Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
ラベル フロイト の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル フロイト の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年5月28日水曜日

映画「インセプション」クリストファー・ノーラン監督作 10'(2回目)


公開時に劇場で観ました。
昨晩、なぜか突然みたくなりiTunes Storeで衝動購入。

一度観て、大筋のストーリーが覚えていました。
そしてエンディングが物議をかもしたことも記憶していました。
なので、エンディングに連なる物語や設定のプロットを見失わないように注意深く鑑賞しました。

結論からいうと、ラストの年老いたサイトー(渡辺謙)との対話シーン、そして離れ離れになっていた子どもたち(フィリッパとジェームス)との再会シーンを現実(第0階層)と捉えるか、未だ夢の中ととらえるかは自由だということです。
おそらくクリストファー・ノーラン監督は意図的に受け手に解釈を委ねるために、ほんとうはどっちなのかを決定づける要素を省いたのではないかと思うのです。
個人的な見解でいうと7:3くらいで現実の方がありえそうだと踏んでいます。(深い考察はここでは避けます。既にそういったサイトがあります⇒映画「インセプション」徹底解説サイト

多階層という設定はユニークでおもしろいのですが、僕も時々考えてしまいます。
現実が夢をみるのではなく、夢の中の自分が見ている夢がじつは僕が現実だと思っているものなのではないかとか、「Avatar」のようなべつの肉体が仮想状態でみているヴィジョン=自分が"現実"と思っている世界、など。
夢とはほんとうに不思議なもので、無限に解釈を与えうるもので、フロイトが真正面から解き明かそうとしたのも頷けます。

夢と夢解釈 (講談社学術文庫)夢と夢解釈
ジークムント フロイト,Sigmund Freud,金森 誠也

講談社
売り上げランキング : 427938

Amazonで詳しく見る

あとよく思うのが、時間軸の最先端にいる自分はすでに死んでいて、(よくいうように死ぬ瞬間にこれまでの過去が一気に走馬灯のごとくフラッシュバックするという)その思い出している場面に"今この瞬間"の自分はいるんじゃないかとか。
これに託つける形で決定論とかデジャブとかも考えると妙に腑に落ちたり。

それとか、(これは「インセプション」のオチとしても考えられるのかもしれないけど)そもそも現実自体が長い夢なんじゃないかということ。
ある日、突然だれかに肩をゆすられて(この映画でいえば"キック"で)目覚める。(「なんて長い夢だったんだろう!」と)

そして、死んだらどうなるのか。
アメリカにいたときに、同居していたメキシコ人のやつと眠れなくて、ひたすら話し込んでいたときに、死生観に話が及びました。(どれだけ話し込んだんや、という感じですが笑)
彼はいわゆる生まれ変わり、輪廻転生的な考え方を採用していたのですが、そのプロセスの考え方が面白かった。
向こう側にうっすらとした光の筋が見える。
そこに向かって歩いて行くと、輝度は増していき、目を開けるのも難しくなっていく。
とにかく、光の中に飛び込むと、そこには新しい人生が待っている。
つまり、光というのは子宮というか膣の内側からみえる外界の光ということで、そこへ向けてあるいていくイメージをすでに持っているというのが面白いなと。

インセプション [DVD]インセプション
レオナルド・ディカプリオ,渡辺謙,ジョセフ・ゴードン=レヴィット,マリオン・コティヤール,エレン・ペイジ,クリストファー・ノーラン

ワーナー・ホーム・ビデオ
売り上げランキング : 1197

Amazonで詳しく見る


2014年1月2日木曜日

【翻訳記事】ハーバードの卒業生を75年間追跡調査してわかった、幸福な人生を送る方法


2009年6月、『The Atlantic』は表紙で大々的に、人間の形成過程を追った最も長い調査のひとつである「グラント・スタディ」を扱った号を発刊した。

このプロジェクトが開始されたのは1938年。ハーバード大の卒業生の男性268名を75年にわたって追跡調査し、人生の繁栄にとって何がもっとも大切な要素なのかを見極めるために心理的、人類学的、またはその人の性格やIQ、飲酒習慣、家族との関係性、はたまた陰嚢(註1)の長さに及ぶ身体的な特徴など驚くべき広範囲で調査は行われた。

