Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2014年6月4日水曜日

なぜわたしたちは夢を見続けるのか?―「技術決定論」の解体作業


今なら、ビッグデータやクラウド、少し前ならWeb2.0、「技術が社会を変える!」という言説は繰り返し再生産し続けてきた。
「システム社会」「ネットワーク社会」などその容器を入れ替えながらも、本筋ではほとんど変わらない。

技術決定論(technical determinisim)とは学術的にいえば「技術が社会構造や社会的相互行為、個人を規定する唯一の要因であると主張する学説」である。(参考:「技術決定論と文化決定論(technological determinism and cultural determinism)」)

いずれにしてもこういった技術決定論的な視座に立った「情報化社会論」は佐藤俊樹教授によれば、60年代から滔々と語られ続けてきたという。
社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望
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なぜ半世紀もの長きにわたり、このディスコースは生きながらえてきたのか。
それははじめから死んでいたからだと佐藤教授はいう。
その比喩として、ホラー映画の「生きている死体(living dead)」を挙げている。
つまり実質・中身をもたないこと。
なんでもないことは、なんでもあるということでもある。
これを佐藤教授はゼロ記号=空虚な記号signifiant zero)と呼ぶ。

そしてそれを可能たらしめている背後にある要因としては近代産業社会(主な制度として産業資本主義、民主主義にもとづく社会制御という政治制度がある)がある。
佐藤教授は技術決定論を批判的に捉え返す。
術の進歩と社会の変化を考えるとき、どのような技術がどう使われ・どう発展していくか―そこには社会の側の多くの諸力が重層的かつ複合的に作用している実例を数多く上げながら、「情報技術が社会の仕組みを変える」のではなく、むしろ、社会の仕組みの方が技術のあり方を決めているのではないかというものだ。

ソシオメディア論を研究している水越伸教授の見方も社会構成主義に近い。
「エレクトリック・メディアは情報技術の発達によって変化するだけではなく、国家や資本の編制力から、市民、あるいは大衆の想像力にいたる、複合的で重層的な社会の諸力の錯綜した結果として、今日のような姿に固定化させられてきた」
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たいして、技術決定論寄りの本としては東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が挙げられるだろう。

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東 浩紀

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議論のまとめなどは2年前に読んだ時のもののリンク先を参照してもらうとして、自分なりの一般意志2.0の解釈だけ付記しておきたい。
すなわち、それはゾーエーのとらえ方に顕著に見られるのではないかということ。
罵詈雑言でわめき散らす人、極右過激派のような人、社会には色んな人であふれている。
こうした個人をミクロに眺めるのならば、たしかに彼らは剥き出しのゾーエーに見える。
ただし「一般意志2.0」が射程にするのは、よりマクロで総体的なもの。
これをテクノロジー、制度・システムの設計によって最適化できるのではないかというふうに理解している。

ただし、考えてみれば分かるように、純粋な技術決定論的とはほぼ想定不可能だと思われる。

たとえば、四川大地震を例に。
この大規模な地震が起きたとき、ソーシャルメディアを通じてこのニュースは中国国内にもすぐさま知れ渡った。
時間を置かずに、寄付や支援が次々と届いた。
アメリカと中国の間に海底ケーブルが繋がれていたことはたしかに、これを可能にする重要なファクターであったことは間違いない。
しかしながら、それを可能にしたのはアメリカに留学していた中国人(その逆も然り)や海外に駐在した中国人など、はじめに社会的な紐帯・絆が醸成されていたということも見逃せない。
技術のケーブルには、社会のケーブルが欠かせないのだ。

このように技術決定論と非技術決定論の中間にあるような議論をしている本として、クレイ・シャーキーの『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』がある。
みんな集まれ! ネットワークが世界を動かすみんな集まれ! ネットワークが世界を動かす
クレイ シャーキー,岩下 慶一

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その主張の核として以下を引用したい。
「革命は、社会が新しいテクノロジーを手にしただけでは起きない。社会がそれを新しい習慣とした時に起こるのである」
これは技術決定論的にとって核心的な批判だと思われる。
このような意味で本来、技術決定論的と対置されるべき対抗概念は存在しないのではないかと思う。
まっさきに浮かぶのが「社会決定論」という言葉であるが、技術と社会を同じレベルの変数として扱うのが極めて困難であるという点で(技術は独立へ、社会は従属変数)一応、これまでは社会構成主義や非技術決定論という語彙を用いた。
おそらく「強い技術決定論」や「弱い技術決定論」とするのが適当だと思われる。
たとえば政治哲学でもD・ミラーなどは「強いコスモポリタニズム」「弱いコスモポリタニズム」というような区別を行っている。
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デイヴィッド・ミラー,山岡 龍一,森 達也

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こうした社会学やメディア論、押しなべて言えば社会科学で積み上げられてきた理論や論争、フレームワークを道具として使い、いかに現実をみることができるか。
たとえばこの「技術決定論」に関するプレゼンを共同でやった先輩も「「起業したからこそ学問の大切さに気付いた」”現役東大院生”前島恵さんの起業ストーリー」というインターンシップ記事の中で、技術決定論や進歩史観といったアカデミズムでさかんに語られた問題をじっさいの社会に見出しています。

それでいうと、先日、電車内でツイッターの創業記を読んでいるときに同じことを思ったのでした。
ツイッターを創り上げた彼らの信念の裏には技術決定論的な視座が少なからずあったと思うのです。
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【そういえばさっきこんなのありました】⇒2014年下半期にヒットしそうな5つのテクノロジー

孫さんが語るビジョン(「「300年後は平均寿命が200歳に」:【全文】ソフトバンク孫正義が予測する“テクノロジーの進化”」)。圧倒されます。技術決定論的な見方であることは間違いないにしても、とにかくワクワクしてくる。
だからわたしたちは夢を見続けるのかもしれません。

2014年5月21日水曜日

テレビは「民主主義」を殺すのか?


