ゲーミフィケーション、なんぞやそりゃ。
ゲームをおもしろくするために使われる技術やノウハウをゲーム以外の分野に応用していこうとする取り組みのことで、ビジネスへの利用だけでなく、社会をよりよくするための活動に生かす実験も進み始めた。(日経新聞より)
日進月歩で日々生まれる技術、それに伴う名前。
今日はその名前の部分に注目してみたい。
特に横文字といわれる、カタカナ語に着目して。
日本では年配の方々を中心にして、カタカナ語を安易に輸入すること多用することを嫌う性向があります。
外国語がカタカナに姿を変えて、日本語を侵食し、蝕んでいると。
日本語と外国語の相克、せめぎ合いと捉え、「もっとわかり易い言葉を使用せよ」と。
ぼくはカタカナ語を使用して、一向に構わないと思っています。
まず目の前に一つの事象なり、考え方があって後天的に名前が社会の中で後付けされていく。
それが純粋な日本語か、外国語か。
それは人々が自然選択していき、最終的に一番呼びやすいものに落ち着いていくそうゆうものだと思うからです。
無理やり「電脳機」というよりは「パソコン」というほうが少なくとも僕にはナチュラルに映るし、社会的にもそうやって受け入れられています。
はじめて出会う概念、ぼくで言えば冒頭で取り上げた「ゲーミフィケーション」と初めて対峙したとき、脊髄反射的に身構えてしまいます。
「なんぞや、そりゃ」と。でも、半年、1年と経つとそれが普通に僕の中で当たり前になっていて、社会にも膾炙している。
そういうものなんだとも思います。
だって純粋な日本語なんてほぼ皆無ですよ、考えてみると。
そもそも漢字自体、中国(外国)から輸入したもので、日本語の前提としてコトバを租借することが出発地点だったのですから。
ものづくりにしても、グルメにしても、コトバの租借にしても日本人はとにかく何かを受け入れて、日本人なりの鋳型に入れて加工するのがとにかく上手い。
明治期、急激に西欧の文化が日本に流入してきました。旧来の鎖国体制を取り払ったので、新しい文化がものすごい勢いで日本列島を往来してのです。
明治維新期、おおくの造語翻訳が時の知識人によってなされました。
主な例を挙げると、政治・行政・思想・哲学・法律・経済・資本・演説・討論など。
この文明開化の扉を開ける作業に大きく寄与したのが福沢諭吉、西周、中江兆民など、時の賢人たちです。
時代を問わず、新しいもの・ことは生まれ続けています。
名前、表面的なことに奔走する必要はないんじゃないか、それがぼくの意見です。
日本語、外国語、最終的には最適な名前に落ち着いていくだろうと。
中身、ぼくらはそこに腐心し、追求して、そこで初めて日本人らしさ、日本人だからこそ出来ることを追求していくべきだと思うのです。
今は英語→カタカナが主流だけど、中国語→カタカナとかがもっとポピュラーになったり、ヒンディー語→カタカナが当たり前になったりとかいう世界をときどき妄想する。
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