Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月22日月曜日

「明日死ぬとしても、私は今日選挙に行く」―参議院選立会人を終えて

YOMIURI ONLINEより)

参院選が終わり、自民党が6年前の惨敗からここまで復活するのか、、と言うほどの支持を集め、悲願のねじれが解消。
まあ選挙の細かい話や感想はここでは控えて、選挙の立会人として参加した感想なりを備忘録として。
ただし、ハフィントン・ポストに武田徹さんが寄稿していた「山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?」はかなり鋭いというか、ポピュリズムに陥りがちな有権者の陥穽を指摘しているので、シェアしておきます。

立会人は朝の6時半には集合して、当日の流れを確認します。
そして投票所が開場するのが7時、閉場は8時。
もちろん、この間ずっとぶっ通しなわけではなくて、途中何度か休憩が入ります。
やることはシンプルで、ただ選挙が公正に行われているのかを、投票箱を前にして監視(というより、ただ見ている)のが務めです。
あとは、1時間毎に投票者のデータ、投票率が報告されるので、それを記述していきます。


とにもかくにも、13時間にわたって、投票所でただひたすらに人々が投票するのを見続けていたわけですから、いろいろなことに気付かされたし、考えさせられる時間でもあったわけです。
「投票所」という一つの場所が見方によってはとても重層的な「場」であること、ここではいくつかの断想から気付いたことを書き残しておきたい。

1. 「プチ同窓会」としての投票所
まず気づくのは圧倒的に高齢者が多いということ。
これはデータ等を見れば歴然なわけで、当然知っていたことなのですが、朝7時の開場から夜8時までの閉場までずっと座って選挙を見続けてるとそれがよりリアルに実感として思い知らされる。
あとは、彼等の多くは知り合いで、もちろん同じ投票区に区分けされているわけですから、近所である場合も多いし、知り合いだらけというのはある意味で当然です。
高齢者でかつ、長くその場所に住んでいれば尚更のこと。
だから投票所は「投票」することに加えて、多くの人に会える「コミュニケーションの場」にもなっているわけです。プチ同窓会のような。

2. 「共同体」の縮図としての投票所
a. 「クソババア」を嘆いたとしても
投票所にはもちろん上述したような老人のみならず、20歳以上であれば、本当に多くの人が来るわけです。
基本的にみなさん、すんごくラフな服装できます。ほとんど寝間着のような恰好、タンクトップに半ズボン、クロックス。これはまあ朝に当たり前ですが、多い。
基本的には2〜3分で終わる作業ですから、淀みなく流れていくわけですが、ごくたまにマナー違反が起きる。
例えば場内での携帯電話の使用。公平に投票を行う意味でも、会話内容をなどで候補者名を口にするのはまずいわけです。
そこで立会人の一人が注意すると、逆に激高して、「どこに携帯の使用禁止が書いてあるんだ」と怒鳴り散らしていました。これはもう、常識の範囲内ですよね。
彼の言い分としては、親戚に名前が思い出せないから聞いていたのということで、でもそれは投票所に来る前に確認しておかなければならないことですよね。
あと、彼がしきりに言っていたのは東京都選出の候補者は顔つきのポスターがあるけど、比例はないじゃないか、ということ。
比例での候補者の数を考えれば、それが難しいこともすぐに分かるべきです。
投票所を出る時に、「クソババア!」と言って立ち去っていきました。
言われた選挙立会人の方は「ああゆう非常識な人が最近は増えてきた。物騒な世の中になってきた」と昔をノスタルジックに回顧しながら、世知辛くなってきた今の社会を憂いていました。
だけど、僕が常々思うのは「最近の若者は〜」とか「今の世の中は〜」とかって本来誰にも分からないことで、100年前の新聞にさえ「最近の若者は〜」と書いてあることからも分かるように、誰にもそんなこと分かるはずないってことです。人は比べるためのもう一つの人生を持っていないから。
それはあくまで個人の主観的な実感であって、昔と今を対比して嘆いてるだけでは何も変わって行かない。

