Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2013年8月18日日曜日

読書『弁証法はどういう科学か』三浦つとむ著

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

過去に読んだ講談社現代新書の中では飛び抜けて名著だと思います。
初版は1968年、つまり冷戦の真っ只中なわけであって、だからこそ筆者の熱意が込められているのだと思います。
主にヘーゲル、マルクス、エンゲルス、そして毛沢東というマルクス主義、社会主義を取り巻く理論家たちの論旨を丁寧に汲み取りながら、「弁証法」というプラトン以来の世界への眼差しを包括的にスケッチしていく。
この本を読んでからマルクスの『資本論』を読めば、理解度はグンと増すと思うのですが、経済学、社会科学といった学問的土台となることよりも、生きていく上で、さまざまな困難に立ち向かっていかなければならないときにどうやって当該の問題を考えていけばいいのか、思考の指針を与えてくれる思考の書でもあります。
今、巷に横溢している種々の手軽な思考書、啓発書の類を漁るよりも、この本を一冊読み、得られた知見をコツコツと実践して行くほうが、巨視的にみたときに何倍も効率的ではないかと思います。

本文中、いくつもの例を交えながら図解しつつ説明を施してくれるのですが、その中から1つだけピックアップ。


この図を見た時に、ふとミスチルの『彩り』が惹起されたんですね。



僕のした単純作業がこの世界を回り周って、まだ出会ったこともない人の笑い声を作っていく。
そんな些細な生き甲斐が日常に彩りを加える。
モノクロの僕の毎日に少ないけど赤、黄色、緑 
ブログを書くことなんて、その最たるものだと思う。
こんな小さい、意味のなさそうなちっぽけな営為もどこの誰が、いつ目にしているかわからなくて、そこに何気なく書いた一行、一言が、どんな形で誰かの頭の中、心のなかに住まうかもしれないこと。ふとした瞬間に顔を出すかもしれないこと。

2013年5月4日土曜日

インド瞑想記④ あまりにも茫漠とした時間のなかで―Disposition of Soul

#③続き

旅にでる話をすると、多くの人が、こう聞いてきた。「目的は?」「何を求めてるの?」
きっと腹の内で、"バックパッカー"や"自分探しの旅"といったワードに聞き飽きた嫌悪感というか、独善性を括り付けているのだと思う。

「別に目的なんかなくたっていい。独善的だっていいじゃん」とぼくは思ってしまう。
打算的にならずに、飛び込んで行きたい。初期衝動に突き動かされて。
点と点がつながるのは、いつだって後から振り返ったときだ。(looking forwardではなく、backwardなのだ)
とくに日本では即物的な思考が根を張り巡らしすぎていると思う。
その先に利益(profit)が約束されていないと、行動に身が入らない。
自分の内に宿る欲求よりも、社会の中で位置づけられる価値を優先する傾向。
これでは思わぬ点と点の結合はなかなか起こらないのではないか。
身を粉にして働いてキャリアアップなり昇進なりに猛進している人も、「なぜ生きているのか」と問われれば答に窮してしまう人がほとんどではないかと思う。
この辺のことは以前「就職、進学、そして生きていく事」というエントリーの中で詳しく書いた。

完全な静寂のなかで、自らの人生を省みて余生について沈思黙考できる環境はおそらく、自分から積極的に身を投げ出して行かなければ得られないであろう確信があった。
社会のレール、なんとなくの空気感に右顧左眄し、通説通り就職するよりも、長い人生の中で一度、立ち止まる時間が欲しかった。
「求めよ、さらば与えられん」というマタイ伝の言葉。
時代に伏在する不易なものを看破するための時間。
忙しなく一瞬一秒が濁流のように流れていく東京の喧騒の中では"安心立命"の境地にたどり着くことはまず不可能ではないか。

坂口安吾『堕落論』のこんな一節を思い出す。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。
そう、"孤独"の道をくぐり抜けること。ここに真の人間の実相はあるのではないかと思う。そして、東京の喧騒の渦の中にいれば、"孤独"に出会うことはほぼない。

