Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年6月25日火曜日

「剛力彩芽」と「広告」を考える


いつ頃からからだったか、テレビでの露出が増えて、今では目にすることがない日がないくらいによく見かけます。
その裏で芸能界の黒いなにか「大きな力」が暗躍しているのではないかと、勘ぐるくらいに。
自分の周りというきわめて狭い限定的な話になってしまうわけですが、少なくとも僕の周りで彼女の熱狂的なファンは見当たらないわけです。
「可愛い」と直接誰から聞いたこともないです。(繰り返しますが、あくまでも僕個人の話です)極端なケースでいえば、ツイッターで露骨に嫌悪感を抱いている友達もいました。(もちろん、純粋なファンの皆さんも多くいるでしょう。大衆の中のある見方の違った層からの意見としてお捉えください)
全体的な彼女を取り巻く言説をみてみると、新垣結衣とか上戸彩とかいった、これまでCMで目にすることの多かった女優とは何か違う雰囲気がそこに漂っている。
"実体的"な人気はあるのか、あるならば何がその核心なのか。

オスカー所属といえば他に最近みる機会が多いのは武井咲、忽那汐里。
まあたしかにこの二人、特に武井咲も画面に映る回数は多いと思うのですが、剛力彩芽も凄まじい。
ギャラが低価格なのか、営業をゴリ押しているのか、そんな事情はもちろん分かりません。

ただ一つ言えるのは、僕がこうして彼女を取り上げ、話題にしている時点で広告的には「勝ち」なわけです。ようするにバズ(buzz)ですね。
ただ可愛いだけでは「話題」として表出することはありません。
ディス、疑問、切り口はいろいろですが、それらが一つの言説を形成していく。
俎上に載ればのるほど、意識下に彼女の存在が刷り込まれていく。
これって要するに"サブリミナル"ですよね。
企業は普通、苦心してどうにか、消費者の目に止まろうと、意識に潜り込んでいこうと手練手管の広告装置を仕掛けていきます。
サブリミナル・ケースで最も有名なのは映画館におけるポップコーンのアレですね。
「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」など1秒に満たない細かいフレームをスクリーンの中にそういったメッセージを滑りこませていく。

ただ今回の話はぜんぜん趣旨が違います。
あくまで大々的なのです。あけっぴろげに組織的に展開しているのです。
冒頭でなにか陰鬱な「黒い」力が働いているかもしれないとの疑義を呈しましたが、たぶんそれは間違いでしょう。
単純にバンドワゴンの応酬なのかもしれません。
企業からしてみれば、起用する人物が可愛いかどうか、女優としての器量があるかどうかは副次的で、あくまでどれほど消費者の意識下に働きかけを出来るかどうかが焦点なわけです。

そういう意味で、普段ネットしか使わない人が、突然テレビをみてあまりの剛力彩芽の露出頻度の多さに目が点になるのは否めない。
それで、ネットにそれを持ち帰る。「え、なんでなんで?」と。これがバズのループで、テレビの視聴者層とネットユーザーのフィードバック的討議が始まる。
この過程でサブリミナルは集積的にその効果を深化させていく。

事務所的な位置づけとしては上戸彩の後釜ということになるんでしょうか、同じ事務所ということもあって。
ただ、今日発表された24時間テレビのパーソナリティに、もしかしたら彼女が選ばれるのではないかという予見を持っていたのですが、それに反して実際に選ばれたのは上戸彩。
うーん、芸能界がどう動いているのか、深遠です。


7/9追記:Mステ出演
この記事を書いた後に、Mステに出演してましたね。


「放送事故レベル」などかなり叩かれていましたが...。
「もうランチパック食べたくなくなったwww」など辛辣なコメントも目立ちました。
あとみんな寄ってたかって指弾してたのは、サビからいきなり「口パク」になったのではないかということ。
個人的には「口パク」だろうが、生歌だろうが、別にテレビだし、ライブならまだしも、別にどうでもいいとは思うのですが。
たとえば、これが最初から口パクだったり、終始貫徹して生歌だったら、ここまで話題にもならなかったのかもしれませんが、、もしこれが「バス」の計算の上に仕掛けられた計略ならば、それをプロデュースした人は真に「バイラル」の構造とかを理解している人だと敬服します。
昔まではあくまでイメージ墨守だった芸能界も、最近は炎上を逆手に取った「バズ」、そこから全方位拡散していく「バイラル」が重視されているというのが私見。
AKBも次から次へと驚くべき施策が行われているような。峯岸「坊主」騒動しかり、指原総選挙まさかの1位しかり。
ようはイメージ云々でどんぐりの背比べ的な差異化を計るよりも、単純明快に分かりやすく話題性を着火剤としたバズ戦略の方が、数字・露出につながる。
この動画がまっさきに削除されていないことから忖度するように、やっぱりそれはわかっているということなのでしょうか。本当にどーでも良い話題ばかりすみません。


