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2013年7月14日日曜日

読書『責任と正義―リベラリズムの居場所』北田暁大著

責任と正義―リベラリズムの居場所

東大・情報学環准教授の北田暁大先生の『責任と正義』を読みました。
この本の元は北田先生の博士論文だそうです。
北田暁大先生といえば、理論社会学が専門で文化社会学の分野でよく知られていて、最近では思想界とも関わりが深く、宮台真司さんや東浩紀さんとも共著を出していらっしゃいます。


なので、博士論文のテーマが「責任」と「正義」というゴテゴテの政治思想を扱ったものというのは、意外な訳ですね。
ただ、だからこそ個人的にはとても興味を惹かれたわけです。
なぜなら僕自身、学部生のときに政治思想を中心に勉強して、今は社会学やメディア史を辿っているところなので、学問領野に問われない横断性というのには共感するものがあるからです。

この本のおおまかな構図としては「社会的なるもの」の肥大/ 「政治的なるもの」の盲点化というものがあります。
社会における「社会的なるもの」を相対化する言説が、社会理論(社会の意味論)における「社会的なるもの」の肥大=社会学帝国主義を帰結するという逆理。
というように昨今の政治学の領域における業績を簡単にみてみても、「社会学的なるもの」の影響というか、浸食というか、無視できないほど肥大化しているし、逆に社会学においては「政治的なるもの」が実は盲点化されているというのが北田先生の指摘です。 
ということもあり、
伝統的な政治学や法学が「アルキメデスの点」として自明視してきた政治(学)的概念―「自由」「平等」「正義」など―を、具体的な「社会的」文脈に再配置し、その社会的・政治的効果を正確に測定していくこと。政治(哲)学・法(哲)学が対象としてきた事柄を、「政治(学)な」概念によってではなく、「社会(学)的な」概念によって分節化していくという知的エートスは、もはや法(学)や政治(学)を語る上で欠かすことのできない基本的な素養とみなされるようになっている。
だから、
「いかなる国家が望ましいか」「自由/平等の基礎づけ」「正義概念の再検討」「正しい再配分はどのようなものでありうるか」といった政治(学)的問いは、「国家/自由/平等/正義は、いかにして語られ、どのような社会的・政治的帰結を生み出したのか」といった社会(学)的な問いに置き換えられなければならない。 
というようにして、「社会的なるもの」「政治的なるもの」の間を(どちらの優先性を付与するでもなく)絶えず意識的に往還しながら、問題の検討(すなわち「リベラリズムの居場所)の検討に向かっていくんですね。 
「まえがき」でこんなこともおっしゃってます。
「やんちゃなリベラリズム」と「しみじみとした社会学帝国主義」のあいだで思考することの快楽(と苦痛)を、多くの読者と共有することができたなら、著者としてこれ以上の幸せはない。
卒論でロールズを苦労しながらも読み砕き、最近、社会学に食指を伸ばしている当の自分としては、わずかながらもそうした快楽(ほとんどが苦しみでしたが)を共有できたのは収穫だと思っています。 