1960年代の池田勇人政権時から国会のテレビ中継がはじまり、テレビと政治の持ちつ持たれつの蜜月関係は連綿と続いてきた。
小泉政権時にはポピュリズムの最盛期を迎え、政治は劇場化し、じっさいに郵政民営化法が成立するなどの実際的な変化ももたらしてきた。

朝日新聞の特別編集委員を務める星浩氏とメディア研究者の逢坂巌氏共著による『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』や鈴木寛さん『テレビが政治をダメにした』などを読んで思ったことを、主に民主主義とマスメディアの関係についてのメモを残しておきたい。
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民主主義のエレメントを抽出すると、国民主権、政治的有効感覚(efficacy)、透明性/情報公開など枚挙に暇がなく、収拾がつかなくなってくる。
そのため、ここでは日本におけるメディアと民主主義を考えたいので、たんに制度としての「代議制民主主義」に限定して備忘録を残しておきたい。

まずテレビ擁護派の言い分で筆頭にあがるのが、テレビによって「民主主義の裾野広がった」ということ。
良くも悪くも、人々が政治に少なからず興味や意見をもつキッカケになった。
「朝ナマ、報道ステーション、TVタックルなど」碓井広義氏が言うような「町場ジャーナリズム」を形成した。
それに対し、(鈴木寛さんなどが急先鋒)批判派はそれにより民衆の政治に対する知識が浅薄なものとなり、誘導されたやすい、敷衍すると「民主主義が脆弱になった」という主張をする。
これはどちらも正しくて、ようは民主主義の拡大/脆弱性はコインの表裏であるということ。

そもそも60年代にテレビが政治に介入していくなかで、送り手・受け手の両者による上記の共犯関係は運命づけられていたのではないかと思う。
ここで「代議制民主主義」というものの、原理を思い出してみる必要がある。
最大限に簡略化すると、日々労働に追われる国民は忙しく、専心的に政治に費やす時間・能力がない。だから、政治を専門にする人間、代表者=政治家に、国民の代表としてその責を委任しましょう。
ただし、つぎに問題になるのは、選挙、投票。
そういう代表を選ぶにしても、各候補には政策や主義に差異がある。
いったいどれだけの人が各候補、各政党のマニフェストなどを読み込み、慎重に精査したうえで候補者を決め、投票しているか。
とくに大学や大学院に行くと、忘れてしまいがちなのですが、すべての人が客観的に独自の論理・思考でそういう作業を行うわけではないということ。(おそらく大卒者でもそういう人はいると思います)
地方の教習所に行ったとき、地元の友達とひさびさに会って話すときなど、階層というものを痛感するし、自分の論理は社会においては切り取られたほんの一部分にすぎないことが分かる。
若者はツイッター、フェイスブックで情報収集する、テレビなど見ないし、信じない、とインターネットの力を声高に叫ぶ傾向がある。
参院選の三宅洋平さんや都知事選の家入さんなど、当選こそできなかったものの、ある程度の票数を集めていることを鑑みると、将来的にそういう潮流になるのかもしれない。
しかしながら、現状では票田を占めるのは中年、高齢者層。
そういう人にとって尚テレビはメインの情報収集源でしょう。
視聴率至上主義の論理で動くテレビの側からすれば、二項対立などできるかぎり図式化し、扇情的な内容にすれば数字がとれる。(参考⇒「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」)
池上彰さんの情報番組が好評を博しているように、視聴者としてみれば肩肘張らずに、できるだけインスタントに政治的知識が得られるならそれに越したことはない。
これが上で述べた「共犯関係」の概要です。
思えば、テレビが登場する以前にもこういった共犯関係は存在しました。
この共犯が日本における現代民主主義に横たわっているのではないか、そう思うのです。

2013年12月21日土曜日

「戯言」と「箴言」の歩幅


ツイッターを眺めていると、よく感じることがある。
一瞬のうちに肥溜へと廃却されていく、瞬時に忘却される「戯言」と、人びとの共感を集め、リツイートされるなり、ログに貯められるなり、「箴言」と見なされるものは、実は紙一重なのではないかということ。

100時間TVでドワンゴの会長・川上量生さんがいらっしゃったとき、川上さんがジブリの見習いプロデューサーもやっているということで、話はスタジオジブリに及んだ。
ジブリでメインプロデューサーを務めている鈴木敏夫さんの話になった。
そのときに川上さんがおっしゃられていたこと。
鈴木さんの言うことはけっこうデタラメで、もし仮に同じことを他の人が言っていたとしたら、絶対に信じられない。だけど、鈴木さんが言うから言葉に重みがあるし、信じられる。
すごく得心したし、「あー、そういうことだよな」と思ったわけです。
ようは何を言うかよりも、誰がそれを言うか。