活字やコミュニケーションから完全に断絶・遮断される。SNSの網の目から逃れる。
他者から隔離され、己の内に閉じこめられる。
拡がる世界の一点に意識を掻き集める。

結局、日常でどれほど知らんぷりしていても、見て見ぬ振りをしていても
死ぬときは独りきり。

一度、目を閉じれば自分の内に茫洋と広がる孤独の闇があるはず。
常にそこにあっても、自分からソレと対話しなければ何時まで経っても、その時はやってこない。


タイムテーブル

基本的に上記のスケジュールに沿って毎日流れていく。
4時起床の9時半就寝だ。
非常に規則正しい。最初は辛いが慣れると気持ちいい。

改めて禁止事項を確認しておくと、

音楽、酒・タバコ、本・活字・電子デバイス、メモ・日記、コミュニケーション・アイコンタクト・ボディーランゲージ、運動(ジョギング・ウォーキング含む)、いかなる殺傷行為(間接的にも→食事はすべてベジタリアン)、あらゆる性行為
加えて、
部屋にはシャワーはついていない。一応フィルター濾過済の水が飲めるが、暑さのためにほぼお湯である。

はじめの三日間の話をしようと思う。

さっそく、一日目、4時半からホールでの瞑想がはじまった。

坐禅を組み、背筋を伸ばす。両手を前に据える。
上唇と鼻で三角形のポイントを作り、そこに意識を集中させる。それを頭の天辺に移し、全身を一つずつ点検していく。
無為自然を大切にしながら、衣服や空気が触れる感覚からはじめ、体の各部にセンセーションを見つけていく。

1時間も瞑想を続けていると背中が痛み始める。集中力も散漫になる。
圧倒的なまでの自己の精神力の弱さを思い知らされる。
Mr. Children「かぞえうた」の一節が頭をかすめる


僕らは思ってた以上に脆くて小さくて弱い。
でも風に揺れる稲穂のように柔らかくたくましく強い、そう信じて。 
インド前日くらいから便秘が続く。
急激に変わった環境のせいなのか、単純に座り過ぎなのか、栄養なのか、分からないが。
そして三日も経つ頃には体重が落ちてきているのを感じる。



部屋にトイレも備え付けられているが、トレインスポッティングの便器のように汚く、便意も起きない。

食事のメニューは基本的に10日間ほぼ同じだった。
たとえば、朝食がパサパサしたもち米のようなものに、ミカン。
このミカンが日によって、スイカになったりバナナになったり。そしてミカンの一粒一粒に律儀に種が入っていて、スイカも食べづらいくらいにふんだんに種が詰まっている。
フルーツ一つとっても日本やアメリカ、ヨーロッパで食べるものは高度に品種改良が加えられ、食べやすいものに加工されているのだと気付かされる。
それから、バナナ。



極端に小さい。日本で食べるサイズの3分の1ほどの大きさしかない。(上の写真のイメージ)
きっとインドの人にとってみればこれがバナナで日本にきてバナナをみれば、その大きさに驚くと思う。
普段自分が当たり前と思っているもの(taking for granted)なものは、実は当たり前でもなんでもなくて、所変われば当たり前は違ってくる。
バナナ一つにそんなことを思わされた。少し怖くなった。
バナナにかぎらず、自分を取り巻く多くのもの、思考の根を張る"常識"と呼ばれるものの一つに疑心暗鬼になる。

昼食は薄っぺらいナン、カレーが何種類か。もちろんカレーはベジ。

夕食はなくて、代わりにティーブレイクがある。そこではチャイと日本でいう雷おこしのようなカレー風味の乾燥米が振舞われる。そしてこの雷おこしみたいなのが一番のお気に入りだった。
そしてチャイには救われたように思う。甘いミルクティー。あまりにも甘いのでいつも水を足して甘さを和らげた。

朝〜夕食まで総じて托鉢のような献立だ。

今、振り返ってみると最初の3日間があらゆる意味で最も辛かった。

瑣末なことに不平不満が絶えない。
上記のような食事、冷たいものが飲めない、水しか飲めない。
でも、アフリカの人からすれば土の濁りのない透明の水を飲めているだけ幸運。
すべては「相対性」に還元される。