2013年6月24日月曜日

情報生存学


もんじゃを焼いていて、お客さんによく尋ねられること。
「やっぱり上手いですねー。どれくらいの割合で失敗するんですか?」
それで僕は「99.9%失敗しないです」つまり100回に一回失敗があるかないか、と答えます。
こういう類のシンプルなスキルは方法を覚えて、一度慣れるとほとんど、不可抗力ではない限り失敗はない。
よく芸能人が始球式でとんでもない暴投をしますよね。
あれはプロでは有り得ないです。ワイルドピッチはありますが、あそこまでの暴投はまずないです。「99.9%は」

情報には2種類あると思うんです。
知っているか知らないかで決定的な差が出るヴァイタルな情報。(All or nothingですね)
もんじゃを例にしても、方法を知らないと、いくら焼いても土手から必ずと言っていいほど、汁が溢れだします。
例えば、震災のときに◯◯◯という場所に救援物資が届いた。それを知っているか知らないか、これが生の分岐点になることもあります。
往々にしてこっちの情報のタイプは「情報へのアクセス」という問題と密接に関わってきます。デジタルデバイドの文脈で語られるのはこっちのヴァリアントです。

それで、もう一方がいわゆる「知識」と呼ばれる情報。
こちらはAll or Nothingというよりもコツコツと積み上げていき、有機的にその"知識"を蓄えていき体系化する。前者が生命の分岐点になるほどの重大性はないですが、社会では重視されることも多い。
んでこの知識も多言語学習の理論で言われるように「宣言的知識」「手続き的知識」とさらに細分化されていくわけです。
宣言的知識(declarative knowledge)は言葉で内容を説明できるもの。
手続き的知識(procedural knowledge)は言葉では説明できないけれども、確かに脳内にストックされている形式知。
アインシュタインに言わせれば、「お婆ちゃんに説明できなければ、理解したとはいえない」となるわけですが。

グローバルに瀰漫する不均衡の様相はさまざまあるわけですが、貧困一つとっても、最初に上げた情報のタイプが根っこにあると思うんです。ある意味でこの二つの情報は相互補完的なわけですが、なによりも生存に必要なのは前者だと思うのです。
それへのアクセスを得るための情報の情報をどうするか。
情報、情報、情報、現代社会で喧伝される「情報」。
考えれば考える程、たしかに「生存」との結びつきが見えてくる。
京大に去年、新しくできた大学院「総合生存学館」もこういった問題意識があったのは間違いないと思います。
東大の学際情報学府にせよ、"生存性"を取り巻く情報の在り方、扱い方、捌き方。
「情報格差(digital divide)」という言葉の裏にはかなり深刻な「生」の格差があることも見逃せません。
先進国に住んでいるとあまり見えてこないかもしれませんが、アフリカをはじめとする途上国ではかなり深刻な状況だと思います。
思い出すのはいつだったかの救済キャンペーンで、ハリウッドかなにかのセレブがヘリコプターから地上に哺乳瓶とミルクを投げばら撒いた。
ただ使途や用途が適切に伝えられることもなく、誤った使用法から衛生面での被害が噴出し、自体は悪化。ある者は闇市でそれらを売りさばき、結局は良心の押し売りになってしまった。
情報をめぐる生の政治、もうちょっと沈思してみたい問題の一つです。

2013年6月23日日曜日

13'宝塚記念:汁ポートの大逃げはダビスタの如く



オルフェーヴルは肺出血ということで回避した今回の宝塚記念はゴールドシップ、ジェンティルドンナ、フェノーメノの三強対決の構図。
自分も順当なレース展開を予想し、馬券も手堅く。

シルポートが大逃げを打つと毎回ダビスタのようなレース展開になります。
まさしく名脇役といった感じで。
「これは」と思わせるのですが、直線での失速ぶりも毎回凄まじい。

最後、3頭並んで、唯一鋭い脚を使ったのがゴールドシップ。
ジェンティルドンナは伸びきらず。海外遠征の余波も依然あったのでしょうか。
フェノーメノに関してはやはり、もう少し距離が長いほうが適性に合っているような印象。
ジェンティルが連対できなかったこともあって馬券的にはそれほどでしたが、一応プラスということで。

岩田さんと内田ジョッキーの最大の違いは「謙虚さ」じゃないかと。

13'コンフェデ杯の敗退が早々と決まって


今朝のメキシコ戦に敗れ、3戦全敗でのコンフェデ杯グループリーグ敗退が決まりました。
いつもにまして期待感が大きかっただけに、残念な気持ちです。
思えば、アルゼンチンに1-0、韓国を3-0で下したキリンチャレンジカップなど、着々と力を着けてきたように思っていたのですが、どこで歯車が狂ってしまったのか。

昨日の試合に関して、前半の遠藤のミドルから岡崎のヒールでの得点→オフサイド。
あれは完全なジャッジミスだったのでは。
05'コンフェデでの加地のオフサイド判定が脳裏をよぎりました。