註1: 陰嚢とは精巣(睾丸(こうがん))を包む皮膚の袋。

つい最近、この調査を30年以上に渡って主導してきたジョージ・ヴァイラントは研究から引き出された洞察をまとめた『経験の勝利』を出版した。その本の中でこのような一節がある「酒が大きな破壊を導く不秩序の原因である」。グラント・スタディの中で明らかになったのはアルコール(飲酒)が離婚の最も多い要因であったということ―これは神経症や鬱とも強い関係性がある(飲酒の度合いが過ぎると上記の症状を起こしやすい)。加えて、喫煙も悪い要因となりうる―タバコ単独でも種々の病気の罹患率を高めるし、寿命を縮めることになる。ある一定のレベルを越えると、知性は関係なくなるのである

IQ数値が110〜115の男性とIQ数値が150以上の男性の間の生涯年収に有意差は認められなかった。年老いた自由主義者はより多くのセックスをする。政治的イデオロギーは人生の満足度とそれほど関係がないようだ。しかし、最保守層の男性が女性と肉体関係を平均68歳で断つのに対し、最もリベラルな層の男性は80代に入っても活発にセックスを行なっていた。「泌尿器科医に相談してみたんだ」ヴァイラントは語る。「だけど彼らにはまったくもってなぜか分からないらしい」。

ひるがえって、ヴァイラントが立ち返り強調するのは"老年期の健康"と"あたたかな人間関係"の強力な相関性が幸福を形成するということである。2009年に出版された『The Atlantic』紙上の記事への批判を受け、1960年代より集積してきたデータを見直した結果、以前にも増して人との関わりが人生で最も大切な要素であることを確信していった。

たとえば、「あたたかな人間関係」という項目で最高得点を獲得した58歳の男性は給与が最高に達する時点(一般的に55歳から60歳の間)で最低得点をだった31歳の男性よりも平均で年間141,000ドルも多く稼いでいた。前者は後者に比べ、職業上で3倍ほどの成功を上げており、これはWho's Who(註2)に収まる価値がある。

註2: 米国の出版社による紳士録。1899年以降の著名人を収録。

導かれた結論はきっとフロイトを喜ばせることだろう。研究結果によると、母親とのあたたかな関係性が大人になった後も持続的な影響を持つというのだ。具体的には:
  • 母親とのコミュニケーションが希薄だった男性に比べ、母親と親密な関係を持って幼少期を過ごした男性は平均で年間87,000ドル多く稼いでいた。
  • 母親との関係性が乏しかった幼年期を過ごした男性は認知症にかかる可能性が圧倒的に高かった。
  • 職業上の生活も半ばを過ぎてくると、父親ではなく母親との幼年期の関係性が仕事での能率性に影響を与えていることが明らかになっていった。
  • 一方で、父親との良好な関係は大人になったときに不安感を抱きにくくなり、休暇により多くの楽しみを見出し、75歳時点でより多くの満足感を人生に覚えている。逆に、母親との幼年期におけるあたたかな関係性は75歳時点の人生における満足感にはそれほど大きな影響を持っていなかった。
ヴァイラントの研究におけるキーワードは彼の次の言葉に集約される。「この75年間とグラント・スタディに費やされた2,000万ドルはたった5つの言葉からなる結論に行き着く」:「幸せは愛である。たったそれだけ(Happiness is love. Full stop.)」


著者(Author):Scott Stossel

※大筋の本意が伝わればと思い、爆速でザックリとに訳しているので、多分に意訳を含んでいます。誤訳や内容での指摘があればコメントお願いします。なお註釈は、僕が個人的に加えたものであり、BUSINESS INSIDERの原文にはありません

2013年1月23日水曜日

存在証明としての『卒論』


昨日、無事に卒業論文を執筆完了し、提出することができました。
論題は『「想像の共同体」リベラル・ナショナリズムの視角からの再検討―差異の世界における正義の探求』です。
(なぜこういったテーマを選択したかについては、後述します)
自分のための備忘録のためにも連々思うところを書き殴っておこうと思います。

i. 卒論独特のハードさとその対価


正直、執筆途中でいくども挫けそうになりました。なんてゆう大風呂敷を広げてしまったのだろうと。(これでもまだ絞った方で、当初はこんなモノにしようかと思っていました)
でも書き終えた今、沸々とした充足を感じています。

