん

行間から本田さんがとてもパワフルかつポジティブな人であるというのがひしひしと伝わってきます。
本田さんならではのアイデアの捉え方でおもしろかったのが「アイデアの種はスイカではなく、アボカドだ」という箇所。
つくづく、アイディアを創発する仕事が天職なんだなーと。
アイデアのインプット/アウトプットについても幾つか記述があって、たとえば「オレンジ+防衛費」思考法というのを提唱されていて、これはいわゆるイノベーションの原則で、まったくの新しいアイディアというものは存在せずに、既存のアイディアとアイディアの結合からイノベーションは創発されるのだというもの。
これはどの広告関連の本を読んでも間違いなく底流で共有されているジェームズ W. ヤングの『アイデアのつくり方』で説かれているエッセンシャルです。

広告の仕事におけるアイデアとの取り組み方以前に、本田さんの生き方の根底にある哲学として、「雪山理論」なる自身の着想から生まれた考え方をコラムの中で紹介なされていました。
ようは「生きていくこと=雪山を登っていくこと」、今の苦しみも、時間軸を少し引き伸ばして未来の視点から眺めると、先にいる自分へのプレゼントになるということ。
これを認識して、今を生きるか否か。

2013年8月29日木曜日

映画『おくりびと』滝田洋二郎監督作 08'


公開からもう5年になるんですね。
言わずと知れた傑作邦画。
日本アカデミー賞最優秀作品賞、アカデミー賞外国語作品賞受賞の今作。
洋題は"Departures"。妙題だと思います。
「おくりびと」=本木雅弘演じる主人公・小林大悟の従事する納棺師な訳ではなくて、ほかにも葬儀屋であったり、火葬場の職員など、人に死に携わる職業が包括的に描かれています。もちろんその中心は「納棺師」という職業なのですが。

「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているのはもちろんなんですが、劇中で重要なモチーフになっているのが、「チェロ」と「石文」。
「石文」とは人が言葉をまだ持たなかった太古の時代にコミュニケーション手段に用いられていたもので、地面に落ちている無数の石の中から、丸みやとんがり具合、はたまた重さなどから自分の現在の気持ちに合致したものを選び出し、それを相手に渡す。
受け取った相手は、その形状や重量から送り手の気持ちを忖度するという意志の伝達方法。
傍からみればただの石ころかもしれない。
けど、そこに込められた情念は時間・空間を越えて、消えかけた絆を係留する。(本作では幼子のときに父親と別れた小林大悟にとって「石」が重要な意味を持ちます)

それから、チェロ。
これも劇中で重要なプロットの結節点になっています。
楽団の解散で一度は楽器に見切りをつけたものの、山形に里帰りしてからも、折にふれてチェロを弾き、心の安寧を得るのです。
山形の四季に応じた自然の中で奏でられる幽玄な旋律と、ゆっくり進んでいくプロットが絶妙に絡み合いながら描き出されていく、人間の生。

さりげなく背景に映し出される山形の自然や田舎の風習、方言。
やはり今でも日本のイワユル「伝統文化」の精髄は都心ではなく、田舎に宿っているのだと再認識されました。とくに僕のように東京生まれ東京育ちの人間にとっては。
そして、ここもまた外国で高く評価を受けた所以だと思います。

劇中では、なかなか理解が得られず、穢らわしい職業として描かれる「納棺師」という仕事。
実際、そうなのだと思います。
そういえば、いつだったか両親と話をしていて「最近、霊柩車を見かけない」という話題になりました。
ググってみるとやはり、根本にはそういった原初的な忌避感があるとのこと。(参考