審判にジャッジミスはつきものとはいえ、先制点をどちらが入れるかというのは90分の試合全体を左右するほどキーとなるものです。
それは今回のコンフェデ全体を見渡しても明らかなわけですよね。
例えばブラジル戦は前半開始早々にネイマールにゴラッソを叩きこまれ、そのまま圧倒される。
逆にイタリア戦は先制点を日本が奪いリズムに乗ってダイナミックな攻撃を仕掛けることができた。結局、守備が崩壊しましたが。

ザック体制のこれまでの成績を振り返れば、概ね良好で(勝ち星が負けを大きく上回ってること、アジアカップを制したことなど)それらを槍玉にあげて、批判するのもどうかとは思うのですが、
多くの方が指摘されているように、もっとザッケローニさん監督には色々な選手を試してほしかったと思います。
親善試合などでもほぼ固定メンバーは動かず。だからオプションも少ない。
昨日のメキシコをみた限りでは多様なゲームオプションを保有しているのは明らかでした。昨日のように長友が負傷したり、不測の事態に備えるためだけではなく、普段から数枚のカードを持っておくというのは、強豪国とのトーナメントを勝ち抜く時などには必須になってくるんじゃないかと。


個人的に必要だと感じるのはボランチに思い切ってメスを入れること。
遠藤に関しては、J2のスピード感の中で、プレースピードが下降しているのがかなり目につくし、長谷部も(リーダーシップうんぬんはあるんでしょうけど)トータルでみたら、もっと彼の代わりに試してみてもいい選手はJにもたくさんいると思います。
例えば鹿島の柴崎岳、セレッソの山口螢、はたまたサンフレッチェの青山など。
あとは今野をボランチにあげて、センターバックに闘莉王を入れるなど。
本人は代表に入る気満々でした笑(やべってFCで言ってました)
あとは一刻も早くジーニアス柿谷が代表でみたいですね。
間髪を入れずに批判がきそうですが、柿谷をワントップで試してみても面白いと思ってます。今季の柿谷をみているとその可能性を感じます。
なんといっても本田が前線でキープして溜めを作れるので、かなり良好なリンケージができるのではないかと。
左サイドで長友・香川の崩しからの岡崎へという流れと、センターで本田からの楔を受けての柿谷。バイタルエリアでの技術はワールドクラスだと思います。
(コンフェデを受けて、本田、岡崎の去就も気になりますね)
<参考>

吉田に関してもサウサンプトンでの活躍からは考えられないポカが続いていて、このポジションにももっと競争が必要かと。

あと一年でやれることを逆算して考えて行かないと。現行体制を維持するとなると、上昇はちょっと望めないんじゃないかと。
だからボランチ、センターバックで改造すること。あとウルトラCで柿谷を早く招集すること。個人的な願望も含めて、今のところ思うのはそんなところです。

ラディカルな発言をしすぎると、飯が食えない

一昨日書いた「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」というエントリーを佐々木俊尚(@sasakitoshinao)さんが朝のキュレーション・ツイートで使ってくれたおかげでビューが飛び跳ねました。
そのおかげで、数人の方がエントリーへの感想をくれました。
総じて、どの意見も概ね自分と同じ問題意識を抱えているようでした。 
こうやって一個人が書いた文章を叩き台として議論が巻き起こる、これは健全な情報環境だと思います。
双方向かつ自由な言論空間でのやり取り。ただ問題はこういったプラットフォームの埒外にいる人が、問題を構成している大部分の人達であるということで...。
これらを受けて、少し思ったところを補足。
ただ単に「ラディカル」なら良ければいいのかというと、それは否です。
至極まっとうなことを穿った見方からラディカルに否定しながら、この見方こそが「至極まっとうなのだ」という転位を画策するためには、真実味の香りを漂わせることが肝です。
いわば一種の「巧妙さ」を滑りこませてくるわけです。
ラディカルが先行し、論理破綻が明確な発言・発信には、いくらリテラシーが低くとも、人々はそれに目もくれない。
本当に大衆を飲み込んでいく潜性を持つラディカリティというのは常に"狡猾"なものです。

往々にして、その戦略として単純化した二分法が用いられます。
「こういった見方が主流である」だが、それは間違いである。「本来はこういった見方が正しいのだ」と反対の見方を拵えます。
「現在の潮流はカクカクシカジカの問題を内包している」と注意を喚起します。
実際に歴史は、世界史はこういったラディカルな物の見方を提示した人々を機軸に回り続けてきたと言っても過言ではないと思います。
全会一致で法的かつ公式に承認され誕生したヒトラーを元首とするナチ党。
付和雷同した無辜の大衆には、後のカタストロフィックな惨事はおそらく予見できなかったことでしょう。
ファシズム的公共性」これはメディアに限った話ではなく、政治がこれまで紀元前から苦慮してきた最大の係争点でもあるのです。

