Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年5月5日火曜日

読書『さまよえる近代―グローバル化の文化研究』アルジュン・アパデュライ

さまよえる近代―グローバル化の文化研究グローバリゼーション研究(とりわけ文化研究寄り)の学問的ブレークスルーというか、一つの嚆矢となったであろうアルジュン・アパデュライの代表的著作を読了。6年間分の論文をまとめたものというだけあり、各々がわりと独立性を持ったトピックを扱ってはいますが、根底にはグローバリゼーションが進行し、単にネーションが衰退したり、興隆したり、という現象をみせているだけでなく、まったく違うレベルでトランスナショナルな情況があると主張。有名なのは①エスノスケープ(民族の地景)②メディアスケープ(メディアの地景)③テクノスケープ(技術の地景)④ファイナンススケープ(資本の地景)⑤イデオスケープ(観念の地景)というようにグローバリゼーション下の文化フローを5つの次元に輪切って把捉しようという提言をしたこと。グローバリゼーションに注目するということは、必然的に「ローカリティ」にも目を向けるわけですが、ぼくの指導教官でもある吉見俊哉先生が解説で簡潔にまとめていらっしゃった箇所が非常に分かりやすく、腹落ちしました。「ローカリティは、常にコンテクスト被規定的であると同時にコンテクスト生成的でもある。それは諸々の物理的-技術的な媒介によって条件づけられていると同時に、そのような媒介的な場を絶えず作り出し、グローバルなものに介入してもいるのだ」繰り返し注意を向けていたトランスナショナルな次元での新しい諸問題が生起するといっていたことと、今日イスラム国が跋扈している現状を合わせて考えると、どこか不気味な様相を呈しています。

2015年5月4日月曜日

読書『二十歳のころ』(Ⅰ・Ⅱ)立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ編

二十歳のころ〈1〉1937‐1958―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫) 二十歳のころ〈2〉1960‐2001―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫)

大好きな本ですね。できれば中三〜高校生の方々に読んでいただきたい。ジャンルにとらわれない、有名無名さまざまなインタビュイーを東大生が取材していく。ぼくは元来自伝とかバイオグラフィー、人の半生に触れるのが大好きです。なにより自分自身を「相対化」することができるんですよね、他者のレンズを通すことで。あとは違う時代を生き抜いた人々の証言には、時代の臭いがプンプンする。この本で特に熱情を持って語られるのは全共闘時代ですよね。気になった人に関しては、今なにをしているのか、著作はあるのか、都度調べたりしたのですが、当然亡くなられている方も少なからずいて、「さあ、どうやって生きていこうか」と自己反省的に読書を進めたのでした。

2015年5月3日日曜日

読書『白本』『黒本』『青本』高城剛著

白本 黒本

歩きながらサクッと高城さんのメルマガ本を読む。内容的には高城さんのグローバルなノマドライフから得たライフハック的な知見から、断捨離的なマインド、徹底した日本のマスメディアへの不信感(とくに黒本ではテーマとなっています)、そしてときにスピリチュアルへと、軽やかに氏の私見を披瀝していきます。
良い悪いは抜きにして、迷える子羊にとっては箴言なまとめなんだろうなあ。


青本

『黒本』『白本』がオープンスタンスでジャンルを問わず回答されているのに対して、『青本』が話題にするのは旅に関連する質問のみ。
その中で、行ってみたいなと思ったのはスリランカのアーユルヴェーダですかね。

2015年5月1日金曜日

読書『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 』(上・下)ダニエル・カーネマン著

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ダン・アリエリーの行動経済学の著作をはじめ、人間の認知の誤謬というか、臨界点を学術的に洗った著作は知的好奇心をそそられますよね。特にカーネマンはノーベル経済学賞を受賞しているだけあり、論理の組み立て方が非常に勉強になる。とくに本著は一般大衆向けに書かれた本なので、軽妙な筆致で書かれており読んでて飽きがこない。この本で終始一貫して取られてる論法はタイトルにもあるように、速い思考/遅い思考。基本的に人間は直観に基づく速い思考のなかで生活を営んでいるが、もちろん熟慮・戦略が求められる遅い思考も同様に必要となる。
認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている。
とくになんとなくこれまでに感じていた人間の不合理性や自分の都合のよいように物事を曲解して解釈しようとする習性に違和感は持っていた。それに対して、学術用語=フレームを当てて、説明されるとその分、納得感も倍増。たとえば「利用可能性ヒューリステックス」(availability heuristic)なんかはその一例。
直接は言及されていなかったけれど、このタイミングでこの著を一般向けに書くということは、それなりの意図があったのではないかと思う。
自分の実感値として、すぐに思い浮かぶのはやっぱり「Google」の存在。ちょっとした分らないことに遭遇したときに作動するのは速い思考でもなく、遅い思考でもなく、検索エンジンだったりする。当然、これが日常化すれば人間の思考力は後退していくわけで、暗にこういった現況に警鐘を鳴らしているのではないか。

カーネマンじゃないですが、アリエリーのこの動画はたまに観るようにしてます。


2015年4月29日水曜日

読書『グローバリゼーションの文化政治』テッサ・モーリス=スズキ、吉見俊哉編

グローバリゼーションの文化政治 (グローバリゼーション・スタディーズ)指導教官の先生が編集なさった本を読む。やっぱり出自が政治経済ということもあり、文化研究、カルチュラルスタディーズのパースペクティブから「グローバリゼーション」を読み解いた著作は読んでいて新たな発見が多い。ただ、学問が違えど、グローバリゼーションが孕む自家撞着性に行き着く。すなわち、グローバルでヒト・モノ・カネが行き交うなかで、ナショナリズムが台頭してくるということ。あとは帝国/周縁というフレームワークが多用されがちななかにあって、視点をズラすと、"トランスナショナル"という新たな位相が浮かび上がってくる。アメリカン・ヘゲモニー、ディアスポラからピジン語、インドカレーまで幅広くマクロ/ミクロにグローバリゼーションを論じた本書で印象的だったのは、大半の論者がアパデュライの論考に一度は論及していたこと。まあ出版年度が2004年というのも関係しているんでしょうね。

