Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
ラベル 資本主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 資本主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年7月23日火曜日

マネーゲームとしてのサッカー


マンチェスター・ユナイテッドVS横浜F・マリノスの試合を観戦しながら、ブログでも書こうかと。
いつ頃からだったか、欧州のビッグクラブがワールドツアーで世界各国、最近ではアジア中心に各国のクラブと試合をするようになって。
僕もサッカーは大好きなので、まあ楽しみではあるのですが、正直試合自体はガッカリさせられることが多い。
それほどまでにテキトーにやっているということではないのですが、やはり試合としての引き締まりには欠けるというのは避けられないのかと。
なによりもまざまざとグローバル資本主義の影を見せつけられているというかなんというか。
なによりも広告の段階で「香川凱旋試合」と冠されると、スポーツがグローバル規模で資本=金の論理で動いていると、思わざるをえないし実際そうなんでしょう。
ちなみに今日の観客動員は5万人越えだそうで、マンUのユニを着ている人もかなり多く見受けられます。

試合の合間に怒涛のように流れるカゴメのCM。


「パク・チソンである程度、韓国からは絞ったからじゃあ次は日本か」
という見方はやや穿った見方に過ぎるとしても、もちろん市場価値を引き上げるからアジアの選手が重宝されるというのは疑いようのない事実ではあると思います。
つい最近のニュースでいえば、本田の移籍関連で「本田今夏移籍に暗雲?ミラン「スポンサーあれば…」」というようなスポンサー次第で動向が動く等。

もちろんこれはサッカーに限った話ではなくて、野球で言えばヤンキース移籍時の松井が"金の成る木"として見られていたとしても不思議ではないわけで。
テレビの放映料、グッズ販売、チケットなどなど経済効果の側面を挙げれば枚挙に暇がないわけで。

水を指すようなことを言っている間に、ついに香川の出番がありそうです。

2013年7月22日月曜日

「明日死ぬとしても、私は今日選挙に行く」―参議院選立会人を終えて

(YOMIURI ONLINEより)

参院選が終わり、自民党が6年前の惨敗からここまで復活するのか、、と言うほどの支持を集め、悲願のねじれが解消。
まあ選挙の細かい話や感想はここでは控えて、選挙の立会人として参加した感想なりを備忘録として。
ただし、ハフィントン・ポストに武田徹さんが寄稿していた「山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?」はかなり鋭いというか、ポピュリズムに陥りがちな有権者の陥穽を指摘しているので、シェアしておきます。

立会人は朝の6時半には集合して、当日の流れを確認します。
そして投票所が開場するのが7時、閉場は8時。
もちろん、この間ずっとぶっ通しなわけではなくて、途中何度か休憩が入ります。
やることはシンプルで、ただ選挙が公正に行われているのかを、投票箱を前にして監視(というより、ただ見ている)のが務めです。
あとは、1時間毎に投票者のデータ、投票率が報告されるので、それを記述していきます。


とにもかくにも、13時間にわたって、投票所でただひたすらに人々が投票するのを見続けていたわけですから、いろいろなことに気付かされたし、考えさせられる時間でもあったわけです。
「投票所」という一つの場所が見方によってはとても重層的な「場」であること、ここではいくつかの断想から気付いたことを書き残しておきたい。

1. 「プチ同窓会」としての投票所
まず気づくのは圧倒的に高齢者が多いということ。
これはデータ等を見れば歴然なわけで、当然知っていたことなのですが、朝7時の開場から夜8時までの閉場までずっと座って選挙を見続けてるとそれがよりリアルに実感として思い知らされる。
あとは、彼等の多くは知り合いで、もちろん同じ投票区に区分けされているわけですから、近所である場合も多いし、知り合いだらけというのはある意味で当然です。
高齢者でかつ、長くその場所に住んでいれば尚更のこと。
だから投票所は「投票」することに加えて、多くの人に会える「コミュニケーションの場」にもなっているわけです。プチ同窓会のような。