F・フクヤマが『歴史の終わり』で高らかと謳い上げた政治の最終段階としての「自由民主主義」の最大の矛盾が、前回の記事で触れた問題と通底しているのです。
讃美されがちな「集合知」という考え方も、そういった陥穽にハマると全く逆の様相(トクヴィルが危惧した民主主義の裏返りとしての「衆愚政治」)を呈してしまうわけです。

一昨日の記事に対して、やはり「真っ当なことを言い、それが真っ当に評価される社会が良い」と少しノスタルジックなツイートをなさっている方がいました。僕もそれはそう思います。
そこで紹介されていた『ウサギはなぜ嘘を許せないのか?』という本。



主人公のうさぎエドを中心に「正直に行動することの大切さ」を伝える啓蒙書のようなものでしょうか。「大切なのは"早く"ゴールすることではなく、"悔いなく"ゴールすること」という言葉が象徴的です。
問題は、自分はいくら正直で誠実だと腹をくくっていても、周りはそれをどうとらえているか、自分をどうみているのかは見えない。
"独善性"からいかに距離を置き続けることができるか。

上手いまとめが浮かびません。
ただ逡巡するなかで、ふと頭に浮かんだこと。それはフーコーのコレージュ・ド・フランス講義「真理への勇気」です。


 
この講義でフーコーは「すべてを語ること」(パレーシア:率直な語り)に照準を合わせます。「政治的な場において、勇気を持って真理を語ろうとすること」
見えないものをみようと生涯をかけて挑んだフーコーの仕事のうちでも見過ごすことのできない講義の一つだったと思います。
王政期に絶対的権力を誇った王の生殺与奪権に象徴されるように、彼の権力は圧倒的な可視性を担保に、市民を掌握していました。


ところが彼が『監獄の誕生』で明らかにしたのは、近代の市民は学校、病院、監獄などの施設で意図せず権力の網の目に絡めとられていること。身体性を通して権力を押し付けられていることをフーコーは系譜学的に明らかにしたのでした。
たとえば炎天下の校庭で、列を作らされ前に倣へなどを強制され、少しでも乱すと教師に叱責される。胸の奥で「なんでこんなことやらされてるんだろう」って思ってたとしても、「まあみんなやってるし、しょうがないか」と徐々に、ゆっくりと、大勢順応主義に飼い慣らされていく。

こういった複雑な権威の諸相はじめ、メディアに張り巡らされた言説、ラディカルかつ狡猾に繰り広げられる主義主張に「真理への勇気」を失わないように、小さな反抗を積み重ねていくこと。
フーコーはそう僕に教えてくれたような気がするのです。

2013年6月21日金曜日

ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること

というセルジオさんのツイートを見かけて、思うところを書いておきます。

僕も今朝は早起きをして、友人たちと共にイタリア戦を観ていました。
ブラジル戦で完敗し、それでも腐らずに憤怒の念で懸命に戦った選手たちには賛辞を送りたいと思っています。 
べつに擁護をするつもりじゃありません。どれだけ内容が良くとも、結局勝てなければ、意味がないし、ケーヒルに指摘されるまでもなく、日本代表に必要なことは「勝ち切ること」です。イタリアには「勝者のメンタリティ」をまざまざと見せつけられました。
攻勢を続け、何度ポストやバーに当てたところで、シンプルに一点を入れたジョヴィンコの得点の方が遥かに価値があります。

ここで試合の感想を述べるつもりはありません。

はっきりいって、表情云々は知りませんが、この結果に満足している選手はいないと思います。
少なくともコンフェデ前には「W杯優勝を目指す」と公言していた選手たちです。
プレ大会である今大会が早々と敗退が決まって、それで満足するわけないんですから。

たしかに、日本のメディアには健闘を称えた論調がみえました。
あくまでそれは外野であるメディアの姿勢で、フィールドで戦っていた選手は誰よりも悔しかったと思います。

基本的に世論とは違った角度から断定的にモノを言うと、物議を醸します。
ラディカルな発言にはすぐにメディアは飛びつきます。
至極、真っ当な意見を言ったところで誰の耳にも残らないのです。
これは何もスポーツメディアに限ったことではなくて、あらゆる領域に当てはまることです。
北朝鮮の核実験があればすぐに戦争を煽るメディア。
政治の場面でも、極左だろうが極右だろうが、とにかくぶっ飛んだ発言、クレイジーなモノの見方は好まれて、いつしかそれが世論に浸透していく、これがメディアの怖いところです。(なんとなく田母神さんを想起しました)
この神浦さんのツイートはそれを嫌というほど裏書します。