さきほど、日本の文化の一端が色濃く描かれているからこそ、評価されたのではと描きましたが、もちろんそれは一面的な話で、一番の核心は何と言っても「死」なのではないかと。
納棺の会社で、主人公・小林が社長と秘書とささやかなクリスマス・パーティーを催している際にチェロを演奏します。
そのときに「せっかくの会なので、クリスマスっぽい曲を」とリクエストがあり、それに対して「え、でも宗派とかそういうの大丈夫ですか」と一瞬心配します。
すると社長は「うちはキリスト教、仏教、イスラム教、ぜんぶやるから大丈夫」と答えます。
ようするに、こと「死」となれば、宗教や宗派、文化・伝統を越えて貫く「普遍性」があるわけで、もちろん儀式のしきたりも異なれば、葬り方にも色んな差異があるとは思いますが、基本的には故人と縁のあった親戚や友人が取り囲み、「送る」という形は変わらないのではないかと。
そういう意味で本作を貫く「死」それを取り巻く、人びと、人生の儚さ、美しさが雑色のパレットの如く描かれています。ただし、その下地はまっさらな白であるということです。

【完全主観採点】★★★★★

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2013年8月28日水曜日

『進撃の巨人』に込められたカリカチュアについて


生活が落ち着き、一段落をついているところです。
そんなわけで、いろいろ追えていなかったマンガの新刊を一気に消化していってるわけですが、『進撃の巨人』を読んでいて思うところを、ほんの少しだけ。
大風呂敷を広げていく感じは指摘されているように、どことなく『GANTZ』っぽくもないですが、本質的にまったく異なるマンガだと思います。(オリラジの中田さん、一悶着ありましたよね)

壁の中の生活に安住する人々にたいして、どこか解せずに外の世界への憧憬を胸に抱き続けながら、軍隊に入ったエレン。
どことなく言動から、日本における就活に対するメッセージともとれるし、街の外延に築かれた壁(=防波堤)、巨人(=自然災害、原発)ともとれるし、ストーリー自体は単純なものの、込められたメッセージは解釈者によっては幾通りにもなるようにできてる。
ただ、初版が2010年ということを考えると、「原発のことではない」と、切り捨てるのもまた、どうかとも思います。
そもそもずっと指摘され続けてきたことですからね。小松左京さんの『日本沈没』などにインスパイアされている人はかならずいると思いますし。

映画『アルゴ』ベン・アフレック監督作 12'


アカデミー賞作品賞受賞の今作。
監督はアルマゲドンでAJ役を演じたベン・アフレック。
演者でかつ、監督で成功したのでパッと浮かぶのってクリント・イーストウッドですが、ベン・アフレックも今回アカデミー賞受賞したことで、この路線でいきそう。

1979年のイラク革命が時代背景で、1980年ごろに実際に起きた、アメリカ大使館人質事件、実話に基づくストーリー。
人質事件といえば、確実に救出するのは一般的にはかなり難しく、しかも現場が混沌とするイラクにおいては尚一層難しい。まさしくデッドロック。
そこで最悪のオプションのなかから採択された作戦は偽の映画のロケハンという設定。
カナダ人クルーに扮して、国外脱出を図るというもの。
これが実際にCIA、国防省が決断した作戦だから面白い。
基本的に作戦を無視しても「勝てば官軍、負ければ賊軍」が浸透してるアメリカにおいては、とりあえず救出できれば英雄で、CIAスター勲章が授与される。
別録のショート・ドキュメンタリーでは実際の体験者やカーター元大統領がインタビューで出てきて、これもまた必見。

アメリカ人ウケが良さそうではありますが。
【完全主観採点】★★★★★
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映画『007 スカイフォール』サム・メンデス監督作 12'


劇場で観損ねた「スカイフォール」を。
もともとダニエル・クレイグも大好きで、007シリーズも大好きな自分としては是が非でも観なくてはならない作品でした。
期待が大きかっただけに...。
個人的には前作「慰めの報酬」、前々作「カジノ・ロワイヤル」の方がスリリングで面白かった。
ダニエル・クレイグ自体は、最強にかっきょいいオヤジのままです。

【完全主観採点】★★☆☆☆

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2013年8月20日火曜日

読書『知の編集術』松岡正剛著

知の編集術 (講談社現代新書)

