Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年3月29日金曜日

「炎上」をデザインすることについて


という、旨のツイートをしたらイケダハヤトさん(@IHayato)さんから、予想通りというか、以下のリプがきました。



重要だと思うのは、次の考え方だと思います。


これはもう枚挙に暇がない。「スティーブ・ジョブズ」なんかは、その好例。




このへんの詳しい話はイケダハヤトさん自身も「アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます」というエントリーで詳しく書いていました。
そして、そのエッセンスが「ぼくを「凡人」から「変人」に進化させてくれた5冊の本」という昨日、更新のエントリーにも窺い知ることができます。

一連のやりとりで、思ったこと。
「炎上」は「バズ(buzz)」を引き起こし、「うねり」に変わり、浸透・膾炙していく。
イケダハヤトさんが「せっせとありがとうございます」というように、当人は噛み付いているつもりでも、それは「リーチヴォリューム」を拡大(amplify)するのに貢献しているということで。

「バズ・マーケティング」や「炎上マーケティング」という言葉もあるように、戦略のうちにからめとられていて、結局は誰かの晩ゴハン代に寄与しているわけで。

冒頭で「全てはステマでできた大いなるストーリー」ではないかという空想をしてしまった、と書いたのですが、これはわりと真剣に考えていて

先月くらいに話題になった「峯岸みなみの坊主騒動」も実は代理店が影で暗躍しているのではないかとか、秋元康はフェイクで、実は別の黒子が「炎上アーキテクト(建築士)」としてバズをデザインしているのではないかとか、妄想してしまうんですよね。


ペニオクとなると、また話は別ですが、
何らかのルサンチマンによるdisから生じる炎上も、確信犯的に引き起こされるバズも、ソーシャルで話題になった時点で勝ちなわけで。
ソーシャル時代の売名行為とでもいうべき、マーケティング自体の地殻変動、空想を巡らせながら眺めているとほんとうに興味深い。

2013年3月28日木曜日

読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる

ひとは、程度の差こそあれ、人生のある地点で読書をはじめる。
正確にいうと、本に引き込まれていく。(後の時点で、振り返ってみるなら、こちらの表現の方が適切な気がする)
あらためて、「本を読む」とはどうゆうことなのかについて考えを巡らせてみたい。
3パートにわけ、それぞれ切り口を変えてみたので、ひとつでも流し読みしてみてください。
なにか意見をいただければ、幸いです。



1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか
読書についての話を始める前に、「貨幣」について考えておきたいと思います。
貨幣=お金、という単純な思考様式は成り立たないと気付いたのは、高校生のときにアルバイトを始めたときに遡ると思います。
まず、働く場においては基本的に2つの立場があります(すなわち、雇う側=資本家、雇われる側=労働者)
アルバイトとしてをしている僕は疑いの余地なく、「労働者」にカテゴライズされるわけです。
往々にして、両者の間にはゼロサム・ゲームのような緊張状態があります。
雇う側は、いかに労働者から最大限の労働を引き出せるか、労働者はいかに疲労を溜め込まずに仕事をこなすか。
ただ、圧倒的に有利な立場にあるのは「資本家」の方で、常に労働者に「クビ」というタグをぶらさげて脅すことができるし、労働条件の詳細を決めるのはあちらの立場になります。
たとえば、時給をわかりやすく1000円とすると、
どれだけ真面目に汗水流して働いても、資本家の目を盗みつつ怠惰に働いても、基本的に貰う給料は1000円で、おおきな変動がない。
そうなると、自分が1時間働くごとに頂く1000円という「貨幣」は、僕の1時間の労働が生んだ価値ではなくて、1時間という僕の人生(命の断片)を譲り渡すことによって発生しているのではないかと思うのです。
つまり、人間は生まれながらにして「寿命」という莫大時間という名の「貨幣」を、「お金」という別の貨幣に、そのときどきの状況・時分・手段において、交換しつつ生きている。
そもそも時間が貨幣であることに気付かなくては、後々、貨幣の浪費を嘆くことになりかねない。
そして、この二つの貨幣の最大の違いは、「時間」の方が比べ物にならないほどの価値を蔵している(invaluable)ということ。
お金は取り返せるけど、時間はもう戻らない。
時間→お金よりもお金→時間の為替の方がはるかにレートが高い。
そして、あらゆる場面で、若い時の方が「時間」が有する時価価値は高い。
ただ、単純に時給1000円のアルバイターが資本主義の下でもがく豚というわけではないと思います。
労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。(岩波の文庫版で9冊もあるのでチョー長いですが)
少なくとも、貨幣の二義性に逡巡する豚はなかなかいないのではないかと思うのです。
【参考】「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ



2.咀嚼、消化、排泄、そして循環
よく友人で「本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。だから読書をすることにあまり意味を見出せない」と言っている人がいます。
読書から引き出された知見を、いかに受肉し、自分の糧として血肉とするのか。
僕がときどき、こうやって思ったことを吐き出したり、読んだ本についてブログに書くのも、実はその受肉の一プロセスなのではないかと思いました。
人間は咀嚼し、食べた物を消化し、排泄する。
これはメタファーでもなんでもなくて、読書も映画もテレビのコンテンツから得た知見なり感想は、そのまま上のようなプロセスでアウトプットすることが必要なのではないかと思うんです。
ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。
この作業を通してはじめて、「言葉を手にしていく感覚」をおぼえると思うのです。
そして、僕のこういった稚拙な文章をみた人が、また彼/ 彼女の思想を付与し、それがまた流通していく。
このような「循環の渦」に自ら身を置くことで、成長できるのではないでしょうか。
こんなブログを書いているからなのか、よく「オススメの本」を聞かれることがあるので、その都度、なるべくその人に合ったような本をリコメンドするようにしているし、反対に「オススメの本」を聞くことも多いです、そうやって周りまわって行きながら、微量の「知」が集積されていくのかな、とも。



3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
よく、聞く言葉として「自己投資としての、本は安い。だからお金に糸目をつけずに、どんどん本を買って、自分を高めよう」という言葉がある。とくに自己啓発本に多い。
自分としても、同意なのですが、本質はそれだけではないのではないかと。
①でも触れたように、「読書」に関しては2種類の貨幣二つともを投じなくてはならないと思うんです。
とくにハイコストなのは、「時間」の方。
超速で速読ができる人は話が別ですが、大部分の人にとっては新書などの薄い本を別として、普通まとまった時間がなくては1冊の本を読み切ることができません。
だからこそ、自分が読書家だということをいいことに、普段読書をしない人を批判するのは違うのではないのかとも思うわけです。読書には多くの時間を割かなくてはならないし、一度の人生限られた時間、どれほどのお金という「貨幣」を持っていたとしても、時間という貨幣には限界がある。
それをいかに振り分けるのかについて、強制することはナンセンス。
だから、読書が嫌いだという人の思念も尊重しなくては、と思うのです。
ある意味で、自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

突然ですが、「本には引力がある」そう思うようになりました。
「僕らの興味は絶えずつくられていく」「僕らは出会ったものにつくられる」という思いがまずあります。
そして人との出会いと同じように本との出合いもセレンディピティの賜物ではないかと。
一人の人との出会いで人生が変わるように、一冊の本で変わる人生もある。
「引力」っていう表現もこのことで、一冊の本で価値観に多大な影響を及ぼすことがあるし(とくに思春期など、人間形成の発展段階においては)、ものの見方が変わること、質的な筆致にまで変化が及ぶことももちろんある。
そうゆう意味ではプラスの収穫(fruits)もあるし、リスクもある。
本には人を引っ張る(+-に)引力がある。
高校時代の担任の先生が、「Aという自分(主体)がBという本(客体)を受容した時に、Bに染まるでもなく、Aではね返すでもなく、Cという新しい価値を創造(create)することが重要なのだと」先日お会いした時におっしゃっていました。
もちろんそれは絶対的なこれまでの読書量の蓄積との兼ね合いにもなるわけですが、それに先行した独立した個としての「主体性」があると意識することが重要だと思いました。
(参考:約2年前に書いた先生と読書に関するエントリー「Sigur Rósと高校読書」)
そんなわけで、いまは柄谷行人を読み直しているわけです。

その他、読書が読む側と伝えたい側の「射影接続空間」としてインターフェイスとなっていることなど、時空を超えて、「知」に触れることを可能にしてくれていること
存在証明としての『卒論』」というエントリーの「敵は知の巨人ではなく自分自身」という項に思うところを記しました。

大きな時間軸のなかで、たった一人の個は泡沫でしかなく、最後は灰燼となる。
それを分かっていながらにして、人は本を読むし、本を書く。
きっとそれは、絶対的な刹那性を受け入れて尚、これまで滔々と受け継がれてきた「知」の清流に微力ながらも寄与したいという原初的な願望があるからこそ、なのかもしれません。

⇒「読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

AdeleとBruno Mars


自分のなかでは、Alicia Keysが殿堂入りの地位を確立しているのですが、(新譜ではとくに"One Thing"がお気に入りです)
Adeleもだいすきです。もちろん、"21"が数々の音楽賞を受賞したように、すごく評価の高い女性アーティストなのですが、やはり普遍的に響く音楽は往々にしてシンプルなものなのかなあと、そんな当たり前のことを思いました。
声に力強さがあって、ギター一本やピアノ一つで旋律を奏で、共振する言葉をのせていく。
男性でいえば、John Mayerはもともとそうだし、女性でいえばDemi Lovatoもアーティストとしての才能をシンプルな形で表現しているように思います。("Skyscraper"なんて何度聴いたことか)

