Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月8日月曜日

読書『世界正義論』井上達夫著

世界正義論 (筑摩選書)


東大の法学政治学研究科で法哲学を専門に研究なさっている井上達夫先生の『世界正義論』を読みました。
ハーバード留学時代にロールズやサンデルにも師事なさっていたそうで、英語でもたくさん論文を書いているそう。英語の論文も読んでみたい。
内容としては領域俯瞰的な学術書といった感じで、世界正義論(Global Justice)がかなり網羅的にかつ、包括的に扱ってあります。ただし、問題意識は明確で、たとえばあとがきにはこうあります。
「国境を越えられない正義」の欺瞞と「身勝手に国境を越える覇権的正義」の横暴をともに克服し、「国境を越え覇権を裁く正義」としての世界正義の可能性を証示するという野心に本書は突き動かされている。
構成としては、正義理念は国境を超越した規範的正統性を持ちうるのかを基層に(井上先生の最終的なというか、当初からの主張は「然り」というもので)2章で世界正義の哲学的基礎に関わるメタ正義論(世界正義理念の存立可能性)、3章で国家体制の国際的正統性条件(人権と主権の再統合)、4章で世界経済の正義(世界貧困問題への視角)、5章で戦争の正義論(国際社会における武力行使の正当化可能性)、6章で世界統治構造(覇権なき世界構造はいかに可能か)との並びになってます。

これらの章は決して独立しているわけではなくて、1章で強調されているように、これらの問題群はあくまで複合的(complex)であり、複眼的・包括的なアプローチが不可欠になるということ。
これら異なった問題系にその固有性を踏まえた異なった解答を与える複眼性をもつと同時に、異なった問題系への異なった解答を論理的・機能的に整合化させ、かつそれらを相補的に一体化してグローバルな秩序形成の公正化を全般的に促進しうる包括性をもつことが、世界正義の理論が適格性をもつための必要条件をなす。
サンデルをはじめ、最近の「正義論」ブームを少しかじったくらいの知識だと少し難易度は高くて、そういう意味で中級者向けといえるかもしれません。
僕の師でもある押村先生の『国際正義の論理』や中山元さんの『正義論の名著』などは最低限読んでおくといいと思います。


ただし、4章から5章にかけては1〜3章を踏まえた上でいかなる世界秩序が構想されうるのかを検討していくので、政治思想のみならず国際政治やグローバル・ガバナンスの知識も少なからず要請されます。
これも押村先生の本になるのですが、『国際政治思想』が系譜的にかなり分かりやすくまとまっています。5章を理解するためにもブルの『国際社会論』が必須だと思います。



大学時代に国際政治・政治思想を中心に学んだ身としては、かなり面白く読めて、とくに法哲学の領野から「世界正義」を扱っているということもあって、新しい視点も多くありました。
大体、大学入学当初などは「世界政府」をバカ真面目に考えたりなど、安直に、ナイーブに考えたりしたものですが、勉強すればするほど、実は世界政府は専制の極限状態になりうることに気付かされたり。
たとえば、本著で指摘されているものは
a. 離脱不能性
b. 民主性欠陥の巨大性と不可避性
これに関しては「補完性(subsidiary)」原理に基づく世界連邦制度(下からの授権連鎖)を主張する向きもあると思うんですが、すぐに分配的正義の問題を惹起する。
c. 覇権的・階層的支配の拡大再生産
大まかにこの3つの問題点があって、井上先生自体は
覇権なき世界政府の理想を実現する企ては、結局、無限背進(the infinite regress)に陥る。すなわち、不可能である。
と、断言なさってます。

世界秩序形成では上の世界政府に加えて、EUみたいな多極的地域主義(multi-polar regionalism)の可能性もありますよね。
ただこれにも井上先生は否定的です。また問題を挙げると
a. 地域内問題―民主性欠陥の深刻性
b. 地域間問題―地域間紛争の困難性
これらの二つの途(超国家的権力集中)とは違った回路として、脱国家的権力集中が考えられます。世界市民社会論です。もちろん、これにもその可能性と限界を有しています。
a. 脱国家的権力分散の可能性
b. 市民的公共圏に潜む覇権性
Cf. 「答責性欠損(accountability deficit)」

この二つのベクトルに補足説明を加えておくと
(1) 個別国家より大きな政治的単位「超国家体(supra-state entities)に、集合的意思決定とその執行を委譲する「高度集権化(hyper-centralization)」。
(2) 「脱国家体(extra-state entities)」、多かれ少なかれ国家から独立して国境を越えて活動し、国家や超国家体のような組織的政治権力の行使とは異なる仕方で世界秩序形成に影響を与える主体の役割を強化する「高度分権化(hyper-decentralization)」。