編集工学」の提唱者であり、ISIS(Interactive System of Inter Scores)編集学校を主宰していらっしゃる松岡正剛さんの『知の編集術』を読みました。
松岡さんといえば、なによりも「千夜千冊」で知られていますよね。
僕もたまに覗いて、内容よりもスタイルであったり、知見の配架の方法論を学ぶことが多いです。たぶん、無意識のうちにこのブログでさえ、かなりの影響を受けているんじゃないなあ。

この本で提唱されている基本的な「知への態度」としては、「編集」という営みは何も雑誌やメディアの編制のみならず、日常、色んなところに潜んでいて、その潜勢力をつぶさに感じ取りながら、自分の技法を応用して編集を意識的に編んでいくことなんじゃないかと。
わりと近い路線でいえば、マクルーハンがメディアの概念を拡張して、普段意識していなかったものそれ自体がメディアであったという「メディアはメッセージ」であるという有名なフレーズと近似性がある気がします。
最近でいえば、その最も手軽かつ実践的なものとして「キュレーション」があるのかなーと。3年くらい前に読んだものとして、『石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力

マーシャル・マクルーハン

ようは思考にどんなフレームワークを持たせるのか、ということ。

本文では具体的に要約編集(keynote editing)のための多様な技法として6つのモードが紹介されています。

①ストーリー性を生かしたダイジェストによる「重点化モード」
②論旨のアウトライン(骨組)だけに焦点を当てた「輪郭化モード」
③一枚ないし二、三枚の図にしてしまう「図解化モード」
④論旨の背景となっている考え方との関係を組み込んだ「構造化モード」
⑤別のメディアに変換するための「脚本化モード」
⑥ニュースとして伝える目的を持った「報道化モード」

『情報の歴史』の一部

上にある歴史の略図の一部は『情報の歴史』という松岡さんの他著で使われているもので、これが実は旧来の年表とはかなり趣の違うクリエイティブなものなんですね。

そのより突っ込んだ方法論として「十二段活用」なるものが紹介されています。

①注意のカーソルを対象に向ける
②注意の対象およびその周辺に少しずつ情報が読みこまれていく
③同義的連想が始まって、シソーラス性が豊かになっていく
④段々情報の地(情報分母)と図(情報分子)が分離できていく
⑤さらに階層化が起こり、情報の周辺を含む全体像が立体化してくる
⑥様々な情報がネットワーク化され、リンキングを起こす
⑦デフォルト(欠番構造)やスロット(空欄)が見え隠れする
⑧それがハイパーリンク状態になったところで、そこに筋道を読む
⑨筋道にあたるレパートリー(情報見本帳)を検索する
⑩カテゴリーが凝集し、ステレオタイプやプロトタイプが出入りする
⑪必要な情報のレリバレンス(妥当性)を求める
⑫その他の色々の編集を加える

というか、考えてみれば「ブログ」って素人が一番取っかかりやすい入り口なんですよね。
あと、「編集」の概念を敷衍し続けると、現代に溢れている初めて聞くような仕事や肩書も、「そんなもんなのかなあ」と腑に落ちるというか。
たとえば高城剛さんの「ハイパーメディアクリエイター」とか「博報堂辞めました。」の高木新平さんの「コンテクストデザイナー」とか。
ようはその当人が何をメインの視座に据えて「編集」に向かうかという一点に集約されるんじゃないかってこと。


松岡さんが珍しくテレビに出てました。東浩紀さんの「ニュースの深層」です。
おそらく、二人には共有する思想盤があったのだと容易に思います。

2013年8月19日月曜日

読書『大学とは何か』吉見俊哉著

大学とは何か (岩波新書)

情報学環の教授であり、東大の副学長も務めていらっしゃる吉見俊哉先生の『大学とは何か』を読みました。
先生専門は一応、社会学(カルチュラル・スタディーズなど)とか、都市論とかメディア論とかになるんですけど、本当に守備範囲が広い。
教授の人たちは知識の守備範囲が広いという人は往々にしているんですが、実際にそれを著作にまで落とし込んで、突き詰めてやられる人は少数なんじゃないかと。
そういう意味では情報学環は吉見先生はじめ北田暁大先生などなどその手のオールラウンダーが多い。「学際情報」と冠たるだけありますよね。

