Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年4月5日土曜日

読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?


友人から脈絡もなく、「普段どうやって読書をやってるか」また「どうやって内容を自分自身に内在化させているか」というLINEが届きました。
それに滔々と答えているうちに、かなりの分量になったので、コチラにも残しておきます。

とのブログを1年前にも書きました。
読書に対する姿勢はこの時からそれほど変わっていません。

Ⅰ. 残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

①「時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか」そして③「「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
この2点を突き詰めていくと、単純に読書量を増やせば事足りるということでもない気がしてきます。
高校生のときまで、いや大学1年生くらいまで、ひたすら乱読に耽っていました。
ある意味で向こう見ずに、闇雲に、濫読するという行為は"若いうちは"奨励されるべきことなのかもしれません。
自分自身の中で、れっきとした興味・関心の方向性を自覚していたとしても、それはこれまでに出会った絶対的に限定されたインプット量から導き出された"とりあえず"のインタレストでしかないわけです。
社会は進めばすすむほど広く、先人たちによって積み重ねられてきた知の塔はあまりにも高い。
こと読書に関するかぎり、死するまで"飽く"ことないであろう蓄積がある。
(おそらくではありますが)知の巨人たちも例に漏れず、こういったプロセスを辿ってきたのだと思われます。

ところがです。
図書館で目を覆うほどに四方八方に所狭しと積み上げられた蔵書に囲まれると、未だ知らぬ知への高揚感から来る興奮と同時に、残された自分の生のうちで一体どれだけココにある本を読めるだろうかという圧倒的な虚無感と寂寞に身を抓まれます。

SNSから常時、垂れ流れてくるニュースや言説の束。
はたまた、あちこちから発信されるコンテンツ。
そういった情報のシャワーはできるだけ、積極的に多く浴びれば浴びるほどいいモノかと思っていましたが、少しづつ考えが変わってきました。
どれほどテクノロジーに進化がもたらされ、メディア環境が変容しようと人間の根幹的な部分はそれほど変化していない。
(たしかに寿命は延びたのかもしれませんが)基本的に1日24時間であるということ、基本的な認知能力に進歩はそれほどないであろうということ。



Ⅱ. どれだけ読むのかではなく、どれだけ読まないか

そうなると、インプットへも慎重になっていかざるをえません。
自分が欲している情報は何なのか、アウトプットを削ってまで得るべき情報なのか。
いかに多くの情報を取り込むのか、ではなくいかに多くの情報を得ないか」「いかに多くの本を読むか、ではなくいかに多くの本を読まないか」という視点が芽生えてきました。
もちろんそのためには必然的に「質 quality」を追求していく姿勢が不可欠になってきます。
量は質に転化していく」このフェーズを経たのちに、量そのものは減らし、質は向上させていというように、自分の読書遍歴を振り返ると思考をスライドさせてきたように思います。
上質な情報への直観的なな嗅覚センサーの精度を上げていく。(その意味で多くの知識人が唱道するように古典は概して"外れ"が少ない。歴史という苛烈な淘汰競争をくぐり抜けてきた書物だけに"古典"という冠が付与される)
ネットに氾濫する記事も、本に書かれた内容も、媒体はなんであれ、それを読み聞きしただけでは"インプット"にはならないと考えています。
それらはあくまで「生(raw)の情報 」でしかないのです。

そこで今回、一歩だけ踏み込んで考えてみたいのが上記のエントリーでいう②「咀嚼、消化、排泄、そして循環」です。



Ⅲ. アウトプットがあって、はじめてインプットがある

本を読むときは、いつも気になった箇所の写し書き、思考の補助線となるようなメモをとることを心がけています。
時間に余裕のあるときはこのブログにも読書メモ的ブログを残すことも長く続けています。

このような端的に言って"面倒くさい"作業にも、それなりの対価があります。
アフィリエイトといった雀の涙にしかならない収入はそもそも考えないとしても、わざわざ当該箇所をそっくりそのままタイプすることで知らず知らずのうちに自分の中にもそういった言葉や思考が受肉されていくのです。