2015年4月19日日曜日

読書『社会学』アンソニー・ギデンズ著

社会学今更ながらギデンズの『社会学』を通読しました。学部生の専攻が国際政治だったこともあり、社会学の教科書をちゃんと読んだことがなかったのです。しっかりと入学前に読んでおくべきでした。改めて社会学という学問が射程にする領域の広量さに刮目するとともに、ギデンズが先鞭をつけた“構造的”な思考法。社会学的想像力を働かせて、日常で所与として意識化されないことに構造を発見し、問題を前景化させていく。本著では特にグローバル化とジェンダーに意識的に目配りしながら、22個のトピックを解説していきます。もちろん社会学が問題にする全てのイシューは網羅できるはずはないのですが、主題となっている論争を一通り鳥瞰することは可能かと思います。そういえば社会学的想像力でいえば、『社会学 ウシジマくん』が印象に残っていますね。

2014年4月5日土曜日

読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?


友人から脈絡もなく、「普段どうやって読書をやってるか」また「どうやって内容を自分自身に内在化させているか」というLINEが届きました。
それに滔々と答えているうちに、かなりの分量になったので、コチラにも残しておきます。

とのブログを1年前にも書きました。
読書に対する姿勢はこの時からそれほど変わっていません。

Ⅰ. 残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

①「時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか」そして③「「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
この2点を突き詰めていくと、単純に読書量を増やせば事足りるということでもない気がしてきます。
高校生のときまで、いや大学1年生くらいまで、ひたすら乱読に耽っていました。
ある意味で向こう見ずに、闇雲に、濫読するという行為は"若いうちは"奨励されるべきことなのかもしれません。
自分自身の中で、れっきとした興味・関心の方向性を自覚していたとしても、それはこれまでに出会った絶対的に限定されたインプット量から導き出された"とりあえず"のインタレストでしかないわけです。
社会は進めばすすむほど広く、先人たちによって積み重ねられてきた知の塔はあまりにも高い。
こと読書に関するかぎり、死するまで"飽く"ことないであろう蓄積がある。
(おそらくではありますが)知の巨人たちも例に漏れず、こういったプロセスを辿ってきたのだと思われます。

ところがです。
図書館で目を覆うほどに四方八方に所狭しと積み上げられた蔵書に囲まれると、未だ知らぬ知への高揚感から来る興奮と同時に、残された自分の生のうちで一体どれだけココにある本を読めるだろうかという圧倒的な虚無感と寂寞に身を抓まれます。

SNSから常時、垂れ流れてくるニュースや言説の束。
はたまた、あちこちから発信されるコンテンツ。
そういった情報のシャワーはできるだけ、積極的に多く浴びれば浴びるほどいいモノかと思っていましたが、少しづつ考えが変わってきました。
どれほどテクノロジーに進化がもたらされ、メディア環境が変容しようと人間の根幹的な部分はそれほど変化していない。
(たしかに寿命は延びたのかもしれませんが)基本的に1日24時間であるということ、基本的な認知能力に進歩はそれほどないであろうということ。



Ⅱ. どれだけ読むのかではなく、どれだけ読まないか

そうなると、インプットへも慎重になっていかざるをえません。
自分が欲している情報は何なのか、アウトプットを削ってまで得るべき情報なのか。
いかに多くの情報を取り込むのか、ではなくいかに多くの情報を得ないか」「いかに多くの本を読むか、ではなくいかに多くの本を読まないか」という視点が芽生えてきました。
もちろんそのためには必然的に「質 quality」を追求していく姿勢が不可欠になってきます。
量は質に転化していく」このフェーズを経たのちに、量そのものは減らし、質は向上させていというように、自分の読書遍歴を振り返ると思考をスライドさせてきたように思います。
上質な情報への直観的なな嗅覚センサーの精度を上げていく。(その意味で多くの知識人が唱道するように古典は概して"外れ"が少ない。歴史という苛烈な淘汰競争をくぐり抜けてきた書物だけに"古典"という冠が付与される)
ネットに氾濫する記事も、本に書かれた内容も、媒体はなんであれ、それを読み聞きしただけでは"インプット"にはならないと考えています。
それらはあくまで「生(raw)の情報 」でしかないのです。

そこで今回、一歩だけ踏み込んで考えてみたいのが上記のエントリーでいう②「咀嚼、消化、排泄、そして循環」です。



Ⅲ. アウトプットがあって、はじめてインプットがある

本を読むときは、いつも気になった箇所の写し書き、思考の補助線となるようなメモをとることを心がけています。
時間に余裕のあるときはこのブログにも読書メモ的ブログを残すことも長く続けています。

このような端的に言って"面倒くさい"作業にも、それなりの対価があります。
アフィリエイトといった雀の涙にしかならない収入はそもそも考えないとしても、わざわざ当該箇所をそっくりそのままタイプすることで知らず知らずのうちに自分の中にもそういった言葉や思考が受肉されていくのです。

