Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月29日月曜日

読書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』(上・下)ジャレド・ダイアモンド著

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

思えば、ピュリッツァー賞を受賞した『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』を読んだのがたしか大学1年生のときで、そのとき以来いわゆる「ビッグ・ヒストリー」の魅力に取り憑かれていて、折に触れて思考が狭隘化しないために、意識的にこのジャンルの本は読むようにしているのです。

『銃・病原菌・鉄』ではなぜ世界の一部の地域は著しき発展して、他の部分は文明から取り残されたのかを「銃」「病原菌」「鉄」といった新しいフレームワークから辿ったものでした。

今著『昨日までの世界』では、その"取り残された世界=昨日までの世界"の内部構造に迫り、現代文明のど真ん中にある私たちの社会と比較対象してみて、何が異なるのか、何が同じなのか、昨日までの世界=伝統的部族社会から私たちが学びうる知見はあるのかに迫っていく。
ダイヤモンド博士が長年にわたってニューギニアでフィールドワークを行なっていたということもあり、事例の中心はニューギニアになるが、その他の地域における部族などについても浩瀚な著作群・フィールドワークを参照しながら分析する。

伝統的社会の分布図

上下巻で貫かれている視点としては「昨日までの世界」から何を学ぶことができるのかという点。
行動的には現代人と変わらないホモ・サピエンスは、6万年前から10万年前に誕生した。「昨日までの世界」は、その歴史の大半の時代であり、そのホモ・サピエンスの遺伝的性質、文化、行動を形づくった時代である。考古学的発見から推測できるように、生活様式や技術的な変化の歩みは、およそ1万1000年前に肥沃三日月地帯で誕生した農耕の発生を受けて加速するまで、非常にゆっくりとしていた。最初に国家政府が誕生したのも、およそ5400年前の肥沃三日月地帯であった。つまり、今日のわれわれすべての祖先は1万1000年前まで「昨日までの世界」で生活し、多くの祖先もごく最近までそうした生活を送っていたということである。
「昨日までの世界」と現代社会に生きる我々の世界を対比する上で、非常に興味深い分析対象となりうるのが、ダイヤモンド博士自身が多くのフィールドワークを費やしたニューギニアです。

Jared Diamond博士(UCLA地理学教授)

1938年6月23日のニューギニア高地人の発見はいわゆる「ファースト・コンタクト」の直近の事例とされています。(詳細はBob Connolly、Robin Anderson共著の『Firtst Contact』)
これはNYアメリカ自然史博物館とオランダ植民地政府との共同探検隊で、バリエム渓谷に住む一群の人間集団を探検隊が発見した事例であり、それ以前までニューギニアは伝統的社会を営んでいたということになります。
現在のニューギニア人の多くは西欧化の波を受け、過去の生活様式を棄て去りながら、文明化をかなりの部分で享受している。ただし、多くの問題も浮上してきた。
たとえば肥満化に付随して起こる「糖尿病」。
以前までは「肥満」など皆無であったニューギニアでは男性女性問わず健康的で筋肉質な体をしていたが、ここ最近では肥満化が深刻化している。
しかし、なぜ同じような食べ物を食べ、同じような生活様式を送るヨーロッパ人では糖尿病の罹患率がニューギニアの人々と較べてそれほど高くないのか。
これは世界の大半の人々が数千年の長いスパンの中で辿った変化の過程を、1931年のファースト・コンタクトから2000年代まで急激なスピードでニューギニアの人が駆け抜けたからだと思われる。
長い年月をかけてヨーロッパ人は「倹約遺伝子」を淘汰してきたと推測される。
それに反し、伝統的社会では慢性的な飢餓状況にあったため、食べ物を食べられるときに(それこそ熊のように)貪り食うことが当たり前だった。
遺伝子レベルでも、「倹約遺伝子」が温存されて然りな環境が常態だったということ。
現在、世界で最も肥満病患者が多い人間集団とされているのが、ピマ族とナウル島に暮らす人々であり、ナウルでは20歳以上の3分の1が糖尿病とされている。

ニューギニア高地人、ファースト・コンタクトで初めて目にするヨーロッパ人の姿に恐れおののき、涙する姿

どこの未開部族であっても、ファースト・コンタクト(西洋文明との邂逅)移行、伝統文化を墨守するのは少数派で、ほとんどがその恩恵に預かることを優先し、伝統文化を捨て去るのが大勢のようにみえます。
「一度知ったら、戻ることのできない」魔力を備えているような。
(関連するかわかりませんが、ウルルン滞在記の逆バージョンで、諸部族を日本に招待するという企画があったのですが、それをみて思ったことを「無限なようでいて、無限でない「想像力」について」というエントリーの中で書きました)

