Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年6月7日金曜日

読書『レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる』佐々木俊尚著


一ヶ月ほど前に予約していた佐々木俊尚さんの新刊『レイヤー化する世界』。
開封して、2時間半ほどで一気呵成に読み上げてしまいました。
新書だと、一気に読んでしまう習慣がついているような。

執筆段階のフェイスブック・フィード

佐々木俊尚さんなどいわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちは、書籍購買への導入が圧倒的に強いと思います。
その本へかける意気込み、執筆過程、内容に関する双方向的なフィードバック。
ホリエモンも津田さんも、東さんも、枚挙にいとまがありませんが、フォロワーの方は気づいたら本を書店で手にとっていることも多いと思います。
オンラインとオフラインをつなぐものとして、「本」があるような。

タイトルからなんとなくハロルド・イニスの『メディアの文明史―コミュニケーションの傾向性と循環』を想起していました。
あながちそれは外れていなかったのですが、イニスの本はなんせ半世紀くらい前に出版されているものですから、かなり時代の隔たりがあり、その間、世界環境は激変しています。

佐々木さんは得意のテクノロジー論を下敷きに、世界の文明史を古代、中世、現代、そして未来へと開かれた時間軸のもとで丁寧に文明史をたどっていきます。
かなりの参考文献を参照したのが、行間から伝わってきます。
<あとがき>に参考文献が付記してあるのですが、読んでいる最中でも、かなりの程度、「ああ、この本からの影響があるなあ」というのが多くありました。

まず、基層をなしているのがハートとネグリの『帝国』であることは間違いないと、すぐにわかるし、ウォーラーステインの『世界システム』も間違いなくインスピレーションを与えていると。

ナショナリズムの系譜を少しでも紐解くと、「国民国家」が所与のものではなく、人為的にしたたかと上位権力のもとで(公定ナショナリズムなどを迂回して)形成された、文明史のなかでは比較的新しい体制でしかないことは自明です。
アンダーソンの『想像の共同体』、ホブズボームの『創られた伝統』、カントロヴィチの『王の二つの身体』などいまや成熟した感のあるナショナリズム研究ではそれぞれでものの見事にネーションの虚構性が告発されています。

帝国が未来永劫に不変のものではなく、絶えず興亡を繰り返すのは『ローマ帝国衰亡史』に明らかですが、それが"帝国"であれ、"国民国家"であれ、枠組みは常に変化を免れない。

グローバリゼーションの論説で常に共有されてきた文脈としてトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』があると思うのですが、あの時点の地平ではまだ見えていなかったことを佐々木さんは掴んだのではないかと。それが「レイヤー」という表現に集約されています。
グローバリゼーションで世界は一つになるなんてことはなく、マクドナルドのようなアメリカ型の最大公約数的な大衆文化が世界を均質化していくという文化帝国主義も的はずれである。
世界はレイヤー化しているのだ。
国境、民族、言語など国民国家の根幹であった諸要素も一レイヤーに過ぎず、特技・趣味などより微細なアイデンティティの諸相も対等なレイヤーとして台頭しつつある。
つまりフリードマンがいった「フラット化」は世界そのものに起きているのではなく、レイヤー内で起きているのではないかということだ。
思考の補助線になりそうなので、(議論は多少違うものの、ルフェーブルの『空間の生産』から引用)
いかに資本主義的な空間の生産が世界化しようとも、局地的なものは消滅しない。というのも、局地的なものは、地方的レベル、国民的レベル、世界的レベルによっては決して吸収されないからである。国民的レベルと地域的レベルでは、無数の『場』を含み込んでいる。国民的空間は様々な地域を包括する。世界的空間はたんに諸種の国民的空間を包みこむだけでなく、激しい分裂過程を通して国民的空間の形成を促し、そしてついには新しい秩序を生み出すまでに至る。同時にこれらすべての空間がおびただしい数のフローによって妨害される。社会空間はこの極度の複合性のなかにたち現れる。
とうぜん、このような「レイヤー」的視点はなにも目新しいものではなく、常にそこにあり続けた。
ただ、これを顕在化させ、可視化したのがほかでもなくツイッター、フェイスブックをはじめとするソーシャル・メディアである。
アマルティア・センはこれまでずっと「アイデンティティは選択可能である」と主張し続けたきた。(たとえば『アイデンティティと暴力:運命は幻想である』参照)
ただ、そんな当たり前のことが自覚できないほど、これまでは国民国家が強く個人のアイデンティティを照射し、他のアイデンティティを相対化し続けてきた。
コドリーも同様に『アイデンティティ\差異―他者性の政治』において、アイデンティティのドグマ化を問題視すること、差異の脱政治化を要請している。
ようやくこのような要請を実行できるような段に到達したのかもしれない。

坂本義和さんの『相対化の時代』を読んでから、この本を読むと20世紀から21世紀の変容の激動がより手に取るようにわかる気がしました。

この本の骨子である「レイヤー化する世界」という後半部に至るまでの、中世・現代の歴史については平易に叙述されているので高校生には最適かと思います。佐々木さんもたしか、そのような読者層も想定しているとツイッターでおっしゃっていたような。



【佐々木俊尚さんのその他の著作】
・『「当事者」の時代
・『ブログ論壇の誕生

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