Adeleのなかでは、とくにこの曲がお気に入りです。
前に和訳もしました。

孫さんが先日、つぶやいていましたね。




Bruno Marsもだいすきで、ライブでCDとほぼ変わらないパフォーマンスを毎回、しててアーティストの中のアーティストだなーとつくづく思います。
べつにどーってことはないんですが、
この"When I Was Your Man"と"Someone Like You"が同時に頭に浮かんで、二つを二つが照応し合うアンサーソングとして聴くと、なかなか趣深い。

2013年3月27日水曜日

読書『なめらかな社会とその敵』鈴木健著


いましがた読み終えた鈴木健さん(@kensuzuki)の『なめらかな社会とその敵』。
発売当初から話題になっていて、ずっと読みたかったのですが、勁草書房発刊ということで高価なため、尻込みしてました。マーケットプレイスにもなかなか現れないし。
ついに我慢しきれずに、新品をAmazonでポチってしまいました。

表紙の帯にある青木昌彦(スタンフォード大名誉教授)の言葉が光輝く。
インターネットがもたらす社会の生態学的進化をともに生き、造る若い世代の知的ネットワークの主要ノードである鈴木健。その彼が、社会科学の伝統的なストーリーを書き換え、実践的な意味を問う刺激的で、おおいなる可能性をはらんだ試み。
まず、専門が複雑系ということで
認知能力や対策能力が脳や技術の進化によって上がるにしたがって、単純化の必要性は薄れ、少しずつ世界を複雑なまま扱うことができるようになってくる。人類の文明の歴史とは、いわばそうした複雑化の歴史である。
という認識があります。

なぜ「フラット」ではなく、「なめらなか」なのか。
 フラットな社会は一見理想的なようで、生命のもつ多様性を否定している。一方で、なめらかな状態は、非対称性を維持しつつも、内と外を明確に区別することを拒否する。ある状態から別の状態までは連続的につながっており、その間のグレーな状態が広く存在する。


「なめらかな社会」が近代をアップデートするという確信の元、PICSYや分人民主主義・構成的社会契約論など、古くから受け継がれてきた諸思想・諸概念(貨幣論、間接民主主義、社会契約論)のアップデートを図りつつ、一つの大きな命題へと収斂させていく。
上記、3つの思想潮流の伝統を確認する意味でパッと3つの図書が思い浮かびます。




卒論で取り扱った「想像の共同体」で、アンダーソンが言っていたのは「想像」を可能したらしめたのは①俗語革命②出版資本主義がであったと述べました。
(この辺の話題については佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』がオススメです)
つまりメディアのネーションワイドな勃興があったわけです。

グローバル化が進展して久しい今日、経済面でいえば国民国家の枠組みにとらわれないボーダレスな交易活動が活発化しています。文化の面でいえば、ハリウッド映画、マクドナルドなどをはじめとする最大公約数的な欧米文化が世界各国の大衆を飲み込もうとしています。
唯一、政治セクターのみが堅牢にその領域を未だ保持しているように思えます。

いかにして、想像を更新し、範囲を拡張し、グローバルな正義を構想できるのか。
これが主要テーマでした。
その意味でいえば、昨今のSNS勃興はメディアに地殻変動を巻き起こし、グローバル化を阻んでいた政治セクターの防波堤を乗り越えることができる糸口かもしれないという考えを持ったわけです。



その意味で非領土的なデモクラシー(ヘルドのコスモポリタン・デモクラシー)などに思索のヒントを求めつつ、正義の普遍的な定量化への可能性を次のテーマに掲げたいと思っていました。


そのような中にあって、この本をこのタイミングで手に取れた意義は大きいと思います。

「理系」・「文系」という狭隘なマインドを超越した筆者の知性と情熱は、人類の叡智が学際的に集積されていくプロセスをダイナミックに描いています
未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」
というアラン・ケイの有名な格言が著者を突き動かす動力源となっているように思われました。 

本の内容に深入りすると、収拾がつかなくなるし、なにより多くの人に本著を手にとり、知のフロンティアを眺望してほしいと思います。

さいごに、おわりから重要と思われる段落を抜粋。
主体性が膜の境界を溶け出ることは、社会を、個体のメタファーというよりは生態系のメタファーに近い存在にする。生命における代謝系に相当するのはリソースの分配を司る「伝播投資貨幣」によって、中枢神経系は意思決定を司る「伝播委任投票」によって、そして末端神経=筋肉系は実行を司る「構成的社会契約」によって、社会はその膜性を弱くした生態系へと変化する。経済においては競争相手、政策においては論争相手、政治においては戦争相手という、弱い意味から強い意味にいたるまで「敵」の概念がなめらかになる。これはいわば、オートポエーシスからハイパーサイクルへの退化といっていいかもしれない。