そもそも、現代社会と伝統的社会とシンプルに区別できなのは当たり前で、ダイヤモンド博士はカテゴライゼーションについてはエルマン・サービスの4つのカテゴリーに依拠しています。人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類すると、
①小規模血縁集団(バンド)
②部族社会(トライブ)
③首長制社会(チーフダム)
④国家(ステート)

国家の誕生については
紀元前9000年頃ようやく始まった食料生産以前には国家は存在し得ず、その後、食料生産が数千年にわたって続けられて国家政府を必要とするほど稠密で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それに続いて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、続く1000年の間にそのほかの地域にも広がり、ついに今日では地球全体で描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地は全て国家に分割されるという状況にまでなった。
国家=つまり今の私たちが生活の基盤をおいている社会様式はきわめて新しいものだということ。


そういえばlifehackerに面白い記事がありました。「人類はこのまま進化したらどうなるか?10パターンの大胆予想
最近では社会的意義が過小評価され、「邪魔者扱い」されることも多い、"高齢者"も伝統的社会の中では尊敬される存在として、君臨し続けてきたそうで。
というのも、今は分からないことがあれば、なんでも「ググれ」ば分かってしまう世の中ですが、伝統的社会には当然Googleなどもないため、唯一の情報源が高齢者の脳ミソに詰まっていると考えられたわけで、部族の中では生き字引として敬われていたわけです。

人間集団のカテゴリーに拘わらず、"戦争"という事象は常に人類が相対してきた問題で、本著では以下の様な定義に基いて議論が行われています。
戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループの間で繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である。
たとえば、政治思想を勉強する中で、ホッブズがいう「自然状態」というのはイメージとして太古の野蛮な人たちの営みと捉えがちなのですが、先述の例でいえば、ニューギニアの人々はついこの間までその「自然状態」に身を置いていたということになります。 

La guerra del fútbol

本著では個人間の自然発生的な争いが組織的な戦争へとエスカレートした事例として、1969年の6月から7月にかけてエルサルバドルとホンジュラスの間で行われた「サッカー戦争」を挙げていました。

戦争や人類史的な災害のまとめとしてウィキペディアに面白い項目がありました。
英語になってしまうのですが、「List of wars and anthropogenic disasters by death toll

現代人と較べて未開人(伝統的社会に住む人を意味し、卑下した意味は含まないことを明記する)はリスクへの感応性が極めて高いことをダイヤモンド博士は強調し、それを肯定的に捉えた上で「建設的なパラノイア」と名づけます。
フィールドワークの体験を適宜、折込ながら考察を深めていくんですが、なんとなくジャングルの描写とかで、僕はコナン・ドイルの『失われた世界』の世界観を想起してしまったんですね。あの、なんともいえないワクワク感。

野生のカバ

あと、驚きだったのが、アフリカ人はライオンとか豹とか、ハイエナとかゾウ、はたまた野牛やワニなどが外敵で実際に強襲されて落命することもあるんですが、最も人を殺すことが多いのが野生のカバであるということ。(個人的にはカバにとても強く関心を抱いていて、フロリダにいた頃に動物園にいったときの日記を残していたのでした。「カバは馬でも鹿でもない」)


まあこれもあくまで一般論で、たとえばクン族にとっては、最も脅威となるのはブラックマンバなどの毒蛇。

途上国では日々の食にありつくのに精一杯なのに先進国ではいかに食べないか、カロリーを抑えるのかに邁進するという倒錯が起きているというのは、よく聞かれる話で、ようは文明の形式が異なれば、何が重要なのかの優先順位に差が出てくる。
食料とセックスでは、どちらのほうがより重要であるか。この問いについての答えは、シリオノ族と西洋人とでは全く逆である。シリオノ族は、とにかく食料が一番であり、セックスはしたいときにできることであり、空腹の埋め合わせにすぎない。われわれ西洋人にとって最大の関心事はセックスであり、食料は食べたい時に食べられるものであり、食べることは性的欲求不満の埋め合わせに過ぎない。
ということをそういえばツイートしていましたが、生活様式が異なってくると当然、こういった死因の差異も明確になってくる。 

さらに宗教、多言語主義など、現代社会に生きる我々にとっても重要課題と思われる事柄に切り込んでいくわけですが、いかせん膨大となりキリがなくなっていくので、この辺で打ち止めにしておきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