これらをそれぞれ検討した上で井上先生が提唱するのが<諸国家のムラ>(the village of states)という構想。
「国家は国内的問題を解決するには大きすぎ、国際的問題を解決するには小さすぎる」
という社会学者ダニエル・ベルを引用した上で、主権の脱構築を指向するのではなく、その再構築を模索する。
これはマイケル・テイラーが解明し、擁護した「共同体的無政府主義(communitarian anarchism)の秩序構想を国内的な文脈からグローバルな文脈へ拡大する形で発展させたものだそうで、そのムラで非覇権的・非階層的な秩序を維持するために決定的な条件として「脆弱性の共有(shared vulnerability)を挙げています。
そこで重要となるのは主権と人権は相互排他的なものではなく、共起源的結合しうるものであるという視点です。
また、先に紹介したブルの「無政府社会(the anarchical society)」論との対比をしたうえでリチャード・フォークの転向の意義は大きい。
世界市民社会への情熱から主権国家システムをかつて批判したリチャード・フォークが、主権国家システムの重要性を強調するブルの立場を再評価し、主権国家を世界市民社会のパートナーとして「取り込む(co-opting)」あるいは「道具化(reinstrumentalizing)」することが、搾取的なグローバルな経済的諸力による上からのグローバル化に対抗するために必要であるというフォーク自身の新たな立場を支持するものとして援用していることは注目に値する。
世界秩序構想において検討したこの5章のまとめを引用しておくと
グローバル化が突きつける課題は、主権国家システムの脱構築ではなく再構築である。この課題を遂行するために進みうる一つの方向は、共同体的無政府主義の秩序構想を、世界的な諸国家の共同体における脱覇権的・非階層的な統制と協力のモデルに発展させ、非理想的諸条件の下でそのモデルに現実を接近させる方途を探求することである。主権国家システムの再構築を要請する本章の議論が、時代の流れに逆らうものであることは自覚している。しかし、世界が危険な夢と熱情に駆られているとき、世界の流れに逆らう反時代的な省察を遂行することこそ、哲学者が、そしてまた法哲学者が、果たすべき役割である。
僕個人としても、約3年前にフロリダ大に留学していたときに"World Politics & Culture"という授業で書いた"Departure from Zero-Sum Game"という論文と通底するものがあり、(100倍くらい議論は浅いわけですが)問題意識の発露は多少重複すると思います。

とまあ、かなり重厚感のある本なのでブログでその全容全てに触れるのもかなりの量になってしまいます。
ただ卒論でB・アンダーソンの「想像の共同体」論をD・ミラーのリベラル・ナショナリズム論から批判的に再検討した上で、国際正義を扱ったこともあって、2〜4章もかなり興味深く読ませていただきました。(こちらを参照ください:「存在証明としての『卒論』」)
井上先生は内在的限定論との関連でD・ミラーの弱いコスモポリタニズムにも瑕疵を指摘しています。
ミラーがいう「正義の間隙(justice gap)」国境の内と外との規範原理を二重基準的に差別化する立場、すなわち世界正義論における「二元論(dualism)」の一種たる二元論的縮減論であると。(参照:D・ミラー『国際正義とは何か』)

本書で一番先鋭に目立つのは井上先生の後期ロールズへの厳しい批判的な視点。
とりわけ『諸人民の法』で展開された「節度ある階層社会(decent hierarchies)」承認論の問題。
ロールズが『政治的リベラリズム』で呈示した「重合的合意(overlapping consensus)」にもつながっていくのですが、
①「良心の平等な自由」はないが、限られた「良心の自由」は存在する。すなわち、政教分離がなく国教が存在し、一定の政治的地位を国教徒に限定するなど国教徒と非国教徒との間に階層的差別が設けられているが、非国教徒に対しても国教の特権的地位を侵害しない範囲での信仰生活の自由は認められている。
②選挙による為政者の交代などの民主的制度はないが、社会各層が集団的に組織され、集団の代表者が自集団の利害・不満を為政者に対して代弁し考慮を要請する「階層的諮問制(consultation hierarchy)」が存在する。

『正義論』で喝采を浴びた無知のヴェールの思考実験から析出した正義の2原理の適応を国内的文脈に限定し、「節度ある階層社会」を援用した理由としてはリベラリズムの帝国主義への懸念があるという井上先生。
井上先生自身、故・ロールズと面識があり、『正義論』などに触れることで「正義」へ目を向けることになったとおっしゃっていましたが、(東大のオープンコースの授業にて)後期ロールズに至ってはその批判に向かうことになったと。

ここで確認しておかなければならないのは、国家的強制固有の正当化原理としての正義。トーマス・ネゲルがいう強制的結社としての世界国家が存在しない以上、道徳的最小限は普遍人類的妥当性を承認させるとしても、それを超えた強い正義の要請はグローバル化されえず、その射程は国家の内部に限定されるという「政治的構想(the political conception)」(これはD・ミラーのコスモポリタニズムの強弱にも通底してますね)
これは彼がいう「歴史の姦計(the cunning of history)」:"The path from anarchy to justice must go through injustice"というテーゼそのものに連接されるのですが、井上先生はいやそうじゃないだろうと。
現存する無政府世界において我々は既に不正を通過しているがゆえに、この現存する世界の内部において正義への道が模索されなくてはならない。
これは僕も100%同意で、この前書いた『(株)貧困大国アメリカ』でも詳述した通りだし、井上先生が一貫して援用している(批判を再批判、再構成しつつですが)ポッゲのグローバル・ジャスティスも後期ロールズ批判は強く意識していると思われます。(ポッゲの邦訳で手に入りやすいものとして『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』がありますね)

とまあこうやって続けていくとキリがないので、このへんで切り上げますが、ただ単に政治哲学の論争マップの中で自分の理論・主張を戦わせるのが井上先生の目的なわけではないです、もちろん。
人道的介入の是非など、現実世界でリアルに起きている諸問題にいかに向かっていくのかという焦眉の急で取り組む必要のある危機感に根ざしているわけです。
その意味で「保護する責任」や「人道的介入」も慎重にその中身が見極められる必要がある。
積極的正戦論による介入は、介入主体が好む体制構想を被介入国の人民に押し付けるためのもの、いわば「強制的介入(forcible intervention)」であるのに対し、消極的正戦論が是認する人道的介入は、あくまで、被介入国の人民が自らの主導によって体制を変革することを可能にすることをめざすものであり、その意味で「権能付与的介入(enabling intervention)」である。
そういえば、「保護する責任」については昔、合同ゼミで討論したことがありました。
おそらく邦語で読める学術界の「世界正義」の布置状況を最も包括的に知るためには、今一番有益な本の一冊であることは間違いないと思いました。
(その他、この本のメモについてはコチラ

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