2. 「共同体」の縮図としての投票所
a. 「クソババア」を嘆いたとしても
投票所にはもちろん上述したような老人のみならず、20歳以上であれば、本当に多くの人が来るわけです。
基本的にみなさん、すんごくラフな服装できます。ほとんど寝間着のような恰好、タンクトップに半ズボン、クロックス。これはまあ朝に当たり前ですが、多い。
基本的には2〜3分で終わる作業ですから、淀みなく流れていくわけですが、ごくたまにマナー違反が起きる。
例えば場内での携帯電話の使用。公平に投票を行う意味でも、会話内容をなどで候補者名を口にするのはまずいわけです。
そこで立会人の一人が注意すると、逆に激高して、「どこに携帯の使用禁止が書いてあるんだ」と怒鳴り散らしていました。これはもう、常識の範囲内ですよね。
彼の言い分としては、親戚に名前が思い出せないから聞いていたのということで、でもそれは投票所に来る前に確認しておかなければならないことですよね。
あと、彼がしきりに言っていたのは東京都選出の候補者は顔つきのポスターがあるけど、比例はないじゃないか、ということ。
比例での候補者の数を考えれば、それが難しいこともすぐに分かるべきです。
投票所を出る時に、「クソババア!」と言って立ち去っていきました。
言われた選挙立会人の方は「ああゆう非常識な人が最近は増えてきた。物騒な世の中になってきた」と昔をノスタルジックに回顧しながら、世知辛くなってきた今の社会を憂いていました。
だけど、僕が常々思うのは「最近の若者は〜」とか「今の世の中は〜」とかって本来誰にも分からないことで、100年前の新聞にさえ「最近の若者は〜」と書いてあることからも分かるように、誰にもそんなこと分かるはずないってことです。人は比べるためのもう一つの人生を持っていないから。
それはあくまで個人の主観的な実感であって、昔と今を対比して嘆いてるだけでは何も変わって行かない。

あとは子どもを連れて投票所に来ることの是非。
事例として、選挙権を持たない子どもが大人の投票用紙に勝手に書いてしまったということが過去にあったそうなのです。
小さい子ども、大きい子どもは分かりづらいので、やはり明確化したほうがいいと思います。
ただし、子どもを連れてくる親としては子どもに選挙を知ってもらおうとしているわけで、厳正に管理した上で、子どもの入場も認めるのも、良いのかなとも個人的には思いました。若者の投票率の低さを鑑みると、選挙権を持たない段階から啓蒙するというのは。

b. 「公務員」という職について
昔、投票所は華が飾られ、軽やかな音楽な流れる、楽しい場であったと、懐かしそうにベテランの立会人の方が語っていました。
時代を経ると、「経費の無駄遣いだ」などという批判が相次ぎ、現在のような極めて質素な投票所になったとのことです。現在でも左胸に立会人の目印として、白い花を付けるのですが、これにも文句が来るそうです。
この立会人の方は、過去にこんな経験をしたそうです。
13時間も一箇所の場所に座っているわけですから、ある程度の時間ごとに姿勢を変えないとつらいわけで、そのときたまたま肘を机についていたらしいのですが、これを「横柄な態度」として「偉そうにするな!」と罵られたそうです。
この話と関連して、公務員の方が懸命に仕事をしている姿をみていて、思うところがありました。
社会は公務員の人、いわゆる役所の人がいないと成り立たないのは周知の通りなのですが、批判の槍玉に上げられるのもまた彼等なわけです。
何をしても批判される。何をしなくても批判される。間近でみていて、僕は一日のはじまりから終りまでを見ているわけで、彼/彼女らの必死で働く姿を長い時間の中で継続的にみているわけです。
だけど、批判されるときは往々にして、切り取られたある一部しかみられていない。
「税金の無駄遣い」とはよく聞くセリフですが、これもかなり微妙な問題なので、本来は慎重に使わなければならない言葉だと思いました。
公務員という人の「自己実現」はもちろん市民の役に立つこと、だけど会社にもまして拘束される組織の中の一人として独立した"自分"がかき消される、そのシーソーの中で常に揺れ動いているのではないか...。