学部生時代にある教授の退官記念の最終講義を受けました。
その教授の専門は国際政治なのですが、そのときに教授が話をしていたことがすごく印象に残っています。
研究者にとっても、至極当たり前な研究成果を真面目に発表し続けていては誰も注目できない=評価されずに、昇進もない。
現実を大袈裟に捉え、真理を拡張し、よりラディカルに書き立てる。
たとえば『文明の衝突』を書いたサミュエル・ハンチントン。
戦争を煽るかのような、過激な発言はメディアでも盛んに取り沙汰される。逆に慎重かつ冷静な現状分析は黙殺される。
過激な意見が人口に膾炙していくと、いつしかそれがマジョリティを形成していく。
イラク戦争に邁進していったアメリカの経緯を辿れば、それは明らかだと思います。
メディアは世論の脆弱さにつけ込んで、自己達成予言的な働きをする。
炎上マーケティングや芸能人の売名行為にも通底するものがあると思うんです。
要は目立ったもん勝ち。
団子から頭一個分出るためには、当たり前のことを当たり前に主張しても誰も聞きいってくれない。人が聞き耳を立てるように現実を拡大解釈し、ときには歪曲させる。
すると人は注目する。それが仕事になる。
こういった循環の論理がメディアやジャーナリズム覆い始めると、いよいよ世論も脆弱になっていきます。
お昼の情報番組の内容はかなり酷い。ニュースが伝えるべき題目は他にもかなりあるはずなのに、どうでも良い芸能人の情報がひっきりなしに伝えられる。
政治についても表層的かつ一面的な見方ばかりが伝えられる。
ポピュリズムの文化が浸透していき、ますます民衆の情報リテラシーは低下していく。

仕事欲しさにラディカルな発言をするコメンテーター、ジャーナリスト、それが大好物な視聴者、大衆。視聴率至上主義が蔓延るマスメディア。
これが構造化し、ますます受容サイドのリテラシーが低下していくから、それにつけ込むようにして発信側もよりラディカルに先鋭化していき、根も葉もないようなことを言い出す。この負の連鎖はとどまることを知らない。
社会におけるメディアの在り方の由々しき問題だと思います。
(今年の初めにも同じようなことをツイートしていました。上の発言は誤解を生みそうなので、一応補足すると、土屋さんもそういった体質に危機感を抱いているということだと思います)

情報元を多様化させて、主体的に情報を取り込んでいく必要があると思うのですが、「特異な日本のニュースメディア環境、高齢化がさらに際立てる」といった記事を読んでも、日本の特殊なメディア環境はかなり際立っています。

補記として「ラディカルな発言をしすぎると、飯が食えない」も参照ください。

2013年6月11日火曜日

アンパンマンから「死刑存置論」を考えてみる


私たちの価値観は環境の中で日々、刻々と醸成されていく。
人々の関わり、メディアで表象される数々のシーン、新聞の論説で語られる「こうあるべきである」理念。
そうした複雑なファクターが異種混淆し、複雑に絡まり合いながら一つの文化圏内で一定の「社会規範」は成熟していき、ある場合には「常識」として受容される。

とりわけ、それを強力に広範囲にわたって推し進めるのがテレビを中心としたマスメディアである。
言うまでもなく、テレビが世界すべてを映し出すことは不可能で、放映されるに至るまでには制作側の恣意的な優先順位がある。
報道を例にとると、これまでに指摘されてきたのはクローズアップされる国や地域が例に漏れずOECD加盟国との利害関係が幾分でもある国に限られているということだ。
たとえば「破綻国家」とされるソマリアにスポットライトが当てられることはほとんどない。
メディアの「議題設定機能」についてはここでは深く立ち入らない。

ここまでで何が言いたいかというと、価値観(とりわけ「正義観」にここでは注目したい)はあらゆるメディアに巧妙に埋め込まれており、絶えずこのような一定の価値(正義観)を内包した言説に曝されることで、私たちの奥深くで「正義観」が徐々に形成されていく。
自分自身でゆるぎなく把持していると思われる考え方や信条もかなりの部分が社会的に(しばしば無意識のうちに)形作られていく。

以前から不思議に思っていたことの一つに、日本の死刑賛成論がある。
日本は死刑賛成派が約8割とマジョリティを占め、先進国のなかではありえないほど高い数字を保ってきた。
(小林和之『おろかものの正義論』)で触れられていたのだが、人は「死刑制度」についての知識を深めていけばいくほど、賛成派から反対派へと移行していくという。
よく挙げられる理由の筆頭として、どこまでいっても被告が否認する限り「冤罪」の可能性が拭えないということがある。(この点については映画『それでもボクはやってない』を観たことがある人なら、痛いほど分かると思う)
賛成論者の論拠はきわめて明快で、例えば人を数人殺した加害者が死なないで、のうのうと生きていくのは許せないというものがある。(さらに一歩踏み込んで考えれば、被害者が将来的に子どもを生み、その子どもがまた子どもを生むといったように、実際の数字以上の生命を奪ってしまったと、言うこともできるかもしれない)
ただ上記の小林の本でも触れられていたいくつかのケースは、遺族が「死刑」を望まず、終身刑を支持した例もある。
ハンムラビ法典から旧約聖書にいたるまで、滔々と受け継がれてきた「目には目を歯には歯を」という同害報復刑では"黒い連鎖"が留まることを知らず、加害者が死に絶えれば、心の底から晴れ晴れするといった人はごく少数なのではないかと思われる。