パソコンなどなかった時代、多くの作家たちは修練の手段として、先人たちの作品の写経をしこしこやっていたといいますが、その感覚としては近いのかもしれません。
じっさいに手を動かすことで、脳にも刷り込ませていく。
「守・破・離」でいう、"守"にあたる部分です。

「いや、これはどうなんだろう」「こういう考えもあるのではないか」と批判的読書をする中で自身の考察も簡単に添えておくようにする。
読書とは筆者の一方的なモノローグではなく、対話であるべき行為です。
てんでバラバラに散逸した思考の破片を集めて、一つの論考としてまとめ上げる、いわゆる"アウトプット"。
質の高いインプットがあってはじめて、質の高いインプットができると考えられていますが、(少なくとも自分の場合)それは逆であると考えています。
アウトプットという行為を通じて、はじめてインプットへ至るということです。
両者は分かちがたく結びついた関係性にあり、"表裏"というより"円環"と言った方が精確かもしれません。
歴史学の大家であるイギリスのE・H・カーはかの有名な『歴史とは何か』の中で、このように述べています。
読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私は自分が求めているものを一層よく知るようになり、自分が見出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。
表題にした「残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるのだろうか?」という思いは常に、否定しがたく心のうちにあります。
そうであるなら、一冊読み終えたら、すぐさま次の一冊へ手を伸ばしたくなる。
でも、そこで一歩立ち止まってみる。

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ」という短いエントリーにも書いたように「はじめに」から「おわりに」の中では様々な筆者と読者の思索のやりとりがあったはずです。
それらに再び思いを巡らし、まとまりをつける。
自分の身内で思考をすり合わせ、言葉を与え、形にする。(ブログを書くというのは、思考を"箱"に入れるという感覚に近いかもしれません)
一度箱にしまえば、いつでも取り出すことができる。

ブログのタイトルにもしている「言葉を手にしていく感覚」とは、こうしたアウトプットから引き出されるインプットにほかならないのです。


2013年10月21日月曜日

読書『世界のエリートはなぜ、「この基本」を大事にするのか?』戸塚隆将著

世界のエリートはなぜ、「この基本」を大事にするのか?

たしかAmazonでKindleの半額セールをやっているときに、買いだめしておいた本の一冊。
電車を待つ間の細切れの時間にKindleのiPhoneアプリで読了。
この手の軽目のビジネス本は、椅子に座って思考を働かせながら集中して読むよりは、こうやって細かな空き時間にパラっと、サラッと読むのが良いと思う。

ビジネス書や啓発本の類は、それを読むことが目的化してしまうのが一番怖い。
だいたいにおいて、200Pくらいで1行くらいしか参考になるところはないのだけれど、その1行を見つけることができれば、それはそれで一読の価値があったということ。
ザーッと速読気味にスクリーニングして、その箇所を見つけた時にスキャニングする。
その繰り返しの蓄積。

というわけで本書の内容を簡単に。
筆者はタイトルのごとく、世界の中でもスーパーエリートと分類される経歴の持ち主。
慶應経済を出て、新卒でゴールドマン・サックスに入社。
数年の勤務のあと、HBSへMBA留学。
修了後、マッキンゼーへ。
現在は独立し、シーネクスト・パートナーズという会社の代表。

タイトルの中で、わざわざカッコが付けられているように、この本でフォーカスされるポイントはごくごく当たり前の【基本】についてです。
ただそれをゴールドマン・サックスやマッキンゼーという超一流とされるビジネスパーソンがどのような観点でとらえているのか、実践しているのかという風にレンズが違います。