訳知り顔で金言めいたことを呟いたとしても、その人の人となり、人格が軽薄なものであれば、言霊は実相を伴わない。
逆に名の通った人の発言のアレコレは、深遠なものとして受け取られる。
とくに普段は言及しないような社会的政治的問題について、アーティストがオピニオンを述べる時、ことさら注目を集めるのは、そういう心理的要因があるのではないかと思うわけです。

2013年10月24日木曜日

【翻訳記事】ツイッター共同創始者ジャック・ドーシーが掲げる成功のために「すべきこと」「すべきでないこと」習慣リスト


シリコンバレーでもっとも注目を集めるテック・カンパニーのツイッター(Twitter)スクエア(Square)の共同創始者であるジャック・ドーシー。彼が成功する企業の築き方について、すくなくとも何らかの賢者の智恵を述べることに異論はないだろう。


最近、彼がテック・イノベーターとして、いくつかアドバイスを提言したミーティングは、たんに彼の会社に既得権益を持つ層のみならず、"自称"テック界の大物の注目も集めた。

(以下に紹介する)こういった彼のコメントは『ツイッターの発明―金、権力、友情、そして裏切りの真相』(Hatching Twitter)が発表された数週間後に寄せられた。この本は、ある点において彼の評価を落とすこととなった。

Hatching Twitter: A True Story of Money, Power, Friendship, and BetrayalHatching Twitter: A True Story of Money, Power, Friendship, and Betrayal
Nick Bilton

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土曜日にカリフォルニア州・クパチーノで行われたY Combinatorのスタートアップ・スクールのイベントで、以下のリストが挙げられた。
ビジネスと人生にいかにアプローチしていくのかに関して、大胆な考えを披瀝するするのに彼ほどの適任もいないだろう。ドーシーは集まった聴衆に向けて、「すべきこと」「すべきでないこと」のチェックリストを説明した。

Techcrunchによれば、「すべきこと」(Dos)のリストは以下の事柄を含む:
  • "イマ"にしがみつけ。
  • 脆弱たれ。
  • レモンウォーターと赤ワインのみを飲め。
  • スクワット、腕立て伏せそれぞれ20回×6セットを毎日せよ。
  • 3マイル(約5km)走れ。
  • このリストを熟考せよ。
  • 真っ直ぐ立て。
  • 10分は重いバッグをに時間を費やせ。
  • みんなに挨拶をせよ。
  • 7時間の睡眠を確保せよ。
つぎの短いリストは「すべきでないこと」(Don'ts)である:
  • アイコンタクトを避けるな。
  • 遅刻するな。
  • 達成できもしない目標を立てるな
  • 砂糖を摂るな。
  • アルコール度数の強い酒やビールを平日に飲むな。
ドーシーが掲げたリストは部分的には極度に禁欲的なライフスタイルに映る一方で、ほかの部分はきわめてシンプルかつ一般的な事柄ともとれる。

とは言うものの、ドーシーがリスト化した「すべきこと」「すべきでないこと」には、共通項として実践的一貫性が映しだされている。批判家がなにを言おうとも、こうした習慣がテック業界で最も強力な企業のテーブルの椅子に彼を導いたのだから。

2013年7月20日土曜日

明日は選挙。若者の投票率の低さ。人間の性。

2009年モルドバ、民主化を求めて蜂起した若者たち

明日はいよいよ参院選ですね。
僕は運営に携わることになり、朝から夜まで一日中、投票所にいます。

Tehuさん(@tehutehuapple)くんの「投票に行かない若者の皆さんへ。」というブログを読んで、少し感じたこと、思ったこと。
17歳にして、政治に関心を持ち、二院制のこれまでの変遷、参議院の仕組み、民主主義の意味をここまで理解していることが偉いというか(とりわけ日本において)、敬服したわけですが、若年者の投票率の低さはかなり根が深いと個人的には思っています。
世界中の、「民主主義」「選挙権」を求めて血を流して戦っている人々のところへ言って、なぜ選挙権を行使しないか説明してください
これはまさしくこの通りで、世界の各地では、選挙権自体を認められていなかったり、民主制が適切に浸透していなくて、透明性の低い不正な選挙が行われていたりします。
最近でもモルドバ、イラン、チュニジア、エジプト、リビアなどで民主革命がありました、エジプトではオンゴーイングな問題です。

古くは日本も板垣退助らによる自由民権運動が活発に行われていました。日本史なり、学校の歴史で学んだ通りです。「板垣死すとも自由は死せず」と、まさしく生死をかけた、自由の闘争が行われていたわけです。

こんなこと言うと、完全にペシミスティックで嫌なんですが、根本から「じゃあ、どうすればいいのか」を考えるために本質的なことを少しだけ考えておきたいと思います。
人間っていうのは「取り上げられている時は、渇望する」そして「一度、手にすると見向きもしなくなる
どれほど一般性があるかは分からないのですが、僕個人としては経験的直観かつ、色々な事柄に当てはまる、当てはまってしまうことではないかと思うわけです。

考えてみれば、幼少期。ずっと欲しかったおもちゃ。ずっとおねだりした末に、買い与えられると、その瞬間は狂喜乱舞するけど、少し時間が経つとそれほど当初よりも魅力的ではなくなり、いつしか放置する。