3. 民主主義の「心臓部」としての投票所
a. 「明日死ぬとしても、今日私は投票に行く」
投票所とはつまり、国会の代議士、国民の代表者を主権者たる国民が選び出すプロセスを担保するための最重要なプロセスが行われる場であって、ここで不正がまかり通ってしまったら民主主義自体が機能不全になるのは当たり前な話です。
公平な選挙が行われるというのは決して当たり前のことではなくて、革命で民主主義を勝ち取ったかにみえてもすぐに不透明な選挙のもとで不正が横行することに苦しんでいる中東各国の現況をみてもそれは分かります。まあこの辺の話はこの選挙前日に「明日は選挙。若者の投票率の低さ。人間の性。」に書いた通りです。
高齢者の中でも特に80歳以上とみられるお年寄りの何人かが(例外なく女性だった)深々と一礼した上で、ゆっくりと一票を入れていたのがすごく印象的だった。
所得に関係なく、男女関係なく、ただ20歳以上であれば投票にいけること、政治を変えられるかもしれない権利を持つというのは何度も繰り返すように、長い歴史の中では極めて画期的なことで、紀元前から幾度もの闘争を通った上で、人間の叡智がささやかながら紡ぎだした思想に基づく権利なわけです。本来、尊いものである「投票」という権利の具現の現場をみたような、「そんな高尚なことを」と言われるかもしれませんが、13時間投票所にいればいろいろな「投票の形」をみることになるわけです。
さーっと投票表紙に書き込み、さーっと投票箱に投げ入れ、さーっと会場を後にする人が大半ですが、杖をつきながらゆっくりゆっくり歩いてくる老人(おそらく投票所に来るのさえ、大変だったのではないかと思うような)、車椅子で来て、投票用紙に書くのに20分くらいかかってやっと投票する高齢の方。
「自分ひとりが投票したところで、何も変わるわけない」というのは良く聞くことで、僕自身政局に踊り続ける日本の腐敗した政治をみていると同調というか、首肯しかけてしまう言葉ですが、そういった足を引きずりながら、一礼をして投票箱に恭しく一票を入れる方の姿をみていると、自分は間違っていると、気付かされるというか。


マルティン・ルター

(それこそ90〜100歳くらい、なかには100歳を越えていた方もいたと思います)、が何十分もかけて投票している姿には、ルターの「明日世界が滅びようとも、私は今日リンゴの木を植える」に近い、鬼気としたものを感じずにはいられなかったのです。

b. 民主主義は最悪の政治形態である
ただし、もう少し現実的なことも考えておきたい。
冒頭で紹介した武田さんの記事にも通底すること。
有権者の多くがマスコミの政局に翻弄され、タレント候補なるポピュリズムに先導され、政治の本質を見失っていくこと。
これはある意味で「民主主義」に内在する問題なのではないかと。


アレクシス・ド・トクヴィル

早くにトクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で民主主義の可能性を認めながらも、民主主義が、すなわち国民が主権者になるということは、大衆が衆愚に転化する可能性を常に内包しているということを指摘していました。
トクヴィルから時代をより現代に近づけていくと、民主主義と資本主義との邂逅というか、「鶏か卵か」論争に似たような、議論も見られていくわけで。
ただし、僕個人としては民主主義と資本主義は本来相容れないものなのではないか、という思いが日に日に増しています。
それは経済的相互依存とデモクラティック・ピースのようなグローバルな話ではなくて、よりミクロな国内の話です。
すごくベーシックなことをいうと、古代ギリシャ・ポリスで理想とされた統治形態は直接民主性。本当の意味での直接民主性。
国民が直接、国民同士で討議し合い、熟慮の末に投票を行う。
これはもちろん理想なわけであって、人口が何百万人にもなっていくと、不可能なわけで。そこで考案されたのが、現在の議会制民主主義なわけです。(日本でいえば)
そもそも資本主義社会では日々の仕事、労働で忙しく、政治を熟慮する時間が個人ベースで取れない。だから、政治を専門とする、他の仕事に従事しない、政治家に国民の代表として任せましょうということなった。これが代議制で。
ただし、この時点で大いなる矛盾というか、限界を民主主義が露呈してしまっているのではないかと思うんです。
なぜかくもポピュリズムが横行するのか、すぐにマスコミに流されるのか。
資本主義に駆動される形で日々の仕事に追われ、時間がない。
これに尽きるのではないかと。候補者一人ひとりのマニフェストを読み込むこと、衆議院・参議院それぞれの役割に知悉し、ひいては日本の政治制度・政治史を勉強すること。
大卒だろうが、関係なく(政治学科等を卒業していれば話は別ですが)大半の人々にとってはそれにおもいっきり時間をかけることが困難で、大いなる無力感を感じてしまうのも仕方ないのかと。


