Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年3月23日金曜日

たとえばそれが最後の一回であったとしても


"Every little thing has its last time"
はじまりがあれば、終わりもある。
宇宙の真理のひとつとして、常に忘れてはいけないことのひとつです。
すべての事物は端緒があり、その瞬間から終焉に向けての時間を刻んでいきます。 
それはどんな些細なことにも共通する摂理です。

自分にとって当たり前のもの、身近なものほどその「終わり」が霞んで普段は見えません。
それを失くしてはじめて気づく、尊さや存在の大きさ。

毎日顔を会わせる家族、いつも共に笑い合える友人たち、近くにいてくれる恋人。
見えないどこか、砂時計の一粒一粒はゆっくりとでも確実に底に溜まっていきます。
無限なんてないように、カウントダウンはひとつまたひとつ着実に数を減らしていくのです。

それは些細なメールのやり取りかもしれないし、飲みに行く回数かもしれません。
だれにもその正確な数字を目にすることはできない。
でも厳然とそこには「あと265回」あと「13回」、はたまたあと「1回」。
だれにも予測することもできないし、だれにも抗うことのできない作用が働くことはいつどんなときも、たとえばぼくがこの文章を書いているまさにこの瞬間にも訪れるのです。



9.11

いつものような朝。
いつものように家族で囲む朝食。
「いってらっしゃい」「いってきます」
これが最後に交わす言葉となるかもしれないのです。
それは別にワールドトレードセンターのテロや地下鉄サリン事件のような歴史的惨劇のような派手な様態にとらわれず、誰しもの日常に姿を変えて潜む病理なのです。
いや「病理」というより、それ自体が日常の一部と考えたほうがいいのかもしれません。



3.11

地震が波を引き連れ、日本を襲いました。
北野武さんは以前、こう言っていました。
テロでは、5000人が死んだわけだけど、それを数だけで語ることは怖いこと。その一人一人に家族があるわけで、5000回のドラマがあるということを考えなきゃいけないんだ。
日常にもっと喜びを見出そうだとか、「当たり前は当たり前じゃないんだよ」頭でわかっててもどうしようもできずにいる。
それでも3.11の震災はぼくの死生観を根本から覆しました。
村上春樹さんがノルウェイの森で言っていたこと。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
あらためて真正面からこのコトバと対峙することになりました。

誰にも次の瞬間に何がどうなってるかなんて、見えないし、分からない。
「当たり前のこと」なんてひとつとしてなくて、いま目の前にあることのひとつひとつが奇跡と奇跡のつながりなのだと気づきます。


「一期一会」の言葉の重みを感じたし、それと同時にフェイスブックやツイッターのアカウントを消した時に残るものや人。
身近すぎて気づかないほど大切で、言葉に出来ないほどの愛おしさを感じたし、それをいつも伝えながら生きていかなくては。と強く思いました。


アメリカでは電話の最後で必ず"I love you"と言います。
僕はそうやって素直に生きていこうと思いました。
何にもテキトーにしちゃいけないんだって思いました。
恥ずかしいだなんて気持ち、死ぬとき一瞬で溶け消えちゃうのだから。





大学生ブログ選手権

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