(これは、みんながみんなと言うわけではないと思いますが)恋愛でもよく聞く話で、(特に男性)追いかけているうちは彼女しか目に入らないのに、一度両想いになると、気持ちが冷めてしまう。



モンテーニュが『エセー』で言っていたこと。
「習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これこそがその権威の神秘的基礎である」
「ところで掟が信奉されているのは、それらが正義にかなうからではなくて、それらが掟であるからだ。これが掟の権威の神秘的な基礎で、このほかに基礎はまったくない」 
あれほど渇望していた選挙権、自由、民主主義。
それが一度、自分のモノになり、「当たり前」の与件として日常に組み込まれると、「苦労して手に入れたことを忘れ」見向きもしなくなる。「喉元過ぎれば熱さを忘れる...」
政局闘争に奔走する政治への不信感や社会制度の不平は常々吐露するものの、選挙へは忙しくて行かない。
まあ、これにはまた別の問題もあって、以前
と、ツイートしたんですが。
分厚いシステムのうちに取り込まれて、政治に諸悪の根源あるのではないかという何となくの直観はあっても、本当に忙しすぎて、投票に行けない、各候補者の動向も追っている暇がない。
でも、本当に何か変えたいならば、行くしか、それしか選択肢はないわけです。
当日、選挙に行けなくても期日前投票がある。
ネット選挙が解放されたことで、以前よりも候補者各人の政策はより分かりやすく、多様になった。例えば、何人か、ツイッターでフォローするなり、過去のツイートを遡るだけでもだいぶみえてくる。
自分の考えがどういった候補、政党と近いのかを示してくれる「マッチングボード」もいくつもあります。
たとえば毎日新聞のボートマッチ「えらぼーと」。



そして、津田さんが前々からずっと言い続けてきた政治のメディア。
ついに「ポリタス」としてリリースされました。
ほぼ全ての著作に目を通している僕としても、なぜか感慨深いです。
詳しい話はハフィントン・ポストで記事になってました。「「党派ではなく、政策で政治家を選ぶ」 政治を可視化するメディア「ポリタス」を公開した津田大介さんに聞く 【読解:参院選2013】

ただ、すべての若者が選挙に行っていないなんていうことはもちろんなくて、若者の間でもずっと若者の投票率を上げようと奮闘している動きも以前からずっとある。
そういう活動をしている団体なりグループはいくつもあると思うのですが、僕の知り合いもやってて、ずっと知ってるはivote
学生団体ではありませんが、インターネット選挙解禁に向けて多大なる努力をしてくれたOne Voice Campaign
確実に変わり始めているのでは、間違いないですね。
環境はより、開かれてきた。詳しい話はこれも津田さんの『ウェブで政治を動かす!』に詳しいです。

そういえば今朝、ツイッターで平川克美さんが民主主義について大事なことを言っていました。
これはまさしくそうですよね。
あとは、投票だけじゃなくて、違うルートからも政治に働きかけていく。
これは河野太郎衆議院議員もブログの「声を上げますか、それとも泣き寝入りですか」という記事で言っていることです。
20世紀と現在では確実に政治が近いものになりうる土台が揃っている。
まずは、選挙から。

2013年6月25日火曜日

「剛力彩芽」と「広告」を考える


いつ頃からからだったか、テレビでの露出が増えて、今では目にすることがない日がないくらいによく見かけます。
その裏で芸能界の黒いなにか「大きな力」が暗躍しているのではないかと、勘ぐるくらいに。
自分の周りというきわめて狭い限定的な話になってしまうわけですが、少なくとも僕の周りで彼女の熱狂的なファンは見当たらないわけです。
「可愛い」と直接誰から聞いたこともないです。(繰り返しますが、あくまでも僕個人の話です)極端なケースでいえば、ツイッターで露骨に嫌悪感を抱いている友達もいました。(もちろん、純粋なファンの皆さんも多くいるでしょう。大衆の中のある見方の違った層からの意見としてお捉えください)
全体的な彼女を取り巻く言説をみてみると、新垣結衣とか上戸彩とかいった、これまでCMで目にすることの多かった女優とは何か違う雰囲気がそこに漂っている。
"実体的"な人気はあるのか、あるならば何がその核心なのか。

オスカー所属といえば他に最近みる機会が多いのは武井咲、忽那汐里。
まあたしかにこの二人、特に武井咲も画面に映る回数は多いと思うのですが、剛力彩芽も凄まじい。
ギャラが低価格なのか、営業をゴリ押しているのか、そんな事情はもちろん分かりません。

ただ一つ言えるのは、僕がこうして彼女を取り上げ、話題にしている時点で広告的には「勝ち」なわけです。ようするにバズ(buzz)ですね。
ただ可愛いだけでは「話題」として表出することはありません。
ディス、疑問、切り口はいろいろですが、それらが一つの言説を形成していく。
俎上に載ればのるほど、意識下に彼女の存在が刷り込まれていく。
これって要するに"サブリミナル"ですよね。
企業は普通、苦心してどうにか、消費者の目に止まろうと、意識に潜り込んでいこうと手練手管の広告装置を仕掛けていきます。
サブリミナル・ケースで最も有名なのは映画館におけるポップコーンのアレですね。
「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」など1秒に満たない細かいフレームをスクリーンの中にそういったメッセージを滑りこませていく。

