Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2013年8月17日土曜日

映画『風立ちぬ』宮崎駿監督作13'


試写会を寝坊して、行きそびれてしまい、結局このタイミングで。
宮崎駿初のリアリズムと聞いていましたが、、果たしてコレをリアリズムと呼ぶことができるのか否か。
僕は劇場でみたことがあるのは『ポニョ』くらいだし、ジブリ作品も『もののけ姫』くらいしかまともに観たことなく、コアなファンでもなんでもないので、わりとフラットにみた感想です。
「笑ってコラえて」で『風立ちぬ』の制作現場が密着取材されていたのをみて、かなり興味をもったわけですが。
おそらく日本のマイノリティになってしまうのかもしれないですが、結論からいうと、僕はあまり感動しなかったというか、メッセージがよく伝わってこなかった。
他作品、しかも媒体が異なるものを比べるの自体がナンセンスだと思うのですが、物語だけを比較衡量すると、先に百田さんの『永遠の0』を読んでいた身としては、どうしても"リアリズム"と捉えることはできなかった。
もちろん、受け取り方は世代ごとに千差万別なのだとも思う。(内田樹さんのエントリーをみてもそう感じました。『風立ちぬ』- 内田樹の研究室

それから、自分の感想とか所見からは少し遊離してしまう話題なのですが、鑑賞前に目にした一連のタバコ論争。
【参考】

なんだか、なにごとかにカコつけて、前へ出てこうとする団体・論壇・芸能界などなど。
目に余る感じがすごい。

タバコが劇中で頻出するからって、それでタバコを吸うようになるかというと、普通はならない。なるかもしれない。なるなら、なるでそれは自然なんじゃないかと。
誰かがタバコを吸い始めるキッカケなんて案外なチンケなものばかり。
「風立ちぬ」のせいでこれからサバを食べる度にときめいてしまう気がする - インターネットもぐもぐでは「タバコ」以上に「サバ」が脚光を浴びているし、人が何に興味を抱き、なにに感動を覚えるかなんて、絶対値が求められない問題の最たるもので、ネット上に幾多にも転がる『風立ちぬ』の感想の束がその良い例。

「戦場に行ったこともない奴が語る愛国主義には吐き気がするよ」 オリバー・ストーン監督に聞く戦争と歴史 - ハフィントン・ポスト
というオリバー・ストーンの記事を読んで...。

すいません。まとまりがない。
少し数日経たないと、感想なんて書けないタイプの作品なのかも。

2013年8月13日火曜日

読書『日本辺境論』内田樹著

日本辺境論 (新潮新書)

2010年の新書大賞である内田樹さんの『日本辺境論』を今頃読みました。
内田樹さんの文体独特の丸みというか、文章がスーッと浸潤していくタッチについてはこれまでにも何度か触れているのですが、やはり村上春樹の影があるんですよね、どこか。
(これまでにこのブログで取り上げたもの『日本の文脈』『疲れすぎて眠れぬ夜のために』)

日本人論でよく聞くものに「日本人は空気を読む」というのがありますね。
これをもっとも的確かつ精緻に分析しているのが内田樹さんによれば、丸山眞男の「超国家主義の心理」の定式化ということです。(Cf. 『現代政治の思想と行動』)
おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものには巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度。
あとはこれまでの著作でも度々登場するレヴィ=ストロースの「ブリトコール」を日本の文脈に当てはめてみたり。(Cf. 『野生の思考 )

三部で「日本語」論に分け入っていくのですが、そこで明治期の西周や加藤弘之はたまた中江兆民におのずと話は及ぶのですが、そこで面白い記述がありました。
西欧語を、たとえば"philosophy"を西周は「哲学」と訳したんですが、中国では自前で西欧語の翻訳をしないで、日本で翻訳されたものを輸入するという迂回戦略が取られているらしいのです。
というのも、中国語でそのまま西欧語をインポート=翻訳するとなると、自国語の劣等性(そういった概念が存在しなかった事実)を認めることになりかねないからと。
日本ではそういったことはありえない。

西周

内田樹さんの推測を交えた考察によると、そもそも日本列島は無文字社会である。
原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)が発明された。原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領した。そしてもともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。これが日本語の辺境語的構造であるというのです。

これ考えてみたら、2年前に「ゲーミフィケーションの病理」というエントリーでこのブログに書いたこと、そのまんまですね。
内田さんの論を継承するなら、僕の直観そのものが日本語の「辺境的構造」に棹さしていたということになりそうです。

そういえば、今月初めにこのツイートを見かけました。

2012年11月8日木曜日

読書『日本の文脈』内田樹、中沢新一著


内田樹さんと中沢新一さんの対談本。
日本辺境論』と『日本の大転換』を書かれた二人ということもあって、話題も日本という国の変遷や在り方を中心に。
「一神教」や「ブリコラージュ」などをキーワードにレヴィ=ストロース思想にヒントを求めながら。
これまでの内田樹さんの考えが散見というか凝縮というかで、開眼するような新しい知見は見当たりませんでしたが、中沢さんが「すごく弾力のある言葉」と称したように、いつものように柔らかくて優しいけど、奥に沈静する言説の剛毅さが伝わって来ました。

2012年3月1日木曜日

読書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』内田樹著


内田樹先生の本を。
日中などは読まないようにして、ほんとうに疲れすぎて眠れない夜だけ少しずつ読み進めました。
内田先生の本は、というか文章はたとえそれが少々難しい語彙であっても文体としては柔らかくて読んでいて心地良いんです。
それこそ読み進めながら、先生と対話しているように、頭を使って先生の設定する問いを考量しているうちに、自然と眠りに誘われていくかのような。

読んだ中で、気になった部分をいくつか抜粋。
人間というのは、ほんとうに不思議なことですが、ネガティブな条件付をされているときに、それをどう突破するか創意工夫をこらすことを通じて例外的な創造性を発揮するものなのです。

村上は作家的直感によって、「ディセントであること」が、不条理な世界を生き延びるためのさしあたり最初のディフェンスであるということを知っていま す。

欲望の充足を生態系の安定より優先的に配慮する生物、それは人間である。 
これらが意味するところを、根まで意識を張り巡らすように、ゆっくり咀嚼して、自分の心耳に問うてみる。簡単には答えはでないから、ゆっくりと。
すると眠りに落ちている。



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