はっきり言って、卒業論文はこれまでの課題とは比べ物にならないほどの苦行でした。
大学で課される課題にはあくまでも「カクカクシカジカ」の課題内容が明示されています。アメリカ留学中に書いたターム・ペーパーも分量という意味では日本とは比肩できない過酷なものでしたが、教授が求めているものを言われた通りに提供すれば、それなりの評価を受けることができるのです。
卒論をハードたらしめるのは、課題設定から自分で行わなければならないということです。

力を抜こうと思えば、いくらでも抜けるとは思います。
本やウェブからササッと要点やアイディアを拝借し、パッチワークのように配列するだけですから。
そして「卒論代行業者」なるものまでありますからね。。「意思あるところに道あり」ならぬ「ニーズあるところにビジネスあり」のような。倫理的にグレーゾーンだと思いますが。。

しかし、①トピック選び②課題設定にこそ、個人が身に付けるべき能力の源泉があるのだと思うんです。③文献読込④執筆は副次的なものだと思います。(もちろん一筋縄ではいかないのですが)

明確に定まった期限の中で、もがきあがき、自分の限界突破をしていかなくてはならない。背中にのしかかる重圧。
なんだか、受験期と同じような感覚でした。
強制装置の中に身を置くことは、やっている最中では拷問のようでも、終えてしまうと解放感以上に達成感を得られる気がします。
「もう二度と受験はしたくないけど、人生一度の中で経験しておいて良かった」というような。
受験勉強はある意味で易いのかもしれません。レールに沿って(たんたんと参考書や過去問を消化していく)
論文を書くということは(ある程度の定型があるにしても)自らでレール自体を敷設しなくてはならないのです。

そもそも日常生活で自ら、自分自身に、このような緊迫したシチュエーションを課してストイックに打ち込めるほど精神的に強靭な人もなかなか居ないのではないかと思います。
だったらいい機会だと思って遮二無二に取り組んでみるほうがよっぽど得策なんじゃないでしょうか。

ちなみに「思考することは、相当カロリーを消費するらしいです」。(ソース

ii.敵は知の巨人ではなく自分自身


学部生の論文にそれほど教授だって期待はしていないでしょう。四年間で身に付けられる知識には限りがあるからです。そう言う意味で、あくまでの卒論は自分との闘いなのだと思います。少なくとも僕はそう自分に言い聞かせていました。

脳ミソからポタポタ充溢する断片を穴だらけの網ですくい取っていく孤独な作業。(収集力のしぼりを最大出力に)
自分自身との繰り返されるディスコース、ダイアローグ。
そもそも僕らが既存の理論、知のフロンティアに付け加えられることなんて、雀の涙にも満たないほどのものだと思うんです。

知の巨人たち(たとえばカントやルソー、スピノザからフッサール。ウィトゲンシュタイン、フロイト。ヘーゲル、ウェーバー、マルクス)が積み上げていった思考、峻厳にそびえ立つ山々を前におののき、閉口するしかないんです。
彼らの著作に真っ向面から対峙しながら、己の無知を痛感しては謙虚さを学んでいく。
一歩一歩、這いつくばりながら、ほふく前進で荒野を進んでいく。
時代を越えて彼らと対話できる、そこに読書の神聖さが蔵されている。

それでいて、難解な本も読み進めることそれ自体は至極簡単なんです。
読んだ気になればいいんですから。
なにより、それを自分のペーパーに落とし込むのが晦渋で痛みを伴う作業なんです。
それでも「ただ本を引用しただけ」だとか「ほとんど自分の言葉で語れてない」だとかばかりを憂慮する必要もないと思います。
まず言葉なんて誰のものでもないからです。カントだって、ルソーだって、彼らの前の時代から語られていた先輩の言葉を借りていただけなのだから。
なによりも滔々と先代から受け継がれてきた「知」の源流から水を汲み取ろう、吸い取ろうとするその姿勢が大事なのではないでしょうか。(これについてはまた別の機会で違うブログエントリーで考えてみたいです)

iii.意味がありそうで意味がないティップをいくつか


机に向かって、幾度あたまを抱えたことでしょう。
それでもまだまだ僕らは恵まれていて、パソコンで書くからデリート、リライトおちゃのこさいさいです。手書きで書いていた時代の人に心から敬服します。(今でも手書きで書くところももちろんあると思いますが)
とはいえ、卒論を書き始めてから折り返し地点でデータを消失し、バックアップをとり忘れるという悲劇に見舞われたのでした。愚の骨頂ですね、はい。
それ以降はDropboxに常時バックアップをとるようにしました。(ちなみに「卒論 消えた」でツイート検索をかけると戦々恐々とします)