絶えず学問領域の枠を飛び出して、インターディシプリナリーに問題の検討にあたる北田先生のやり方は、素人(まだ学が十分に足りていない者)にとっては簡単な読書ではありません。
ただ、読了後に、もう一度「まえがき」を読み返していると、このような記述があり、思わず微笑んでしまいました。
ところで、右に記したような見取り図はあまりに抽象的すぎて本書が何を問題としているのかわかりにくいという読者もいることだろう。たしかにこの見取り図は、全文を書き終えた私が事後的・遡及的に捏造した物語のようなものであり、(こう言ってはなんだが)私以外にはその意義を見いだすことが難しいものかもしれない。<中略>ここに「まえがきにかえて」として述べたことは、全体を読み通した後にでも(そういう奇特な読者がいたとして、の話だが)思い起こしていただければ幸いである。
この本で、リベラリズムを検討していくわけですが、伝統的なリバタリアニズムやコミュニタリアニズムとの相克というようなものではなく、あくまでルーマンやハーバーマス、はたまたリチャード・ローティといったポストモダン政治学、または「システム倫理学」を唱道する大庭健先生というように、幅広い知識が前提とされるため、社会学について中途半端な知識しか持っていない自分としては少しチャレンジングでした。 
こういった北田先生の学問に対する姿勢は情報学環のホームページにある研究紹介にも見てとれます。
・・・こうしたマクルーハン的方法と、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコー、フリードリッヒ・キットラーといった人びとの方法論的意識をつき合わせつつ、新たな社会史・歴史社会学の可能性を模索していく、というのが私の研究スタイルです。この研究スタイルを貫くには、一次資料への興味関心のみならず、理論と実証を往復する知的体力が必要とされます。
そうなのです。この本を読めばそれが肌で分かるように、「知的体力」が要求されるのです。 
先に自分は社会学の知識が十分でないといいましたが、本書の中核で記述のあった「社会学的思考の《原罪》他者の問いの隠蔽」という箇所は肝に銘じて社会学の勉強にあたりたいと思いました。
社会学的な思考は、様々な形で―「価値被拘束生論」「歴史神学の挿入」「相対化の戦略」―《「である」》⇒《「べし」》の導出を「解決」したのだと自らに言い聞かせてきた。しかしそれは、問題の「解決」などではさらさらなくむしろ「隠蔽」「抑圧」であったこと―このことは関係性=制度の学としての社会学がいわば宿命的に引き受けざるをえない《原罪》として、まずしっかりと自覚しておかなくてはならない。

補論の中でさらっと触れられていた人間以外の動植物の権利をいかに規定していくかという問題。この辺はヌスバウムあたりが真正面から取り組んでいる問題ですね。(参照:『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』)


たとえばグリーンピースが理性や知能程度の高さを理由にクジラやイルカを高等哺乳類として、保護されるべき対象ととらえるならば、通常、本来的な理性が欠け、知能程度も健常者よりは低いと見積もられる障碍者や痴呆の老人は被権利者としては適当ではないということになってしまうのか、など。突き詰めて考える必要のある問題が現出してきます。

これに関連して、「尊厳」について。ここの部分は村松聡さんの『ヒトはいつ人になるか』などを参考にしながら。
《贈与を受けるべき/受けざるべき存在》の差異づけは、《合理性を帰属しうる/しえない》とか《痛みを感じうる/感じない》といった差異=規準にではなく、《尊厳のある/ない》という差異=規準に照応する。ところが、《尊厳のある/ない》という差異は、まさしく根拠なく差異づけられる―つまり、他の属性に還元・翻訳することができない―という点にこそ、その本質的意味が見いだされるようなものであり、個々人による尊厳帰属の理由を不偏的・非人称的な観点から調整することは原理的に不可能なのであった。つまり《リベラル》は、リベラルな権利を贈与する範囲の確定をリベラルな様式に則って決定することができないのである。
ここがリベラルの臨界点、すなわち限界なのであると。一方通行の行き止まり。 
そして四部「社会的なるもの」の回帰 第七章 正義の居場所―社会の自由主義へと最深部へと向かっていくわけです。
そこでまず最初に、ここまでの議論で明らかになってこととして確認しておきたいのは
リベラリズムはその規範的・道徳的優位性によってではなく、現代社会における機能的な位置価によって、その「徳性」を担保されるのである。
ということ。 
これは繰り返し、北田先生もロールズなどを批判しながら注意を喚起している点なのですが、
だから我々はゆめゆめ《正義》を「社会制度の第一の徳」「他なるものとの出会い(損ね)の契機」などと規範的に意味づけてはならない。
ということで
リベラリズムがコミットする正義は、様々な善の構想の相克をメタレベルにおいて調停・裁定する規準でも、人間の本性への洞察や功利計算から導き出される道徳原理でもない。それは、人々の行為の連接可能性(帰責=観察の円滑な連接)を特有の形式で担保することによって、責任のインフレーション(過剰な帰責可能性)を収束させる一方法論なのであって、その存在意義は―倫理的価値によって根拠づけられるのではなく―他の方法論との対照関係においてのみ規定されうるようなものなのだ。 
この本で北田先生があえて、自分の専門領域である文化社会学やメディア史から距離をおいて、こういった問題にチャレンジしようとした野心の根底に「リベラリズムと社会システム理論を架橋する」という問題意識があったわけです。これはあとがきの「現実(主義)から遠く離れて」でも言及されています。 