パソコンなどなかった時代、多くの作家たちは修練の手段として、先人たちの作品の写経をしこしこやっていたといいますが、その感覚としては近いのかもしれません。
じっさいに手を動かすことで、脳にも刷り込ませていく。
「守・破・離」でいう、"守"にあたる部分です。

「いや、これはどうなんだろう」「こういう考えもあるのではないか」と批判的読書をする中で自身の考察も簡単に添えておくようにする。
読書とは筆者の一方的なモノローグではなく、対話であるべき行為です。
てんでバラバラに散逸した思考の破片を集めて、一つの論考としてまとめ上げる、いわゆる"アウトプット"。
質の高いインプットがあってはじめて、質の高いインプットができると考えられていますが、(少なくとも自分の場合)それは逆であると考えています。
アウトプットという行為を通じて、はじめてインプットへ至るということです。
両者は分かちがたく結びついた関係性にあり、"表裏"というより"円環"と言った方が精確かもしれません。
歴史学の大家であるイギリスのE・H・カーはかの有名な『歴史とは何か』の中で、このように述べています。
読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私は自分が求めているものを一層よく知るようになり、自分が見出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。
表題にした「残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるのだろうか?」という思いは常に、否定しがたく心のうちにあります。
そうであるなら、一冊読み終えたら、すぐさま次の一冊へ手を伸ばしたくなる。
でも、そこで一歩立ち止まってみる。

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ」という短いエントリーにも書いたように「はじめに」から「おわりに」の中では様々な筆者と読者の思索のやりとりがあったはずです。
それらに再び思いを巡らし、まとまりをつける。
自分の身内で思考をすり合わせ、言葉を与え、形にする。(ブログを書くというのは、思考を"箱"に入れるという感覚に近いかもしれません)
一度箱にしまえば、いつでも取り出すことができる。

ブログのタイトルにもしている「言葉を手にしていく感覚」とは、こうしたアウトプットから引き出されるインプットにほかならないのです。


2014年1月20日月曜日

2013年に読んだ250冊から選ぶ10冊のブックレビュー


新年あけまして、おめでとうございます。(今更ですが)
今回は、昨年に読んだ本から10冊ピックアップして、自分自身で振り返りつつ、ご紹介したいと思います。
新しい本を読む度にブログに書くとキリがないので、このように機会をみながら、まとめて紹介というか、キュレーションする方が効率が良いと思います。
(ですが、タイミングや、ぜひブログに書き残しておきたい場合は今まで通りに書きます)
くわえてどの本が自分にとって有益な血肉となったのかは、ある程度の時間を置かなくては分からないものです。(もちろん1年はそれでも短いのですが...)

さて、ログの方をみると昨年は250冊余りの読書をしました。
基本的にはブクログにメモや読書歴を書き残していますが、すべてという訳ではありません。

ではさっそく振り返りを。(尚、紹介する順序にとくに優劣はありません)

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1. 『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

いままで基本的にジャレド・ダイアモンドの本はフォローしています。
いわゆる「ビッグヒストリー」の本で、局所的限定的な歴史本ではないので、人類学的視座から歴史を見通すことができ、マクロな歴史観を得られます。
ダイヤモンド博士が長年の人類学的フィールド・ワークから導出した一つの帰結は、以下の言及箇所から引き出せます。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
普遍的と思われる価値観も時代や場所で変わります。
突飛な話になりそうですが、これを無理やり敷衍すると、ニーチェも同じことを主張していたと思うのです。
彼が絶対価値の転覆を挑んだのは、当時(そして尚、今も強い影響力を持つ)キリスト教を始めとする、人の拠り所となる宗教でした。その他、もろもろの確信的疑念を投げかけました。

なおこの本については、昨年7月のブログで取り上げました⇒読書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

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2. 『(株) 貧困大国アメリカ』堤未果著

(株)貧困大国アメリカ (岩波新書)

手軽だということもあり、新書も多量に読むのですが、昨年(2013年)に限っていえば、この本が僕的新書大賞です。
スティグリッツの一連の著作をはじめ、グローバル資本主義の悪弊や、それに真っ先に罹患し、格差が社会を巣食うアメリカ。
その内実をとことんまで抉った今著。
この本も昨年7月にブログで取り上げました。⇒読書『(株)貧困大国アメリカ』堤未果著
このエントリーから自分の感想の一部をいちおう引用
グローバル規模で資本主義が暴走していく中で、誰に「責任」を帰すこともできない。一度、この論理が作動して世界を覆っていく中で、国家なき「帝国化」とでもいえる様相が成立していく。軍産複合体、農業複合体、コングロマリット化は収まらない。とくに今著でも詳細にわたって、触れられている「強い農業」の錦の御旗の元に進められたアメリカにおける大規模農業が直面している問題群。たとえば養鶏業者の「デッドトラップ(借金の罠)。これは一つに収まり切らない数多くの問題が複合的に絡まり合いながら、存立している。
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3. 『ある広告人の告白』ディヴィッド・オグルヴィ著


ある広告人の告白[新版]

国境を問わず、世界のアドマンの間で読み継がれるディヴィッド・オグルヴィの自伝的広告マンの指南書。
書かれたのが大分昔ということもあって、題材自体は古いのですが、彼の怜悧な視点は本質的なもので通時的に当てはまる指摘が多い。

この本のなかなかパラパラとよく聞く箴言が散見されるのですが、ひとつ引いておくと、これもよく聞く言葉ですよね。
犬を飼っているのに自分で吠える奴がいるか?
ようは代理店の取り巻きに対しての言葉なのですが、クリエイティブな面をして広告会社の敵になるなということでして。
たとえばこれの実例をあげると、今月公開になった若手アドマンを描いた映画『ジャッジ!』のトレーラーにまさしくというところがありました。