暑い。部屋が汚い。
「一体、この部屋には何種類の蜘蛛がいるのか?」アリ、蛾、ハエ、蚊、トカゲ、ネズミ、嫌われ者たちの展示会(exhibition)のようになっている。
サラマンダーやグラスホッパーは一日に一度はぼくの部屋を訪れるようになった。

そして、一日1箱吸うのが当たり前だった自分にとって、いきなり禁煙するのは辛かった。それでも「今やめられなかったら、一生やめられない」と言い聞かせてここまで来た。



コミュニケーションを剥奪されると、彼女や友達や家族がやたら恋しくなる。
ぼくはいつもこんな感じだ。これまでアメリカへ二度留学したけど、いつもこんな調子だった。その意味でコミュニケーション理論で有名な「Uカーブ」はあまり自分には当てはまらない。
ハネムーン期の前にまず、ホームシックというかいきなり倦怠があるのだ。
でもこれも3日くらいまでで、そこまで来ると、あまり考えなくなる。
結局は「10日間」という期限つきなのだ。
これは決定的に重要な点であると思う。
たとえば『ショーシャンクの空に』で無実の罪で監獄にぶち込まれたアンディーは、「終身刑」という見えない時間の中で生きることを余儀なくされた。それでも"希望(hope)"を失わなかった。
Mr.Childrenの'one two three'の歌詞に
ビデオにとった『ショーシャンクの空に』見てからは、もっともっと確信に近いな。暗闇で振り回す両手も上昇気流生むんだ。
とあるように、映画で描かれる壮絶なドラマはたとえ、それがドラマであったとしても、その疑似体験はいつも自分に勇気を付与してくれる。



今年のTCC賞のグランプリだった
映画は、本当のことを言う嘘だ。
はその意味で核心を衝いていると思う。 

インドへ瞑想の旅へでる前週くらいに、土屋Pにインドへ行く旨を話した。
すると、「期限のない旅」にこそ価値はあるのではないかというような話をしていた。
もしかしたら「もう帰ってこないかもしれない」「二度と祖国の地を踏むことはないのかもしれない」、それこそが真の旅のリアリティなのかもしれない。
この極限の状態において、はじめて生まれ育った土地「日本」を省みることができるのかもしれない。

心身が安定しないまま、瞑想は続いていく。
考えないことを学ぶ訓練、一瞬の悟りのための24時間。その一瞬の悟りの感覚を一度でも掴めれば、その日は報われる。
しかしその瞬間はなかなか訪れない。

ひたすら雑念、煩悩が脳ミソの高速道路をハイスピードで往来していく。
10分、30分、1時間がとてつもなく長い。
「夏帆の本名ってなんだったっけ?」という一度現れるとなかなか消えないどうでもいい疑問や、「吉田麻也のこれまでのキャリアパス」など、次から次へと今はどうでもいい事柄が頭を支配していく。
考えないように努めれば努めるほど、その濃度は増していく。

あまりにも時間は円滑に流れて行かない。
脳内で『もののけ姫』の上映が始まる。
アシタカが"Princess Mononoke!"と叫ぶシーンがずっと頭にこべりつく。(ちなみに『もののけ姫』を英語でみると、これがなかなか面白いです)



それを振り払う。
ロダンの「考える人」ををイメージする。
たしかあの男は地獄の門の上で、思索にふけっていたはずだ。
天国と地獄のその真中、「煉獄」とはいかなる場所なのか。
普段は考えもしないようなことにまで断想が飛び火していく。

薄く浮遊しはじめた断想が、なんとなく陽明学に及ぶ。知行合一。
100思考したところで、1の実践には及ばない...。

自分の両サイドで黙々と瞑想を続ける僧侶たち。
彼らは一体どんな人生観を持っているのだろう。どんな未来を思い描いているのだろう。夢は?希望は?
僧が性行為を禁じられているならば、彼らの両親は僧ではないのか。いろいろな事情を思案する。