この本から僕が学んだのは、内容以上に、そういった学問に対するアティチュードではないかと思うのです。

2013年7月8日月曜日

読書『世界正義論』井上達夫著

世界正義論 (筑摩選書)


東大の法学政治学研究科で法哲学を専門に研究なさっている井上達夫先生の『世界正義論』を読みました。
ハーバード留学時代にロールズやサンデルにも師事なさっていたそうで、英語でもたくさん論文を書いているそう。英語の論文も読んでみたい。
内容としては領域俯瞰的な学術書といった感じで、世界正義論(Global Justice)がかなり網羅的にかつ、包括的に扱ってあります。ただし、問題意識は明確で、たとえばあとがきにはこうあります。
「国境を越えられない正義」の欺瞞と「身勝手に国境を越える覇権的正義」の横暴をともに克服し、「国境を越え覇権を裁く正義」としての世界正義の可能性を証示するという野心に本書は突き動かされている。
構成としては、正義理念は国境を超越した規範的正統性を持ちうるのかを基層に(井上先生の最終的なというか、当初からの主張は「然り」というもので)2章で世界正義の哲学的基礎に関わるメタ正義論(世界正義理念の存立可能性)、3章で国家体制の国際的正統性条件(人権と主権の再統合)、4章で世界経済の正義(世界貧困問題への視角)、5章で戦争の正義論(国際社会における武力行使の正当化可能性)、6章で世界統治構造(覇権なき世界構造はいかに可能か)との並びになってます。

これらの章は決して独立しているわけではなくて、1章で強調されているように、これらの問題群はあくまで複合的(complex)であり、複眼的・包括的なアプローチが不可欠になるということ。
これら異なった問題系にその固有性を踏まえた異なった解答を与える複眼性をもつと同時に、異なった問題系への異なった解答を論理的・機能的に整合化させ、かつそれらを相補的に一体化してグローバルな秩序形成の公正化を全般的に促進しうる包括性をもつことが、世界正義の理論が適格性をもつための必要条件をなす。
サンデルをはじめ、最近の「正義論」ブームを少しかじったくらいの知識だと少し難易度は高くて、そういう意味で中級者向けといえるかもしれません。
僕の師でもある押村先生の『国際正義の論理』や中山元さんの『正義論の名著』などは最低限読んでおくといいと思います。


ただし、4章から5章にかけては1〜3章を踏まえた上でいかなる世界秩序が構想されうるのかを検討していくので、政治思想のみならず国際政治やグローバル・ガバナンスの知識も少なからず要請されます。
これも押村先生の本になるのですが、『国際政治思想』が系譜的にかなり分かりやすくまとまっています。5章を理解するためにもブルの『国際社会論』が必須だと思います。



大学時代に国際政治・政治思想を中心に学んだ身としては、かなり面白く読めて、とくに法哲学の領野から「世界正義」を扱っているということもあって、新しい視点も多くありました。
大体、大学入学当初などは「世界政府」をバカ真面目に考えたりなど、安直に、ナイーブに考えたりしたものですが、勉強すればするほど、実は世界政府は専制の極限状態になりうることに気付かされたり。
たとえば、本著で指摘されているものは
a. 離脱不能性
b. 民主性欠陥の巨大性と不可避性
これに関しては「補完性(subsidiary)」原理に基づく世界連邦制度(下からの授権連鎖)を主張する向きもあると思うんですが、すぐに分配的正義の問題を惹起する。
c. 覇権的・階層的支配の拡大再生産
大まかにこの3つの問題点があって、井上先生自体は
覇権なき世界政府の理想を実現する企ては、結局、無限背進(the infinite regress)に陥る。すなわち、不可能である。
と、断言なさってます。