執筆でもっともクリエイティビティが問われるのは個人的に「構成」ではないかと思っています。構成は読者のみならず、筆者をも導いてくれるロードマップなのではないかとの思いに、執筆中おもい当たりました。
逆に言えば、構成こそ固まれば、後は書くのみなのです。


僕はWordではなく、Pagesで書いていました。操作性も体裁も断然好きです。
図を用いるときは、Pages内で作成するよりもKeynoteで作成したものを画像保存してPagesにまた持ってきたほうが便利だし、楽です。(※後から図の中の文字を編集することはできません)これについては「Keynote: 画像作成もできてしまう最強プレゼンアプリ」にあるインストラクション動画が参考になります。(@HIRO_YUKI_いろいろアドバイスありがとうございました)
あとはPagesで作成したものをPDF化して印刷すると上手く印刷されないことがあります。その際はページ自体を「画像化」するといった解決方法があります。詳しくはコチラを参照。

英語文献参照される方はGoogle Scholarかなりオススメです。
にしても今じゃKindleがあるから洋書へのアクセシビリティは昔とは比べ物にならないですよね。英語の書籍の場合、かなり電子化すすんでますから。iPadでもiPhoneでも読めます。

という訳で、この一ヶ月くらいはバイトもせずに卒論に打ち込んでいました。
最後の三日間くらいは椅子に座り込み、机に張り付いていたので腰が砕けかけました。笑
同じ姿勢でずっといるのも不健康だと思い、「体が硬い人のためのヨガ」という本を買い、一人で実践していたら、だいぶ柔らかくなりましたよ。笑



iv. ぼくの論文について
これは読み飛ばしてもらっても、斜め読みでも構いません。
目次はコチラ。構成としては、「想像の発明」→「想像の更新」→「想像の先にあるもの」と一応、それぞれがそれぞれへの橋頭堡となるような経路をたどるようにしました。

特に一章で『想像の共同体』二章で『ナショナリティについて』三章で『国際正義とは何か』がとりわけ中心的なテクストとなりました。
参考文献のリストはコチラ

論文は70頁を越え、文字数も8万弱と膨大なので、ここにすべてを掲載することはできないんですが、序章、終章だけをかいつまんだものだけ。(とは言ってもかなりの量なので、興味のある方だけ文字を大きくしてみてみてください。Macであれば⌘と+です)
序章―パラドキシカルな世界のなかで