ウィンストン・チャーチル

そういう意味でチャーチルの有名な「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」という言葉にどうしても、強く同意せずにはいられない。

そんな諦観にも似た思いは政治を知れば知るほど、頭をもたげてくる。
だけれども、
選挙の立会人を通して、目撃した深々とお辞儀をし、目を閉じ、投じる人。
足を引きずりながら、または車椅子を押してもらいながら、命をすり減らすかのように一票を大事そうにそっと入れる人。
「明日死ぬとしても、私は今この票に願いを託す」と言わんばかりの人々の姿をみて、もっともっと政治について懊悩せざるを得なくなったのでした。

2013年7月1日月曜日

読書『(株)貧困大国アメリカ』堤未果著

(株)貧困大国アメリカ (岩波新書)

そういえば予約していた堤未果(@TsutsumiMika)さんの『(株)貧困大国アメリカ』が昨日、届いてさっそく読み進めたら、期待以上の内容で一気に引きこまれそのまま読み終えました。
思えば、大学1年だったか2年だったかのときに読んだ『ルポ 貧困大国アメリカ』もかなり衝撃で、国際政治を学ぶ身としてはヘゲモニー国家アメリカ内部で進行する貧困化の実態を知った時は、ものの見方を一から考え直さなくてはならないと強く思ったのでした。
高校時代にオハイオで過ごした一年間も、フロリダ大学で過ごした一年間もアメリカ内部で深化する二極化に気づくのには全く十分ではなかった。

今著は、ルポの三部作の完結編だそうです。
ただ、個人的にはまだまだ先がありそうです。(それは必ずしも待望したい類の期待ではないのですが)
今回の『(株)〜』で描かれるのはルポⅠ・Ⅱ依頼続くアメリカの内部二極化が更に深化した現在進行形の現状です。

なんだかウィキリークスの内部漏洩文書の核心部を読んでいるかのような心持ちでした。
「自由」を標榜するデモクラシーの泰斗であると思われているアメリカ。
次々と暴かれるアメリカン・デモクラシーの瓦解過程。
諸外国に「民主主義」「強い農業」「財政再建」「人道支援」などを理由に介入、集約させた広い農地で輸出用GM作物の大規模栽培を導入させ、現地の小規模農民を追い出した後は、株式会社アメリカが動かしてゆく。
資本主義、それがグローバリゼーションとの邂逅を通して、国家主権は揺らいでいき、多国籍企業がヘゲモニーを握っていく。もうアメリカという単体の国がヘゲモニーを握っているという認識は成り立たなくなってきている。

市場の原理が入り込むことから死守されなければならないはずの領域も、圧倒的資金力を梃子に多国籍企業が政治を掌握し、次々と自分達の論理に合致する立法を成立させていく。
80年代から加速した規制緩和と民営化、垂直統合、政府・企業間の回転ドア、ALEC、そして市民連合判決といった一連の動きが、アメリカを統治政治から金権政治へと変えていった。寡占化によって巨大化した多国籍企業は、立法府を買い、選挙を買い、マスメディアを買いうことでさらに効率よくその規模を広げていく。
この中でとくに衝撃的かつ、アメリカ政治を多国籍企業が掌握している構造となっているのがALEC(American Legislative Exchange Council)=米国立法交流評議会。
NPOとして登録されているALECの実態はロビイストや政治団体よりも遥かに大きな力を有した団体であるということ。その主要メンバーが上位の多国籍企業の面々である。
そしてALECのモデル法案の強みの一つは、一つの州で立法が成立しなくても放射状に複数の他の州で提出されていくこと。

