Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年4月10日水曜日

世界は一つのアナロジーから成るのかもしれない


たとえば、英語を勉強すること、ジムで筋トレをすること、はたまた本を読むこと。

すべての物事には枝葉末節がある。そして、順序がある。
長文を読むことにしても、文法・単語を知っている必要がある。もっと細かく言えば、冠詞や前置詞、熟語・コロケーションなど単語と一括りにしてしまうには、あまりにも細かく独立している諸々の末節がある。これらを体系づけて学ぶことで、はじめて文章という一つの像を掴める。どれか一つを極めたところで、枝葉自体が成長を遂げていることにはならない。勉強・トレーニングには常に広量的な視野が求められる。

筋トレも、まずは入念にストレッチする必要がある。下半身から始まり、上半身をゆっくり、そして確実にほぐしていく。この工程を無視して、いきなり筋トレに入ると、結局は故障してしまう。
ストレッチも長いこと継続して続けていくと、体も順応してきて、体が柔軟になっていき、より気持ちの良い状態でトレーニングをこなせるようになっていく。
筋トレにしても、いきなり重たい重量をセットするのではなく、徐々に負荷を増やしていく。そもそも筋肉が組成するプロセス自体が、筋肉組織を破壊し、そこに新しい筋肉が加わっていくというものであるから。ステップを踏まずして、筋トレをすれば体自体を破壊しかねない。

読書も同様に外国語学習のみならず、母国語で書かれた文章も結局はボキャブラリーや表現が豊富であればあるほど、当該の文章をより味わえる。
一つの言語を真の意味でマスターすることなど、一つの生涯で不可能で、母国語でさえ、死ぬまで学習は続いていく。
意識的に「言葉」そのものを吸収していかなくては、表現は増えていかないのではないかと思う。
漫画からはじまり、新書へ、そして専門書。多くの書物には段階的な難易度がある。
結局、読書量と共に、基礎体力も上がっていく。これは筋トレとかなり類似してて、はじめて筋トレをはじめてから、(継続的に行ったとして)一ヶ月にもなると、はじめ辛いと感じていたウェイトも余裕に感じる。読書も語学学習も筋トレも、設定した目標に向けて、負荷を継続的にかけていき、閾値を微増させ、基礎体力を増していく作業に他ならない。

そこで有効になるのが、いわゆる「高地トレーニング」。
これは上記のいずれもに当てはまる。
筋トレならちょっと辛いくらいにウェイトを設定する、本なら理解度が完全には足りなくとも知的好奇心を掻き立てられる程度のもの、語学も簡単な参考書ばかりをこなしていても身にならない。

そう考えていくと、どんなものに取り組むにせよ、そこには共通の「アナロジー」があるような気がしてならない。法則と言い換えても良い気がするが、それはちょっと言い過ぎな気もする。
何も考えずにボーッと作業に没頭するのではなくて、こういった一種の普遍性というか、あらゆる物事に通底する要諦を探すと、別の作業に取り掛かるときに応用して、作業能率を倍化できる。

0 件のコメント:

コメントを投稿