ここで冒頭のメディアと正義の関わりに重心を戻したい。
なぜ日本では賛成論が主流なのか。
その遠因をメディア論的に語るならば、メディアの中でアニメ、報道、ドラマあらゆる形式で「勧善懲悪」的な価値観が是とされてきたことが、大方の日本人が共有する「正義観」を成り立たせるに至ったのではないかということだ。

先日、まだ幼い姪とテレビでやっていた「アンパンマン」をみているときに、フト思った。
とりわけ発育段階にある幼子は確固たる価値観や規範を自己のうちに確立できていない。
とくに3歳〜5歳時のコミュニケーション環境が以降の人生に与える影響が大きいことがしばしば指摘されるように、このときに浴びせられる情報が価値形成に与える影響は計り知れない。
アンパンマンではバイキングをアンパンチで倒し、ウルトラマンや仮面ライダーでも悪者を倒すのが決まりで、水戸黄門でもご隠居さまが最後に印籠をみせ、悪者を助さん格さんが成敗するのが定型。
「出る杭は打たれる」などの社会文化にもみられるように、とにかく一度、社会において「悪者」のレッテルを貼られると、徹底的に叩かれる慣例が浸透しているように思う。
相対的に欧米先進国では、処罰よりも先に、いかに適切に更生させ、再び社会に適応させるかに重点が置かれているように思う。
当然、日本の文化でほとんどの時間を過ごしてきた自分が他文化における「正義観」を単純に比較することは難しいにしても、死刑存置論者の数が先進国の中で圧倒的に多い日本で、アンパンマンをはじめとしたアニメなどテレビが「正義観」の規範形成に与えてきた影響は多分にあるのではないかと感じた。科学的な裏付けは一切ありませんが。

2013年6月7日金曜日

読書『レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる』佐々木俊尚著


一ヶ月ほど前に予約していた佐々木俊尚さんの新刊『レイヤー化する世界』。
開封して、2時間半ほどで一気呵成に読み上げてしまいました。
新書だと、一気に読んでしまう習慣がついているような。

執筆段階のフェイスブック・フィード

佐々木俊尚さんなどいわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちは、書籍購買への導入が圧倒的に強いと思います。
その本へかける意気込み、執筆過程、内容に関する双方向的なフィードバック。
ホリエモンも津田さんも、東さんも、枚挙にいとまがありませんが、フォロワーの方は気づいたら本を書店で手にとっていることも多いと思います。
オンラインとオフラインをつなぐものとして、「本」があるような。

タイトルからなんとなくハロルド・イニスの『メディアの文明史―コミュニケーションの傾向性と循環』を想起していました。
あながちそれは外れていなかったのですが、イニスの本はなんせ半世紀くらい前に出版されているものですから、かなり時代の隔たりがあり、その間、世界環境は激変しています。

佐々木さんは得意のテクノロジー論を下敷きに、世界の文明史を古代、中世、現代、そして未来へと開かれた時間軸のもとで丁寧に文明史をたどっていきます。
かなりの参考文献を参照したのが、行間から伝わってきます。
<あとがき>に参考文献が付記してあるのですが、読んでいる最中でも、かなりの程度、「ああ、この本からの影響があるなあ」というのが多くありました。

まず、基層をなしているのがハートとネグリの『帝国』であることは間違いないと、すぐにわかるし、ウォーラーステインの『世界システム』も間違いなくインスピレーションを与えていると。

ナショナリズムの系譜を少しでも紐解くと、「国民国家」が所与のものではなく、人為的にしたたかと上位権力のもとで(公定ナショナリズムなどを迂回して)形成された、文明史のなかでは比較的新しい体制でしかないことは自明です。
アンダーソンの『想像の共同体』、ホブズボームの『創られた伝統』、カントロヴィチの『王の二つの身体』などいまや成熟した感のあるナショナリズム研究ではそれぞれでものの見事にネーションの虚構性が告発されています。

帝国が未来永劫に不変のものではなく、絶えず興亡を繰り返すのは『ローマ帝国衰亡史』に明らかですが、それが"帝国"であれ、"国民国家"であれ、枠組みは常に変化を免れない。