ただ今回の話はぜんぜん趣旨が違います。
あくまで大々的なのです。あけっぴろげに組織的に展開しているのです。
冒頭でなにか陰鬱な「黒い」力が働いているかもしれないとの疑義を呈しましたが、たぶんそれは間違いでしょう。
単純にバンドワゴンの応酬なのかもしれません。
企業からしてみれば、起用する人物が可愛いかどうか、女優としての器量があるかどうかは副次的で、あくまでどれほど消費者の意識下に働きかけを出来るかどうかが焦点なわけです。

そういう意味で、普段ネットしか使わない人が、突然テレビをみてあまりの剛力彩芽の露出頻度の多さに目が点になるのは否めない。
それで、ネットにそれを持ち帰る。「え、なんでなんで?」と。これがバズのループで、テレビの視聴者層とネットユーザーのフィードバック的討議が始まる。
この過程でサブリミナルは集積的にその効果を深化させていく。

事務所的な位置づけとしては上戸彩の後釜ということになるんでしょうか、同じ事務所ということもあって。
ただ、今日発表された24時間テレビのパーソナリティに、もしかしたら彼女が選ばれるのではないかという予見を持っていたのですが、それに反して実際に選ばれたのは上戸彩。
うーん、芸能界がどう動いているのか、深遠です。


7/9追記:Mステ出演
この記事を書いた後に、Mステに出演してましたね。


「放送事故レベル」などかなり叩かれていましたが...。
「もうランチパック食べたくなくなったwww」など辛辣なコメントも目立ちました。
あとみんな寄ってたかって指弾してたのは、サビからいきなり「口パク」になったのではないかということ。
個人的には「口パク」だろうが、生歌だろうが、別にテレビだし、ライブならまだしも、別にどうでもいいとは思うのですが。
たとえば、これが最初から口パクだったり、終始貫徹して生歌だったら、ここまで話題にもならなかったのかもしれませんが、、もしこれが「バス」の計算の上に仕掛けられた計略ならば、それをプロデュースした人は真に「バイラル」の構造とかを理解している人だと敬服します。
昔まではあくまでイメージ墨守だった芸能界も、最近は炎上を逆手に取った「バズ」、そこから全方位拡散していく「バイラル」が重視されているというのが私見。
AKBも次から次へと驚くべき施策が行われているような。峯岸「坊主」騒動しかり、指原総選挙まさかの1位しかり。
ようはイメージ云々でどんぐりの背比べ的な差異化を計るよりも、単純明快に分かりやすく話題性を着火剤としたバズ戦略の方が、数字・露出につながる。
この動画がまっさきに削除されていないことから忖度するように、やっぱりそれはわかっているということなのでしょうか。本当にどーでも良い話題ばかりすみません。


2013年5月11日土曜日

「どーでもいい感情」の受け皿はツイッターからLINEへ


ツイッターには二つの使い方がある。

①つぶやく
本来的な使い方。その時々のランダムな感情のはけ口として。
最初はこういう使い方をする人が多かった。
前略プロフィールの「リアル」やmixiボイスなど、常にこの受け皿となるようなサービスの需要はあり続けた。

②情報発信 / 収集
その情報の即時性や拡散性が認識されるようになってからは、情報発信/受信ツールとして利用する人が増えた。大手新聞会社なども公式アカウントを持つようになったのは、かなりそれを裏付けている。

最近、ツイッターのアクティブユーザーが減少しているらしい。
おそらくそれは全体値でみたら正しいと思うのだけれども、それはあくまで①の使い方をしてきた人が、ツイッターを「つぶやき」の場として使わなくなったからではないかと思う。
上にも書いたように、「お腹空いたー」「暑い」など、誰にとってもどうでもいいこと、でも本人は吐露したいことの受け皿は常に求められている。
そしてそのプラットフォームは常に流動化してきた。
個人的には、LINEがその受け皿になってきたのだと思う。
とくにLINEのグループ機能に集約されつつあるのではないかと。

そもそもツイッターで②のような使い方がなされてきてから、①の使い方をする人が煙たがられ始めたような印象を受けるし、往々にしてそれはフォロワー数に反映されている。

有名人アカウントの①は歓迎されるが、一般人の①はどうでもいい。
これがおおかたの所感だと思う。

②の使い方をしている人は、いまでも普通にツイッターを使っているのではないか。

フェイスブックに関しては、ツイッターやLINEと性質が根本的に異なるので競合はせず、時間のパイの取り合いは起きないと思う。
ザッカーバーグさんがライフログとなるようなサービスを目指しているというように、フェイスブックでは自分の「リア充」の側面だけをみせる場となっている気がする。
フェイスブックをツイッターのつぶやきのように使う人はKYとさえ言われる。

とまあ、なんとなく最近のSNSをみていて思ったことをいくつか書いてみました。
たぶん数カ月後、いや1か月後にこの文章みたら、ほとんど正しくないと思ったり、思わなかったり。

【その他、昔に書いたSNS関連】
LINE POP、パズドラ、それでも時間は流れていく
ソーシャルメディアで位相転換が起こっているのかもしれない
ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望

2012年11月12日月曜日

ソーシャルメディアで位相転換が起こっているのかもしれない


ツイッター、フェイスブックをはじめとしたソーシャルメディアがわたしたちの生活に埋め込まれ、「当たり前」のものとなってから久しくなりました。
当初は乱立するメディアの使い分けが明確でなかったものの、今ではかなりの程度目的に沿った棲み分けがなされるようになりました。

つい今日TLで流れていた「mixiはメッセージを監視している?」など、mixiは凋落する一途で、嘲笑・disりの関連でしか目にならないほどになり、去年までは「地元の友達はまだ使っている」と周りでは言っていましたが、その"地元の友達"の大部分もフェイスブックに移行した印象をうけます。
(アメリカではフェイスブック離れが進行しているようですが...)