なぜか僧から我が家のペットに考えが及ぶ。
一見、幸せそうな犬たち。屋根付きの家があり雨風を防ぐシェルターの中、エアコンがあるから夏は涼しく、冬は暖かい。食事もきちんとでる。
でも一日2度の散歩のときのあの異常なはしゃぎぶり。
そう、自分の意思で自由に外へ出入りすることは許されていない。
圧倒的な"不自由"なのだ。生まれてから、死ぬまで。

こんな調子で1〜3日くらい、次から次へと様々な思いに囚われていた。
食欲も減退していき、ベジ食の中で体力、精力が後退していく。
栄養不足気味からか瞑想のあと立ち上がると、立ちくらみがデフォルトになっていき、日に日にその度合も増していった。
KFCの犬にしゃぶり尽くされたあとの骨のようになっていく。絞られる雑巾。

身体が硬くなるのだけは避けたかったため、寝る前に軽いストレッチだけは欠かさずに行った。



ホールで皆で行う集団瞑想とは別に別棟で行う個人瞑想が毎日必ずあった。
仏塔(pagoda)の中にある独房(cell)の中で、2〜3時間行うのだ。
若干、閉所恐怖症(claustrophobia)気味の自分としてはこれは当初、かなり堪えた。
プリズンブレイクの懲罰房を思い出されたい。
ここでは当然、時計がないため、時間感覚をすぐに失う。
時間は流れているのか、止まっているのか把握できない。アインシュタインの「相対性理論」を吟味するには恰好の環境である。
時間でさえ、あくまで「相対的」なのだ。

それを「体験知」として理解する。
体と精神、二元論。古代から交わされてきた議論。ライプニッツの「単子論」。
それがまったく別個のものであったとしても、不可分なものであったとしても、精神をもって体に打ち克つこと。真に自分の支配者となること
こんなことをグルグルと考えていた時、スティービー・ワンダーの'To Feel the Fire'のサビが頭に流れた。
Cause when I look inside my heart and I tell the truth to me, loud and clear my soul cries out with total honesty. I need the fire, fire, fire, to keep me warm. I got to feel the fire. (心の中を覗き込み真実を告げる時、完全な正直さと共に魂は高々と叫び声を上げる。熱を失わないために炎が必要なんだ。炎を感じるんだ)
体でもいい、精神でもいい、魂がそこで叫び声を上げていることを感じる。 
瞑想をはじめて3日間が過ぎた。まだ1週間残っている。

自分の中に誰も入り込めない堅牢な砦を打ち立てる」これを目標にする。当然、一週間で砦なんて出来ないかもしれない。まして一生かかっても。
「千里の行も足下に始まる」、まずは一つの釘を心に打ち込むことから。

【瞑想記一覧】
■出発する直前
■インドへ到着
■いよいよ修行開始
■修行の後半戦
■最終日

2012年10月27日土曜日

就職、進学、そして生きていく事


このまえ機会があり、ゼミの後輩へのメッセージを書いたのでここにもログとして残しておこうかと思います。体的には就活のアドバイスなのですが、僕はほとんど就活という就活もしていないので、ぼくなりに自由に書いたつもりです。そしてそれがコンプライアンスに関わることもないと思うので。

【Ⅰ.】
僕の場合、就活という就活はほとんどしていないので、僕なりに自由に書かせてもらおうと思います。そしてそれが、将来の考え方や就活それ自体の一助になって、なにか一つでも伝わるものがあればいいなと思って筆を執ります。
そもそも自分の中で「就活をするために生まれてきたわけではない」あくまでそれは数多くある選択肢・オプションの一つでしかなく、人生のルールではないと信じていたのが根底にあります。「周りがそうするから、とりあえず自分も」という同調圧力に自分の意思が簡単に屈して、一度の人生を流されるのもなんだか腑に落ちないという皮肉な反抗心みたいなのがありました。


常識にとらわれるな、そんなもの他人の考えにすぎない。そんな考えに惑わされて、自分自身の心の声を聞き逃してはいけない。(Don’t be trapped by dogma – which is living with the results of other people’s thinking. Don’t let the noise of others’ opinions drown out your own inner voice)」ってジョブズも言ってます