この本で描かれることは以下の4点に集約されます。

①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展
②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場
③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築
④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか

中世の頃にもなると、「大学」というものの骨格が整えられていくのですが、その中心的役割を担ってきたドイツにあって、カントが「大学」というものについてどういう考えを抱いていたのか。
諸学部の争い」という彼の論文については以前どこかで聞いたことのあるような気がするのですが、実際に中身については今回はじめて知りました。そこで、少し紹介。
カントは神学部、法学部、医学部を「上級学部」とし、哲学部を「下級学部」に位置づけ、その両学部の弁証法的統一体として「大学」を捉えていました。以下、少し引用。
「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」
これに対して哲学部は、
「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」
上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知であるということ。なるほど、カントらしい。

ジョンズ・ホプキンス大

今のような大学の形に収斂したのが、米ジョンズ・ホプキンス大に求められるというのも初耳でした。
19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ
この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。 
この辺まで読み進めて思うのが、当たり前ですが、「大学」が社会における所与のものなどでは決してないということ。
たまたま今の時代は中学、高校、そして大学、そして就職が主なルートになってはいるものの、それは特定の時代背景に依って成立していることにほかならない。
とはいえ、福沢諭吉の『学問のススメ』を読んでも思うように、人類において人が学びたいという気持ちは普遍のもののような気がします。「知りたい」という方が精確かもしれません。

アカデメイア

プラトンのアカデメイアにしても藩校にしても、私塾にしても、なんでもいいのですが、少なくとも「大学」が不変の学問の場であったことは歴史を辿っても一度もなかったということ。
常に革新・進歩、後退・退潮を繰り返しながら変容を遂げてきたこと。
国民国家と大学も決して一蓮托生なわけではないということ。

題名にもなっている、「大学とは何か」。あとがきで、吉見俊哉先生の解答が用意されています。ある程度は予測できたことですが、
大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。
自身自らが、学際的視座から縦横無尽に領域を駆け巡り、それぞれ著書に落とすことで、現代社会における大学が抱える数多くの問題、たとえば大学・大学院の拡充にともなって質の低下が叫ばれる学生へ発破をかけているというか、メッセージを送っている気がしてならない。それに応えたいものです。 

2013年8月18日日曜日

読書『弁証法はどういう科学か』三浦つとむ著

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

過去に読んだ講談社現代新書の中では飛び抜けて名著だと思います。
初版は1968年、つまり冷戦の真っ只中なわけであって、だからこそ筆者の熱意が込められているのだと思います。
主にヘーゲル、マルクス、エンゲルス、そして毛沢東というマルクス主義、社会主義を取り巻く理論家たちの論旨を丁寧に汲み取りながら、「弁証法」というプラトン以来の世界への眼差しを包括的にスケッチしていく。
この本を読んでからマルクスの『資本論』を読めば、理解度はグンと増すと思うのですが、経済学、社会科学といった学問的土台となることよりも、生きていく上で、さまざまな困難に立ち向かっていかなければならないときにどうやって当該の問題を考えていけばいいのか、思考の指針を与えてくれる思考の書でもあります。
今、巷に横溢している種々の手軽な思考書、啓発書の類を漁るよりも、この本を一冊読み、得られた知見をコツコツと実践して行くほうが、巨視的にみたときに何倍も効率的ではないかと思います。

本文中、いくつもの例を交えながら図解しつつ説明を施してくれるのですが、その中から1つだけピックアップ。


この図を見た時に、ふとミスチルの『彩り』が惹起されたんですね。



僕のした単純作業がこの世界を回り周って、まだ出会ったこともない人の笑い声を作っていく。
そんな些細な生き甲斐が日常に彩りを加える。
モノクロの僕の毎日に少ないけど赤、黄色、緑 
ブログを書くことなんて、その最たるものだと思う。
こんな小さい、意味のなさそうなちっぽけな営為もどこの誰が、いつ目にしているかわからなくて、そこに何気なく書いた一行、一言が、どんな形で誰かの頭の中、心のなかに住まうかもしれないこと。ふとした瞬間に顔を出すかもしれないこと。