スティグリッツが『世界の99%を貧困にする経済』で看破していたグローバル資本主義の論理が各国内部の政治も巣食っていく過程が最も先進的に進んでいるのがアメリカである。
アメリカでは、買収行為はより高いレベルで行われる。買収されるのは特定の判事ではなく、法律そのものだ。この買収は、"アメリカ型汚職"と呼ばれるようになった汚職行為の一環として、選挙戦への寄付やロビー活動を通じて行われる。
そういったロビー活動はしたたかにALECなどのいくつかの構造を迂回して、より強固に1%vs99%の布置を形作っていく。 

グローバル規模で資本主義が暴走していく中で、誰に「責任」を帰すこともできない。
一度、この論理が作動して世界を覆っていく中で、国家なき「帝国化」とでもいえる様相が成立していく。
軍産複合体、農業複合体、コングロマリット化は収まらない。
とくに今著でも詳細にわたって、触れられている「強い農業」の錦の御旗の元に進められたアメリカにおける大規模農業が直面している問題群。
たとえば養鶏業者の「デッドトラップ(借金の罠)。
これは一つに収まり切らない数多くの問題が複合的に絡まり合いながら、存立している。
一つにはこれまで述べてきたような巨大多国籍企業が個人経営・家族経営の零細経営を駆逐して、貧困へと追いやっていくシステマティックな構造。これらを固定化していく立法過程では上述のALECなどの団体の助力もある。


もう一つは倫理の問題。ブロイラーなど、とにかく薬を投与し、虐待に近い環境で、鶏をぎゅうぎゅう詰めにし、ただ「より多く」効率的に生産することだけが至上命令になっていく。
原宏之さんの『表象メディア論講義 正義篇』ではこのように説明されています。
人工的に品種改良されたニワトリ。少ない餌で済むのに2ヶ月足らずという驚くべき早さで成長し、出荷される。食べられるために生まれ、食べられるために生きるニワトリ。
いまの鶏の胸の重量は(生後8ヶ月)は、25年前の7倍あるそうです。
どう考えても、自然の摂理に反しているといわざるおえない。
だけどそれを享受しているのは自分をはじめとした先進国民にほかならない。
たとえば、コンビニでホットスナックとして売られているフライドチキン...。

ヌスバウムが『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』などで言及しているような動物保護の観点は、そもそも告発の前段階で阻止される。
コンクリートで頑強に守り固められた外壁が告発を許さない。法律もそれを保護するように次々と立法されていく。

「民主主義」は粉飾のためのラベルに成り下がったのか。
主権は確実に国家から多国籍企業に移りつつあるようにみえる。
先日、ニュースになっていたアップルの租税回避の訴訟。
国家では対処できない問題群。

コミュニタリアニズムの瓦解を感じさせた事件としてはサンディ・スプリングスを端緒とする「完全民間経営自治体」の成立。
弱者を斬り捨て、高所得者が自分達だけの空間を形成していく。「公共」の消失。

こういった問題群に国民の目を向けさせ、啓蒙へ導いていく最後の砦であるはずのメディア。そこにも当然、黒い影は浸食してくる。
2010年のカリフォルニア州の第三党から州議会選挙に立候補したジル・スタインの言葉を本から少し引用してみると
「<中略>大統領も同じです。選挙中どんな公約をしようが、スポンサーの意向に沿わなければ、上下両院の承認を得ることもできない。分かりますか?政治家もマスコミも買われてしまった今、アメリカの民主主義は、数年ごとに開催される大規模な政治ショーと化したのです」
ポピュリズムの元凶も政治家単体ではないということ、大きな構造の一パーツに過ぎないということ。 