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4. 『イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」』安宅和人著
イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

2013年は時流に乗っかる形で、思いがけずマッキンゼー関連本を読むことが多かったです。
その中でも群を抜いて有益だったのがこの本。
「知的生産」や「思考法」を扱った本は梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』や外山滋比古さんの『思考の整理学』などこれまでずっと読み継がれてきたものもあります。
"新旧"と言い切るのも憚られますが、今著はコンサルタントという思考のフレームワークを扱うプロが執筆した本ということもあり、新しい知見がふんだんに詰め込まれてます。


あとは安宅さんの専門が脳神経科学にあるということで、そちらからアプリカブルな思考法もいくつか紹介されてます、たとえば....
「情報をつなげることが記憶に変わる」⇒「理解することのことの本質は既知の2つ以上の情報をつなげること」を説明する項で、
マイクロレベルの神経間のつなぎ、すなわちシナプスに由来する特性として「つなぎを何度も使うとつながりが強くなる」ことが知られている。たとえてみれば、紙を何度も折ると、折れ線がどんどんはっきりしてくることに似ている。(Cf. 「ヘッブの法則」)
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5. 『なめらかな社会とその敵』鈴木健著

なめらかな社会とその敵

勁草書房という、わりと固めな出版社から出された、わりと難度の高い書でありながら、昨年、読書会で話題をさらった鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』。
タイトルは言わずもがな、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』から。

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文開かれた社会とその敵
カール・ライムント・ポパー,内田 詔夫,小河原 誠

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昨年3月にこのブログでも取り上げました⇒読書『なめらかな社会とその敵』鈴木健著
そこから要諦というか感想というかを抜粋。
「なめらかな社会」が近代をアップデートするという確信の元、PICSYや分人民主主義・構成的社会契約論など、古くから受け継がれてきた諸思想・諸概念(貨幣論、間接民主主義、社会契約論)のアップデートを図りつつ、一つの大きな命題へと収斂させていく。 
「理系」・「文系」という狭隘なマインドを超越した筆者の知性と情熱は、人類の叡智が学際的に集積されていくプロセスをダイナミックに描き出す。
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6. 『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー著

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

きっと生涯でもっとも影響を受けた1冊の一つとなるであろう小説。
きっとこれまでも、これからもぼくと同じような人はたくさんいるであろう時代を超えた不朽の名作。

昨年3月にブログで取り上げました。⇒読書『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著
そこから感想と所感を引用。
本の世界に自我を忘れ、没入して、読了後にすっかり心に風穴が空いたかのような感覚を覚えるのは、おそらく数年に一度あるかないか。認知の限界を越えた世界を覆う幾つもの疑問。それらを振動させて、価値観が根底からぐらつくような予感。中学三年生のときに、村上春樹の『ノルウェイの森』をはじめて読んだ時に、全身から揺さぶられたとき以来の感覚。(質的な性質は違いますが)
嬰児から信仰の中で育ってしまえば、かなり強固な信仰心が根を張ると思うのですが、『カラマーゾフの兄弟』を読んでから信仰心を身につけようと思うと、少し難しくなるのではないかと、それほどまでに「信仰」とは「赦し」とはなんなのか深く考えさせられる。 
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7. 『プラグマティズムの思想』魚津郁夫著

プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

当時、院試の勉強をゴリゴリしてたのですが、その中にあって、休憩中に軽い、だけど有益な本と思って、手に取ったのが魚津郁夫さんの『プラグマティズムの思想』でした。
学問領域を問わず、その影響を及ぼしているプラグマティズムという思想潮流。
なんとなく断片的な知識はもっていても、どこかまとまりがない。
そんな「体系性」をもとめる人には必読かと。
ジェイムズ、パース「記号論」、ミード「自我論」、デューイ「道具主義」、モリス、クワイン、そしてその知の潮流がローティまで流れ込んでくる。
この一連の流れが過不足なく把握できる。とっても丁寧な筆致に沿って。

そもそも「プラグマティズム」っていうのは、
プラグマティズムの特徴は、思考を行動(もしくは行為)およびその結果との関連においてとらえる点にある。
思考とは、それにもとづいて行動できる信念を形成するプロセスであり、信念は行動への前段階であった。 
ジェイムズの思索の背骨にあるのは当然「プラグマティズム」に他ならないと思われるのですが、僕がとりわけ興味深く思ったのがそんな彼の宗教観です。
そもそも宗教とは「私たちは、宗教をこういう意味に理解したい。すなわち宗教とは、孤独の状態にある個々の人間が、たとえなんであれ、自分が神的な存在と考えるものと関係していることをさとるかぎりにおいて生じる感情、行為、経験である、と」(『宗教的経験の諸相』 )
この本に関しては、たしかブログで取り上げなかったので、一応メモを付記。 

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8. 『沈黙』遠藤周作著

沈黙 (新潮文庫)

インドでの瞑想修行の旅を終え、日本へ帰る機内で読んだ一冊。
6つ目に紹介した『カラマーゾフの兄弟』と対照的に、徹底的に生を超えて"信仰"を貫き通す宣教師の話。

再び自分の中で揺らぎ生じる。"赦し"とは何か、"信仰"とはなにか。
無限に広がる宗教という世界の広さを再び思い知らされる。浅はかな自分を知る。
とりわけ、孤絶な修行生活のあとで空っぽになってたからこそ、再び自分の立ち位置を相対化することができた。