世界秩序形成では上の世界政府に加えて、EUみたいな多極的地域主義(multi-polar regionalism)の可能性もありますよね。
ただこれにも井上先生は否定的です。また問題を挙げると
a. 地域内問題―民主性欠陥の深刻性
b. 地域間問題―地域間紛争の困難性
これらの二つの途(超国家的権力集中)とは違った回路として、脱国家的権力集中が考えられます。世界市民社会論です。もちろん、これにもその可能性と限界を有しています。
a. 脱国家的権力分散の可能性
b. 市民的公共圏に潜む覇権性
Cf. 「答責性欠損(accountability deficit)」

この二つのベクトルに補足説明を加えておくと
(1) 個別国家より大きな政治的単位「超国家体(supra-state entities)に、集合的意思決定とその執行を委譲する「高度集権化(hyper-centralization)」。
(2) 「脱国家体(extra-state entities)」、多かれ少なかれ国家から独立して国境を越えて活動し、国家や超国家体のような組織的政治権力の行使とは異なる仕方で世界秩序形成に影響を与える主体の役割を強化する「高度分権化(hyper-decentralization)」。

これらをそれぞれ検討した上で井上先生が提唱するのが<諸国家のムラ>(the village of states)という構想。
「国家は国内的問題を解決するには大きすぎ、国際的問題を解決するには小さすぎる」
という社会学者ダニエル・ベルを引用した上で、主権の脱構築を指向するのではなく、その再構築を模索する。
これはマイケル・テイラーが解明し、擁護した「共同体的無政府主義(communitarian anarchism)の秩序構想を国内的な文脈からグローバルな文脈へ拡大する形で発展させたものだそうで、そのムラで非覇権的・非階層的な秩序を維持するために決定的な条件として「脆弱性の共有(shared vulnerability)を挙げています。
そこで重要となるのは主権と人権は相互排他的なものではなく、共起源的結合しうるものであるという視点です。
また、先に紹介したブルの「無政府社会(the anarchical society)」論との対比をしたうえでリチャード・フォークの転向の意義は大きい。
世界市民社会への情熱から主権国家システムをかつて批判したリチャード・フォークが、主権国家システムの重要性を強調するブルの立場を再評価し、主権国家を世界市民社会のパートナーとして「取り込む(co-opting)」あるいは「道具化(reinstrumentalizing)」することが、搾取的なグローバルな経済的諸力による上からのグローバル化に対抗するために必要であるというフォーク自身の新たな立場を支持するものとして援用していることは注目に値する。
世界秩序構想において検討したこの5章のまとめを引用しておくと
グローバル化が突きつける課題は、主権国家システムの脱構築ではなく再構築である。この課題を遂行するために進みうる一つの方向は、共同体的無政府主義の秩序構想を、世界的な諸国家の共同体における脱覇権的・非階層的な統制と協力のモデルに発展させ、非理想的諸条件の下でそのモデルに現実を接近させる方途を探求することである。主権国家システムの再構築を要請する本章の議論が、時代の流れに逆らうものであることは自覚している。しかし、世界が危険な夢と熱情に駆られているとき、世界の流れに逆らう反時代的な省察を遂行することこそ、哲学者が、そしてまた法哲学者が、果たすべき役割である。
僕個人としても、約3年前にフロリダ大に留学していたときに"World Politics & Culture"という授業で書いた"Departure from Zero-Sum Game"という論文と通底するものがあり、(100倍くらい議論は浅いわけですが)問題意識の発露は多少重複すると思います。