グローバリゼーションの論説で常に共有されてきた文脈としてトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』があると思うのですが、あの時点の地平ではまだ見えていなかったことを佐々木さんは掴んだのではないかと。それが「レイヤー」という表現に集約されています。
グローバリゼーションで世界は一つになるなんてことはなく、マクドナルドのようなアメリカ型の最大公約数的な大衆文化が世界を均質化していくという文化帝国主義も的はずれである。
世界はレイヤー化しているのだ。
国境、民族、言語など国民国家の根幹であった諸要素も一レイヤーに過ぎず、特技・趣味などより微細なアイデンティティの諸相も対等なレイヤーとして台頭しつつある。
つまりフリードマンがいった「フラット化」は世界そのものに起きているのではなく、レイヤー内で起きているのではないかということだ。
思考の補助線になりそうなので、(議論は多少違うものの、ルフェーブルの『空間の生産』から引用)
いかに資本主義的な空間の生産が世界化しようとも、局地的なものは消滅しない。というのも、局地的なものは、地方的レベル、国民的レベル、世界的レベルによっては決して吸収されないからである。国民的レベルと地域的レベルでは、無数の『場』を含み込んでいる。国民的空間は様々な地域を包括する。世界的空間はたんに諸種の国民的空間を包みこむだけでなく、激しい分裂過程を通して国民的空間の形成を促し、そしてついには新しい秩序を生み出すまでに至る。同時にこれらすべての空間がおびただしい数のフローによって妨害される。社会空間はこの極度の複合性のなかにたち現れる。
とうぜん、このような「レイヤー」的視点はなにも目新しいものではなく、常にそこにあり続けた。
ただ、これを顕在化させ、可視化したのがほかでもなくツイッター、フェイスブックをはじめとするソーシャル・メディアである。
アマルティア・センはこれまでずっと「アイデンティティは選択可能である」と主張し続けたきた。(たとえば『アイデンティティと暴力:運命は幻想である』参照)
ただ、そんな当たり前のことが自覚できないほど、これまでは国民国家が強く個人のアイデンティティを照射し、他のアイデンティティを相対化し続けてきた。
コドリーも同様に『アイデンティティ\差異―他者性の政治』において、アイデンティティのドグマ化を問題視すること、差異の脱政治化を要請している。
ようやくこのような要請を実行できるような段に到達したのかもしれない。

坂本義和さんの『相対化の時代』を読んでから、この本を読むと20世紀から21世紀の変容の激動がより手に取るようにわかる気がしました。

この本の骨子である「レイヤー化する世界」という後半部に至るまでの、中世・現代の歴史については平易に叙述されているので高校生には最適かと思います。佐々木さんもたしか、そのような読者層も想定しているとツイッターでおっしゃっていたような。



【佐々木俊尚さんのその他の著作】
・『「当事者」の時代
・『ブログ論壇の誕生

2013年6月1日土曜日

もんじゃ放談#3 RSSフィード購読としての対人接客

インドから帰ってきて、いきなりGWのアルバイトは堪える。
それでも、半身が腐りながらも必死に物乞いをしていたインドの人々を思うと、健康に働けるという事実に大きな感謝。
どれだけ、仕事が大変だとしても、スペインはじめ先進国でさえ若年層の失業率が目立つ中で、働けることに喜びを感じたい。社員だろうが、アルバイトだろうが。

そして、時間の流れが一気に加速した。
インドで瞑想していたときは、一時間いや30分でさえ永遠に感じられた。
それが忙しなく接客しているとあっという間に深夜へ。
時間というものが圧倒的なまでに「相対的」なものであることを思い知らされる。

そんなこんなで覚えている限りで、#2に引き続き瑣末なことを今回も連々と。
こんなしょうもない備忘録でも、いつかフックとして有機的な連なりをみせることがあるから。
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5/5 バナナ梅酒
インドに行っている間に新しいお酒が入荷されていました。
うちの店は前から梅酒の種類は豊富なのです。



今回、↑の七福神梅酒に加え、新たに「バナナ梅酒」がメンバー入り。


新しいお酒を入荷する度に、試飲するのも一つの楽しみですね。


ぜんぜん話が変わりますが、個人経営の飲食店のお店で働いていると、全国津々浦々からご当地のおみやげを頂きます。
アルバイトであるぼくもそれらを食べる恩恵にあずかっているわけですが、その中でも個人的に群を抜いて大好きなのが落花生クッキーの「豆絞り」。千葉の名産なのですが、ピーナッツがクッキーと絶妙のマッチ。
このおみやげが来る度、嬉しくなります。緑茶と一緒に食べると尚美味しい。

5/6 アベノミクス?ホットケーキミックス?
中学生くらいの女の子たちの会話より。

5/9 草食系男子のダイエット
カップル。
「それって量多いですか?」と頼むメニューの一個一個に質問してくる。
「ぼく今ダイエット中なので」どうみても痩せてる。
挙句の果てに「カロリーどれくらいですか?」とまで。知らんわ。笑
会計のときに「運転代行頼めますか?」と。
どうやらボンボンらしい。きっと生活感覚が根本的に違うのだと思った。

5/10 方言について
日本というこんなに小さな国にさえ、方言がある。
福島で教習を受けていたときは教官がなんて言っているのか理解できなかった。
今日来た子連れの家族。子供がしきりに「〜ばい」と言っていて、とっても愛らしかった。
東京で生まれ育った身からすると、方言が羨ましい。
そういえば、標準語の「だよね〜」という同意語に対して、関西弁の女性が「な~」というのは強烈な威力がある。可愛すぎですよ。東京生まれ育ちだから感じるだけなんですかね。。