ちなみにアメリカで映画化の話が進んでいるそうなので、そちらもすごく楽しみしてます。 


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9. 『ワーク・シフト―孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>』リンダ・グラットン著

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

多くの人が年間ブックレビューで選んでいた今著。
どの国の人が読んでも有用な、新しい労働観がふんだんに詰め込まれているわけですが、とりわけ、知識集約型労働が進んだ先進国民のホワイトカラー層は必読かと思われます。

このブログでこの本を直接は取り上げませんでしたが、翻訳記事「今、もっとも将来性ある10の大学の学部とは」の後記で触れています。

向こう数十年の世界を形作る5つの要因として、

1. テクノロジーの進化
2. グローバル化の進展
3. 人口構成の変化と長寿化
4. 社会の変化
5. エネルギー・環境問題の深刻化

を挙げた上で、それぞれについて詳述していくわけですが、じっさいどうすべきか。
あらゆることを無難にそつなくこなすゼネラリストよりも、短期集中でスペシャリティを育み、また次のスペシャリティへとスライドさせていく「連続スペシャリスト」になることを奨励しています。

どうしても一つの環境に身を置いていると、マクロの世界の地殻変動に気づきにくくなってしまう。それをグラットン氏は「ゆでガエル」のわかり易い喩え話で説明しています。
煮えたぎるお湯の中にカエルを放り込めば、あまりの熱さにカエルはすぐ鍋の外に飛び出す。では、カエルを冷たい水の入った鍋に入れて、ゆっくり加熱していくと、どうなるか。カエルはお湯の熱さに慣れて、逃げようとしない。しかし、しまいには生きたままゆで上がって死ぬ。鍋の中のカエルと同じように、私たちは仕事の世界で「気づかないうちに積み重なる既成事実」に慣らされてはいないか。
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10. 『森の生活 ウォールデン』(上・下)ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)

最後に紹介したいのが、H・D・ソローの『森の生活』。
喧騒を離れ、ウォールデンの森に小さな小屋を自ら拵え、一人孤独のうちに生活を送る中で、紡ぎ出された彼の思索が日記と共にまとめられています。

そもそも電気もガスもない、都会人からすれば圧倒的に不便に映る森でなぜ彼はわざわざ生活をしようと考えたのか。
私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。
これはぼくがインドへ行こうと思い立った気持ちと通底するものがあります。
迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようにもなるのである。
インド修行から、東大に受かるまで」というエントリーの中でこんなことを書きました。
あまりにも多すぎて、見えにくくなっていること。「すべてを投げ捨てて、それでも残るもの」をみきわめること。
今から考えると、ソローの以下の言葉とまったくその通りに共振している気がしてならないのです。
私にはほんとうの豊かさが味わえる貧しさを与えてほしいものだ。
本当の豊かさに、物質的な富はどれほど本質的に必要なものなのか。

最後に、いささか尊大だけど、力強さみなぎる彼の文章を
汝の視力を内部に向けよ。やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ。
己と対話するため、孤絶と対峙するため、この言葉を身体で経験するため、瞑想に行ったのでした。 
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このように一年間経ったうえで、読書遍歴を振り返ると面白いことが分かります。
読書とは流動的かつ動的な体験であるということ。
置かれた状況や、自分が置かれた立場で、本の中の言葉の輝度が変わる。
心に響く言葉は常に絶え間なく動いている。
なにげなく読み飛ばしてしまう言葉も、立ち止まって噛み締めたくなる言葉も、"イマの自分"次第で変転する。
言葉で行動が変わり、行動で言葉が変わっていく。
去年の12月に「本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ」に書いたように、物理的ではない旅を届けてくれる。
旅を通して世界の見方が変わったり、狭隘な価値観が拡張されるように、まったく同じことが読書を通して自分を変えていく。

2014年もたくさん言葉を飲み込んでいきたい。


2013年12月22日日曜日

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ


ジブンはたしかにココにいるのに、「心ここに在らず」というふうな感覚を覚えることがある。
思考が遥か彼方へ飛翔していく。
そんな本に出会えたとき、言い表しがたい"幸福感"を覚える。

本を読み始め、気がついた時には、夜が明けている。
本の世界に忘我没入し、思考が縦横無尽に駆け巡る。
本のページを開き始めると同時に、ヴィークル(vehicle=輸送手段)に乗り込み、物理的境界とは別次元で、旅路を進めていく感覚。

どんな景色が待ち受けているか、
跳梁する期待感を押し殺しながら、また次のページを捲っていく。

2013年10月24日木曜日

読書『立花隆の書棚』立花隆著


知の巨人、立花隆さんの『立花隆の書棚』を読みました。
立花さんの本はこのブログでも何度か紹介しています。

基本的にノンフィクションを主戦場とする氏ですが、この本の趣向は少し変わっていて、氏が小石川に所有する、ビル全体が浩瀚な書庫となっている通称「猫ビル」プラス立教大学の研究室など、すべての氏の書棚を写真で収め、それらを解説していくという特異な本になっています。
ちなみに猫ビルは地上3階、地下1階で20万冊所蔵しているそうです。
(猫ビルに関して、参考:ネコビルを見て考えたこと」- 研究と教育と追憶と展望)

これまでにも読書遍歴や読書法などにフォーカスを当てた本は何冊か出版されていますが、書棚をダイレクトに語る本というのは初めてのことだと思われます。
ちなみにこのシリーズ、あの「千夜千冊」『知の編集術』の松岡正剛氏verもあるそうです。