とまあ、かなり重厚感のある本なのでブログでその全容全てに触れるのもかなりの量になってしまいます。
ただ卒論でB・アンダーソンの「想像の共同体」論をD・ミラーのリベラル・ナショナリズム論から批判的に再検討した上で、国際正義を扱ったこともあって、2〜4章もかなり興味深く読ませていただきました。(こちらを参照ください:「存在証明としての『卒論』」)
井上先生は内在的限定論との関連でD・ミラーの弱いコスモポリタニズムにも瑕疵を指摘しています。
ミラーがいう「正義の間隙(justice gap)」国境の内と外との規範原理を二重基準的に差別化する立場、すなわち世界正義論における「二元論(dualism)」の一種たる二元論的縮減論であると。(参照:D・ミラー『国際正義とは何か』)

本書で一番先鋭に目立つのは井上先生の後期ロールズへの厳しい批判的な視点。
とりわけ『諸人民の法』で展開された「節度ある階層社会(decent hierarchies)」承認論の問題。
ロールズが『政治的リベラリズム』で呈示した「重合的合意(overlapping consensus)」にもつながっていくのですが、
①「良心の平等な自由」はないが、限られた「良心の自由」は存在する。すなわち、政教分離がなく国教が存在し、一定の政治的地位を国教徒に限定するなど国教徒と非国教徒との間に階層的差別が設けられているが、非国教徒に対しても国教の特権的地位を侵害しない範囲での信仰生活の自由は認められている。
②選挙による為政者の交代などの民主的制度はないが、社会各層が集団的に組織され、集団の代表者が自集団の利害・不満を為政者に対して代弁し考慮を要請する「階層的諮問制(consultation hierarchy)」が存在する。

『正義論』で喝采を浴びた無知のヴェールの思考実験から析出した正義の2原理の適応を国内的文脈に限定し、「節度ある階層社会」を援用した理由としてはリベラリズムの帝国主義への懸念があるという井上先生。
井上先生自身、故・ロールズと面識があり、『正義論』などに触れることで「正義」へ目を向けることになったとおっしゃっていましたが、(東大のオープンコースの授業にて)後期ロールズに至ってはその批判に向かうことになったと。

ここで確認しておかなければならないのは、国家的強制固有の正当化原理としての正義。トーマス・ネゲルがいう強制的結社としての世界国家が存在しない以上、道徳的最小限は普遍人類的妥当性を承認させるとしても、それを超えた強い正義の要請はグローバル化されえず、その射程は国家の内部に限定されるという「政治的構想(the political conception)」(これはD・ミラーのコスモポリタニズムの強弱にも通底してますね)
これは彼がいう「歴史の姦計(the cunning of history)」:"The path from anarchy to justice must go through injustice"というテーゼそのものに連接されるのですが、井上先生はいやそうじゃないだろうと。
現存する無政府世界において我々は既に不正を通過しているがゆえに、この現存する世界の内部において正義への道が模索されなくてはならない。
これは僕も100%同意で、この前書いた『(株)貧困大国アメリカ』でも詳述した通りだし、井上先生が一貫して援用している(批判を再批判、再構成しつつですが)ポッゲのグローバル・ジャスティスも後期ロールズ批判は強く意識していると思われます。(ポッゲの邦訳で手に入りやすいものとして『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』がありますね)

とまあこうやって続けていくとキリがないので、このへんで切り上げますが、ただ単に政治哲学の論争マップの中で自分の理論・主張を戦わせるのが井上先生の目的なわけではないです、もちろん。
人道的介入の是非など、現実世界でリアルに起きている諸問題にいかに向かっていくのかという焦眉の急で取り組む必要のある危機感に根ざしているわけです。
その意味で「保護する責任」や「人道的介入」も慎重にその中身が見極められる必要がある。
積極的正戦論による介入は、介入主体が好む体制構想を被介入国の人民に押し付けるためのもの、いわば「強制的介入(forcible intervention)」であるのに対し、消極的正戦論が是認する人道的介入は、あくまで、被介入国の人民が自らの主導によって体制を変革することを可能にすることをめざすものであり、その意味で「権能付与的介入(enabling intervention)」である。
そういえば、「保護する責任」については昔、合同ゼミで討論したことがありました。
おそらく邦語で読める学術界の「世界正義」の布置状況を最も包括的に知るためには、今一番有益な本の一冊であることは間違いないと思いました。
(その他、この本のメモについてはコチラ)