2013年8月17日土曜日

映画『風立ちぬ』宮崎駿監督作13'


試写会を寝坊して、行きそびれてしまい、結局このタイミングで。
宮崎駿初のリアリズムと聞いていましたが、、果たしてコレをリアリズムと呼ぶことができるのか否か。
僕は劇場でみたことがあるのは『ポニョ』くらいだし、ジブリ作品も『もののけ姫』くらいしかまともに観たことなく、コアなファンでもなんでもないので、わりとフラットにみた感想です。
「笑ってコラえて」で『風立ちぬ』の制作現場が密着取材されていたのをみて、かなり興味をもったわけですが。
おそらく日本のマイノリティになってしまうのかもしれないですが、結論からいうと、僕はあまり感動しなかったというか、メッセージがよく伝わってこなかった。
他作品、しかも媒体が異なるものを比べるの自体がナンセンスだと思うのですが、物語だけを比較衡量すると、先に百田さんの『永遠の0』を読んでいた身としては、どうしても"リアリズム"と捉えることはできなかった。
もちろん、受け取り方は世代ごとに千差万別なのだとも思う。(内田樹さんのエントリーをみてもそう感じました。『風立ちぬ』- 内田樹の研究室

それから、自分の感想とか所見からは少し遊離してしまう話題なのですが、鑑賞前に目にした一連のタバコ論争。
【参考】

なんだか、なにごとかにカコつけて、前へ出てこうとする団体・論壇・芸能界などなど。
目に余る感じがすごい。

タバコが劇中で頻出するからって、それでタバコを吸うようになるかというと、普通はならない。なるかもしれない。なるなら、なるでそれは自然なんじゃないかと。
誰かがタバコを吸い始めるキッカケなんて案外なチンケなものばかり。
「風立ちぬ」のせいでこれからサバを食べる度にときめいてしまう気がする - インターネットもぐもぐでは「タバコ」以上に「サバ」が脚光を浴びているし、人が何に興味を抱き、なにに感動を覚えるかなんて、絶対値が求められない問題の最たるもので、ネット上に幾多にも転がる『風立ちぬ』の感想の束がその良い例。

「戦場に行ったこともない奴が語る愛国主義には吐き気がするよ」 オリバー・ストーン監督に聞く戦争と歴史 - ハフィントン・ポスト
というオリバー・ストーンの記事を読んで...。

すいません。まとまりがない。
少し数日経たないと、感想なんて書けないタイプの作品なのかも。

2013年8月16日金曜日

映画『ナショナル・トレジャー2 リンカーン暗殺者の日記』ジョン・タートルトーブ監督作 07'


「宝探し」「謎解き」いかにもアメリカ人が好きそうな物語り。
なかなかよく出来てるというか、構成されているのですが、ニコラス・ケイジが演じているとどことなく本来べつに笑えない場面も笑ってしまうんですよね。
今度アメリカ行ったら、ラシュモア山行ってみたいです。というよりアメリカはかなり色んな州に足を運んでいるのですが、まだサウスダコタは行ったことない。


2013年8月15日木曜日

Butterfly (Covered by Takeshi Hosomi) / Weezer <和訳>


昨日のこと、僕は外へ出た
ママの瓶を持って
愛らしい蝶をつかまえたんだ
今朝起き上がって
妖精を覗き込むと
彼女は弱りきってた
息を引き取っていたんだ

こんな目に遭わせてゴメンよ
身体が言う通りにしただけなんだ
傷付けるつもりなんてなかったんだよ
いつだって望むことをピンで止めたつもりでいてもすり抜けてしまう
その幽霊はすり抜けてしまうんだ

手に残った君の香りを何日も嗅いで
その芳香を洗い落とせずにいる
僕が犬なら君はメス犬で
きっと僕と同じくらいリアルだった
たぶんそうやって生きていける
ファンタジーが必要なのかもしれない
蝶を追いかけるような人生が