①人との「つながり」を大切にする
②「自分磨き」を一生継続する
③「日々の成果出し」に強くこだわる
④世界的な視野を常に意識する

以上の4つがその「基本」として挙げられており、一つ一つをチャプターごとに、自らの経験を織り交ぜながら詳述されています。

個人的に面白かった箇所としては、二つの会社でまったく資料作りの要諦が異なるということです。ゴールドマン・サックスでは色鮮やかに資料が作りこまれるのに対し、マッキンゼーでは最大3色という、基本的に黒と白で構成される朴訥としたレイアウトだということ。
投資銀行の世界では、グローバルなネットワークに基づく業界の最新情報、豊富な経験に基づく知見、金融分野における専門知識、フットワークの良さ等が価値の源泉です。自然な流れとして、手に取った瞬間に伝わる知識の凝縮感や短期間で情報収集とリサーチをまとめ上げた瞬発力を示す資料が求められます。一方で、戦略コンサルティングでは、過去の経験則にとらわれずにゼロベース思考で導き出した結論、派手さよりもメッセージと論理の明確さにフォーカスした資料が求められます。
ようは価値提供の源泉が違うということに起因して、資料作りにも差異が生まれているということですね。

あとは日本発のプロファクト・サービスがグローバルレベルでまだまだ不十分な理由として、2点。

①海外市場で求められるニーズを起点とし、マーケットインでモノ・サービスを届けるマーケティング力が不十分なこと。
②グローバル市場に打って出るためのコミュニケーション力が不十分なこと。

をエピローグで、挙げてらっしゃいました。

マッキンゼーにより特化ものとして、田中裕輔さんの『なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか?』や南場智子さんの『不格好経営』。


なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか?なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか?
田中 裕輔

東洋経済新報社
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不格好経営―チームDeNAの挑戦不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子

日本経済新聞出版社
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マッキンゼーの人事を長く務めた伊賀泰代さんの『採用基準』では、グローバル・マーケットにおける人材という観点を中心に書いてあります。

採用基準採用基準
伊賀 泰代

ダイヤモンド社
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コチラは実際的なアウトプットの話になるのですが、これまたマッキンゼー出身の安宅和人さん著の『イシューからはじめよ』は知的生産関連ものの中でも群を抜いて良書だと思います。もともと安宅さんの専門が脳神経科学ということで、アウトプット術も実証的。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
安宅和人

英治出版
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2013年9月9日月曜日

読書『ネットがつながらなかったので本を1000冊読んで考えた』堀江貴文著

ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた  そしたら意外に役立った (ノンフィクション単行本)

約半年前に『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』を読んで、それ以来のホリエモンの本を読了。
全部が全部というわけではないけども、ほとんどの本は目を通しているはず。けっきょく気になって手にとってしまう。
でも実際そのほとんどがサラリと読めてしまうので、燃費の良い読書ではある。
なんといっても文体がクリアカットで無駄な脚色はほとんどないから、実質知に対する無駄が少ない。省エネ。

獄中にいながらも、"情報脱獄"には成功していたといって憚らない氏。
というのも、刑務所内にある所蔵本などには目もくれず、ツイッターのTLをプリントアウトしたものや巷で話題の本、なによりも自身がもっとも注力している宇宙・ロケット関連の本は網羅的に読書したそう。

読書=インプットのさきになんらかの"アウトプット"を指向しなくては得られる情報の価値も減耗してしまうというのは読書論では常識ですが、(筋トレも一緒で闇雲にワークアウトするよりも、今どこに負荷をかけているのかを明確に意識するのとしないのとでは効果がまったく異なる)ホリエモンの場合は、かなりビジネスモデル・ジェネレイティング志向(business model generating oriented)といいますか、常に先端ビジネスモデルへの糸口をフックにしているのが行間から伝わってきます。

彼のようなマインドセットを持つことは最近では緩和されてきたのかもしれませんが、異端とされることが多いですよね。大手メディアの扱いなどを見れば明らかなように。
この本でも触れられているように、日本人の勤勉性(バブル期には"Japan As No.1"などと称揚されていたような)国民性は資本主義におけるアービトラージに敏感です。
だからホリエモンのようなアティチュードは忌避され、徹底的に叩き潰されます。

選書の多くがサイエンス系のノンフィクションで、ぼくも未読のものが多かったので、興味深く読ませていただいたのですが、あえて難点をいうとすればタイトルで1000冊と銘打っているわりには紹介されている本の数が少ない、ということ。
なにも本文中でその全てに言及してほしいというわけではなく、巻末にブックリストとして掲載してもよかったのではないかと。