2012年12月2日日曜日

無知のヴェールと禁煙について


近代政治哲学の巨匠ジョン・ロールズ。
当時、停滞していた正義論の領域でパラダイム・シフトを起こした1971年発表の『正義論』。

そこで呈示された「無知のヴェール(veil of ignorance)」という思考実験。

彼は社会契約説を範にとって正義の原理を導出していく。まず正義の根拠を、自由かつ合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた-すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない-状態である。このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。(Wikiより)

<第一原理> 
各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。
<第二原理>
社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。
①それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること。(格差原理)
②公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。(機会均等原理)

これはあくまで思考実験です。
つまり「無知のヴェール」を被っている状態をイメージすれば、現行蔓延っている種々の不正義は看過されるべきものではないし、奴隷も存在しえない。



ちょっと違う話にはなってしまうんですが、なんとなく「禁煙」のことを思いました。

ここ何ヶ月か禁煙をしようとあがいていて、色々思考の転換とかを試みていたんです。

そもそも、ランニングするときやサウナにいるとき。
最後、死力を尽くしたのスパートやサウナのあと1分等。自分の中でよく使う思考ハックとして、「あともう少し頑張れなければ、愛する人が死ぬ」や「無一文になる」とか
自分に仮想現実を植えつけて、最後の最後の努力の一絞りを引き出そうとします。
わりと上手くいきます。

ただ、タバコに関していうと、これでは通用しなかった。
精神では分かっていても、肉体の方は完全にニコチン、タールに侵食されていて、依存しているから。仮想の現実は仮想の現実の域をでなくて、簡単に現実を歪曲することはできない。

そういった「思考ハック」も「無知のヴェール」も頭で分かっても、実際に行動まで落とし込むことは難しい。
それはあくまでも思考の実験であって、現実の実験とは乖離してしまっているから。
「歴史のif」や「たられば」と次元は違えど、同じレベルであって、現実は現実でしかない。

ぐるぐるぐるぐる、そんなことを考えたりしてたわけです。

2012年9月6日木曜日

読書『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』マーサ・ヌスバウム著


ひさびさに読んだ本でも振り返ってみたいと思います。
マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』。

ロールズの『正義論』、『政治的リベラリズム』、『万民の法』を中心テクストにそれらで呈示された諸概念(「無知のヴェール」や「格差原理」など)を批判的に捉え直し、むしろそれを脱構築することで、これまでの伝統的な契約主義者の前提条件から排除されていた主体(障碍者・外国人・動物)をも包摂するような正義論を構築することが本著の主題。

これまでの社会契約主義者たちは、正義の中心主体は「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定してきた。
ただ、それで本当の正義は達成されうるのか、と疑問を呈したのが筆者の問い。

社会契約の伝統は「社会の基本的諸原理は誰によって設計されるのか」と「社会の基本的諸原理は誰のために設計されるのか」という、原理的に異なる二つの問題を融合している。
社会契約およびその目的に関する構想を全体的に変えない限り、別個独立の想定は、平等の想定と同様に、容易には変更しえない。それというのも、この構想が描いている当事者はそれぞれ、相互協働の利益を得るために自らの特権の一部を犠牲にすることに意欲的な、各々が生産的な個人だからである。
そして批判対象のロールズの正義論の尺度として用いられているのは「富」と「所得」である。これでは上記のような主体は排除されていしまうので、筆者が新しいアプローチとして提唱するのが「可能力アプローチ」と呼ばれるもので、具体的なリストとして以下の10点が挙げられている。