こんな目に遭わせてゴメンよ
身体が言う通りにしただけなんだ
傷付けるつもりなんてなかったんだよ
いつだって望むことをピンで止めたつもりでいてもすり抜けてしまう
その幽霊はすり抜けてしまうんだ

言ったでしょ、僕は戻るって
コマドリが巣を作る頃には
けどね、僕はもう決して戻らない
ゴメンよ
ゴメンよ
ごめんよ
元詞

2013年8月13日火曜日

読書『日本辺境論』内田樹著

日本辺境論 (新潮新書)

2010年の新書大賞である内田樹さんの『日本辺境論』を今頃読みました。
内田樹さんの文体独特の丸みというか、文章がスーッと浸潤していくタッチについてはこれまでにも何度か触れているのですが、やはり村上春樹の影があるんですよね、どこか。
(これまでにこのブログで取り上げたもの『日本の文脈』『疲れすぎて眠れぬ夜のために』)

日本人論でよく聞くものに「日本人は空気を読む」というのがありますね。
これをもっとも的確かつ精緻に分析しているのが内田樹さんによれば、丸山眞男の「超国家主義の心理」の定式化ということです。(Cf. 『現代政治の思想と行動』)
おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものには巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度。
あとはこれまでの著作でも度々登場するレヴィ=ストロースの「ブリトコール」を日本の文脈に当てはめてみたり。(Cf. 『野生の思考 )

三部で「日本語」論に分け入っていくのですが、そこで明治期の西周や加藤弘之はたまた中江兆民におのずと話は及ぶのですが、そこで面白い記述がありました。
西欧語を、たとえば"philosophy"を西周は「哲学」と訳したんですが、中国では自前で西欧語の翻訳をしないで、日本で翻訳されたものを輸入するという迂回戦略が取られているらしいのです。
というのも、中国語でそのまま西欧語をインポート=翻訳するとなると、自国語の劣等性(そういった概念が存在しなかった事実)を認めることになりかねないからと。
日本ではそういったことはありえない。

西周

内田樹さんの推測を交えた考察によると、そもそも日本列島は無文字社会である。
原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)が発明された。原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領した。そしてもともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。これが日本語の辺境語的構造であるというのです。

これ考えてみたら、2年前に「ゲーミフィケーションの病理」というエントリーでこのブログに書いたこと、そのまんまですね。
内田さんの論を継承するなら、僕の直観そのものが日本語の「辺境的構造」に棹さしていたということになりそうです。

そういえば、今月初めにこのツイートを見かけました。

映画『トゥモロー・ワールド』アルフォンソ・キュアロン監督作 06'


これはトンデモ映画。
日英の合作映画で原題は"Children of Men(人類の子ども)"。
なぜか邦題は「トゥモロー・ワールド(明日の世界)」。
おそらく昨今の少子化社会と紐付けて改題したのだろうと思います。
本作では少子化社会ならぬ、無子世界が描かれています。
舞台は2027年のイギリス。
世界秩序は混沌とした状態にあり、イギリスのみが唯一わずかながらの秩序を維持している。
当然、不法移民が後を絶たず、政府も手を焼いている。
そこにフィッシュというテロリスト集団も絡んできて、不秩序により一層の拍車がかかっていく。
18年間に渡り、子どもが存在していなかった世界に突如、子を身ごもった少女が現れ、主人公のセオはこの妊娠した少女と共に逃亡を図るというのがプロット。
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映画『6デイズ/7ナイツ』アイヴァン・ライトマン監督作 98'


昔々に観た気がしますね。
シーンを追うごとに記憶が蘇って来ました。
飛行機が不時着して、次々と迫り来る困難を越えながら島からの脱出を図る話。
海賊とのバトルなど、90年代っぽい映画内容。
推測するに、不時着したのはソロモン諸島の辺りなんでしょうか。
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2013年8月11日日曜日

映画『エネミー・オブ・アメリカ』トニー・スコット監督作 98'