いくつか既読のものもあって少し嬉しかったりしたのですが、phaさんの『ニートの歩き方』はつい先日、僕もブログで書いたばかりだったので。
この本に対するホリエモンの短評が爽快だった。
自殺対策が大変な官僚のみなさんにぜひ読んでほしい1冊である。
書評のなかには少なくないマンガも紹介されていて、いつ来るかなーと待っていたら案の定、後半で『グラゼニ』が取り上げられていました。
たしか以前、ダルビッシュが高給取りの野球選手を槍玉にあげて、ツイッター上で批判したファンを諭す形でプロ野球界について、その裏事情を語っていた記憶があるのですが、このマンガではそこらへんの事情がつぶさに笑うに笑えない形で描いています。
確実にナイターの見方が変わります。そして、一度くらいファームの試合に足を運んでみたくなります。

成毛眞さん

後半は『儲けたいなら科学なんじゃないの?』でもタッグを組んでいたHONZの成毛眞さんとの対談。
成毛さんのオススメ本まとめは岩波新書の『面白い本』ですね。

面白い本 (岩波新書)面白い本 (岩波新書)
成毛 眞

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<9/9追記>ご本人に御墨付きを頂きました。(SNSで何も流してないのに、ひとりでに本人の目に止まる。すんごい時代というか、なんというか)

2013年3月28日木曜日

読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる

ひとは、程度の差こそあれ、人生のある地点で読書をはじめる。
正確にいうと、本に引き込まれていく。(後の時点で、振り返ってみるなら、こちらの表現の方が適切な気がする)
あらためて、「本を読む」とはどうゆうことなのかについて考えを巡らせてみたい。
3パートにわけ、それぞれ切り口を変えてみたので、ひとつでも流し読みしてみてください。
なにか意見をいただければ、幸いです。



1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか
読書についての話を始める前に、「貨幣」について考えておきたいと思います。
貨幣=お金、という単純な思考様式は成り立たないと気付いたのは、高校生のときにアルバイトを始めたときに遡ると思います。
まず、働く場においては基本的に2つの立場があります(すなわち、雇う側=資本家、雇われる側=労働者)
アルバイトとしてをしている僕は疑いの余地なく、「労働者」にカテゴライズされるわけです。
往々にして、両者の間にはゼロサム・ゲームのような緊張状態があります。
雇う側は、いかに労働者から最大限の労働を引き出せるか、労働者はいかに疲労を溜め込まずに仕事をこなすか。
ただ、圧倒的に有利な立場にあるのは「資本家」の方で、常に労働者に「クビ」というタグをぶらさげて脅すことができるし、労働条件の詳細を決めるのはあちらの立場になります。
たとえば、時給をわかりやすく1000円とすると、
どれだけ真面目に汗水流して働いても、資本家の目を盗みつつ怠惰に働いても、基本的に貰う給料は1000円で、おおきな変動がない。
そうなると、自分が1時間働くごとに頂く1000円という「貨幣」は、僕の1時間の労働が生んだ価値ではなくて、1時間という僕の人生(命の断片)を譲り渡すことによって発生しているのではないかと思うのです。
つまり、人間は生まれながらにして「寿命」という莫大時間という名の「貨幣」を、「お金」という別の貨幣に、そのときどきの状況・時分・手段において、交換しつつ生きている。
そもそも時間が貨幣であることに気付かなくては、後々、貨幣の浪費を嘆くことになりかねない。
そして、この二つの貨幣の最大の違いは、「時間」の方が比べ物にならないほどの価値を蔵している(invaluable)ということ。
お金は取り返せるけど、時間はもう戻らない。
時間→お金よりもお金→時間の為替の方がはるかにレートが高い。
そして、あらゆる場面で、若い時の方が「時間」が有する時価価値は高い。
ただ、単純に時給1000円のアルバイターが資本主義の下でもがく豚というわけではないと思います。
労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。(岩波の文庫版で9冊もあるのでチョー長いですが)
少なくとも、貨幣の二義性に逡巡する豚はなかなかいないのではないかと思うのです。
【参考】「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ



2.咀嚼、消化、排泄、そして循環
よく友人で「本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。だから読書をすることにあまり意味を見出せない」と言っている人がいます。
読書から引き出された知見を、いかに受肉し、自分の糧として血肉とするのか。
僕がときどき、こうやって思ったことを吐き出したり、読んだ本についてブログに書くのも、実はその受肉の一プロセスなのではないかと思いました。
人間は咀嚼し、食べた物を消化し、排泄する。
これはメタファーでもなんでもなくて、読書も映画もテレビのコンテンツから得た知見なり感想は、そのまま上のようなプロセスでアウトプットすることが必要なのではないかと思うんです。
ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。
この作業を通してはじめて、「言葉を手にしていく感覚」をおぼえると思うのです。
そして、僕のこういった稚拙な文章をみた人が、また彼/ 彼女の思想を付与し、それがまた流通していく。
このような「循環の渦」に自ら身を置くことで、成長できるのではないでしょうか。
こんなブログを書いているからなのか、よく「オススメの本」を聞かれることがあるので、その都度、なるべくその人に合ったような本をリコメンドするようにしているし、反対に「オススメの本」を聞くことも多いです、そうやって周りまわって行きながら、微量の「知」が集積されていくのかな、とも。



3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
よく、聞く言葉として「自己投資としての、本は安い。だからお金に糸目をつけずに、どんどん本を買って、自分を高めよう」という言葉がある。とくに自己啓発本に多い。
自分としても、同意なのですが、本質はそれだけではないのではないかと。
①でも触れたように、「読書」に関しては2種類の貨幣二つともを投じなくてはならないと思うんです。
とくにハイコストなのは、「時間」の方。
超速で速読ができる人は話が別ですが、大部分の人にとっては新書などの薄い本を別として、普通まとまった時間がなくては1冊の本を読み切ることができません。
だからこそ、自分が読書家だということをいいことに、普段読書をしない人を批判するのは違うのではないのかとも思うわけです。読書には多くの時間を割かなくてはならないし、一度の人生限られた時間、どれほどのお金という「貨幣」を持っていたとしても、時間という貨幣には限界がある。
それをいかに振り分けるのかについて、強制することはナンセンス。
だから、読書が嫌いだという人の思念も尊重しなくては、と思うのです。
ある意味で、自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

突然ですが、「本には引力がある」そう思うようになりました。
「僕らの興味は絶えずつくられていく」「僕らは出会ったものにつくられる」という思いがまずあります。
そして人との出会いと同じように本との出合いもセレンディピティの賜物ではないかと。
一人の人との出会いで人生が変わるように、一冊の本で変わる人生もある。
「引力」っていう表現もこのことで、一冊の本で価値観に多大な影響を及ぼすことがあるし(とくに思春期など、人間形成の発展段階においては)、ものの見方が変わること、質的な筆致にまで変化が及ぶことももちろんある。
そうゆう意味ではプラスの収穫(fruits)もあるし、リスクもある。
本には人を引っ張る(+-に)引力がある。
高校時代の担任の先生が、「Aという自分(主体)がBという本(客体)を受容した時に、Bに染まるでもなく、Aではね返すでもなく、Cという新しい価値を創造(create)することが重要なのだと」先日お会いした時におっしゃっていました。
もちろんそれは絶対的なこれまでの読書量の蓄積との兼ね合いにもなるわけですが、それに先行した独立した個としての「主体性」があると意識することが重要だと思いました。
(参考:約2年前に書いた先生と読書に関するエントリー「Sigur Rósと高校読書」)
そんなわけで、いまは柄谷行人を読み直しているわけです。

その他、読書が読む側と伝えたい側の「射影接続空間」としてインターフェイスとなっていることなど、時空を超えて、「知」に触れることを可能にしてくれていること
存在証明としての『卒論』」というエントリーの「敵は知の巨人ではなく自分自身」という項に思うところを記しました。