それでも完全に就活していないといえば語弊があります。最初からそういった反抗心だけで就職を選択肢から除外すること以上に視野狭窄なことはないと思ったので、広告代理店でインターンをすることにしました。その流れで同社の選考を受けたり、Googleも受けて最終面接の前まで行ったりもしていました。結局、どちらも結果は駄目でしたが、その理由は明白です。単純に「自分が何をしたいのか」を突き詰めることができていなかったし、そこでなければならない必然性を説明することができなかったからです。それに気付けただけでも、自分にとっては意義深かったです。

その当時、付き合っていた彼女は他のことが目に入らないほど、それに向けて一直線に全力疾走していました。目を輝かせながら、夢を実現した自分の姿を語っていました。僕にはその時、特定の会社やこれしかないと断言できる情熱が欠けていました。


マタイ福音書にこうあるように
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you)

「初志貫徹」入学当初から考えていた進学をやはり目指そうと改めて決意したのです。

【Ⅱ.】
どれだけの日本の学生が胸を張って大学の四年間で勉学に励み、専門を身につけたと言えるでしょうか。僕は大学二年次にアメリカへ留学しましたが、そこで大いに刺激を受けました。朝から晩まで図書館に缶詰で勉強する友達会社を三つも経営している友達など、いまこの瞬間に全力投球している人々に感銘を受けたのです。


だから大学院に進学し、二年間思いっきり勉強にどっぷり浸かり、それから「本当に自分が何をしたいのか」を見極めても遅くはないと思ったのです。ユダヤの教えにこんなものがあります。「すべて金で買うことができるが、知性だけは買うことができない」自分の奥深くで感じた「もっと学びたい、知りたい」という欲求を死蔵するよりも、リスクを背負ってでもこの気持ちに正直でありたいと思ったのです。今日やるべきことを明日に後回ししたら、明日やるべきことはいつまでたってもできない、だってそうでしょう。

自分の直感にしたがった決断は決して僕を裏切ることはない、そう信じています。アメリカにいた時、友達がこう言っていたのを思い起こします。「拒絶するってことは神様が君を守る時のやり方なんだ。(Rejection is God’s form of protection)」「浪費するだけの人生なんて、一番悲しい自殺みたいなもんさ。(A wasted life is the saddest form of suicide)」大好きな漫画『バガボンド』を何気なく読んでいた時、沢庵というお坊さんが言うセリフが不意に肺腑を衝きました。「そろそろおのれを眺めてみたらどうだ」

【Ⅲ.】
何かに迷った時、先人たちの経験・言葉が助けになることがあります。そこで僕がこれまでに読んだ本の中でとくに感慨深かったもの、ヒントになりそうなものをいくつか。古典が多いのは古典には「古典」になりえる所以があるからです。
  • マルクス『資本論』
  • セネカ『人生の短さについて』
  • デール・カーネギー『道は開ける』『人を動かす』『話し方入門』etc
  • 吉野源三郎『君たちはどう生きるのか』


【Ⅳ.】
就職か進学か。そんなはずありません。多くの選択肢が眼前には広がっています。それを見てみないフリするんじゃなくてあがいてみる。ジョン・キムさんが「他人の道を行けば楽だが従属することになる。自分の道を行けば苦しいが独立することになる」と、そしてエジソンが「もうこれ以上できない。そこでやめるか、[いよいよ、これからだ]と立ち上がるか、このわずかな[一念]の差が、人生のおおきな分かれ目になる」と言っているように、人生はリハーサルではなく本番一発勝負です。20歳そこそこ、すでに(人生80年として)4分の1が過ぎてしまっている。誰かが「どんなにつらいことがあっても80歳になった自分への思い出のプレゼントだと思えば楽しくなる」って言ってたことを僕は時々思い出します。