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もともと、免許を更新しようとしたときに、時間つぶしに新書でも買おうかと思ったところ、なにを血迷ったかこの本を手に取ってしまいました。
構成の中心は写真ですが、なんと全体で650ページもあります。(ちょっと時間つぶしに買う本ではないです)

iPhoneでパノラマ撮影した四つ折り書棚ページ

じっさい僕も、時間を見つけ(眠れない夜など)に数ページずつゆっくりと読み進めていきました。


なんだか書物の渦の中で、「知的格闘」を孤独に続けるフーコーを想起するかのような、猫ビルの内部。

書棚がカバーするのはほぼ全領域。
一番、よく知られた田中角栄研究をはじめ、宗教、哲学、脳科学、基礎数学、などなど文系・理系などという栫をゆうゆうと縦断していく。『知のソフトウェア』を彷彿としますね。

「知」のソフトウェア (講談社現代新書 (722))「知」のソフトウェア
立花 隆

講談社
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知的生産の話でいうと、もっともよく知られている本に梅棹忠夫の『知的生産の技術』がありますが、昨日読んだ博報堂ケトル・嶋浩一郎さんの『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』は新しい知見がいくつか詰まっていました。
なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか(祥伝社新書321)なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか
嶋 浩一郎

祥伝社
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そもそも僕はわりと新書も読む方だと思うんですが、なかでもジャンルの選り分けとして、意識的に「広告系」の本を絡めるようにしています。
この手の本は読みすぎても効果は浅いんですが、たまにストレッチ感覚で、思考に伸縮性を確保する感覚で読むと、すごくスッキリするんですよね。雑多になった脳内のちりを取る要領で。

なんでも嶋さんは毎日必ず書店に足を運ぶそうです。
「筋金入りの本の虫なのだなー」と思いきや、そういうわけでもなくて、本屋に行くこと、本屋で過ごす時間にこそアイデアの源泉があるというのです。
本屋で平積みされる本、書棚の中身・配置は日々めまぐるしく変化していきます。
それを嶋さんはガウディの建築「サグラダファミリア」に、平積みにされる本を「AKB48の総選挙」に喩えられていました。さすがです。
興味深いイラストも二つ挿されていたので、紹介。






ぼくも同じ様に、好きな場所はどこかと問われれば真っ先に「本屋」と答えるたちで、休日に代官山の蔦屋青山ブックセンターに行くのが楽しみだったりします。

あとNaver等のまとめで大好物なのが、世界中の美しく蠱惑な図書館や書店を集めたもの。


2013年4月10日水曜日

世界は一つのアナロジーから成るのかもしれない


たとえば、英語を勉強すること、ジムで筋トレをすること、はたまた本を読むこと。

すべての物事には枝葉末節がある。そして、順序がある。
長文を読むことにしても、文法・単語を知っている必要がある。もっと細かく言えば、冠詞や前置詞、熟語・コロケーションなど単語と一括りにしてしまうには、あまりにも細かく独立している諸々の末節がある。これらを体系づけて学ぶことで、はじめて文章という一つの像を掴める。どれか一つを極めたところで、枝葉自体が成長を遂げていることにはならない。勉強・トレーニングには常に広量的な視野が求められる。

筋トレも、まずは入念にストレッチする必要がある。下半身から始まり、上半身をゆっくり、そして確実にほぐしていく。この工程を無視して、いきなり筋トレに入ると、結局は故障してしまう。
ストレッチも長いこと継続して続けていくと、体も順応してきて、体が柔軟になっていき、より気持ちの良い状態でトレーニングをこなせるようになっていく。
筋トレにしても、いきなり重たい重量をセットするのではなく、徐々に負荷を増やしていく。そもそも筋肉が組成するプロセス自体が、筋肉組織を破壊し、そこに新しい筋肉が加わっていくというものであるから。ステップを踏まずして、筋トレをすれば体自体を破壊しかねない。

読書も同様に外国語学習のみならず、母国語で書かれた文章も結局はボキャブラリーや表現が豊富であればあるほど、当該の文章をより味わえる。
一つの言語を真の意味でマスターすることなど、一つの生涯で不可能で、母国語でさえ、死ぬまで学習は続いていく。
意識的に「言葉」そのものを吸収していかなくては、表現は増えていかないのではないかと思う。
漫画からはじまり、新書へ、そして専門書。多くの書物には段階的な難易度がある。
結局、読書量と共に、基礎体力も上がっていく。これは筋トレとかなり類似してて、はじめて筋トレをはじめてから、(継続的に行ったとして)一ヶ月にもなると、はじめ辛いと感じていたウェイトも余裕に感じる。読書も語学学習も筋トレも、設定した目標に向けて、負荷を継続的にかけていき、閾値を微増させ、基礎体力を増していく作業に他ならない。

そこで有効になるのが、いわゆる「高地トレーニング」。
これは上記のいずれもに当てはまる。
筋トレならちょっと辛いくらいにウェイトを設定する、本なら理解度が完全には足りなくとも知的好奇心を掻き立てられる程度のもの、語学も簡単な参考書ばかりをこなしていても身にならない。

そう考えていくと、どんなものに取り組むにせよ、そこには共通の「アナロジー」があるような気がしてならない。法則と言い換えても良い気がするが、それはちょっと言い過ぎな気もする。
何も考えずにボーッと作業に没頭するのではなくて、こういった一種の普遍性というか、あらゆる物事に通底する要諦を探すと、別の作業に取り掛かるときに応用して、作業能率を倍化できる。