 グローバリゼーションが加速度を断続的に逓増させながら進行している。ところが、世界は単純に収斂しているというよりは、同時に分裂するという背理の様相を呈している。このパラドキシカルな現状をいかに捉えるのか。近代以降、「世界」の中心的役割を担ってきた「国家」はいかなる存在に変容していくのか。本論の問題意識はこの点に発露を持つ。
 「地表に国境も国家もなかった」というのは宇宙飛行士の常套句である。国境も国家も所与の被造物などではなく、歴史的に段階を経て構築されていった政治的人工物であることを我々は知っている。「この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」とB・アンダーソンは凄惨な戦禍の原因としてネーションを名指しし、その底流にあるのが「想像力」であると喝破した。リー・クアンユーは「文化は宿命である」といい、アマルティア・センは「アイデンティティは選択可能であること」を強調する。私は両者の主張に部分的な正当性をみる。アンダーソンが論じるようにネーションが「想像力」を機軸に展開されるものであったと措定しても、それが人びとのアイデンティティを照射し、生における決断や行動に与えている影響には無視できないものがある。ネーションには「虚構性」「物語性」を超越した意義があるのか(①)。センの主張(アイデンティティは理性によって選択可能である)を吟味し、アイデンティティが多面的かつ重層的に成立するものであるとの前提の元、「ナショナリティ」は人びとの中でどのような位置・規模を占め、どれほどの実体性を持つのか(②)。
 ①~②の基本的クエスチョンに、アンダーソンの『想像の共同体』をリベラル・ナショナリズムの視点から批判的に再検討を加えた第一章(「想像」の発明―『想像の共同体』の批判的再検討)とD・ミラーの『ナショナリティについて』を中心テクストにリベラル・ナショナリズムの射程と可能性を検討した第二章(「想像」の更新―リベラル・ナショナリズムがもたらすブレークスルー)で回答を試みる。
 一、二章を踏まえた上で、コスモポリタニズムとナショナリティの共存性についても考察したい。間断なく広域的にグローバリゼーションが進行・滲透するなかで、ナショナリティは衰退または変容しているのか、していくのか。また、コスモポリタニズムとは本質的に相容れないものなのか(③)。「ナショナリティの原則」を基盤に、差異からなる世界の中で探求されるべき正義の形態とはいかなるものか(④)。
 ③~④の基本的クエスチョンにD・ミラーの「弱いコスモポリタニズム」やM・ウォルツァーの「広く薄い道徳」などに手掛かりを求めながら事例を交えつつ論じた。①~④の基本的クエスチョンの経路はそれぞれが次の疑問へと架橋するようなプロセスをとっている。
 高度にグローバル化を遂げた世界で台頭する多文化主義、揺らぐアイデンティティ、このような文脈におけるナショナリティ、ひいてはナショナリズムの位置を確認し、『想像の共同体』から約三十年が経過した現代に構想されるべきナショナリズム論を導出することが本論文の企図するところであり、客観的意義であると思われる。 
終章―よりよき世界をデザインすること

 世界は現在、パラドキシカルなシチュエーションにある。これが本論文の問題意識の発露であった。グローバル化が進展して久しい今日にこそ、人々の間に連体意識をもたらし、再分配的福祉や万人にアクセスのしやすい文化環境を提供するナショナリティの機能を再考する必要があるのではないかとの考えから、「ネーション」を始原から見つめ直し、「差異の世界における正義」を探求してみたいとの思いに至った。

 時折、ブラウン管を通して目の当たりにする、同年代と思しき少年・少女が栄養不足からか、痩せ細り荒野の上に横たわりながら弱々しくカメラのレンズを覗き込む虚ろな眼球が幼心に私の脳裏に刻み込まれた。彼らは望んで窮状の中に身を置いているのではないし、私は自分の意思でこの飽食の日本に産まれ落ちたわけでもない。彼も彼女も私も、この大いなる偶有性の大海に生を授かり、「国境」という作為的に敷かれた分断線を境に運命を規定されていることに疑義を抱いたのであった。
 このような曖昧模糊とした世界に対する不信感が、常に私の心の片隅にもたげていた。「国境」の内と外の世界を間近に生活したアメリカでの二年間の留学体験を通じて、私の関心は更に深まっていった。大学において国際政治の学びを深める過程で、「グローバルな不平等」や「構造的不均衡」が私の想像を遥かに越える根の深い問題であることを痛感した。
 そして、本論文を書くきっかけを与えてくれたのはアンダーソンであり、ミラーであった。彼らの怜悧な洞察は「正義」や「国家」に対する思考のフロンティアを拓いてくれた。アンダーソンは「想像」を媒介にネーションが成立し、国民間の紐帯を醸成していくプロセスを鮮やかに描き出し、ナショナリズム史にパラダイムシフトを巻き起こした。ただ、そこでは「ネーション」には実際にどの程度恣意性を越えた「実存性」があり、私たちの生活を規定しているのかということまで踏み込んだ議論がみられなかった。そこで次にヒントを求めたのがミラーをはじめとしたリベラル・ナショナリストの理論である。
 ミラーはナショナリティのみが利害、イデオロギー、社会的理想、教育制度、世代、文化的出自、社会階層などの点で異なる人々が、差異を越えて継続的に協同できる安定的紐帯を私たちにもたらすといい、「ナショナリティの原則」が国内社会のみならず国際社会をも規定していることを説得的に論じてみせた。
 コスモポリタンらは高度にグローバル化を遂げた今の世界にあって、「ナショナリティ」を越えた「グローバルな義務」に私たちは向き合っていかなければならないという。一見、このような正義感に満ち溢れたような力強い決意・要求に私たちは首肯しそうになる。ただ、グローバル化時代にだからこそ、ナショナリティの自覚化および再活性化が求められるべきなのではないだろうか。
 ミラーが構想する枠組みで目指すべき国際社会とは、各ネーションが自決権を持ち、各々の最も馴染みやすい社会正義の構想を実現しうる環境が整備された場である。国際社会における義務とは一義的に、基本的権利を侵害されたり搾取を受けたりしている人の状態を改善すること、また、逆境に陥いり恵まれないネーションに対し、自決し独自の社会正義構想を実現することを目指すことを可能にする機会を与えることなのである。無自覚なコスモポリタニズムや無作為な援助は、どんな挑戦に直面しているのかを自分で決定することこそ、挑戦の媒介変数であるという視点を見落としている。
 ウォルツアーが「分離・離脱、境界線の変更、連邦化、地域的な自治あるいは機能的な自治、文化多元主義。それぞれの場所のために沢山のデザインがあり、たくさんの政治的な可能性があるのであって、あれやこれやの場合にその一つの選択をしても、それが必然的に他の全ての場合と同じ選択になると考える理由はない」というように、「正義」も「道徳」もその多様性を見失ってはならないのだ。鳥瞰的かつ広量的視野に立脚して世界はデザインされなくてはならない。
 すなわち、焦眉の急で取り組むべきはナショナリティの解消を目指すのではなく、ナショナリティの在り方を文脈に合わせて批判的に検討し、より公正な形態を求め、ナショナリティおよびその政治の再構成を試みる作業なのではないかということだ。それは、跳梁跋扈するグローバル規模で蔓延する不平等を等閑視することではない。
 まず倫理的な構想・合意があってはじめて、国際的な制度や国際的な公共政策をはじめとした正義に適ったグローバルな枠組みが構築できる。「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることにもはや何の価値もない」というカントの言葉は勇気を与え、私たちを前進させてくれる。想像を媒介に「国家」私たちは国家を創り、維持し、安寧を享受してきた。アイデンティティの偶有性を相互に受容し合い、想像の範囲を拡張・更新することから「差異からなる正義」は創造へ向かっていくのではないだろうか。