あ、あとツイッターで超面白くて個人的に速攻ふぁぼったツイートも。

「 人生は神ゲー!セーブできないシビアなシステム、本気で頑張ると倒せる絶妙にバランス調整された敵、全てのキャラが深い人間性と歴史をもって登場、グラフィックが綺麗、BGMが無限、複雑で洗練されたシナリオ、自分を愛してくれるキャラがいる、無料」
就職をするっていうことを僕はけっこう重く捉えています。もちろん転職もあるでしょうが。アルバイトをしていると、よく年配のサラリーマンのお客さんが来店します。「新卒のときは、数年勤めてから起業するつもりだった。すぐにやめてやるつもりだったんだよ。でも気づいたら早いもので、もう定年まであとわずか」この類の話は何度聞いたかわかりません。入社し、数年がすぎると昇進などもあり、部下の面倒や責任を伴っていき、激務に忙殺され当初の志は影を潜めていくのだと想像します。人間は惰性に弱い生き物だから。 




っていうわけで幾つか、まだ就職する前にできることの例をいくつか挙げてみると...

<進学のための奨学金>
その他にも探せば探すだけあります。お金で進学・留学を諦めることは決してないと思います。

<海外で働く>
それ以外にもNGO・NPO、各種インターンで多く機会は開かれていると思います

<その他>
考えれば考えるだけ、やることなんてある気がします。上記は僕目線でざっくばらんに適当に選んだ一例にすぎません。

【Ⅴ.】
はじめからおわりまで、多くの人の言葉を引用というかバラまいてしまいました。人生一度きりで、まだ僕は22歳。知らないことばかり。だから先輩たちの声はいつだって道を示してくれます。「生きるとは、一瞬ごとに、膨大な可能性が死んでいくということだ」と茂木さんか誰かが言ってましたが、それでも僕は孫さんの言葉にも強く惹かれます。


「今日は人生で最も素晴らしい日になる。毎朝その様に願うことが大切だと思う」
みんなが心からやりたいことを見つけ、その夢を実現できることを願っています。頑張ってください!
PS. 辛い時はミスチルの「終わりなき旅」を、就活の答えが知りたくなったら「Any」を聴いてね(算数のドリルの後ろについてる答案みたいに)

2012年10月4日木曜日

2012 Sep~Oct Music List


9~10月によく聴いた10チューンリスト
  1. Futures/ Jimmy Eat World
  2. My Immortal/ Evanescence
  3. シーラカンス/ Mr.Children
  4. Sweet Love/ Chris Brown
  5. Top of the World/ Mike Posner
  6. Everywhere/ Michelle Branch
  7. Right By My Side/ Nicki Minaj feat. Chris Brown
  8. Why Stop Now/ Busta Rhymes feat. Chris Brown
  9. Hold My Hand/ Michael Jackson duet with Akon
  10. Cruel and Beautiful World/ Grouplove

2012年3月18日日曜日

Mr.Childrenから「広告」を考えてみる



櫻井さんがいつだったかのインタビュー記事で作詞技法について、こう言っていました。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことは 
できるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できる 
スペースを空けておくんです。メッセージを言い切 
らないように、でも言い切った以上に、実感として 
感じてもらえるようにしたいと思っていて」
生き方とか考え方とか、つまり価値観において影響を受けた人物は誰かと問われれば間違いなく、真っ先に桜井さんが浮かびます。
物心ついた頃から、ミスチルの音楽が身近にあって、月日が経つのにつれてその音楽、詞(ことば)に心を奪われていきました。
僕が掻き集める端金のほとんどはミスチルのCDやDVDの購入代金へと費やされました。

そのごく一部

高校生、大学生へと進んでいく中で、自分の興味や音楽の趣味の幅も広がり、変容していく中でミスチルを聴く頻度は減っていきましたが、路頭に迷った時、一縷の光明を僕に差し出してくれるのはその音楽であり、桜井さんの詞でした。

櫻井さんは言わずもがな、才能溢れる人です。
作詞・作曲、ギターやピアノ。サッカーをはじめとしたスポーツまで。
そんな中で僕が一番、敬服するのは空間に茫漠と散らばった言葉の海から「詩」を取り出す才能です。
誰もが経験、感じたことのある心情の揺らぎ、得も言われぬ情動や人との関わりの中で芽生える慈愛。
そんな曖昧模糊としたもやもやをピタっと「言語化」する力、正確無比に矢を射るような視点。
誰かがそれを口にする時、歌うとき、「自分だけではないのだと」気付かされ、人の心をは揺り動かされ、感動を胸に感じるのだと思います。