日本に焦点を当てて、少し話してみたいと思います。
ほぼすべてのクラスタでフェイスブック移行が完了して、ソーシャルメディアの一番基本的なプラットフォームとしての位置を確立した格好。
ぼくたちの若い世代に限定されず、ユーザー層が幅広いのも特徴かと。


と、小田嶋さんが今日言っていたことにぼくは半分同意です。
純粋にパーソナルなメモリーログとしてフェイスブックを利用している人が大半なのだとは思います。
一方でリア充アピール、それに白目剥いて発狂する、非リア発火装置のような様相も一方ではあるわけで。

ツイッターに関しては、(あくまでぼくの周りはということですが)アクティブユーザーは漸進的に減っている印象。でもみんなまだポツポツと使ってはいる。
ぼくも未だに使っていて、情報の即時性(フレッシュさ)や多様性は数多ある情報サービスの中では優秀で使い勝手もいいと思っています。


ツイッターは本義的に、何気ない日常における場面を「つぶやく」メディアとして登場しましたが、今ではかなり性格が変容して、情報メディアとして地位を確立しました。

前略プロフの項目を頻繁に変えたり、付属機能としてあった「リアル」を常時更新していたように、人間の「つぶやきたい」願望はウェブ登場以来、脈々と受け継がれていて、かなり人間の行動心理の核なんだと思っています。

ただ既述のように、もはやツイッターが「つぶやくためだけの場所」ではなくなった今、その場所が他のメディアに場所を鞍替えしたかのようです。
ツイッターの拡散性はおそらく人の承認欲と結びつきやすく、リツイートやお気に入り(ふぁぼ)機能はある意味で、その人・ツイートの認知度を可視化します。フォロワー数も同様に。
それが承認欲を下支えしているとまではいいませんが、最近の全体的なTLの傾向を考えてみると、ツイッター発足当時の「お腹すいた」「眠い」などの返答を必要としないようなツイートではなく、「いかにふぁぼられるか」を追求したような拡散の波にのることを企図したツイートが目立つ気がします。


ただ「お腹すいた」「眠い」のようなごくごくパーソナルで他人(Webでのみ関わりのあるような)には一見無意味なことでさえ、吐き出したくなる承認欲とは切り離された根源的な何かは消失したわけではなくて、Google+やPathにシフトしたようです。(永続的なものではないと確信していますが)

たとえば、Pathは顔見知りので構成されるクローズドメディアなので、上記のような瑣末なポストにも反応が起こります。

メディア、とくにソーシャルメディアの位相転換は刻々と起こっていて、安定化する見通しはなさそうですが、何の気ない気持ちや感情をただ吐き出したい深層心理に沈殿した、このナニカはメディアが変わっていっても残存し続けるものなのではないかという気がしています。


【昔書いた関連】
・「ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望
・「オープンとクローズドの緩衝地点
・「ツイッター日本語ハッシュタグにみる日本語の強さ

2012年5月27日日曜日

Deerhounds/ the HIATUS <和訳>



朝の霜
犬が吠えてる
ゴミ箱を空にして、煙草に火を点ける

唇を舐めるとまだオートミールの味がする

遠くの孤島、太古の聖歌が
決して語られぬことない歴史と物語をこだまさせる
空っぽの魂が叫び声を上げる
混乱に満ちた世界へとぼくは旅立つ

あの日、手はデッキにあった
なぜかは分からないけど、まだ頭に残ってる

唇を舐めるとまだ君とのキスの味がする

遠くの孤島、太古の聖歌が
決して語られぬことない歴史と物語をこだまさせる
空っぽの魂が叫び声を上げる
混乱に満ちた世界へと今、飛び出す

天から地上へ
ここから去っていったのを分かってる
戴冠なき人生
西を指す看板
けたたましく走っていくディアハウンドを再び見た
もう一度
もう一度
もう一度

ハイエイタスの和訳BOTも運営してます。@_the_HIATUS



大学生ブログ選手権
元詩

2012年3月7日水曜日

「共鳴装置」としてのツイッター、MAKE TVからフト思ったこと


昨晩、深夜TLが活気づいていました。
#dotswitchが大いに湧いていました。
PARTYが仕掛けたソーシャル×インタラクティブ×ライブ番組がTBSで放送されたんですね。
MAKE TVって何なの。Dot Switchって何なの。って方はコチラを参照。


ソニー"Dot Switch"のティーザーCM

その時、TLが#dotswitchでにぎわっていたのは間違いないんですが、よくよく見返してみるとざわめいていたのは結局広告界隈の人だけであった気がします。
これを継続したときにうねりが出るかどうかが問題なのだとは思いますが。