2013年3月28日木曜日

読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる

ひとは、程度の差こそあれ、人生のある地点で読書をはじめる。
正確にいうと、本に引き込まれていく。(後の時点で、振り返ってみるなら、こちらの表現の方が適切な気がする)
あらためて、「本を読む」とはどうゆうことなのかについて考えを巡らせてみたい。
3パートにわけ、それぞれ切り口を変えてみたので、ひとつでも流し読みしてみてください。
なにか意見をいただければ、幸いです。



1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか
読書についての話を始める前に、「貨幣」について考えておきたいと思います。
貨幣=お金、という単純な思考様式は成り立たないと気付いたのは、高校生のときにアルバイトを始めたときに遡ると思います。
まず、働く場においては基本的に2つの立場があります(すなわち、雇う側=資本家、雇われる側=労働者)
アルバイトとしてをしている僕は疑いの余地なく、「労働者」にカテゴライズされるわけです。
往々にして、両者の間にはゼロサム・ゲームのような緊張状態があります。
雇う側は、いかに労働者から最大限の労働を引き出せるか、労働者はいかに疲労を溜め込まずに仕事をこなすか。
ただ、圧倒的に有利な立場にあるのは「資本家」の方で、常に労働者に「クビ」というタグをぶらさげて脅すことができるし、労働条件の詳細を決めるのはあちらの立場になります。
たとえば、時給をわかりやすく1000円とすると、
どれだけ真面目に汗水流して働いても、資本家の目を盗みつつ怠惰に働いても、基本的に貰う給料は1000円で、おおきな変動がない。
そうなると、自分が1時間働くごとに頂く1000円という「貨幣」は、僕の1時間の労働が生んだ価値ではなくて、1時間という僕の人生(命の断片)を譲り渡すことによって発生しているのではないかと思うのです。
つまり、人間は生まれながらにして「寿命」という莫大時間という名の「貨幣」を、「お金」という別の貨幣に、そのときどきの状況・時分・手段において、交換しつつ生きている。
そもそも時間が貨幣であることに気付かなくては、後々、貨幣の浪費を嘆くことになりかねない。
そして、この二つの貨幣の最大の違いは、「時間」の方が比べ物にならないほどの価値を蔵している(invaluable)ということ。
お金は取り返せるけど、時間はもう戻らない。
時間→お金よりもお金→時間の為替の方がはるかにレートが高い。
そして、あらゆる場面で、若い時の方が「時間」が有する時価価値は高い。
ただ、単純に時給1000円のアルバイターが資本主義の下でもがく豚というわけではないと思います。
労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。(岩波の文庫版で9冊もあるのでチョー長いですが)
少なくとも、貨幣の二義性に逡巡する豚はなかなかいないのではないかと思うのです。
【参考】「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ



2.咀嚼、消化、排泄、そして循環
よく友人で「本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。だから読書をすることにあまり意味を見出せない」と言っている人がいます。
読書から引き出された知見を、いかに受肉し、自分の糧として血肉とするのか。
僕がときどき、こうやって思ったことを吐き出したり、読んだ本についてブログに書くのも、実はその受肉の一プロセスなのではないかと思いました。
人間は咀嚼し、食べた物を消化し、排泄する。
これはメタファーでもなんでもなくて、読書も映画もテレビのコンテンツから得た知見なり感想は、そのまま上のようなプロセスでアウトプットすることが必要なのではないかと思うんです。
ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。
この作業を通してはじめて、「言葉を手にしていく感覚」をおぼえると思うのです。
そして、僕のこういった稚拙な文章をみた人が、また彼/ 彼女の思想を付与し、それがまた流通していく。
このような「循環の渦」に自ら身を置くことで、成長できるのではないでしょうか。
こんなブログを書いているからなのか、よく「オススメの本」を聞かれることがあるので、その都度、なるべくその人に合ったような本をリコメンドするようにしているし、反対に「オススメの本」を聞くことも多いです、そうやって周りまわって行きながら、微量の「知」が集積されていくのかな、とも。



3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
よく、聞く言葉として「自己投資としての、本は安い。だからお金に糸目をつけずに、どんどん本を買って、自分を高めよう」という言葉がある。とくに自己啓発本に多い。
自分としても、同意なのですが、本質はそれだけではないのではないかと。
①でも触れたように、「読書」に関しては2種類の貨幣二つともを投じなくてはならないと思うんです。
とくにハイコストなのは、「時間」の方。
超速で速読ができる人は話が別ですが、大部分の人にとっては新書などの薄い本を別として、普通まとまった時間がなくては1冊の本を読み切ることができません。
だからこそ、自分が読書家だということをいいことに、普段読書をしない人を批判するのは違うのではないのかとも思うわけです。読書には多くの時間を割かなくてはならないし、一度の人生限られた時間、どれほどのお金という「貨幣」を持っていたとしても、時間という貨幣には限界がある。
それをいかに振り分けるのかについて、強制することはナンセンス。
だから、読書が嫌いだという人の思念も尊重しなくては、と思うのです。
ある意味で、自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

突然ですが、「本には引力がある」そう思うようになりました。
「僕らの興味は絶えずつくられていく」「僕らは出会ったものにつくられる」という思いがまずあります。
そして人との出会いと同じように本との出合いもセレンディピティの賜物ではないかと。
一人の人との出会いで人生が変わるように、一冊の本で変わる人生もある。
「引力」っていう表現もこのことで、一冊の本で価値観に多大な影響を及ぼすことがあるし(とくに思春期など、人間形成の発展段階においては)、ものの見方が変わること、質的な筆致にまで変化が及ぶことももちろんある。
そうゆう意味ではプラスの収穫(fruits)もあるし、リスクもある。
本には人を引っ張る(+-に)引力がある。
高校時代の担任の先生が、「Aという自分(主体)がBという本(客体)を受容した時に、Bに染まるでもなく、Aではね返すでもなく、Cという新しい価値を創造(create)することが重要なのだと」先日お会いした時におっしゃっていました。
もちろんそれは絶対的なこれまでの読書量の蓄積との兼ね合いにもなるわけですが、それに先行した独立した個としての「主体性」があると意識することが重要だと思いました。
(参考:約2年前に書いた先生と読書に関するエントリー「Sigur Rósと高校読書」)
そんなわけで、いまは柄谷行人を読み直しているわけです。