大きな時間軸のなかで、たった一人の個は泡沫でしかなく、最後は灰燼となる。
それを分かっていながらにして、人は本を読むし、本を書く。
きっとそれは、絶対的な刹那性を受け入れて尚、これまで滔々と受け継がれてきた「知」の清流に微力ながらも寄与したいという原初的な願望があるからこそ、なのかもしれません。

⇒「読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

2013年3月19日火曜日

読書『本を読んだら、自分を読め―年間1,000,000ページを血肉にする"読自"の技術』小飼弾著


ブログ「404 Blog Not Found」のオウサー、小飼弾さん(@dankogai)の、読書論について書かれた本『本を読んだら、自分を読め』を読みました。
中卒、家庭内暴力、家も燃えた。そんな自分を押し上げてくれたのは、いつも本だった。
という帯の言葉。
小飼さんは中学途中から、義務教育の在り方に疑問を抱き、登校拒否となり、自分で独自の学習をし、大検をとって、アメリカのバークレーに進んだという異色の経歴の持ち主。

現在、年間5000冊の本を読んでいるそうです。

  1. だから、僕は本で強くなれた
  2. 本の読み方を変えれば、自分が変わる
  3. 本屋を歩けば、見える世界が変わる
  4. アウトプットすれば知恵はもっとつく
  5. 本当の教養は人生を豊かにする
という5章立て。

メッセージとしては、
本は、きみを救ってはくれない。けれども、本を読むことで、自分を救える自分になれる。
 という言葉に詰まっていると思います。

基本的な読書に対する姿勢とか思考のフレームワークはかなり自分と近いと思ったのですが、やや「読書」礼賛感が強すぎるのかなとも。
読書をしていない人を、やや蔑視というか、こき下ろしているように捉えられてしまうかのような表現があったような。

人生は選択の積み重ねで、一方には「読書」をし続けてきた今があり、他方(パラレルワールド的に捉えるなら)「読書」をまったくしなかった今もありえたはずで。
この二つを同時体験できる人は、神以外に存在しない。
「読書」をし続けてきた「今」の自分が他方を批判することは簡単でも、体験していない以上、これまた「偏見」でしかないわけで。

一個体としての「自分」が体験できうる経験は非常に限られている。
だからこそ読書が与えてくれるまったく、自分の生活の領域外の疑似体験はたしかに世界を広げ、血肉を施してくれる気がします。

こうやって、たまに「読書」にまつわる読書をするのは、非常にたのしいです。
普段の読書を省みることになるし、客観的に自分自身にとって「読書」とは何だろうか、という思考の機会も与えてくれます。

事細かい「読書」についての姿勢や捉え方に大なり小なりの差異は筆者それぞれにあったとしても、誰ひとりとしてその人生における意義を言及しない人はいないということです。筆者それぞれが、筆者として、人間として、今"在る"ことは「読書」抜きにしてあり得なかったのだと思います。


あ、それで言えば今月発売された立花隆さんの『立花隆の書棚』めちゃくちゃ気になりますね。汗牛充棟な立花さんの書庫(通称:猫ビル)の中を写真付きで解説しているそう。知の巨人の生態系の全貌、ゼッタイ買います。

2012年12月17日月曜日

ブログを書き続ける3つの意味



ぼくはこれまで多くの日記、ログ、回想記を書き続けてきました。
手書きの日記からmixiの日記、そしてブログ。アメリカに留学している間に書いたブログ「Pieces of my thoughts」そして現在の「言葉を手にしていく感覚」(最初は「国際政治と広告」というタイトルでした)
プラットフォームは変わっても、自分自身と対峙すること、自分の中にあることを文字に書き起こすことを続けてきました。
自分の中にあることしか文字にはなりません。それに関してだけは背伸びすることはできない。
自分が今までに読んだ本、目にした文章、心を貫いた言葉、自分の中で生成された言葉の宇宙空間は自分しかのぞき見ることが許されない言論世界。存在証明のために。



①アウトプット/ 吐き出すこと

徹底的に自分自身と対峙する。自分の奥底へとダイブして潜り込んでいく。そしてシャベルでそれを掘り起こしていく。時に深呼吸しながら。
自分の「再発見」。際限のないインプットを吐き出すための集積場、でもそれは単なるゴミ置き場じゃない。