その他memo
 
【他の書評エントリー】
超刺激的だが難解な本『なめらかな社会とその敵』が必読である理由 / 佐々木俊尚BLOG
『なめらかな社会とその敵』生命の起源から、300年後の未来を構想する / HONZ
いいね!だが断る - 書評 - なめらかな社会とその敵 / 404 Blog Not Found
『なめらかな社会とその敵』をもっと理解するための10冊。/ kazeto blog
社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと
なめらかな社会とその敵 / 池田信夫 blog

2013年3月25日月曜日

読書『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣著


ゼミの後輩に勧められたので、新書だったこともあり1〜2時間くらいでサラッと読了。
正直、これまで森博嗣さんの小説は読んだことがないのですが、かなり多産(prolific)な作家さんだそうで、『すべてがFになる』等が代表作のよう。

僕も森さんと同じように、なるたけ『〜の思考法』や『〜を実現するための5つの方法』などといった本は極力読まないし、読むとしても色眼鏡をかけて反面教師的に目を通すかになってしまいます。
たとえば『逆転の思考法』という本があったとして、本になって、それを読んでいる時点でもうそれは「逆転」ではないですから。

この本を通じて推奨されているのは、ものごとをメタ的に捉え、抽象化すること。
日頃から、抽象的にものを見る目を持っていること、そうすることで、自分の頭の中に独自の「型」や「様式」を蓄積すること、そして、それらをいつも眺め、連想し、近いもの、似ているものにリンクを張ること、これらが、素晴らしいアイデアを思いつく可能性を高める。
新しいアイディアは無から予定調和的に真空から発生するものではなく、既存の諸要素の組み合わせにすぎないことを知っているのならば、上記のようなアティチュードはそれを大いに助ける考え方だと思いました。「結合知」を養うことですね。

読書『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著


本の世界に自我を忘れ、没入して、読了後にすっかり心に風穴が空いたかのような感覚を覚えるのは、おそらく数年に一度あるかないか。
認知の限界を越えた世界を覆う幾つもの疑問。それらを振動させて、価値観が根底からぐらつくような予感。
中学三年生のときに、村上春樹の『ノルウェイの森』をはじめて読んだ時に、全身から揺さぶられたとき以来の感覚。(質的な性質は違いますが)

訳者あとがきで
『カラマーゾフの兄弟』は、彼が終生テーマとしてきた思想上、宗教上の問題を集大成した作品で、世界文学の中でも最高傑作の一つと言ってよいだろう。
そして、村上春樹さん自身もスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、チャンドラー『ロング・グッドバイ』とともに最も影響を受けた3冊として『カラマーゾフの兄弟の兄弟』を挙げていました。

『カラマーゾフの兄弟』の上・中・下を通して、なによりも圧巻なのは「大審問官」の場面だと思うのですが(松岡正剛さんの千夜千冊でも詳しい考察がなされてます)
とりわけ僕が立ち止まって考えさせられたのは
「そして本当に人間は神を考えだした。人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入りこみえたという点が、実におどろくべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすもんなんだな。俺自身に関して言えば、俺はもうずっと前から、人間が神を創りだしたのか、それとも神が人間を創ったのか、なんて問題は考えないことにしている」
宗教の本質は「解釈」にあるのではないか、という考えに至ったんですね。
ふと、神が存在するのならば、「どうして神は無神論者をつくったのだろう」と思ったのだけれど、信者にその人々を啓蒙し布教する使命を与えたのだという解釈さえも成り立つ。

佐藤優さんも立花隆さんとの対談の中で、『カラマーゾフの兄弟』なんて読むもんじゃないと切り捨ててましたが、やはりキリスト教信者からすると邪悪な書と化してるような。
逆に僕は無神論者のバイブル思えてしまったのですが。
嬰児から信仰の中で育ってしまえば、かなり強固な信仰心が根を張ると思うのですが、『カラマーゾフの兄弟』を読んでから信仰心を身につけようと思うと、少し難しくなるのではないかと、それほどまでに「信仰」とは「赦し」とはなんなのか深く考えさせられる。

『カラマーゾフの兄弟』に通底しているのは、せせら笑うかのような宗教への猜疑心と嫌悪感。

順番が前後してしまいましたが、映画『愛のむきだし』も今考えてみると完全に『カラマーゾフの兄弟』のオマージュな気がします。
ミーチャとグルーシェニカは映画の西島くんと満島ひかりの関係性のようだと感じました。

100年以上も前にロシアで書かれた本が、21世紀に生きる異国の青年に響くなんて、なんだか本当に不思議なものです。(おそらく世界中で僕と同じような衝撃を少年少女、成年男女が感じているのだとは思うんですが)

いつの時代も人の中枢というか、理性の在り方とか、人間関係の難しさ、とかは普遍なのかなあと。
神経衰弱状態のイワンに幻影が言った
「愛が満足させるのは人生の一瞬にすぎないが、その刹那性の自覚だけで愛の炎は、かつて死後の不滅の愛という期待に燃えさかったのと同じくらい、はげしく燃え上がることだろう」
いつでも人が激しく揺さぶられるのは、情炎によるもので。

