Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2011年9月19日月曜日

「バカ警官、ボケなす、ぶぁいぶぁーい」にみる法律と倫理の相克

Criminal/ Eminel



まずはこの衝撃的な動画を御覧ください。
かなりショッキングな映像なので、ぼくは初めて見た時、呆然としてしまいました。笑
千住警察の職質にレスポンドする少々狂乱的な男性の撮影した映像です。

ぼくには、ただ単にクレイジーなおじさんのYoutube投稿には思えませんでした。
ふたりが正論をぶつけ合う堂々巡り。
そこで交錯する道理と法律。

警察にとってこのおじさんはかなり厄介な強者でした。
なぜならこのおじさんは法律に精通しているらしいからです(加えて、臨戦態勢で臨めるようにシナリオを組み、カメラも携帯していました。あくまで推測ですが)

警察側、おじさん側、整理しやすいようにまずは両者の主張を分けて考えてみたいと思います。

【警察】

  • おじさんを不審者とみて、職務質問をした。所持品などを調べたい
  • カメラの撮影に対し、「人間と人間の話なのだから、カメラは止めてもらえないか」
  • 強制権がないにしても、仕事なので「はい、そうですか」と簡単に引き下がるわけにはいかない」
【おっさん】
  • 職務質問はあくまで任意のため、応える理由がない
  • 公務員に肖像権はないので、カメラを回すことになんら問題はない
  • 電車に乗り込めば、警察が追ってこれないということをおそらく知っていた
ぼくは両者の言い分がとてもよくわかります。
法律のほころびというか、限界が垣間見えます。

おじさんは法的根拠に則って、警察の職務を無力化しようと試みます。
それに対し、警察は道徳的アプローチで法律以前の人間としての規範でそれに立ち向かいます。
どちらが正しいのでしょうか。

法律も神様が作ったものではなく、わたしたちと同じ人間が作ったものです。
きわめて欠陥や矛盾がおおい、完璧とは言い難い代物であるのは周知の通りです。
しかし、一定のルールを設けなければ社会に秩序が生まれず、公共性は生まれません。
その一方で、法律だけで世の中が回るかと言えば、そうはいかないのが難しい所です。

ジョン・スチュアート・ミル

おじさんと警察の押し問答を観察する中で、ぼくはジョン・スチュアート・ミルの危害原理をふと思い起こしました。
ミルの主著『自由論』の中で触れられてる話ですが、簡単にまとめると以下のようになります。

「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。(Wikipediaより)



つまり自分以外の他人に危害を与えない範囲において、すべての人には無限の自由が担保されるべきとしたミルの主張です。
危害原理において、国家が個人を法的に縛れる範囲は限られています。
危害原理を支持する学派をリバタリアンといいます。(正確には誤差がありますが)
リバタリアンの見地に立脚すると、日本は極めてリバタリアンの思想とはかけはなれた国家と言えるのかもしれません。
たとえば運転時のヘルメットの着用義務や、売春、ドラッグの取締り。
リバタリアンに言わせれば、ドラッグを使用するのは個人の自由、他者に危害を加えた時点で、はじめて国家により罰せられる。

つまり危害原理が適用されるならば、明らかにこのおじさんは職務質問された時点では何者にも危害を与えてないので職務質問を強要されず自由の身であるべきであるということです。
ただ法律にはルールがあり、違反した者を罰す以外にもう一つの効用があります。
抑止効果です。
法律があることで、犯罪を犯すものの意欲を削ぐ。

大変に難しい問題です。
おそらく答えはないでしょう。
倫理と法律の相克、せめぎ合いをこの千住警察とおじさんのやり取りに感じたのでした...
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