10年以上前の映画なのですね。今観ても色褪せない。
というより今だからこそ、考えるべき問題でもある。
渦巻くプライバシー、テロ、倫理、正義。
簡単にいえばエシュロンの話で、ひさびさにおもしろかったです。
多少、プリズン・ブレイクの後半と被るような面もあります。
(株)貧困大国アメリカ』といい、アメリカという国の底流にある魑魅魍魎は底知れない、というのが所感です。
劇中のジーン・ハックマンがザッケローニ監督にしか見えなかった。笑
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父親の誕生日にApple TV(+Hulu)をプレゼントしてみる


父親は映画が大好きで、休日の度にWOWOWで映画をみているのですが、TSUTAYAに行くのは億劫ということで、だったら誕生日にAppleTVとhuluをプレゼントしようと思い立ちました。

以前「iPadでHuluが快適すぐる」というエントリーを書いて、huluの利便性を書いたのですが、テレビでみるとなると、任天堂Wiiなりhulu搭載のテレビでないと、AppleTVを接続しないと見れません。

参考になるのは「大画面テレビでhuluを見るためにAppleTVを買う価値はあるか?」というエントリー。
この記事にも書いてあるようにセッティングは至極簡単です。
ただ注意しておきたいのは、AppleTVをオーダーするときはHDMIケーブルも別個で用意しなければならないということです。


2013年8月10日土曜日

読書『大局観―自分と闘って負けない心』羽生善治著

大局観  自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)

羽生さんの『大局観』を読みました。
以前にプロフェッショナルでみてから、本も読んでみようと思っていたのでした。



私は3つのことを駆使して大局にのぞんでいる。一つは「直感」。そして読み。もう一つが「大局観」である。これらを組み合わせて次の手を考えている。
本文中で印象に残ったところをちょっと自分の言葉で咀嚼しながら、備忘録に残しておこうと思います。 

「大局観」→広量的かつ鳥瞰的に視座
「大局観」とは「終わりの局面」をイメージする。最終的に「こうなるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」ということである。簡単に言えば勝負なら「勝ち」を想像する。

集中=「忘我の時間」の濃度


練習=「安心」を買うこと
「これだけ努力したのだから大丈夫だろう」「これだけ頑張ったのだからミスするわけない」

直感=研鑽の上にある
最近のカメラはオートフォーカスで自動的にピントを合わせれくれる。ここが中心ではないか、焦点ではないか、ポイントではないかと、カメラが瞬間的に判断しているわけだ。直感とは、数多くの選択肢から適当に選んでいるわけではなく、自分自身が今までに積み上げてきた蓄積のなかから経験則によって選択しているのではないかと、私は考えている。だから、研鑽を積んだ者でなければ直感は働かないはずだ。

一つショッキングというか驚いたのが、将棋界も例に漏れず情報テクノロジーの波に飲まれつつあるということ。(それが善か悪かはひとまず措くとして)
Wikipediaに「コンピュータ将棋」というかなり濃密な項目があります。
コンピュータvs.人間という将棋対決よりも、将棋を取り巻く環境の変化そのものが目覚ましい。
たとえば以前までは棋譜をすべてアナログで丹念に保存していたという羽生さんですが、今では簡単にGoogleで棋譜を閲覧できるとのこと。
そのため「新手」も早晩すぐに策が講じられてしまうため、真の意味で「新手」となりうるのは今の時代皆無に近いそうな。
古くから伝わる伝統に浸食というか否応なしに変化を迫っていくテクノロジー。

読書『つながりすぎた世界―インターネットが広げる「思考感染」にどう立ち向かうか』ウィリアム・H・ダビドウ

つながりすぎた世界


インテル、HP、ゼネラル・エレクトリックを経て現在はIT業界で経営者およびベンチャーキャピタリストとして活躍しているウィリアム・H・ダビドウさんの『つながりすぎた世界』を読みました。

先月、ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界』をブログで紹介したのですが、綺麗なほどに「昨日までの世界」(伝統的社会)=「つながりすぎた世界」(現代グローバル化社会)というコントラスト構図が浮かび上がってきます。