①生命
②身体の健康
③身体の不可侵性
④感覚・想像力・思考力
⑤感情
⑥実践理性
⑦連帯
⑧ほかの種との共生
⑨遊び
⑩自分の環境の管理
可能力アプローチが契約主義よりも正義の問題に対して柔軟に接しうるのは、それが結果指向の理論であって手続き的な理論ではないことを理由のひとつとしている。
障碍者が契約理論の前提から排除されてしまっていることを「契約理論の不快な特徴」と筆者は切り捨てている。
人々はが他者と集って基本的な政治原理のために契約するのは、ある特定の諸状況、つまり相互便益が期待でき、かつ全員が協働から利益を得る側にある状況においてのみである。通常ではない費用がかかる人々や、集団の福利への貢献度がたいていの人々よりもはるかに低いと見込まれる人々を初期状況に含めることは、この理論全体のロジックに反することになるだろう。もし人々が相互有利性のために協働的な制度を編成しているならば、協働を通じた利得があると期待しうる相手と集いたいだろうし、社会的生産にほとんど何も寄与しないにもかかわらず、例外的で高額な費用がかかる配慮を要求し社会の福利レヴェルを引き下げる相手とは、集いたくないだろう。
また、リストは多元主義と寛容とも分かちがたく結びついており、以下の点も筆者は肉付けしている。
①リストは可変的で継続的な修正と再考を免れないものだと理解されている
②リストの項目は、まさに各国における市民たちおよび議会と裁判所による明確化や熟議といった活動の余地を残すために、やや抽象的で一般的な仕方で定められている
③リストは独立の「不完全な道徳的構想」を表すものであり、政治目的のためだけに導入されている
④適切な政治目標は可能力であって機能ではないことを強く主張するならば、国際領域においても多元主義は保護される
⑤言論の自由、結社の自由、良心の自由という、多元主義を保護する重要な自由が、リストの重要な項目になっている
⑥可能力アプローチは、正当化の問題と導入の問題を厳格に区別する
とりわけ注目しておきたいのが、可能力アプローチと「教育」の関係性であり、筆者もその重要性を特筆している。
あらゆる人間の可能力の鍵は教育である。また教育は世界でもっとも不平等に分配されている資源のひとつである。民主主義にとって、人生の享受にとって、自国内部の平等および社会的流動性にとって、そして国境を越える実効的な政治活動にとって、教育よりも重要なものはない。教育は役立つ専門技能を与えてくれるものとしてのみならず、同時にもっと重要なこととして、人間を適切な情報、批判的思考、そして想像力を通じた全般的にエンパワーメントするものとしても、理解されるべきである。
またミルやベンサムなどが支持する「功利主義」もこのアプローチとは相容れないものとして批判対象に含まれる。
功利主義は共同体をひとつの超人格として扱うことを通じて、またこの単一構造内におけるあらゆる満足は代替可能なものであると見なすことを通じて、諸個人と彼らの生が根本的に別個であることを無視しており、それらを「権利と義務がそれに従って割り当てられることになる数多くの系列」として扱っている。
ベイツやポッゲのグローバル・ジャスティス論にも言及しており、「グローバルな構造のための10の原理」 として以下のものを列挙している。
①責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。
②国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。
③豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。
④多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。
⑤グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国および発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。
⑥薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。
⑦すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人びとの諸問題に集中しなければならない。
⑧病人、老人、子ども、障碍者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。
⑨家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。
⑩すべての制度と個人は、不遇な人びとをエンパワーメントするさいの鍵として、教育を支持する責任を負う。
結論は以下のよう。
相互有利性のみを接合剤とするリベラルな社会の像には特異な歴史的起源があり、またそのような像のみが有効であったわけではないということを、私は示してきた。
想像力に富んだ勇気がなければ、こうした三つの領域が突きつけるとてつもなく大きな困難を前に、公衆の皮肉と絶望とが残るだろう。だが、可能であるかもしれないことに関するいくつかの新しい像があれば、これらのフロンティアに少なくとも接近することができるのであり、また哲学の理論がこれまで頻繁に承認してきた世界よりもはるかに複雑で相互依存的な世界における正義は何でありうるのかについて、創造的に思考することができる。