あとは子どもを連れて投票所に来ることの是非。
事例として、選挙権を持たない子どもが大人の投票用紙に勝手に書いてしまったということが過去にあったそうなのです。
小さい子ども、大きい子どもは分かりづらいので、やはり明確化したほうがいいと思います。
ただし、子どもを連れてくる親としては子どもに選挙を知ってもらおうとしているわけで、厳正に管理した上で、子どもの入場も認めるのも、良いのかなとも個人的には思いました。若者の投票率の低さを鑑みると、選挙権を持たない段階から啓蒙するというのは。

b. 「公務員」という職について
昔、投票所は華が飾られ、軽やかな音楽な流れる、楽しい場であったと、懐かしそうにベテランの立会人の方が語っていました。
時代を経ると、「経費の無駄遣いだ」などという批判が相次ぎ、現在のような極めて質素な投票所になったとのことです。現在でも左胸に立会人の目印として、白い花を付けるのですが、これにも文句が来るそうです。
この立会人の方は、過去にこんな経験をしたそうです。
13時間も一箇所の場所に座っているわけですから、ある程度の時間ごとに姿勢を変えないとつらいわけで、そのときたまたま肘を机についていたらしいのですが、これを「横柄な態度」として「偉そうにするな!」と罵られたそうです。
この話と関連して、公務員の方が懸命に仕事をしている姿をみていて、思うところがありました。
社会は公務員の人、いわゆる役所の人がいないと成り立たないのは周知の通りなのですが、批判の槍玉に上げられるのもまた彼等なわけです。
何をしても批判される。何をしなくても批判される。間近でみていて、僕は一日のはじまりから終りまでを見ているわけで、彼/彼女らの必死で働く姿を長い時間の中で継続的にみているわけです。
だけど、批判されるときは往々にして、切り取られたある一部しかみられていない。
「税金の無駄遣い」とはよく聞くセリフですが、これもかなり微妙な問題なので、本来は慎重に使わなければならない言葉だと思いました。
公務員という人の「自己実現」はもちろん市民の役に立つこと、だけど会社にもまして拘束される組織の中の一人として独立した"自分"がかき消される、そのシーソーの中で常に揺れ動いているのではないか...。

3. 民主主義の「心臓部」としての投票所
a. 「明日死ぬとしても、今日私は投票に行く」
投票所とはつまり、国会の代議士、国民の代表者を主権者たる国民が選び出すプロセスを担保するための最重要なプロセスが行われる場であって、ここで不正がまかり通ってしまったら民主主義自体が機能不全になるのは当たり前な話です。
公平な選挙が行われるというのは決して当たり前のことではなくて、革命で民主主義を勝ち取ったかにみえてもすぐに不透明な選挙のもとで不正が横行することに苦しんでいる中東各国の現況をみてもそれは分かります。まあこの辺の話はこの選挙前日に「明日は選挙。若者の投票率の低さ。人間の性。」に書いた通りです。
高齢者の中でも特に80歳以上とみられるお年寄りの何人かが(例外なく女性だった)深々と一礼した上で、ゆっくりと一票を入れていたのがすごく印象的だった。
所得に関係なく、男女関係なく、ただ20歳以上であれば投票にいけること、政治を変えられるかもしれない権利を持つというのは何度も繰り返すように、長い歴史の中では極めて画期的なことで、紀元前から幾度もの闘争を通った上で、人間の叡智がささやかながら紡ぎだした思想に基づく権利なわけです。本来、尊いものである「投票」という権利の具現の現場をみたような、「そんな高尚なことを」と言われるかもしれませんが、13時間投票所にいればいろいろな「投票の形」をみることになるわけです。
さーっと投票表紙に書き込み、さーっと投票箱に投げ入れ、さーっと会場を後にする人が大半ですが、杖をつきながらゆっくりゆっくり歩いてくる老人(おそらく投票所に来るのさえ、大変だったのではないかと思うような)、車椅子で来て、投票用紙に書くのに20分くらいかかってやっと投票する高齢の方。
「自分ひとりが投票したところで、何も変わるわけない」というのは良く聞くことで、僕自身政局に踊り続ける日本の腐敗した政治をみていると同調というか、首肯しかけてしまう言葉ですが、そういった足を引きずりながら、一礼をして投票箱に恭しく一票を入れる方の姿をみていると、自分は間違っていると、気付かされるというか。