その他、読書が読む側と伝えたい側の「射影接続空間」としてインターフェイスとなっていることなど、時空を超えて、「知」に触れることを可能にしてくれていること
存在証明としての『卒論』」というエントリーの「敵は知の巨人ではなく自分自身」という項に思うところを記しました。

大きな時間軸のなかで、たった一人の個は泡沫でしかなく、最後は灰燼となる。
それを分かっていながらにして、人は本を読むし、本を書く。
きっとそれは、絶対的な刹那性を受け入れて尚、これまで滔々と受け継がれてきた「知」の清流に微力ながらも寄与したいという原初的な願望があるからこそ、なのかもしれません。

⇒「読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

2013年3月19日火曜日

読書『本を読んだら、自分を読め―年間1,000,000ページを血肉にする"読自"の技術』小飼弾著


ブログ「404 Blog Not Found」のオウサー、小飼弾さん(@dankogai)の、読書論について書かれた本『本を読んだら、自分を読め』を読みました。
中卒、家庭内暴力、家も燃えた。そんな自分を押し上げてくれたのは、いつも本だった。
という帯の言葉。
小飼さんは中学途中から、義務教育の在り方に疑問を抱き、登校拒否となり、自分で独自の学習をし、大検をとって、アメリカのバークレーに進んだという異色の経歴の持ち主。

現在、年間5000冊の本を読んでいるそうです。

  1. だから、僕は本で強くなれた
  2. 本の読み方を変えれば、自分が変わる
  3. 本屋を歩けば、見える世界が変わる
  4. アウトプットすれば知恵はもっとつく
  5. 本当の教養は人生を豊かにする
という5章立て。

メッセージとしては、
本は、きみを救ってはくれない。けれども、本を読むことで、自分を救える自分になれる。
 という言葉に詰まっていると思います。

基本的な読書に対する姿勢とか思考のフレームワークはかなり自分と近いと思ったのですが、やや「読書」礼賛感が強すぎるのかなとも。
読書をしていない人を、やや蔑視というか、こき下ろしているように捉えられてしまうかのような表現があったような。

人生は選択の積み重ねで、一方には「読書」をし続けてきた今があり、他方(パラレルワールド的に捉えるなら)「読書」をまったくしなかった今もありえたはずで。
この二つを同時体験できる人は、神以外に存在しない。
「読書」をし続けてきた「今」の自分が他方を批判することは簡単でも、体験していない以上、これまた「偏見」でしかないわけで。

一個体としての「自分」が体験できうる経験は非常に限られている。
だからこそ読書が与えてくれるまったく、自分の生活の領域外の疑似体験はたしかに世界を広げ、血肉を施してくれる気がします。

こうやって、たまに「読書」にまつわる読書をするのは、非常にたのしいです。
普段の読書を省みることになるし、客観的に自分自身にとって「読書」とは何だろうか、という思考の機会も与えてくれます。

事細かい「読書」についての姿勢や捉え方に大なり小なりの差異は筆者それぞれにあったとしても、誰ひとりとしてその人生における意義を言及しない人はいないということです。筆者それぞれが、筆者として、人間として、今"在る"ことは「読書」抜きにしてあり得なかったのだと思います。


あ、それで言えば今月発売された立花隆さんの『立花隆の書棚』めちゃくちゃ気になりますね。汗牛充棟な立花さんの書庫(通称:猫ビル)の中を写真付きで解説しているそう。知の巨人の生態系の全貌、ゼッタイ買います。

2012年12月15日土曜日

読書『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中著


山本先生に薦められた、新進気鋭の思想家・佐々木中さんの本を。
先生が言っていたように、情報の受け取り方、読書への姿勢に関する知見(フロンティア)が拓けたような、開眼するような「本と革命」をめぐる歴史物語に息を呑みました。

いくつか心を突いたコトバを。

(ルターにとって読書とは...)
「祈りであり、瞑想であり、そして試練である」
革命と本の関係性について
革命は暴力に還元されるものではありません。暴力が先行するのではない。まず根拠を明示したテクストが先行する。テクストの書き換えが先行するのです。 
革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死ぬ。 
ニーチェの「未来の文献学」に関する記述も興味深かった。

いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その一夜の、その一冊の、その一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのかもしれないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロには絶対にならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文献学者の誇りであり、戦いであると。

RADWIMPSの「バグッバイ」という歌の歌詞にこうあります
僕のいた朝と、僕のいない朝はどっか違っててほしい。少しだけでもいいから。 
僕が生まれてくる前と、僕が消えたあととなんか違っててほしい。世界は違っててほしい。 
きっと、人がすることはどこまでいっても「古いネジの回転にすぎない」と言ったベケットも「人類は滅亡する。だが人類は滅亡しない」と言うブランショも同じことをいっている。
世界の絶対的な連続性のことをいっている。

その那由多のなかで、ぼくのようなひとりの人間は粒のような塵のような刹那にすぎないとしても、ニーチェが託した「未来の文献学」やヴァルター・ベンヤミンの「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」という言葉を思い起こすなら。