「あるがままの心で生きられぬ弱さを、誰かのせいにして過ごしてる。知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら、僕だってそうなんだ」(『名もなき詩』より)
「裸になって君と向き合っていたい。栄冠も成功も地位も名誉もたいしてさ、意味ないじゃん」(『es~Theme of es~』より)
「富を得た者はそうでない者より満たされてるって思ってるの?障害を持つ者はそうでない者より不自由だって誰が決めるの?目じゃないとこ、耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ見落としてしまう。何かに擬態したものばかり」(『擬態』より)

人々の間に「共感」を巻き起こすのは容易ではありません。
その具体性や輪郭が明瞭であればあるほど感動の振り幅は増大し、人の奥深くに突き刺さるものだと思います。
さて、そういった「具体性」であるとか、「輪郭」とは一体なんなのでしょうか。
それは見方によれば、各々が持つストーリーであり、オリジナリティであるといえるかもしれません。
それを誰かに伝える時。
ストーリーを色濃く投影すること、オリジナリティを全面に盛り込むこと。
はたして、そこにどれほどの効果や正当性があるでしょうか。

ストーリーが独創的かつ唯一無二の場合、一部の人々には熱烈に受け入れられ、かなり深度の強い「共感」が生み出される可能性はありますが、一般性・普遍性の欠落から、「共感」が及ぶ範囲は限定されてしまう可能性があります。
このジレンマに真正面から向かっていくのが、アーティストであり広告なのではないかと行き着いたわけです。
まあ、社会における営利志向のものごとはなんであれ、そういったパラドックスがまとわりついているわけですが。

「たとえそれが身銭にならなくとも、オリジナリティを追求したいんだ」商業音楽なんてクソ食らえだと声高に叫ぶ人がいるかもしれません。
見据える先、歌うことの当為が「お金」ではないと仮定したとき、なぜその人は楽器を奏で、歌をうたうのでしょうか。
自分の内なるものを人々に伝え、共に感じ合いたい、つまるところ「共感」が視座にあるのではないでしょうか。



「共感」を基底にする場合、話は再びオリジナリティのジレンマへと再帰します。
誰もが頷けるような、心の中に小さな火を灯すような「共感」は巻き込む範囲が広くなります。ですが、言葉は当り障りのない陳腐で安い言葉に収まってしまうことが定型です。
一過性が強く、ある時期爆発的にポピュラリティを得たとしても、永続性をほとんど持ちあわせておらず、シーズンの移ろいと共に忘却の彼方です。
この大衆迎合ループの中に日本のJ-POPはあるのかもしれません。

さて、その逆をもう一度考えてみます。
今度は型にはまらないような、オリジナリティに満ちた作品。
伝播力は相対的に低下しますが、ハマると一部のコアなレイヤーに浸透します。
これがいわゆるインディーズなどでしょうか。

これは音楽に限った話だけでなく、「広告」においてまた然りです。
分かりやすい例でいうと、僕が最近書いて、このブログにも掲載した文章「ティルとその主人
何人かの人が感想をくれました。
もうホントそれは二極化してて、「すごい、いい文章だね」「すこし泣きそうになった」など一辺倒に褒め讃えてくれる人、一方「なんだかチンプンカンプン」「あんまり響かなかった」と正直に共感を得れなかったと教えてくれた人。
題材が黒人奴隷であったこと、舞台がアメリカであったことなどが具体性を帯びすぎ、誰の胸もを打つような普遍性から逸脱する要因になったのだと思います。


僕は専攻が国際政治ということもあり、アメリカの南北戦争であったり、暗澹たる黒人の抑圧された奴隷としての民族史を基礎から学んでいます。
なので仮にこれが自分の文章でなく初見であったとしても一読して大意は理解できたと思います。
ですが、仮に僕が歴史に微塵も興味がない理系学生であったり、歴史嫌いな高校生であったとしたら、たしかにこの文章を一度通読しただけでは、コンテクストを理解できないかもしれません。
つまり、広告としては駄目駄目な文章なわけです。
かりに文字制限なく、背景設定やコンテクストの描写に字面を割くことができていればそれを多少なりとも克服できたのかもしれませんが、これまで滔々と話してきた「オリジナリティのジレンマ」を超克することにはならないわけです。