まずは表紙裏の帯にあった、キーワードを。


結合状態を以下の4つに区別した上で

過少結合状態
②結合状態
③高度結合状態
④過剰結合状態

現代社会は疑いなく最終段階の「過剰結合状態」にあることに警鐘を鳴らします。
そして、この状態にあっては緊密化した「正のフィードバック」が循環し、手が付けられなくなっていくことを指摘します。
※正のフィードバック:物事には因果性・連鎖性があり、つながりを強化すると自己増殖的に反応が進む。ある程度まではそれが効率を高め、ひいては生産性の改善や透明性の向上につながる。だが物事の連鎖性を強めすぎると、暴発的に連鎖反応が起こり、もはや手が付けられなくなる。(訳者あとがきより)

イエール大の組織理論の大家チャールズ・ペローらにもヒントを求めつつ、歴史を紐解きながら、数多くの結合例を引証し、分析を精緻化していきます。
ペローの主張を一言に集約すると、
非常に複雑で高度に結合したシステムでは、事故が発生するのは不可避である。(Cf. 『Normal Accidents: Living with High Risk Technologies』)
ピッツバーグの製鉄業が辿った脆弱段階、コップ一杯の水が引き起こしたスリーマイル島の原発事故(もちろん東日本大震災を経験した私たちにも多くの示唆があります)、モリスのワーム(この件に関して筆者は「私たちの社会には"内なる幽霊"が存在するのだとみんなが気付かされた瞬間だった」と述べています。Cf. インターネット・ワームの原点「Morris Worm」の脅威」- IT pro

第7〜8章にかけてアイスランドの経済危機にフォーカスし、例証していくのですが、経済危機の最中にアイスランドに1ヶ月滞在していた自分としては、実体感とかなり符号する分析結果でかなり頷けました。
なにより、バーでビールを飲もうとしたら1杯1000円近くしたのを記憶しています。

アイスランドで撮った写真

アイスランドが辿った危機までの経過、端末を分かりやすく簡明に知るためにウォール・ストリート・ジャーナルの銀行業の『寓話』が終わり、海へと戻っていくアイスランド人」という記事があります。

さらにそこからサブプライムローンを仔細に抉り出していくわけですが、例に漏れず今件も過去に遡及すればミシシッピ計画、チューリップ・バブル、南海泡沫事件など、同質も問題はいつも時代もあり得たわけです。(こういった問題に通底する構造として「カトリーナ効果」を引き合いに出しています。Cf. ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』)
サブプライムローンに関してはファニーメイ、フレディマック、AIGなど「大きすぎてつぶせない(too big to fail)」が背景にあったと思われ、これがモラルハザードの温床になっていたのではないかと、というか今でもそれはあります。(日本のJALなども同様かと)
そして経済学者や政治学者たちは人間本性への悲観論を述べ続けてきたのです。
たとえばカントは
人間性という曲がった材木から、真っ直ぐなものがつくられたためしはない。
とまあ、幾つもの例を引き合いにだしながら、警戒の念を強めていくダビドウ氏。
とくに開眼するような類のものではないですが、一応3つの対応策を挙げています。

①正のフィードバックの水準を下げ、それが引き起こす事故を減らし、思考感染を緩和し、予期せぬ結果を全体的に減らす。
②より強固なシステムを設計し、事故を起きにくくする。
③すでに存在する結びつきの強さを自覚し、既存の制度を改革してより効率的かつ適応度の高いものにする。


訳者あとがきでは過剰結合状態にない状態を考察しています。
例えば、日本の鎖国時代、現代でいえば中国のフレキシブルな社会主義体制。
ただし、このグローバル資本主義の網の目に一度でもかかれば、もう逃れられないではないかというのが私見です。
ときたま聞く議論で、宇宙人の強襲で地球滅亡の危機に直面する以外、究極の世界平和(たとえば世界政府の設立)はありえないのではないかという...あながち、間違っていないのかもしれません。