この本のタイトルよりも遥かに根の深い問題の進行・胎動が鮮やかに描かれています。
日本人というより、先進国すべての国民が知っておくべき事実の数々がリポートされています。
帯には
略奪せよ!TPPは序章だった...
と、あります。 
本書の中で出てくる消費者運動家で元大統領候補の弁護士ラルフ・ネーダーによれば
企業群はあらゆる規制を撤廃し、いよいよ最終段階に向かっている。TPPが頓挫しても、またすぐ別の名前で繰り返し現れるだろう。その本質を知りたければ、過去30年の間にアメリカ国内で企業が政治を後押しして作りあげてきた、この異常なビジネスモデルを見ればいい。
中野剛志など、TPP反対論者の意見もとても分かります。国家の瓦解過程に加担していいのかと。 
ただ堤さんが強調する「コーポラティズム」の実態を包括的に捉え返してみると、単純に反自由主義的な論理だけでは対抗できないような強力な力を内包していると考えざるを得ない。
グローバル化における価格競争を激化させた最大の原因は、政府によって次々と実施された規制緩和政策と、それらを国境を越えて適用させた国際法の数々だ。そして合法的な「株主至上主義」は環境が法制化される背景には、それを望む経済界と金融界が政府と結びつく「コーポラティズム」の存在が見え隠れする。
あとがきには
いま世界で進行してる出来事は、単なる新自由主義や社会主義を越えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
アメリカという筆頭先進国内部の問題を詳細に明らかにすることで、アメリカのみらなず、いかなる論理が今世界を牽引しているのか、世界を「国家」という枠組みから引き離しているのか、もっと大きなストーリーが見えてくる。
これは日本も例外ではない。
知りたくないことが次々と明らかにされていく。だけどもう「知らぬが仏」では済まされないことがあまりにも多く、そして肥大化した。

明らかにこれは「完結」していていないと思うし、堤さん自身も必ずそう思っていると思う。この岩波新書のルポとしては3部で完結し、これは次なる形の序章であると期待しています。

2013年3月28日木曜日

読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる

ひとは、程度の差こそあれ、人生のある地点で読書をはじめる。
正確にいうと、本に引き込まれていく。(後の時点で、振り返ってみるなら、こちらの表現の方が適切な気がする)
あらためて、「本を読む」とはどうゆうことなのかについて考えを巡らせてみたい。
3パートにわけ、それぞれ切り口を変えてみたので、ひとつでも流し読みしてみてください。
なにか意見をいただければ、幸いです。



1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか
読書についての話を始める前に、「貨幣」について考えておきたいと思います。
貨幣=お金、という単純な思考様式は成り立たないと気付いたのは、高校生のときにアルバイトを始めたときに遡ると思います。
まず、働く場においては基本的に2つの立場があります(すなわち、雇う側=資本家、雇われる側=労働者)
アルバイトとしてをしている僕は疑いの余地なく、「労働者」にカテゴライズされるわけです。
往々にして、両者の間にはゼロサム・ゲームのような緊張状態があります。
雇う側は、いかに労働者から最大限の労働を引き出せるか、労働者はいかに疲労を溜め込まずに仕事をこなすか。
ただ、圧倒的に有利な立場にあるのは「資本家」の方で、常に労働者に「クビ」というタグをぶらさげて脅すことができるし、労働条件の詳細を決めるのはあちらの立場になります。
たとえば、時給をわかりやすく1000円とすると、
どれだけ真面目に汗水流して働いても、資本家の目を盗みつつ怠惰に働いても、基本的に貰う給料は1000円で、おおきな変動がない。
そうなると、自分が1時間働くごとに頂く1000円という「貨幣」は、僕の1時間の労働が生んだ価値ではなくて、1時間という僕の人生(命の断片)を譲り渡すことによって発生しているのではないかと思うのです。
つまり、人間は生まれながらにして「寿命」という莫大時間という名の「貨幣」を、「お金」という別の貨幣に、そのときどきの状況・時分・手段において、交換しつつ生きている。
そもそも時間が貨幣であることに気付かなくては、後々、貨幣の浪費を嘆くことになりかねない。
そして、この二つの貨幣の最大の違いは、「時間」の方が比べ物にならないほどの価値を蔵している(invaluable)ということ。
お金は取り返せるけど、時間はもう戻らない。
時間→お金よりもお金→時間の為替の方がはるかにレートが高い。
そして、あらゆる場面で、若い時の方が「時間」が有する時価価値は高い。
ただ、単純に時給1000円のアルバイターが資本主義の下でもがく豚というわけではないと思います。
労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。(岩波の文庫版で9冊もあるのでチョー長いですが)
少なくとも、貨幣の二義性に逡巡する豚はなかなかいないのではないかと思うのです。
【参考】「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ」