基本的にウェブ上は壁のないカオティックな空間で、不特定多数の人々の目に触れることになります。その点に関しては以前、「オープンとクローズドの緩衝点」で書きました。
集合知がひとりでに結合する。まるでアメーバの如くゴソゴソと肥大化していく。
知らない人が知らないことをそっと僕に知らせて、名前も告げずに去っていく。

言葉を手にしていく感覚」「言葉を交わすことについてぼくらは言葉を食べて生きている」で書いたことは基本的に食べ物や水と同じように「言葉」は僕たち人間にとってなくてはならないものだということです。
それは人と人を媒介するコミュニケーションツールであり、人を一喜一憂させるトーイでもある。生活を回す車輪でもある。

読書、音楽、映画、円心を貫くのはいつだってコトバ。
それを飲み込み退蔵させるのではなく、積極的に吐き出していく、自分の中の工場で加工してリクリエイトして送り出していく。それがいつ、どうやって、スパークするかは誰にも分からない。

<メソドロジー> ブログを書く時に意識しているのは、スピード。
基本的に下書きに書き貯めることは、ほとんどしないで、だいたい10分以下で一気呵成で書いています。
とはいえ、書くにしてはあまりに内容が乏しいときはアイディアだけポンと置いておいたり、ざーっとラフドラフトだけ書いておいて寝かせることもあります。
アイディアが創発するのは、だいたいバイトしてるときだったり、ぼーっとしてるときだったりするので、オフラインでメモパッドとしてClearというアプリを使っています。(Evernoteでもいいのですが、コネクションに少々時間かかったりもするので)



②ログ/ 決して忘れないように

外部脳として、決して忘れないように。
書くという事自体が、記憶に焼き付ける作業そのもの。
後に振り返った時に、自分の筆力の未熟さを懐かしんだり、単純に書き貯めた情報に立ち返ったり、クラウドには無尽蔵の容量があるから。

SNSに関していうと以前まではMomentというアプリまで使っていました。
それでTwitter、Facebook各種ソーシャルメディアの情報を一元的に管理していたわけですが、それも今では完全に放置しています。
忘れていくということはある意味必要なことであって、「忘れられたもの」はある意味で「忘れてもいいこと」だというわけで。
だからこそ、ブログはまあそれなりに実りのある内容にしたいと思っているわけで。
そーいえばTwitterがいままでのツイートアーカイブを取得可能にするとのアナウンスが先日ありましたね。

そーいえばMemolaneという面白いサービスがあって、アトランダムに過去の自分のソーシャルメディアで起きた出来事を通知してくれるんですね。
「あー、こんなことあったな」「もうこんなに時間経ったのか」ということが毎朝送られてきてて、刮目するわけです。


③アフィリエイト/ ちいさな慈善事業

ぼくはだいたい内容に関連付けてアフィリエイトを細々と貼っています。
売上は雀の涙程度なわけですが。それでもゼロではないです。
けっきょくウェブ上の情報もロングテールの側面があって、とりあえず放り投げておくとだれかしらが拾い上げる。
たとえば書評も新譜紹介も和訳もだいたいそれを意図してたり。

とまあ、なんだかうだうだ書き連ねてみたものの、けっきょく自分のためでしかないんですね。
そもそもぼくのdigり習性に起因してて、ある程度まとまった情報を吐き出さないと消化不良を起こしてしまうと思うんです。
アウトプットが視座にないインプットに意味はないと思うわけです。

ただただコンテンツを消費するのは不健康だと思うんです。
人間は食べて、排泄しますよね。
だったら情報だってそのサイクル(循環)に乗せるべきだと思うんです。
受容したものを吐き出していく、じゃないと消化不良だと思うんです。
そうしたら自分を起点にまた新たな循環が始まるといったことだってある。
こんな素敵なことってだれもが発信者になれる今だからこそだとも思うわけで。



