Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月14日日曜日

読書『責任と正義―リベラリズムの居場所』北田暁大著

責任と正義―リベラリズムの居場所

東大・情報学環准教授の北田暁大先生の『責任と正義』を読みました。
この本の元は北田先生の博士論文だそうです。
北田暁大先生といえば、理論社会学が専門で文化社会学の分野でよく知られていて、最近では思想界とも関わりが深く、宮台真司さんや東浩紀さんとも共著を出していらっしゃいます。


なので、博士論文のテーマが「責任」と「正義」というゴテゴテの政治思想を扱ったものというのは、意外な訳ですね。
ただ、だからこそ個人的にはとても興味を惹かれたわけです。
なぜなら僕自身、学部生のときに政治思想を中心に勉強して、今は社会学やメディア史を辿っているところなので、学問領野に問われない横断性というのには共感するものがあるからです。

この本のおおまかな構図としては「社会的なるもの」の肥大/ 「政治的なるもの」の盲点化というものがあります。
社会における「社会的なるもの」を相対化する言説が、社会理論(社会の意味論)における「社会的なるもの」の肥大=社会学帝国主義を帰結するという逆理。
というように昨今の政治学の領域における業績を簡単にみてみても、「社会学的なるもの」の影響というか、浸食というか、無視できないほど肥大化しているし、逆に社会学においては「政治的なるもの」が実は盲点化されているというのが北田先生の指摘です。 
ということもあり、
伝統的な政治学や法学が「アルキメデスの点」として自明視してきた政治(学)的概念―「自由」「平等」「正義」など―を、具体的な「社会的」文脈に再配置し、その社会的・政治的効果を正確に測定していくこと。政治(哲)学・法(哲)学が対象としてきた事柄を、「政治(学)な」概念によってではなく、「社会(学)的な」概念によって分節化していくという知的エートスは、もはや法(学)や政治(学)を語る上で欠かすことのできない基本的な素養とみなされるようになっている。
だから、
「いかなる国家が望ましいか」「自由/平等の基礎づけ」「正義概念の再検討」「正しい再配分はどのようなものでありうるか」といった政治(学)的問いは、「国家/自由/平等/正義は、いかにして語られ、どのような社会的・政治的帰結を生み出したのか」といった社会(学)的な問いに置き換えられなければならない。 
というようにして、「社会的なるもの」「政治的なるもの」の間を(どちらの優先性を付与するでもなく)絶えず意識的に往還しながら、問題の検討(すなわち「リベラリズムの居場所)の検討に向かっていくんですね。 
「まえがき」でこんなこともおっしゃってます。
「やんちゃなリベラリズム」と「しみじみとした社会学帝国主義」のあいだで思考することの快楽(と苦痛)を、多くの読者と共有することができたなら、著者としてこれ以上の幸せはない。
卒論でロールズを苦労しながらも読み砕き、最近、社会学に食指を伸ばしている当の自分としては、わずかながらもそうした快楽(ほとんどが苦しみでしたが)を共有できたのは収穫だと思っています。 

絶えず学問領域の枠を飛び出して、インターディシプリナリーに問題の検討にあたる北田先生のやり方は、素人(まだ学が十分に足りていない者)にとっては簡単な読書ではありません。
ただ、読了後に、もう一度「まえがき」を読み返していると、このような記述があり、思わず微笑んでしまいました。
ところで、右に記したような見取り図はあまりに抽象的すぎて本書が何を問題としているのかわかりにくいという読者もいることだろう。たしかにこの見取り図は、全文を書き終えた私が事後的・遡及的に捏造した物語のようなものであり、(こう言ってはなんだが)私以外にはその意義を見いだすことが難しいものかもしれない。<中略>ここに「まえがきにかえて」として述べたことは、全体を読み通した後にでも(そういう奇特な読者がいたとして、の話だが)思い起こしていただければ幸いである。
この本で、リベラリズムを検討していくわけですが、伝統的なリバタリアニズムやコミュニタリアニズムとの相克というようなものではなく、あくまでルーマンやハーバーマス、はたまたリチャード・ローティといったポストモダン政治学、または「システム倫理学」を唱道する大庭健先生というように、幅広い知識が前提とされるため、社会学について中途半端な知識しか持っていない自分としては少しチャレンジングでした。 
こういった北田先生の学問に対する姿勢は情報学環のホームページにある研究紹介にも見てとれます。
・・・こうしたマクルーハン的方法と、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコー、フリードリッヒ・キットラーといった人びとの方法論的意識をつき合わせつつ、新たな社会史・歴史社会学の可能性を模索していく、というのが私の研究スタイルです。この研究スタイルを貫くには、一次資料への興味関心のみならず、理論と実証を往復する知的体力が必要とされます
そうなのです。この本を読めばそれが肌で分かるように、「知的体力」が要求されるのです。 
先に自分は社会学の知識が十分でないといいましたが、本書の中核で記述のあった「社会学的思考の《原罪》他者の問いの隠蔽」という箇所は肝に銘じて社会学の勉強にあたりたいと思いました。
社会学的な思考は、様々な形で―「価値被拘束生論」「歴史神学の挿入」「相対化の戦略」―《「である」》⇒《「べし」》の導出を「解決」したのだと自らに言い聞かせてきた。しかしそれは、問題の「解決」などではさらさらなくむしろ「隠蔽」「抑圧」であったこと―このことは関係性=制度の学としての社会学がいわば宿命的に引き受けざるをえない《原罪》として、まずしっかりと自覚しておかなくてはならない。