あとは法廷での弁護士フェチュコーヴィチと検事イッポリート論戦では映画『それでもボクはやってない』を思い出さずにはいられませんでした。
イッポリートの
「何より確かだったことは、最初の場合に彼(ミーチャ)が心底から高潔だったのであり、第二の場合には同じように心底から卑劣だったということであります。これはなぜか?ほかでもありません、彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だったからであり―わたしの言いたいのは、まさにこの点なんですが、ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低劣な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方に見つめることができるからであります」
という言葉も
ラキーチンの 
「あの放埒な奔放な気質にとっては、堕落の低劣さの感覚と、気高い高潔さの感覚とが、ともに同じくらい必要なのである」
という言葉も、弁護士フェチュコーヴィチが「心理学は両刃の剣」であるという点を実は華麗に例証している。

三兄弟とも、それぞれがまったく違う人間であること、
その誰かに自分を知らず知らずのうちに投影しているんですね(読み進めながら)
自分はなんとなくアリョーシャに自分を重ねていましたが。
アリョーシャは数々の印象に残る言葉を言っていましたが、とくに一番自分の中に残響を残した言葉は
人生の意味よりも、人生そのものを愛せ。


ちなみにフジのドラマで市原隼人主演でやっていた『カラマーゾフの兄弟』は、サッと観た感じかなり期待はずれでした。チャレンジとしての着眼点は素晴らしいと思いますが。
そういう意味でいうとやはり『愛のむきだし』は良かった。

2013年3月19日火曜日

読書『本を読んだら、自分を読め―年間1,000,000ページを血肉にする"読自"の技術』小飼弾著


ブログ「404 Blog Not Found」のオウサー、小飼弾さん(@dankogai)の、読書論について書かれた本『本を読んだら、自分を読め』を読みました。
中卒、家庭内暴力、家も燃えた。そんな自分を押し上げてくれたのは、いつも本だった。
という帯の言葉。
小飼さんは中学途中から、義務教育の在り方に疑問を抱き、登校拒否となり、自分で独自の学習をし、大検をとって、アメリカのバークレーに進んだという異色の経歴の持ち主。

現在、年間5000冊の本を読んでいるそうです。

  1. だから、僕は本で強くなれた
  2. 本の読み方を変えれば、自分が変わる
  3. 本屋を歩けば、見える世界が変わる
  4. アウトプットすれば知恵はもっとつく
  5. 本当の教養は人生を豊かにする
という5章立て。

メッセージとしては、
本は、きみを救ってはくれない。けれども、本を読むことで、自分を救える自分になれる。
 という言葉に詰まっていると思います。

基本的な読書に対する姿勢とか思考のフレームワークはかなり自分と近いと思ったのですが、やや「読書」礼賛感が強すぎるのかなとも。
読書をしていない人を、やや蔑視というか、こき下ろしているように捉えられてしまうかのような表現があったような。

人生は選択の積み重ねで、一方には「読書」をし続けてきた今があり、他方(パラレルワールド的に捉えるなら)「読書」をまったくしなかった今もありえたはずで。
この二つを同時体験できる人は、神以外に存在しない。
「読書」をし続けてきた「今」の自分が他方を批判することは簡単でも、体験していない以上、これまた「偏見」でしかないわけで。

一個体としての「自分」が体験できうる経験は非常に限られている。
だからこそ読書が与えてくれるまったく、自分の生活の領域外の疑似体験はたしかに世界を広げ、血肉を施してくれる気がします。

こうやって、たまに「読書」にまつわる読書をするのは、非常にたのしいです。
普段の読書を省みることになるし、客観的に自分自身にとって「読書」とは何だろうか、という思考の機会も与えてくれます。

事細かい「読書」についての姿勢や捉え方に大なり小なりの差異は筆者それぞれにあったとしても、誰ひとりとしてその人生における意義を言及しない人はいないということです。筆者それぞれが、筆者として、人間として、今"在る"ことは「読書」抜きにしてあり得なかったのだと思います。


あ、それで言えば今月発売された立花隆さんの『立花隆の書棚』めちゃくちゃ気になりますね。汗牛充棟な立花さんの書庫(通称:猫ビル)の中を写真付きで解説しているそう。知の巨人の生態系の全貌、ゼッタイ買います。

2013年3月18日月曜日

WBC準決勝、プエルトリコ戦を終えて


早起きして、父親と共にテレビに張り付いて観戦していました。
能美のただ1球、あの甘く入った球が痛かった。
アメリカ入りしてから吹っ切れたと思っていた打線も沈黙。雰囲気に飲まれてしまっていた印象。
あまり順番とかは気にせずに、外国選手相手に無双だった牧田を早め早めで投入していれば、とも思いましたが。
井端は相変わらず安定感のある信頼のおけるバッティング。