PARTY自体が代理店じゃなくLabって名乗ってるんだから、ビューがうんぬんとか、視聴者層が云々を言うのはフェアーじゃないというようなことを言ってる人も散見されました。
実験的な試みそのものを考えようじゃないかと。


僕自身は別にどちらでもよくて、MAKE TVがあって改めてツイッターについてちょっと考えさせられたなぁと。
もともとツイッターとTVの親和性の高さは顕著だったわけですが。
例えば、ラピュタの「バルス」の一件は記憶に新しいかと思います。
ついこの前も深夜にテレビで二郎特集が組まれていて、一斉にTLが賑わいました。

ただ昨日の一件はちょっと様相が違いました。
上述したように、それをつぶやいている人が著しく広告系クラスタに限定されていたのです。



「共鳴」の範囲が全体まで波及するときと、特定のクラスタに限定されるとき。
ティッピングポイントはどこなのか。もう少し、深堀りしてみたいです。

ただ、ツイッターの凄いところは、どこまで範囲を波及させるかはひとまず置いておいても、同一クラスタ内に盛んな議論を喚起したり、膨張性をもたらすことではないかと。
たぶん同じような理由から書籍などの購買率も上がったりするのかと思ったり、以前からフォローしていた人が本を刊行しましたとなると割りとナチュラルに買ってしまったりしてる。
僕はそうやって古市さん(@poe1985)さんの本を買ってしまった経緯があります。
【参考エントリー】『絶望の国の幸福な若者たち

ツイッターそのものについては、こんなふうにも思いました。
ツイッター上の生態系を社会学的に鳥瞰すると、その構造的な多様性に気付く。クラスタごとに樹形図みたく連関してたり。メディア化してRSSみたく機能してたり。あるいはあくまでコミュニケーションツールとして友達とリプライ飛ばし合ってたり。もしくは完黙を貫いてただタイムラインをなぞってる。なんだか社会の縮図みたい。(3/2)


大学生ブログ選手権

2011年12月23日金曜日

ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望

New Born/ Muse


先日@が面白い事をPathのポストで言っていました。
「PathはSNS難民の避難所なのかもしれない」
Pathについては以前のエントリーで書きました。「【アプリ2】Path

これはある意味すごく的を得ているんじゃないかなと思います。
日本でもFacebookがある程度普及しました。
日を追うごとにフレンドの数も増えます。ところがフレンド申請を承認する基準が概して、低いため、ソーシャルグラフがいろんな方向に枝分かれし、膨張するため、ほとんど収拾がつかなくなってきます。
一応、範囲の設定をすることも可能です。Google+を使えば、サークル機能であらかじめクラスタのセグメント化もできます。
でもそうやって区画分けすること自体が煩雑になってきているのです。



ソーシャルグラフ膨張の歪みの一端としてツイッターに鍵を付ける人が増えてきているのではないでしょうか。あくまで一因でしょうが。

そこで最近、勃興してきたクローズドなSNS。
今までのみんなを繋ぐタイプのSNSの潮流とは真逆のコンセプトで設計されています。
Pathの場合、はじめからフレンド数が限定されているため、Facebookとは異なり、フレンドになるか否かの判定が厳密になります。
本当に親しい友人たちとのみ触れ合う「場」なのです。

そんなわけで僕はPathを本格的に使い始めてからは目に見えてツイート数が減りました。
極めて個人的で公共性のないツイートはPathに垂れ流すようになりました。
この事については@さんが同じようなことを昨日ツイートしていました。


これからもっとこの傾向は強まっていきそうですね。
肩肘張らずに気軽に呟けるって本来のツイッターの姿だと思うんですよ。

こんなものも見つけました。
BetweenというサービスはふたりだけのSNSだそうで、究極のクローズド空間ということですね。
他にも「“2人だけのSNS” 恋人たちの専用アプリ「Honeylemon」」など類似サービスが散見されます。
オープンとクローズドの交差点、どこに自分の位置を見出していけばいいのでしょう。
大学生ブログ選手権
関連エントリー:「オープンとクローズドの緩衝地点

2011年12月2日金曜日

すべての就活生のみなさまへ

ぼくらの「戦争」がはじまった
12/1。
堰を切ったように、ダムが決壊したみたいに、「2012就活」がはじまりました。
23:59から0:00になった瞬間、アクセスが集中して就活サイトのサーバーがダウンしました。
参考記事: 「リクナビ」サービス一時停止 新卒採用活動の解禁でアクセス集中原因か

ツイッターのTL上ではサイトの開設前からカウントダウンをするひとも多くいました。

その当時のTLの様子がわかるツイートをいくつか。




おそらくほぼすべての大学3年生にとって「就活」は初めての経験だと思います。
人生にはこういったことが何度かありますよね、受験のときもそうです。
ひとは初めてのことを前にすると、とても不安になります。
自分だけ立ち遅れたくない、ついていきたい、だから情報にすがろうとします。
時には振り回されたり、右往左往してしまうのです。

そんな学生の不安に漬け込む就活塾には個人的には懐疑的です。
あたかも新興宗教のように見えることすらあります。
「マイナビ」「リクナビ」など就活支援サイト、面接やESなどを指導する就活塾、その他ソーシャルリクルーティングサイトなど「就活」を取り巻く環境自体がビジネス構造化してきていると感じています。
おそらく就職氷河期が叫ばれ、学生間の不安感が増大するにつれ、市場規模もかなり肥大化しつつあるのではないでしょうか。