5/11 就活中のおばさん
これまで産婦人科で助産助手をしていたというおばさん。
(そもそも、何の資格もなしにそんなことができることを初めて知った。やはり産婦人科の慢性的な人材不足が背景にあるのだと思う)
それで今は仕事をやめ、再び医療関係で仕事を探しているとのこと。
連れの男性が「歯医者は?」と尋ねたのに対し、「歯科院のアシスタントは20代までね」とのこと。
たしかに歯医者さんのアシスタントは若い女性ばかり。
就活しているのは何も学生だけじゃない。

5/12 "承認欲"の根源について
小学生にも満たないほどの幼子がお母さんに、しきりに「みてみて、ピアノ弾くの」とおもちゃのピアノを弾ことしていた。
お母さんが見てくれないと、駄々をこねてしきりに注目を得ようとしていた。
人が誰かにみてほしい、注目してほしい、認めてほしいという感情はきっと社会性をみにつける前に、生得的に持っているのかもしれない。どこにその淵源はあるのだろう。

5/17 松嶋菜々子・反町夫妻のドーベルマン事件
普段、政治・経済やスポーツ、そしてテック、ガジェット系のニュースや記事は朝起きて、ひと通り目を通すものの、芸能エンタメは素通りしてしまう。
でも、飲食店で働いていると、自然とそっち方面のニュースが聞こえてくるから、結局は耳に入る。
たとえば今日はお客さんが松嶋菜々子、反町隆史夫妻が飼っている犬が著名デザイナー(佐藤可士和さんのことですね)の妻を噛んでしまった事件で、385万円の損害賠償をした事件を話していた。
ちなみに佐藤可士和、反町夫妻が住む家賃175万円の家、ラ・トゥール代官山


5/18 関西風もんじゃとは?
京都から来ていたお客さんが教えてくれた関西風もんじゃ。奈良にあるそう。
食べログのクチコミを覗いてみたら、見た目はもんじゃで味はたこ焼きだそう。笑
関西に行く機会があればぜひ一度味見してみたいです。

5/19 葛西のインド人街
葛西には横浜のチャイナタウンならぬ、リトルインディアともいうべきインド人街が形成されているらしい。とりわけ西葛西。
統計によると、2万3千人ほどの在日インド人人口の中でその1割にも及ぶ2000人が葛西に住んでいるらしい。(参考記事
実は僕自身も幼少期の3年間を葛西で過ごしたので、少し驚きです。
こういったコミュニティはどこか内向的で閉鎖的なんですが、アウトサイダーとして訪れる分には楽しいですよね。新大久保など。ニューヨークへ行った時も当然リトルイタリーに足を運びました。

5/20 Docomo is stupid.
日本に滞在してながいとみられる(日本語も流暢だった)外国人のお客さん。
とくにiPhoneの権利に頑なに手を出そうとしない姿勢を引き合いにだしながら、ドコモを痛烈に批判していた。"Docomo is stupid"と言っていた。
詳細な真意までは分からないが、やっぱり海外の人からみても「ガラパゴス」と映るのだろうか。


5/26 自称エロ坊主
相撲が千秋楽になると、両国で相撲観戦をしたあとにいつもうちのお店に寄ってくれる大好きな常連さん。
職業はお坊さんなのに、なぜかいつもコンパニオンの若い女性を連れている。
自分で"エロ坊主"といっていて、どんなこともギャグに変換してしまう。ある意味でこの人ほどに頭の回転が速い人をみたことがない。
時折、根っから真面目そうな若い坊主の人をコンパニオンの女性たちと共に連れてきていて、なかなか滑稽。
自分の将来も応援してくれる大好きなお客さんの一人。


5/29 弘前公園の枝垂れ桜
セミプロのカメラマンのお客さんが、先日弘前公園で撮ったしだれ桜の写真をみせてくださった。
一度、酒田市まで足を運んで弘前城や松島を一人旅したい。

5/30 メロンのぬか漬け
そんなものがあるのか、って話なんですが。(コチラのブログでレシピが紹介されてました)
でも考えてみれば、メロンってウリ科なんですね。(うえのブログでメロンの断面があるのですが、言われてみればたしかにピクルスの断面に酷似している...)
ピクルスといえば、アメリカで寮暮らしだったとき常に冷蔵庫にアヒルかなんかがキャラクターのものをを常備してたなー。まるごと一本のやつ。大好きです。嫌いな人多いけど。
ちなみにこの話をしていたお客さんたちは、じゃあ「パパイヤ」ってなんなんだってことでも盛り上がっていました。
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こうしてザーッと見返してみると、他愛もない話題ばかりが連々。
でも単純作業(なんのコミュニケーションも介在しない)ルーティーンワークは自分には無理だなーとつくづく思います。
やる仕事は同じでも、相手にするのが人間ならば(対人接客)毎日が同じものにならずに、常に出逢いや新しい話題に満ちていて本当にたのしい。
なにも部屋にこもって、RSSフィードを漁らなくても、日常にニューズは充溢してるということですね。

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