井端の奥さん河野元アナが何度もテレビに写ってました。
8回のサインミスについては、痛すぎましたね。あの場面で。
せっかく山口が流れを作ってくれていたので。


WBC。開幕当初は阿部が間違いなく世界有数のキャッチャーだと誰もが思っていたとおもうんですが、やっぱり世界は広い。
プエルトリコのモリーナ。彼一人の存在があまりにも大きかった。
たったひとりでチームをあそこまで、昇華できるなんて。
野球におけるキャプテンシーの重要性ですね。


一応、プエルトリコはアメリカ領ですが、良いチームでした。
ドミニカ対プエルトリコになれば、かなりの盛り上がりになりそうです。


後の祭りの負け犬の遠吠えになってしまいますが、やはりメジャーリーガーも使って、本当の野球世界一決定戦がみたかった。
チームとしては怪我のリスクもあるし、メジャーリーグに調整を合わせて欲しいというのも分かるのですが、事実メジャーリーガーをたくさん使っている国もあるので、やはりWBCという国際大会としての明確かつ統一された規準がほしいところです。


そしてこれがサッカーとのスポーツとしての文化の成熟度の差なのかとも思います。
ただでさえ、野球には場所や道具にお金がかかる。
世界的にみれなまだまだマイナースポーツなのに、既得権益が絡みついている。
人気の低下が心配されるなか、国際基準も定まって行かないようじゃ、競技人口のパイも縮小していかざるをえなくなっていく。

経済的豊かさでいうとプエルトリコの強さには脱帽です。
おそらくそれを逆手に取ってストリートで鍛え上げた技術とハングリー精神があると思うんですが。
日本全体にいえることとしては、豊かさの裏返しとしてのハングリー精神の欠乏ですよね。
特に相撲なんかで顕著じゃないかと、幕内はモンゴル力士ばかりですし。


この前、香川のハットトリックが話題になったように、唯一サッカーが年々強化していってるスポーツだと思うんですが、これは日本におけるメジャースポーツであり続けた野球の人気低下の裏返しだと思うんです。
サッカーに関していえば、ハングリー精神云々ではなくて、競技人口が増えた分、運動神経が良い人の割合も当然、母数として流れ増えたのがあると思うんんです。
この論理でいうと、数年後の全競技において中国が派遣を握っている蓋然性はかなり高いと思います。


いずれにしても、選手のみなさんお疲れ様でした。
ひさびさにアツイ気持ちになれました。

【WBCに関して】

2013年3月16日土曜日

読書『君にはもうそんなことをしている時間は残されていない』千田琢哉著


ひさびさに自己啓発本的なものを読みました。
この本のタイトルから推察すると、こうやって書評を書いている今さえ、命の砂時計は砂をすり減らしていっているということでしょうか。

時間というのは、誰にとっても命の断片だ。
人はこの世に生まれてから、誰もが時計の秒針と共に死に向かって生きている。
そして唯一、時間だけは全人類に平等に与えられている。
ビル・ゲイツもウォーレン・バフェットも孫正義も君も私も平等に、1日24時間与えられている。
という冒頭からはじまり、「君にはそんなことをしている時間は①1秒もない②1分もない③1時間もない④1日もない⑤1月もない⑥1年もないというように、章ごとにスパンが伸びていき、合計70の時間にまつわるルールが紹介されています。
30分くらいでサラッと読めます。

自己啓発本を読み終えるたびに、ちょっとした後悔を感じてしまいます。
いつ頃からか。
おそらく高校生の時や、大学入学したての頃は、貪るようにこの手の本も読んでいたし、部分的に感銘を受けていたりしたと思うのですが、ある時からまったく響かなくなって、啓発本から遠ざかり、専門書や実用書を中心に読むようになりました。

ときたま、今回みたいにタイトルにそそられて購入することもありますが、その度、上記のようなことを思うんです。

この本が伝えたいことは、1つだけ。"Time is not money but life"

2013年3月15日金曜日

果たして、日本はまともなのだろうか


今日のお昼、茗荷谷にあるインドのビザ申請センターに行ってきました。
(ちなみに昨年くらいからインドのビザ取得方法が大幅に変わったそうで、少し手順が煩雑です。周到に時間の余裕を持って取得することをオススメします)
遅々と作業が進んでいかなくて、なにかと思ったら職員の人がチョコをかじりながらケータイでFacebookに勤しんでいました。
おもわず笑ってしまいました。

アメリカに留学していた時のことを思い出しました。
コンビニやガスステーションの店員の職務怠慢ぶりは目に余るほどです。
接客中にウォークマンを聞きながら、なにかを食べてるなんて当たり前です。
Subwayでは、サンドイッチを食べてる客の前でホウキを掃きはじめて、埃を立てるなんて日本では考えられないことです。