とかく、「就職」職に就くということは人生のすべてではありませんが、大きな部分を占めることは間違いないと思います。
一生同じ仕事を続けるとは限りませんが、「就活」がその後のキャリアパスに与える影響は軽んじることはできないということもまた事実だと思います。

それまではサークルに没頭していたり、学生生活のモラトリアムを謳歌していた学生も踵を返すように散髪を済まし、髪を黒くしてスーツを身に纏い、セミナーや説明会に集います。
その光景はまるでジョージ・オーウェルが『一九八四』で描いたビッグブラザーに支配された世界のように。



広告的観点からみる「リクナビ2013」

先日、マイナビの街頭広告が話題になっていました。


男の子も、女の子も黒いスーツを着込んで「考えている」ポーズをとっています。
この広告をみてどう感じるでしょうか。

この広告に関して@さんが面白いツイートをいくつかしていたので紹介。





そうなんですね、この広告を生理的に気持ち悪いと思わない「安直な就活生」に向けられた広告設計なんですね。
これは広告業界の人からしたら「なるほど」って感じなのではないでしょうか、ぼくも広告会社でインターンをして広告を少しかじっているのでそのように思いました。
良くも悪くも「バズ」を生む、バイラルにつながるようになってる。
「没個性になっちゃいけないんだ」と反面教師的に受け取る学生もいるだろうし、画一的に周りに従うことを半強制し、学生の個性を奪っている日本の就活制度批判の導入になることもある。とにかく「話題」になれば、広告としては成功というわけです。
その点は、さとなおさんもブログで書いていました。

いかに素通りされないかが広告の真価です。
街に横溢する広告群、電車内の中吊り広告、ネット広告。
人が一日に目にする広告は数多で実際に記憶に残るものはほんの少数でましてや「話題」になるものなんて1つあればいいくらい。
その意味でこの広告は幾千もの広告レースから頭ひとつ抜けだしたと言えるのではないでしょうか。


↑にその点が詳しく書かれています。
ガラパゴス諸島はガラパゴス諸島であるというアイデンティティをきちんと示してくれこそ、そこに適性のある生き物たちだけが残ってくれる。
マス広告が効かなくなった時代は全方位に向けた広告よりも、特定のアイデンティティ集団に向けた広告が威力を発揮するのだと。

以上が広告的観点からみた「マイナビ2013広告」の評価ですが、一般的には違った解釈がなされます。
これをご覧いただければ一般的認識の総意はだいたいつかめると思います。
こんな日本に誰がした? シューカツ生は「クローン人間」か


それはまるで「冷戦」のように

さて話が「広告」に逸れてしまいましたが、ぜひすべての就活生に読んでもらいたい先輩たちの言葉があります。
まずは日本の就活制度を病理と糾弾する急先鋒・茂木健一郎さんの連続ツイート「新卒一括採用に対して宣戦布告」と電通のコミュニケーションディレクターの岸勇希さんの連続ツイート「就活生へのメッセージ」です。

みなさんはどう感じたでしょうか。
ぼくは以前から茂木さんの主張にずっと賛成だったし、いまもそうです。
たぶんぼくや茂木さんのように今の就活制度の欠陥に気づいて、憤りを覚えている学生はたくさんいると思います。
だけど歴史的に、文化的にシステムとして巨大に立ちはだかる制度にぼくら学生は為すすべなく後退し、唾飲したあとルールに迎合してゲームに参加するのです。
ぼくの友人の@メッセージ性の強いツイートをしていてハッとしました。





その通りなんだと思います。
ホリエモンが前に言っていました。
「日本に生まれた時点でサイコロの6をひいたようなもん」
これは本当にその通りで、日本国籍を持っていればビザで世界の殆どの国に行ける。
中国のように情報統制されていないからありつける情報に限りはない、いくら失業率の高さが叫ばれているとはいっても韓国に比べればまだまだだし、アメリカだって例外じゃない。
学生のうちから起業する人だっている。
会社に入って修練して経験積んで、ネットワークや資本を形成してから起業する道もある。
大学の先輩でもあるサイバーエージェントの藤田社長も一度、社会に出た上で血のにじむような努力の末、営業力をあげて、社会人時代に培ったネットワークをフル活用してサイバーエージェントを一流の企業に成長させたのです。
詳しいことは『渋谷で働く社長の告白』に書いてあります。



以前、「きゃりーぱみゅぱみゅから見た「大学生の就活」」というブログを書きました。
ぼくの気持ちは今も未だ、このエントリーに書いたままですが、1つ気付いたことがあります。
「日本の就活制度なんてクソ食らえだ」と批判して罵倒することは簡単ですが、
就活を嘲笑する人も、就活に躍起になる人も「盲目」になってはいけないということだと思います。
思考停止に陥らず、常に自分の可能性を最大化できる道を模索し、機会を貪欲に探し求めること。
それを「就活」に見出したのなら何にも迷うことなく進むのが正解なのではないでしょうか。

まだまだ迷っている人も多くいることと思います。
それでもこのブログで紹介した人の言葉の中に一つでもヒントとなるようなコトバがあったのであれば幸いです。
寒くなって来ましたが、頑張りましょう。
就職する人も、進学する人も、夢に突き進む人も。
大学生ブログ選手権