マルティン・ルター

(それこそ90〜100歳くらい、なかには100歳を越えていた方もいたと思います)、が何十分もかけて投票している姿には、ルターの「明日世界が滅びようとも、私は今日リンゴの木を植える」に近い、鬼気としたものを感じずにはいられなかったのです。

b. 民主主義は最悪の政治形態である
ただし、もう少し現実的なことも考えておきたい。
冒頭で紹介した武田さんの記事にも通底すること。
有権者の多くがマスコミの政局に翻弄され、タレント候補なるポピュリズムに先導され、政治の本質を見失っていくこと。
これはある意味で「民主主義」に内在する問題なのではないかと。


アレクシス・ド・トクヴィル

早くにトクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で民主主義の可能性を認めながらも、民主主義が、すなわち国民が主権者になるということは、大衆が衆愚に転化する可能性を常に内包しているということを指摘していました。
トクヴィルから時代をより現代に近づけていくと、民主主義と資本主義との邂逅というか、「鶏か卵か」論争に似たような、議論も見られていくわけで。
ただし、僕個人としては民主主義と資本主義は本来相容れないものなのではないか、という思いが日に日に増しています。
それは経済的相互依存とデモクラティック・ピースのようなグローバルな話ではなくて、よりミクロな国内の話です。
すごくベーシックなことをいうと、古代ギリシャ・ポリスで理想とされた統治形態は直接民主性。本当の意味での直接民主性。
国民が直接、国民同士で討議し合い、熟慮の末に投票を行う。
これはもちろん理想なわけであって、人口が何百万人にもなっていくと、不可能なわけで。そこで考案されたのが、現在の議会制民主主義なわけです。(日本でいえば)
そもそも資本主義社会では日々の仕事、労働で忙しく、政治を熟慮する時間が個人ベースで取れない。だから、政治を専門とする、他の仕事に従事しない、政治家に国民の代表として任せましょうということなった。これが代議制で。
ただし、この時点で大いなる矛盾というか、限界を民主主義が露呈してしまっているのではないかと思うんです。
なぜかくもポピュリズムが横行するのか、すぐにマスコミに流されるのか。
資本主義に駆動される形で日々の仕事に追われ、時間がない
これに尽きるのではないかと。候補者一人ひとりのマニフェストを読み込むこと、衆議院・参議院それぞれの役割に知悉し、ひいては日本の政治制度・政治史を勉強すること。
大卒だろうが、関係なく(政治学科等を卒業していれば話は別ですが)大半の人々にとってはそれにおもいっきり時間をかけることが困難で、大いなる無力感を感じてしまうのも仕方ないのかと。


ウィンストン・チャーチル

そういう意味でチャーチルの有名な「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」という言葉にどうしても、強く同意せずにはいられない。

そんな諦観にも似た思いは政治を知れば知るほど、頭をもたげてくる。
だけれども、
選挙の立会人を通して、目撃した深々とお辞儀をし、目を閉じ、投じる人。
足を引きずりながら、または車椅子を押してもらいながら、命をすり減らすかのように一票を大事そうにそっと入れる人。
「明日死ぬとしても、私は今この票に願いを託す」と言わんばかりの人々の姿をみて、もっともっと政治について懊悩せざるを得なくなったのでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