v.その他、雑記
卒論の休憩中は数分の場合はタバコを吸うくらいでしたが、まとまった時間休憩するときや「卒論を今日は切り上げる」と決めたらベッドに横になりながら、iPadでひたすらYoutubeにかじりついていました。動画をみながら寝落ち、気持ちいですよね。

文献読込期間はひたすら「ガキ使」「ダウンタウン」関連を。執筆期間は「有吉」関連をシラミ潰しにみました。モチベーション維持のためにも息抜きも必要だと思います。
そして挫けそうにになったら魔裟斗のドキュメンタリーをみていました。笑

あとなぜかKyleeにハマッていました。ぼくJKみたいですね。笑
スタンフォードの学生だなんて知らなかった。

最後の追い込み期間はべつに禁酒を意識したわけではないのですが、お酒を飲みませんでした。だから今日、提出して、ゼミのみんなで小打ち上げみたいな会でビールを飲んだときは気絶しそうな程美味しく感じました。
「世界一のお酒を見つけました。それは必死で働いたあとのお酒です」というミスチルの
なにごとも一定の期間を空けるとその威力、ありがたみに思い知らされます。
禁煙失敗して久々に吸うタバコ、高校生のとき大好きだった音楽をひっさしぶりに聴いたとき、アメリカの長期留学を経て食べる日本食(特にラーメン)。なんだってそうです。
なにか自分で決めてそれをモチベーションに頑張るのも一つの方法ですよね。
ゼミの子はご褒美にマッサージに行くことを決めていたらしいです。

ぶあーっとここまで一気呵成で書いてしまいました。
卒論を書いたおかげなのか、この分量でも一気にほとんど立ち止まらず書けました。

卒論も終わったので思いっきり運動したいです。それに観たかった映画をみて(早速、今週"TED"と"LOOPER"みにいくつもりです!)、小説もたっくさん読みたい。お酒もグビグビ。

【参考エントリー】
そういえば去年、こんなのも話題になってましたね。

最後に同じゼミで共に卒論を提出した方が管理するこの人から一言いただきましょう。

(@Itagaki_dead)