それに比べて日本ってなんて統制のとれた接客態度のまともな国なんだろうと、一瞬思いました。
でも翻って考えてみると、少し窮屈かな、とも思いました。
肩肘張って、常にピリピリしているような。

こーゆー思いがけない小さなストレス、日本の異常な自殺率を鑑みるなら、社会に浸透した種々の規範がそれを毛細血管のように覆っているのかなとも。

2013年3月14日木曜日

読書『思索紀行―ぼくはこんな旅をしてきた』立花隆著


一章一章を味わいながら嘗め尽くすように、床につく前に、丁寧に読み進めて行きました。
「ニューヨーク研究」、「パレスチナ報告」など独立した章がそれぞれの土地で現地に赴いて見聞きした生の情報と数えきれないほどの資料から集めた情報を擦り合わせ、整合し、立花さん独自の視点を交えたルポルタージュ。
旅自体はかなり前に敢行されたものですが、だからこそ新鮮で躍動に満ちていました。
街の息遣いや、生物のようにその姿を変えていく都市、時代そのものが有為転変であることを再認識させられます。

第四章の「ヨーロッパ反核無銭旅行」は特に凄まじい。
日本人が海外旅行に行くこと自体、ほとんど皆無だった時代に、学生として世界を飛び回った氏。
その圧倒的なまでの行動力と、その裏にある緻密な行動計画。
現在の自分よりも年下だった当時の氏には感服です。
その旅を終えたときに、日記の最後に自ら記していたというメモにその怜悧な洞見が輝いています。
「人間の一生は、教育あるいは環境によって作り上げた偏見を壊すための止むことなき闘いである」
「旅の前と旅の後では、その人は同じ人ではありえない」という序章の言葉はずっと変わることなき氏の信念なのだと思います。 

この手の旅行記を読むと、とにかく旅に出たくなります。
この世界にはどれだけ、自分の知らない世界が広がっていて、そこで脈動を打ちながら、生活を営んでいる人々が確かにいること。

村上春樹氏の『雨天炎天』を読んで以来、ずっと心の片隅にあるギリシャ・アトス半島への興味は、より一層強くなりました。
あと、一章で描かれる立花さん自身による無人島体験も興味深かったし、いつか敢行してみたい。こういった試みに興味を持つようになったのは、去年マーク・ボイル氏の『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読み終えてから。


【立花隆さんの本】
・『宇宙からの帰還

2013年3月12日火曜日

いま世界で一番有名な日本のロックバンドはONE OK ROCKじゃないだろうか


今日、公開された"Be the light"のMV。
いつも通り和訳に取りかかろうと思ったら、英語・中国語・日本語・スペイン語、さらにはポルトガル語と、それぞれのトランスレーションを付けたMVが公開されていましたね。
どうしても、この曲は世界へ、日本からのメッセージとして届けたかったのだという意図がヒシヒシと伝わってきます。
震災から二年、まだまだ復興へは程遠い。

以前、「Youtubeが切り拓いた世界とONE OK ROCK」というエントリーを書きましたが、まだまだぼくの認識は甘かった。
Youtubeというプラットフォームを起点に、伝えたいメッセージは世界へ拡散して、バイラルやフローを巻き起こしていく。
とくに音楽×英語が持つ威力は凄まじい。
各動画のコメント欄を少しでも覗けば分かるように、世界各地で視聴者が共鳴の声を上げている。
アジア各国、コロンビア、メキシコ、チリなどの南米諸国、ヨーロッパ全域。

ONE OK ROCKはいま、世界でもっとも有名な日本のロックバンドなんじゃないでしょうか。

もんじゃ放談#1


何度かこのブログでも触れていると思うのですが、ぼくは高校1年生から現在に至るまで、もんじゃ屋でアルバイトをしていて(かれこれ7年くらいになりますかね。途中でアメリカに二年くらい行ってますが)
もちろん、他にもいろんなバイトも掛け持ちでやってきましたが、唯一今に至るまで続いているのがこのバイトで。
なぜかといえば、あらゆる人たち、所得階層を問わない老若男女の人たち、それも全国各地、世界各国から来る人々とコミュニケーションを取れるからというが理由の筆頭にあります。
外国のお客さんが来れば、ぼくが接客することになっているので外国語を使う機会にも恵まれます。

それぞれがそれぞれのテーブルで話に夢中になっているわけです。
そのどれもが面白おかしくて、勉強になって、いろんな世界がみえてくる。
考具』にも書かれていましたが、普段から聞き耳を立てること(たとえば電車のなか)の効用が強調されていましたが、まさしくバイト中はその宝庫だと思ったわけです。
ネタの引き出しを増やす意味でもブログに備忘録的に書いていけば、なかなか面白くなるんじゃないかと。
ただボヤボヤと何も考えずに労働に明け暮れるよりは、人々の世間話に聞き耳を立てて『聞く力』を養いながら、バイトに目的を付与することができれば充実感も増すんじゃないかと。
てな訳で連載形式で実験的に10日分くらいやってみます。