【参考】
心機一転。学生がブログを始めるべき7つの理由
・人気ブログをゼロから短期間で作るための10の手順
・「ブログを成功させるための12のチェックリスト」
ブログを続けるコツは心・書・友の3つではないかと思う
これからブログを頑張ろうと思う人へ。まずは三ヶ月毎日書く。話はそれからだ。

2012年3月5日月曜日

読書『思考のボトルネックを解除しよう!』石川和幸著


久々にコンサル系の方が書いたハウツー本を読みました。
成果=(1)情報+(2)手法+(3)技能+(4)選択+(5)活力
これらの要素をバランスよく、効率的にあげていく。


すべての要素は掛け算的にレバレッジが効くので、ボトルネックを削ぎとりつつ、強みへと変換していく。
生産性を最大化するためには、より少ないインプットでアウトプットを最大化することです。 
じゃあ、具体的にどうするのか。

フレームワーク思考、ロジカルシンキング、マッピング、ロジカルツリー、マインドマップ、エフェメラライゼーション、フェルミ推定、MECE、パレート法則などなど
外資系コンサルタントとして培ってきたバラエティ豊かな思考メソッドを惜しげもなくふんだんに詰め込まれています。
それぞれの項目も深入りして、詳述することなく、わかりやすい例示とともに説明されています。

その中のひとつがECRS。
これは非付加価値時間をいかに付加価値時間にシフトさせるかを試みたメソッドです。

  • Eliminate(なくせないか)
  • Combine(いっしょにできないか)
  • Re-order(順番を変えられないか)
  • Simplify(単純化できないか)

筆者の石川和幸さんの思考の柔軟さというか価値観というかが垣間見えたところとして、本書の中核でフォードの至言を紹介していたことです。
「すべてを知る必要はない」

そのとおり。何を知るのか。どう知るのか。どうして知りたいのか。



大学生ブログ選手権

2011年7月30日土曜日

アウトプットについて

ぼくは過去を回想するときのログとしての役割と共に、ブログをアウトプットの場所として位置づけています。
はっきりいってインプットは誰でも出来ます。
受動的に情報を体内に取り込んでいくことはそれほど困難を伴わない作業です。
体内に取り込むことは簡単ですが、それを「吸収」し、自分の血・肉にするためにはアウトプットが必要となります。
一度、自分に取り込んだものを咀嚼し、自分の言葉に変換し、吐き出さない限り真の意味で「会得」することは出来ないのではないでしょうか。


英単語を覚えるときも同じです。
単語帳を端から端まで闇雲に覚えるのは得策とは言えず、効率が悪いです。
何度かの反復作業が必要となります。
ところが覚えた単語をただ蓄積するのではなく、吐き出していく、実践していくと、スッと覚えられます。
言葉に出してみる。多少の失敗は恐れずに。


ブログを書くときに意識しているのはスピーディーに書くことです。
ブログにばかり時間を割くわけにはいかないので。
5~10分以内で書き終えることを意識しています。
即興で構成を頭に組み立て、大きなブロック群をイメージし、それを彩っていく。
導入も大切にしています。
タイトルもなるべくならこだわりたいです。
ブログ全体で最も大事なのはタイトルと言っても過言ではないくらい大切だと思っています。
あとは写真をできるだけ貼って、飽きないような工夫もしています。



基本的に1日に1エントリー欠かさずに書いています。
それ以上でもなく、それ以下でもなく。
やはり書きすぎるとブログ全体としての体裁がわるくなるのと、加減が曖昧になるので。
「継続は力なり」ということで毎日なるべく欠かさずに書くことも信条です。
基本的に億劫だと思ってやっていたことも、キャズムを越えると、逆にそれをやらないと気持ち悪くて寝れない、ような性格なのです。
我慢してやり続けると、いつしか「習慣化」して自分の生活の一部として組み込まれる段階がやってきます。
歯磨きすることと同じような、そのフェーズに至れば、もうコチラのものです。



ブログはたんに文章をだれかに見てもらうためだけでなく、自分自身の成長の「場」とも思っています。
稚拙な文章ですが、これからも続けていくので、温かい目で見守ってください。笑

当面はランキング50位以内を目指したいですね。