補論の中でさらっと触れられていた人間以外の動植物の権利をいかに規定していくかという問題。この辺はヌスバウムあたりが真正面から取り組んでいる問題ですね。(参照:『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』)


たとえばグリーンピースが理性や知能程度の高さを理由にクジラやイルカを高等哺乳類として、保護されるべき対象ととらえるならば、通常、本来的な理性が欠け、知能程度も健常者よりは低いと見積もられる障碍者や痴呆の老人は被権利者としては適当ではないということになってしまうのか、など。突き詰めて考える必要のある問題が現出してきます。

これに関連して、「尊厳」について。ここの部分は村松聡さんの『ヒトはいつ人になるか』などを参考にしながら。
《贈与を受けるべき/受けざるべき存在》の差異づけは、《合理性を帰属しうる/しえない》とか《痛みを感じうる/感じない》といった差異=規準にではなく、《尊厳のある/ない》という差異=規準に照応する。ところが、《尊厳のある/ない》という差異は、まさしく根拠なく差異づけられる―つまり、他の属性に還元・翻訳することができない―という点にこそ、その本質的意味が見いだされるようなものであり、個々人による尊厳帰属の理由を不偏的・非人称的な観点から調整することは原理的に不可能なのであった。つまり《リベラル》は、リベラルな権利を贈与する範囲の確定をリベラルな様式に則って決定することができないのである。
ここがリベラルの臨界点、すなわち限界なのであると。一方通行の行き止まり。 
そして四部「社会的なるもの」の回帰 第七章 正義の居場所―社会の自由主義へと最深部へと向かっていくわけです。
そこでまず最初に、ここまでの議論で明らかになってこととして確認しておきたいのは
リベラリズムはその規範的・道徳的優位性によってではなく、現代社会における機能的な位置価によって、その「徳性」を担保されるのである。
ということ。 
これは繰り返し、北田先生もロールズなどを批判しながら注意を喚起している点なのですが、
だから我々はゆめゆめ《正義》を「社会制度の第一の徳」「他なるものとの出会い(損ね)の契機」などと規範的に意味づけてはならない。
ということで
リベラリズムがコミットする正義は、様々な善の構想の相克をメタレベルにおいて調停・裁定する規準でも、人間の本性への洞察や功利計算から導き出される道徳原理でもない。それは、人々の行為の連接可能性(帰責=観察の円滑な連接)を特有の形式で担保することによって、責任のインフレーション(過剰な帰責可能性)を収束させる一方法論なのであって、その存在意義は―倫理的価値によって根拠づけられるのではなく―他の方法論との対照関係においてのみ規定されうるようなものなのだ。 
この本で北田先生があえて、自分の専門領域である文化社会学やメディア史から距離をおいて、こういった問題にチャレンジしようとした野心の根底に「リベラリズムと社会システム理論を架橋する」という問題意識があったわけです。これはあとがきの「現実(主義)から遠く離れて」でも言及されています。 

この本から僕が学んだのは、内容以上に、そういった学問に対するアティチュードではないかと思うのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