2/26 『ブラック』
よく来る中古ディーラーの社長さん。
領収書切るときに、名刺がみえたので、気になり、家に帰って社名をググった瞬間、予測変換で「ブラック」と出てきて苦笑。
はじめてみたときからそんな雰囲気は漂っていた。
「08は全滅、09は二名、去年は全滅」など、新卒社員の残社状況を悠然と語っていた。

2/27 アンチ・ベジタリアン
彼は野菜を断固受けつけないらしい。
基準となるのがペヤングのカヤクだようで、それ以外は全く受けつけないのだとか。
そんな彼にとってはもんじゃは地獄絵だそうで。

3/2 ドワンゴ面接

就活真っ只中の理系就活生3人。
ドワンゴ(dwango)の面接で相当絞られたそうで。
「独力でなにかをつくったことがあるかを尋ねられて」「オセロ」と答えたら、具体的なソースコードまで突っ込まれて、その意図まで追及されたそうです。
Androidアプリをつくる会社で志望動機をうまく説明できないことを、3人ともが苦悶していたのが印象的でした。

3/5 全日本綱引き選手権
お客さんによるとBSで放送していたらしいです。
何が凄いって大阪のおばはん達が鬼の形相で白目むきながら力いっぱい綱を引いていた姿だそうです。




3/6 「そらアカンやろ、マカ飲まな!」
関西人は総じて、この手の話題が多いですね。笑

3/7 ILMALI現る
お客さんが先日、RIP SLYMEのILMALIに遭遇したらしいんです。
写真をお願いしたところ、ちかくにいたメンバーをみんな集めて撮ってくれたそうです。
真のイケメンや。。




3/8 良き住居としてのNYC(NYC as a good environment for living)
ニューヨークに数年住んでいたという会社員の人。
周知のようにセントラルパークは散歩やジョギングに最適だし、なんといってもNYは少し郊外へ行けば未だに田舎だということ。


3/9 器用な清隆
おじさん「お兄ちゃん、彼女何人いるの?」
俺「いや、一人ですけど」
おじさん「おじさんなんか、常に2〜3人はいるぞー(自慢げに)」
俺「いやー、僕そんなに器用じゃないんで」
おじさん「まあおじさんは器用だぞ。名前も清隆だし」
話は変わり...
俺「僕、来月インド行くんですよー」
おじさん「いいな。でもいいか、そしたらインドの女性と☓☓☓するんだぞ。それが本当の意味で世界を股にかけるっていうこっちゃ」

3/10①アッキー居酒屋にロックフェラー現る
先日、話題になりましたよね。安倍首相の奥様、昭恵夫人が内神田にオープンした居酒屋「UZU」
お客さんが、この前行ってみたそうで。そしたら、隣の席に、異様な雰囲気の外国人の方がいて、じつはロックフェラー財団の方だったらしい。(直系の)
毎日、ゴロゴロ有名人が出入りしているんでしょうね。

②慶應の女の子
何気なくお客さんが話していたこと。
行きつけのお店のバイトの子が慶應だそうで(ちなみにお客さんも慶應卒らしく、後輩にあたる)
「いやー、やっぱりバイトで慶應くらいになると、楽だよ。話ができるじゃない、"ハナシ"が」と
一般的なフリーターのアルバイターへの批判ともとれるようなことをおっしゃっていた...。

③宇宙兄弟ならぬ「もんじゃ兄弟」
パーマをかけて以来、宇宙兄弟って言われることが多かったんですが、昨日からは常連さんに「もんじゃ兄弟」と呼ばれるようになりました...笑

#2へ続く...。

2013年3月11日月曜日

上には上がいる、だからぼくらは成長できる


昨日、ひさびさにフロリダ大学(UF)留学時代の友達と会い、カニ鍋を囲んでガッツリ話をしました。
彼女はフロリダ州の弁護士ライセンスを持っていて、今は日本の法律事務所で相続関連の案件を専門に働いているそうです。
部屋にも難しいそうな日本語の法律関連の専門書が溢れていました。

彼女にとっても上には上がいるそうで、JAXAで働いている友達がそうだそうです。

今考えると、図書館に朝までこもって、毎日勉強していた彼/彼女それぞれがそれぞれの場所で飛翔して、活躍しているんだろうなと。
UFは化け物の巣窟だったんだなと。
そういう意味で、留学したことはやはり大きかった。
日本の大学にずっといたら世界の広さを中途半端にしか理解することはできなかったんじゃないかと。

ハーバードで日本語を教えて、優秀指導賞も受賞した羽根さん(@hanetakuya)も言っているように、優秀な人を常にみること。

 
ロールモデルが常に側にいて、お手本にしながら自分を高めていくことが成長への近道なのかなと。
常に、上には上がいますからね。
彼らのリズムやステップを見習いながら向上していきたい。