いま一度、冒頭の櫻井さんの言葉を。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことはできるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できるスペースを空けておくんです。メッセージを言い切らないように、でも言い切った以上に、実感として感じてもらえるようにしたいと思っていて」

櫻井さんの絶妙なバランス感覚の淵源が垣間見える言葉ですよね。
あえて具体性をもたせずに「余白」をつくる。
つまり「共感」はあくまでも、感じることはあっても完全無欠に同じ体験などあり得ないという、至極当たり前でいて、見落としがちな真理を櫻井さんは言っているのではないかと思ったわけです。
ある人にとっての原体験は、どこまでいってもその人に固有の体験でしかなく、同じ場所で同じ演出で同じ行動をとったとしても完全一致できるはずない。
誰もがそれぞれのストーリーを抱えながら生きている。
ひとりひとりの間にあいた隙間に光(共感)を注ぎこむように、櫻井さんがあけた余白に、だれもがそれぞれのストーリーを乗せながら共感できるように。

この絶妙なバランス感覚をもってして、櫻井さんが意図的にあけた空白に人々が寄り添い、集うようにMr Childrenはここまで音楽を大成させてきたのかもしれません。

「わざと余白をつくること」
僕とあなたが共鳴できる隙間(スペース)を十分に確保しておくこと。
もっと意識しながら生きていきたいです。



大学生ブログ選手権

2011年12月25日日曜日

国民行事としての有馬記念

擬態/ Mr.Children


いましがた終わった今年の有馬記念。
今年は去年にもまして好メンバーが集いました。
JCを制した女傑ブエナビスタ、クラシック3冠馬オルフェーヴル、世界を制したヴィクトワールピサ、天皇賞をレコード勝ちしたトーセンジョーダン。

競馬ファンもそうでない人も、有馬記念はたのしみとして買う人もいるんじゃないでしょうか。

ぼくが昨日、ツイッターに載せた予想はこの通り。

◎トーセンジョーダン
◯ヒルノダムール
▲オルフェーヴル
△ルーラーシップ
☆ジャガーメイル

ブエナビスタは明らかに去年と比べて能力が落ちていたのと、JCの消耗を考えて切りました。
そもそも有馬記念で牝馬が勝つイメージがなかったので。あとは枠も最悪でしたしね。
トーセンジョーダンも天皇賞・JCの疲労が気になりましたが、距離もコースも合ってるかなと思い本命にしました。



結果はオルフェーヴルが後ろから差し切り勝ち。
2着はエーシンフラッシュ。考えてみたら今年と去年のダービー馬のワンツー。
エーシンフラッシュは枠が良かったのと、展開に恵まれた印象があります。
それを考えるとあの超ローペースで後団から一気に差し切ったオルフェーヴルは馬身差以上の強さを感じました。
この勢いだと凱旋門賞に出ても引けをとりませんね。
僕の予想と照らしあわせてみると、ルーラーシップが4着、トーセンジョーダンが5着、ヒルノダムールが6着となかなかな感じで。笑
馬券的にはエイシンがノーマークだったので掠ってもいませんが。笑

東日本大震災の「3.11」、金正日・カダフィ・ビンラディンの「69」歳で一応馬券も勝っていたのですが、コチラもさっぱり。笑


過去の有馬記念で僕が一番衝撃を受けたのは言うまでもなく、1990年オグリキャップです。
このレース、オグリにとってはラストランでした。能力の衰え、長期休養明けで不安視される中、馬群を切り裂いて有終の美を飾ったレース。



今年の競馬戦線も今日でひとまず終わりです。
収支的にはプラスだったと思います。安田記念のリアルインパクト的中がやはり大きかったですね。
参照エントリー:「2011競馬戦線・前半を総括

有馬記念レース直後に雪が降りだす中山競馬場、サンタさんからホワイトクリスマスの贈り物。
ブエナビスタお疲れ様でした、子どもたちに期待しています。
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