2.咀嚼、消化、排泄、そして循環
よく友人で「本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。だから読書をすることにあまり意味を見出せない」と言っている人がいます。
読書から引き出された知見を、いかに受肉し、自分の糧として血肉とするのか。
僕がときどき、こうやって思ったことを吐き出したり、読んだ本についてブログに書くのも、実はその受肉の一プロセスなのではないかと思いました。
人間は咀嚼し、食べた物を消化し、排泄する。
これはメタファーでもなんでもなくて、読書も映画もテレビのコンテンツから得た知見なり感想は、そのまま上のようなプロセスでアウトプットすることが必要なのではないかと思うんです。
ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。
この作業を通してはじめて、「言葉を手にしていく感覚」をおぼえると思うのです。
そして、僕のこういった稚拙な文章をみた人が、また彼/ 彼女の思想を付与し、それがまた流通していく。
このような「循環の渦」に自ら身を置くことで、成長できるのではないでしょうか。
こんなブログを書いているからなのか、よく「オススメの本」を聞かれることがあるので、その都度、なるべくその人に合ったような本をリコメンドするようにしているし、反対に「オススメの本」を聞くことも多いです、そうやって周りまわって行きながら、微量の「知」が集積されていくのかな、とも。



3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
よく、聞く言葉として「自己投資としての、本は安い。だからお金に糸目をつけずに、どんどん本を買って、自分を高めよう」という言葉がある。とくに自己啓発本に多い。
自分としても、同意なのですが、本質はそれだけではないのではないかと。
①でも触れたように、「読書」に関しては2種類の貨幣二つともを投じなくてはならないと思うんです。
とくにハイコストなのは、「時間」の方。
超速で速読ができる人は話が別ですが、大部分の人にとっては新書などの薄い本を別として、普通まとまった時間がなくては1冊の本を読み切ることができません。
だからこそ、自分が読書家だということをいいことに、普段読書をしない人を批判するのは違うのではないのかとも思うわけです。読書には多くの時間を割かなくてはならないし、一度の人生限られた時間、どれほどのお金という「貨幣」を持っていたとしても、時間という貨幣には限界がある。
それをいかに振り分けるのかについて、強制することはナンセンス。
だから、読書が嫌いだという人の思念も尊重しなくては、と思うのです。
ある意味で、自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

突然ですが、「本には引力がある」そう思うようになりました。
「僕らの興味は絶えずつくられていく」「僕らは出会ったものにつくられる」という思いがまずあります。
そして人との出会いと同じように本との出合いもセレンディピティの賜物ではないかと。
一人の人との出会いで人生が変わるように、一冊の本で変わる人生もある。
「引力」っていう表現もこのことで、一冊の本で価値観に多大な影響を及ぼすことがあるし(とくに思春期など、人間形成の発展段階においては)、ものの見方が変わること、質的な筆致にまで変化が及ぶことももちろんある。
そうゆう意味ではプラスの収穫(fruits)もあるし、リスクもある。
本には人を引っ張る(+-に)引力がある。
高校時代の担任の先生が、「Aという自分(主体)がBという本(客体)を受容した時に、Bに染まるでもなく、Aではね返すでもなく、Cという新しい価値を創造(create)することが重要なのだと」先日お会いした時におっしゃっていました。
もちろんそれは絶対的なこれまでの読書量の蓄積との兼ね合いにもなるわけですが、それに先行した独立した個としての「主体性」があると意識することが重要だと思いました。
(参考:約2年前に書いた先生と読書に関するエントリー「Sigur Rósと高校読書」)
そんなわけで、いまは柄谷行人を読み直しているわけです。

その他、読書が読む側と伝えたい側の「射影接続空間」としてインターフェイスとなっていることなど、時空を超えて、「知」に触れることを可能にしてくれていること
「存在証明としての『卒論』」というエントリーの「敵は知の巨人ではなく自分自身」という項に思うところを記しました。

大きな時間軸のなかで、たった一人の個は泡沫でしかなく、最後は灰燼となる。
それを分かっていながらにして、人は本を読むし、本を書く。
きっとそれは、絶対的な刹那性を受け入れて尚、これまで滔々と受け継がれてきた「知」の清流に微力ながらも寄与したいという原初的な願望があるからこそ、なのかもしれません。

⇒「読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?」