2012年1月11日水曜日

読書『一般意志2.0- ルソー、フロイト、グーグル』東浩紀著

Schism/ Tool


東さんの本を読みました。
まずは本のテーゼを切り取ってみます。

①近代民主主義の基礎である「一般意志」は集合的な 
無意識を意味する概念だということ。

②情報技術は集合的な無意識化を可視化する技術であ 
り、したがってこれからの統治はその分析に活かすべ 
きだということ
これが本著の中核をなす2つのテーゼです。
著者は抽象論に陥らないために逐次、具体的事例に則りながら論を進めていきます。

ソーシャルメディアの台頭に伴い、わたしたちは日常で無数の「無意識」をバラまくようになりました 。
ツイッターでは「なう」に代表されるように、今現在自分がいる場所を何の気なしに呟き。ニュースや政治にぼやく。ネットが無意識の可視化装置として機能するようになってきたということです。
それらの「無意識」の塊を集積することは同時に、それらを「集合知」「群れの知恵」に変換できる時代になったのだと東さんは指摘しています。
「一般意志は政府の意志ではない。個人の意思の総和でもない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である」
ということには「一般意志」の提唱者、ルソーは気づいていましたが、ルソーが生きた時代にその一般意志を可視化する手段はなかったのです。グーグルもなければ、もちろんツイッターもありません。

グーグルを手にしたわたしたち現代人。政治は停滞を迎えて久しくなった状況の中で、情報技術は変革をもたらせるのか。東さんは提案をします。
「これからの政府は、市民の明示的で意識的な意思表示(選挙、公聴会、パブリックコメントなどなど)だけに頼らずに、ネットワークにばらまかれた無意識の欲望を積極的に掬い上げ制作に活かすべきである。」
「21世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議により抑え込む国家となるべきではないか」 
「政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は、意識と無意識、熟議とデータベース、複数の「小さな公共」と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として構想される」
「現代においては、選良と大衆という人間集団の対立があるというよりは、ひとりの人間が、あるときは選良として、またあるときは大衆として社会と関わっていると理解したほうがよい。「大衆の欲望」は、その各人の大衆的な部分の集合として形作られている」
情報技術の文脈で語られる民主主義として紋切り型に語られるイメージは「電子投票」のように現代のような間接選挙、議会制を脱却した「真の意味での国民主権」を強調したものがありますが、本書ではそういった論ではないのだということを繰り返し強調します。
もちろん政治が大衆の手に渡るということは「衆愚政治」に陥る可能性が高いからです。
しかし、世論とあまりにも乖離した選良による統治も理想の政治とは到底言えません。
そこで筆者は上記のようなその二つを接合する、中立的なシステム(アーキテクチャ)を構築する必要がある、構築できる段階に至ったことを説明します。
「来るべき国家においては、有権者が責任をもって民意を託す選挙、およびそのまわりに張り巡らされる熟議の空間(各種審議会、委員会、討論会、パブリックコメント、さらには論壇誌やブログ、そしてテレビ- すなわち国政を頂点として組織される膨大な言論空間)とは別に、大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置が準備されなければならない」
「人間と動物、論理と数理、理性と感情、ヘーゲルとグーグル- それらさまざまな対立を「アイロニー」で併存させ、接合したところに、本書が構想する民主主義2.0は立ち現れる」
「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。それが本書が構想する未来世界の公理である」
去年ジョン・キム先生の『逆パノプティコン社会の到来』という本を読んだ時に、キム先生は緻密な分析からソーシャルメディアの変革で社会の構造的変化を描き出していました。



本書では、そういった状況の中で何をどうすれば政治のあり方を変えられるのか、もう一歩上の未来志向な議論であると感じました。
「日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか」
といった問題意識を出発点に論を書き始めたそうです。
専門が思想ということで縦横無尽に先人たちを参照しながら、豊富な情報技術論の知識と接合しながら政治を論じています。このように対照的な領域を不自由なく横断的に論ぜることの出来る論客は日本ではわずかだと思います。
時代と照らしてみると、東さんのように一つの専門から抜け出し、インターディシプリナリーに事象を捉えないことには「カオスの泥濘」から一歩を突き出すことが難しくなりつつあるのではないかと感じた次第でした。



大学生ブログ選手権